石原 慎太郎(いしはら しんたろう、旧字体:石原 愼太郞、1932年〈昭和7年〉9月30日 - 2022年〈令和4年〉2月1日)は、日本の作家、政治家。
石原 愼太郞 | |
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生年月日 | 1932年9月30日 |
出生地 | 日本 兵庫県神戸市須磨区 |
没年月日 | 2022年2月1日(89歳没) |
死没地 | 日本 東京都大田区 |
出身校 | 一橋大学法学部卒業 |
所属政党 | (自由民主党(無派閥→石原G→三塚派)→) (無所属→) (自由民主党→) (無所属→) (太陽の党→) (日本維新の会→) 次世代の党 |
称号 | 正三位 旭日大綬章 法学士(一橋大学・1956年) |
配偶者 | 石原典子 |
子女 | 石原伸晃(長男) 石原良純(次男) 石原宏高(三男) 石原延啓(四男) |
公式サイト | 石原慎太郎公式サイト |
第14 - 17代 東京都知事 | |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1999年4月23日 - 2012年10月31日 |
第59代 運輸大臣 | |
内閣 | 竹下内閣 |
在任期間 | 1987年11月6日 - 1988年12月27日 |
第8代 環境庁長官 | |
内閣 | 福田赳夫内閣 |
在任期間 | 1976年12月24日 - 1977年11月28日 |
選挙区 | (旧東京2区→) 比例東京ブロック |
当選回数 | 9回 |
在任期間 | 1972年12月10日 - 1975年3月18日 1976年12月10日 - 1995年4月14日 2012年12月21日 - 2014年11月21日 |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1968年7月8日 - 1972年11月25日 |
石原慎太郎 | |
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職業 | 作家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 1955年 - 2022年 |
ジャンル | 小説・随筆・評論 |
主題 | 不可知なもの、暴力、生と死 |
文学活動 | 怒れる若者たち |
代表作 | 『太陽の季節』(1955年) 『処刑の部屋』(1956年) 『亀裂』(1958年) 『化石の森』(1970年) 『わが人生の時の時』(1989年) 『弟』(1996年) 『天才』(2016年) |
主な受賞歴 | 文学界新人賞(1955年) 芥川龍之介賞(1956年) 芸術選奨(1971年) 平林たい子文学賞(1988年) 毎日出版文化賞特別賞(1996年) 文藝春秋読者賞(1969年、2001年) |
デビュー作 | 『灰色の教室』(1954年) |
参議院議員(1期)、環境庁長官(福田赳夫内閣)、運輸大臣(竹下内閣)、東京都知事(第14代 - 17代)、衆議院議員(9期)、日本維新の会代表、共同代表、次世代の党最高顧問を歴任。
一橋大学在学中の1956年(昭和31年)に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となる。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞、平林たい子文学賞などを受賞。『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』(盛田昭夫との共著)、裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラーとなった。
1968年に参議院議員に当選、政治家に転ずる。福田赳夫内閣で環境庁長官を、1987年に竹下内閣で運輸大臣を歴任。1995年4月に衆議院議員を辞職。
1999年東京都知事選挙に立候補し当選。2003年東京都知事選挙、2007年東京都知事選挙、2011年東京都知事選挙で再選し4選した。石原都政では新銀行東京、首都大学東京の設立、外形標準課税の導入、ディーゼル自動車の排ガス規制など議論を呼ぶ政策を実施した。2012年、後継に副知事の猪瀬直樹を指名し、次期衆議院選挙に立候補するため東京都知事を辞職。同年の第46回衆議院議員総選挙に日本維新の会の候補として比例東京ブロックで当選し、17年ぶりに国政に復帰。その後同党の分裂と次世代の党の結党に参加。2014年の第47回衆議院議員総選挙では党の熱意により落選覚悟で立候補したが、落選の確定を受けて政界から引退した。
