野中 廣務(のなか ひろむ、1925年〈大正14年〉10月20日 - 2018年〈平成30年〉1月26日 )は、日本の政治家。
野中 廣務 (野中 広務) のなか ひろむ | |
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内閣官房長官就任に際して公表された肖像写真 | |
生年月日 | 1925年10月20日 |
出生地 | 日本 京都府南丹市(旧・園部町) |
没年月日 | 2018年1月26日(92歳没) |
死没地 | 日本 京都府京都市下京区 |
出身校 | 京都府立園部中学校 (現・京都府立園部高等学校) |
前職 | 衆議院議員秘書 京都府副知事 社会福祉法人京都太陽の園理事長 京都府土地改良事業団体連合会会長 平安女学院大学客員教授 立命館大学客員教授 |
所属政党 | (自由民主党→) (無所属→) 自由民主党 |
称号 | 正三位 勲一等旭日大綬章 |
親族 | 弟・野中一二三 |
公式サイト | 社会福祉法人京都太陽の園 |
第37代 沖縄開発庁長官 | |
内閣 | 小渕第1次改造内閣 |
在任期間 | 1999年1月14日 - 1999年10月5日 |
内閣 | 小渕内閣 小渕第1次改造内閣 |
在任期間 | 1998年7月30日 - 1999年10月5日 |
内閣 | 村山内閣 |
在任期間 | 1994年6月30日 - 1995年8月8日 |
選挙区 | (旧京都2区→) 京都4区 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 | 1983年8月8日 - 2003年10月10日 |
選挙区 | 船井郡選挙区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1967年4月23日 - 1978年5月 |
その他の職歴 | |
園部町長 (1958年 - 1966年) | |
園部町議会議員 (1951年4月 - 1958年) | |
第38代 自由民主党幹事長 (総裁: 森喜朗) (2000年4月 - 2000年12月) |
京都府船井郡園部町長(2期)、京都府副知事、衆議院議員(7期)、自治大臣(第48代)、国家公安委員会委員長(第56代)、内閣官房長官(第63代)、沖縄担当大臣(第3代)、沖縄開発庁長官(第38代)、自由民主党幹事長、自由民主党行政改革推進本部長などを歴任。
1943年春、旧制京都府立園部中学校(後の京都府立園部高等学校)を卒業し、日本国有鉄道大阪鉄道局の職員として採用され、大阪・梅田の大鉄局業務部審査課に配属された。ここで当時の局長だった佐藤栄作(後の首相)と出会う。 1945年1月に陸軍に召集。最終的に陸軍第155師団