趣味はサッカー、ヨット、テニス、スキューバダイビング、射撃。実弟は俳優の石原裕次郎。長男は自由民主党元衆議院議員の石原伸晃。次男は俳優・タレント・気象予報士の石原良純。三男は自由民主党衆議院議員の石原宏高。四男は画家の石原延啓。
父 石原潔(山下汽船社員、愛媛県出身)、母光子(広島県宮島の出身)のもと、兵庫県神戸市で誕生。
北海道小樽市および神奈川県逗子市で育つ。神奈川県立湘南高等学校、一橋大学法学部卒業。
一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属。
湘南高校サッカー部、一橋大学柔道部、サッカー部と体育会系の一面も持つ。サッカーに関しては高校大学ともにレギュラーで試合に出場している。文芸評論家の江藤淳とは同級生であり、共に高校の先輩である歴史学者江口朴郎宅に訪問したりしていた。江藤とは作家となってから共著を出版するなど、1999年に江藤が自死するまで交流があった。文学では、ジャン・コクトーやレイモン・ラディゲ、アーネスト・ヘミングウェイを読んでいたという。
公認会計士になるために一橋大学に入学したものの、会計士には向かないことを自覚した慎太郎は、休刊していた一橋大学の同人誌『一橋文藝』の復刊に尽力する。ある日、神田の一橋講堂で「如水会」(一橋大学のOB会)主催の公開講座にOBの伊藤整が来た際、受付にいた慎太郎は伊藤の講演記録をとり、それを『一橋文藝』に掲載してもよいか伊藤に訊ねた。その翌年、同人誌は刷れたが金が足りずに困り、慎太郎は友人と久我山に住む伊藤に資金援助を頼みに行った。その時のことを伊藤は以下のように述懐している。
慎太郎はこの同人誌に処女作である『灰色の教室』を発表し、文芸評論家の浅見淵に激賞されて自信をつけたのをきっかけに、第2作目の『太陽の季節』を執筆することになる。
『太陽の季節』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、マスコミは慎太郎をこぞってとりあげた。以下はそのうちの一つ。
石原は後にこの点について、『芸術生活』編集長・御木白日との対談の中で「女親っていうのはバカだから。主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ。精神風俗としてそういうものに興味をもったから、親が心配したというだけの話です」と否定的に語っている。
一橋大学在学中に、『太陽の季節』で、第1回(1955年度)文學界新人賞と、第34回(1955年下半期)芥川賞を受賞した。昭和生まれとしては初の芥川賞であった。作品にみなぎる若々しい情熱や生々しい風俗描写、反倫理的な内容が賛否両論を巻き起こした。同作が映画化された際には、“太陽族”という流行語が生まれた。
その後『処刑の部屋』(映画原作)、『聖餐』といった現代の世相を鋭くえぐり出すのが特徴の同種の作品を多数発表した。
戯曲や演劇にも積極的に関わった。1960年5月と9月、劇団四季は石原が書いた『狼生きろ豚は死ね』を公演した。1965年、日生劇場で上演されたミュージカル『焔のカーブ』の脚本・演出を務め、出演者のジャニーズが歌う同名の主題歌の作詞も手掛けた。翌1966年にはジャニーズが主役のミュージカル『宝島』の脚本・演出を務めた。
1970年に『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、1988年『生還』で平林たい子文学賞を受賞。弟・裕次郎を描いた1996年の『弟』は120万部を売り上げ、毎日出版文化賞特別賞を受賞。1969年に『日本について語ろう』(小田実と共著)、2001年『わが人生の時の人々』で、いずれも文藝春秋読者賞を受賞している。
1995年から2012年まで芥川賞の選考委員を務めた。辛口の批評も多かったが、又吉栄喜、辻仁成、花村萬月、町田康、青来有一、中村文則、青山七恵、西村賢太など強く推して受賞に至った作家もいる。また1992年から1999年まで三島由紀夫賞選考委員を務めた。
創作以外にも多くの著作があり、『スパルタ教育』(1969年、70万部)、『「NO」と言える日本』(1989年、125万部)、『法華経を生きる』(1998年、33万部)、『老いてこそ人生』(2002年、82万部)、『新・堕落論』(2011年、25万部)、『天才』(2016年、92万部)などがベストセラーとなっている。
映像作家としては、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化『狂った果実』で脚本を担当して以降、映画やテレビで自作小説の脚色を多く手がけている他、1958年、東宝映画『若い獣』で初監督を務める。2007年5月には“特攻の母”と呼ばれた鳥濱トメと特攻隊員の交流にスポットを当てた映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。石原は、首相だった宮澤喜一に、鳥濱トメに国民栄誉賞を贈るよう進言したことがある。映画公開同年、鹿児島の「知覧特攻平和記念会館」内に自らデザインした鳥濱への顕彰碑を建てた。顕彰碑には、石原による文言、「トメさんは、人々を救う菩薩でした」などが刻まれている。
俳句については、日本人の感性ならではの定型詩とする見解である。数学者の岡潔の「芭蕉の俳句研究で数学の難問を解けた」とする述懐を紹介しながら日本の俳句について度々話している。
政界進出以降、発表する作品数は減ったものの、一貫して創作活動を行った。
1967年10月3日、自由民主党本部は選挙対策委員会を開き、翌年の参院選の第二次公認候補として全国区11人、地方区9人の計20人を決め発表した。その中に石原も含まれていた。
1968年7月に第8回参議院議員通常選挙に全国区から自民党公認で立候補。藤原あきの選挙参謀だった飯島清をブレーンに引き入れ、イメージ・キャンペーンを駆使した選挙戦を展開した。党内の後ろ盾は運輸大臣の中曽根康弘だった。反共イデオロギーを宣布する政治団体「国際勝共連合」を設立したばかりの統一教会は石原のために動員をかけた。台東区議会議員を2年で辞職した深谷隆司が遊説で協力し、当時拓殖大学3年生だった鈴木宗男は飯島の紹介で選挙を手伝った。作家仲間では藤島泰輔が全面支援した。7月7日投票。石原は史上最高の301万票を獲得し初当選した。
1972年9月29日、田中角栄と周恩来は日中共同声明を発表した。同年12月の第33回衆議院議員総選挙に旧東京2区から無所属で立候補し当選。衆議院に鞍替えした。
1973年、石原は、田中内閣が推し進めた日中国交正常化とそれに伴う中華民国と国交断絶に反対し、反共を旗印に政策集団「青嵐会」を結成した。1974年12月9日、三木内閣が発足し、自民党幹事長は中曽根康弘に変わった。
1975年2月6日、中曽根は石原に、同年4月の東京都知事選挙への出馬を正式に要請。石原はこの要請に応え、衆議院議員を辞職して立候補した。統一教会はこの選挙で、関連団体「世界平和教授アカデミー」会長の松下正寿ではなく、石原を応援した。ことに国際勝共連合は若いメンバーを大量に動員し、選挙費用についても1億5、6千万円ほどを負担した。4月14日に開票が行われ、現職の美濃部亮吉が小差で石原を下し、3選を果たした。選挙参謀を務めた飯島清は「美濃部陣営が石原とのテレビ討論に一切応じなかったのが基本的な敗因」と語った。
1976年12月の第34回衆議院議員総選挙に自民党公認で立候補し、国政復帰。選挙後に発足した福田赳夫内閣で環境庁長官として初入閣。在任中は水俣病補償問題に取り組み、日本政府として謝意を表明し話題になった。一方で「ニセ患者もいる」「患者団体が政治組織に利用されている」と発言を行い、胎児性水俣病患者の上村智子に土下座して陳謝する一幕もあった。
1979年、青嵐会の後継団体として自由革新同友会を結成するも勢いが振るわず、1984年、清和政策研究会に合流する。
1987年、竹下内閣で運輸大臣に就任。12月に宮崎県のリニア実験線に試乗した際、「鶏小屋と豚小屋の間を走っている格調の低い実験線では十分なことはできない。」とこき下ろし、新しい実験線を山梨県に移転新設させた。
1988年5月に運輸大臣として新東京国際空港(現:成田国際空港)を視察する。その際、成田新幹線の成田空港駅として造られたものの放置状態になっている施設を見学した。成田新幹線は、沿線住民の建設反対運動や日本国有鉄道財政悪化の影響により、建設工事がほとんど進まず、前年の国鉄分割民営化で事業はJRに引き継がれず、工事計画そのものが失効したが、成田線と交差する位置から成田空港駅までは、ほぼ工事が完成していた。その出来上がっている成田空港駅構内を見学した石原は、法規制に縛られている新東京国際空港公団関係者の懸念をよそに「既存の鉄道を入れろ」と発言し、その年の10月には上下分離方式の成田空港高速鉄道が設立され、2年半後の1991年3月にはJR東日本と京成電鉄が成田空港駅に乗り入れを開始した。
1989年、亀井静香・平沼赳夫・園田博之らに推される形で、総裁選挙に出馬するも、経世会が推す河本派の海部俊樹に敗れる。1990年の第39回衆議院議員総選挙で、旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。1995年4月14日、議員在職25年表彰を受けての衆議院本会議場での演説中、「日本の政治は駄目だ。失望した」という趣旨の発言を行い、衆議院議員を辞職した(最初の地盤継承者は栗本慎一郎)。
議員辞職から4年後の1999年4月、東京都知事選挙に立候補。先に立候補を表明していた並み居る政治家を尻目に圧勝する。以降、4期14年の長期政権を築き、様々な政策を推し進める。
2000年7月には元公設秘書で側近の浜渦武生を副知事とした。佐々淳行は石原からの要請で3期目の選挙対策本部長を務めた。2011年に4期目に入ったころから国政の政権与党である民主党の混乱の中で「次の首相」候補として名前が取りざたされる。2012年10月、石原は4期目途中で知事職を辞任し、国政へ復帰した。
衆院選当選時に80歳と高齢でありながら、党を代表して国会での質疑に立っている。国政復帰初の2013年2月12日の衆議院予算委員会での国会質疑を「国民への遺言」とした。この質疑では「暴走老人の石原です。私はこの名称を非常に気に入っている。せっかくの名付け親の田中真紀子さんが落選されて、彼女の言葉によると“老婆の休日”だそうでありますが、大変残念だ」とも述べた。
同年4月17日と12月4日には安倍晋三首相との党首討論に臨んでおり、10月16日には第185回国会・衆議院本会議において所信表明演説に対する代表質問を行った。
都知事時代から、主に自主憲法の制定を強く訴えている。現行憲法は、前文は極めて醜い日本語で、歴史的正当性がなくアメリカが日本の解体統治のために一方的に速成したものだとして、衆議院本会議で質問に立った際に変更を促した。都議会でも、改憲手続きなどせずに衆議院で憲法破棄決議をすればよいと主張し、「憲法第99条違反ではないか」と指摘されている。
石原は、議員当選後に「体調不良」から入院し、姿を見せない時期がしばらく続いていた。これに対し、2013年3月28日に『週刊新潮』が「菅直人の周辺が石原の脳梗塞発症説を漏らしている」と報じた。その後、3月30日に退院した石原は、復帰に伴う記者会見において「軽い脳梗塞」を発症していたことを認めた。
日本維新の会では大阪系の議員らと政策や党運営で対立する局面がたびたびあったが、原子力政策を巡っては2014年3月に石原が会長を務める党エネルギー調査会の初会合で講演中、当時会期中の第186回国会で採決予定だったトルコなどへの原発輸出を可能にする原子力協定について、党が昨年12月の両院議員総会で多数決で原子力協定反対を決めたことを「ばかばかしい。高校の生徒会のやり方だ」と批判。その上で「私は採決のとき賛成する」と明言した。党の方針に背いて独自に行動することを宣言したことに反発した大阪系の浦野靖人衆院議員(当選1回)が「(党の決定に)反対なら党から出ていったらよろしい」と発言、他の複数の大阪系議員も同調した。
さらに結いの党との合併協議に際しては「結いの党は護憲政党だ」などとして否定的なスタンスを貫き、新党の綱領に自主憲法制定を目指すなどの文言を入れることに固執。あくまで意見の隔たりの大きい結いと合流し政界再編を目指す橋下共同代表や松野頼久国会議員団幹事長らとの決裂が決定的となった。
2014年5月28日付で日本維新の会からの分党を表明、同6月5日付で「新党準備会」を発足。石原グループの離党ではなく一度解散した上での分党(政党助成法上の分割)という手続きを取ることで、維新が受け取るはずだった政党助成金は議員数に比例して橋下グループの新党「日本維新の会」と石原グループ「次世代の党」の両者に按分される。
7月30日までに、両者間で政党助成金の分配額など、分党に必要な手続きに関する協議を終え、7月31日総務省への解散届出をもって正式に分党。翌8月1日に平沼赳夫を党首として新党「次世代の党」を発足・総務省へ届け出、石原は党最高顧問に就任した。
2014年11月に衆議院解散が確定的となると、石原は高齢を理由とした自らの体調不安から選挙前の引退を示唆した。しかし、党内からの強い希望もあり、比例単独候補(東京ブロック)として立候補を決断。石原本人の希望により「後輩を一人でも多く当選させたい」として比例順位は最下位に当たる9位だった。結果として次世代の党は石原が立候補した東京ブロックを含む全ての比例ブロックで議席を獲得するには至らず、石原は落選。選挙後の2014年12月16日に記者会見を開き、政界引退を表明した。会見で「歴史の十字路に何度か自分の身をさらして立つことができたことは政治家としても物書きとしてもありがたい経験だった」と述べ、わりと晴れ晴れとした気持ちで政界を去れるとの見解を述べた。
2015年春の叙勲で旭日大綬章を受章。
2021年10月、病院で膵臓がんの再発と「余命3か月」程度との宣告を受けている。この時の心情も含め、絶筆となった「死への道程」が死去後の2022年3月10日に発売された「文藝春秋」4月号に掲載されている。
父・慎太郎が亡くなるまでの3か月について次男の石原良純は、「最後の1週間だけ」迫り来る死と闇夜を怖れているように見えたことを証言している。
2022年2月1日午前10時20分、東京都大田区の自宅で死去。享年91歳(89歳没)。
死因は公表されていないが、死去当日に長男の石原伸晃は会見で「膵臓がんを患っておりまして、本当によく戦い、頑張ったんでございますが、昨年の10月に再発をいたしまして、本日に至ったところでございます」と語っている。2014年に出版した『私の海』(幻冬舎)には「葬式不要、戒名不要。我が骨は必ず海に散らせ」と遺言状に記したとする一方で、かつての秘書によると「墓石には『青嵐報国』と入れてほしい」とも発言していた。葬儀・告別式が2月5日、大田区の自宅で家族葬が行われ、戒名は「海陽院文政慎栄居士」、先祖代々が眠る逗子市の海宝院に納骨されると報じられた。2月22日、政府は死没日付に遡り、正三位に叙した。なお、通夜には妻の典子も車椅子姿で参列していたが、夫の死から約1か月後の3月8日に84歳で死去している。
「骨の一部は愛した湘南の海に戻してくれ」という石原の遺言に従い、4月17日に海上散骨式が神奈川県三浦郡葉山町の名島沖で行われ、石原伸晃のYouTube公式chでも動画配信された。6月9日午前10時より、元首相・安倍晋三(その後翌月8日に銃撃死)、読売新聞グループ本社代表取締役主筆・渡辺恒雄らが発起人を務めた「お別れの会」が東京都内のホテルにて開かれ、各界の関係者らが参列した。祭壇は、石原が愛した湘南の海をイメージさせる青や白の花で装飾され、両サイドには愛艇「コンテッサⅡ世」のセイルが飾られた。
6月17日、65歳になる前から書き綴られた自伝『「私」という男の生涯』(幻冬舎)が、石原自身と妻・典子の没後を条件に刊行された。
2023年8月、晩年まで住んだ大田区田園調布の自宅(1981年に落成)が売却され、年内に解体される。
当落 | 選挙 | 執行日 | 年齢 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 定数 | 得票順位 /候補者数 | 政党内比例順位 /政党当選者数 |
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当 | 第8回参議院議員通常選挙 | 1968年7月7日 | 35 | 全国区 | 自由民主党 | 301万2552票 | 6.99% | 51 | 1/93 | /21 |
当 | 第33回衆議院議員総選挙 | 1972年12月10日 | 40 | 旧東京2区 | 無所属 | 11万8671票 | 22.3% | 5 | 1/9 | / |
落 | 1975年東京都知事選挙 | 1975年4月13日 | 42 | ―― | 無所属 | 233万6359票 | 43.87% | 1 | 2/16 | / |
当 | 第34回衆議院議員総選挙 | 1976年12月5日 | 44 | 旧東京2区 | 自由民主党 | 11万1112票 | 21.9% | 5 | 1/10 | / |
当 | 第35回衆議院議員総選挙 | 1979年10月7日 | 47 | 旧東京2区 | 自由民主党 | 7万1238票 | 17.3% | 5 | 3/10 | / |
当 | 第36回衆議院議員総選挙 | 1980年6月22日 | 47 | 旧東京2区 | 自由民主党 | 16万2780票 | 32.8% | 5 | 1/6 | / |
当 | 第37回衆議院議員総選挙 | 1983年12月18日 | 51 | 旧東京2区 | 自由民主党 | 9万6386票 | 21.0% | 5 | 1/9 | / |
当 | 第38回衆議院議員総選挙 | 1986年7月6日 | 53 | 旧東京2区 | 自由民主党 | 10万1240票 | 20.9% | 5 | 1/6 | / |
当 | 第39回衆議院議員総選挙 | 1990年2月18日 | 57 | 旧東京2区 | 自由民主党 | 11万9743票 | 22.6% | 5 | 1/11 | / |
当 | 第40回衆議院議員総選挙 | 1993年7月18日 | 60 | 旧東京2区 | 自由民主党 | 9万2259票 | 19.0% | 5 | 1/10 | / |
当 | 1999年東京都知事選挙 | 1999年4月11日 | 66 | ―― | 無所属 | 166万4558票 | 30.47% | 1 | 1/19 | / |
当 | 2003年東京都知事選挙 | 2003年4月13日 | 70 | ―― | 無所属 | 308万7190票 | 70.21% | 1 | 1/5 | / |
当 | 2007年東京都知事選挙 | 2007年4月8日 | 74 | ―― | 無所属 | 281万1486票 | 51.06% | 1 | 1/14 | / |
当 | 2011年東京都知事選挙 | 2011年4月10日 | 78 | ―― | 無所属 | 261万5120票 | 43.40% | 1 | 1/11 | / |
当 | 第46回衆議院議員総選挙 | 2012年12月16日 | 80 | 比例東京 | 日本維新の会 | 17 | / | 1/3 | ||
落 | 第47回衆議院議員総選挙 | 2014年12月14日 | 82 | 比例東京 | 次世代の党 | 17 | / | 9/0 |
政治的には、歯に衣着せぬ発言が支持を得る一方、政治問題化されてしまうケースもある。批判に対しては安易な謝罪や訂正を拒否し、臆することなく堂々と反論を表明するという強気のスタンスを貫き、失言によって辞職に追い込まれたことは一度もなかった。原田実は、石原の著作にみられる主張と実際の政治的主張を言行不一致・朝令暮改とし、思うに石原はその時その時に応じて世間が求める「石原」というキャラを演じ続けているのだろう、その巧みさゆえに都知事の座を守り抜けたとしている。
石原の自宅に突然押しかけてきた在日朝鮮人から、「息子を殺す」と脅迫を受けたことがある。政治家になってから、テレビ発言が元になり、石原の自宅に在日北朝鮮人の代表なる男たちが突然押しかけてきて、「お前が謝らなければ、そこにいる息子を殺してやるから覚悟しろ」と「テレビでの発言が元になって思いがけぬ脅迫に遭った」と自著で述べている。脅迫の元になったテレビ発言は、北朝鮮が実質的に国家・政府と一体である朝鮮労働党の規約に、「日本軍国主義」を打倒するなどといった大時代的な文言を掲げ、なおかつ中共とも手を組んだ執拗な日本攻撃を繰り返していたとして「こうした国との友好はその限りで不可能だし、彼らが日本に何かを望むならばまず、すみやかに日本を敵国視することをいわば国是としているような異常な状態を改めるべきだ」といったものだったという。
映画『太陽の季節』で映画初出演、1956年の『日蝕の夏』、『婚約指輪』、1957年の『危険な英雄』と三作品で主演を務めた。その後、1965年の『異聞猿飛佐助』に特別出演して以降、約48年間、映画出演は無かったが、2012年に製作総指揮・企画・原作・脚本を担当した『青木ヶ原』では都知事役で出演した。
1972年には裕次郎主演映画、『影狩り』への出演が予定されていたが、政治活動の多忙化により実現しなかった。
『不思議な不思議な航海』(絵:高橋唯美)白泉社 1990.7
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公職 | ||
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先代 青島幸男 | 東京都知事 公選第14 - 17代:1999年 - 2012年 | 次代 猪瀬直樹 |
先代 橋本龍太郎 | 運輸大臣 第59代:1987年 - 1988年 | 次代 佐藤信二 |
先代 丸茂重貞 | 環境庁長官 第8代:1976年 - 1977年 | 次代 山田久就 |
党職 | ||
先代 新設 | 日本維新の会共同代表 橋下徹と共同 初代:2013年 - 2014年 | 次代 橋下徹 (単独代表制) |
先代 橋下徹 | 日本維新の会代表 第2代:2012年 - 2013年 | 次代 共同代表制へ |
先代 結成 | 太陽の党共同代表 平沼赳夫と共同 初代:2012年 | 次代 日本維新の会へ合流 |
名誉職 | ||
先代 沓掛哲男 | 最年長衆議院議員 2012年 - 2014年 | 次代 亀井静香 |
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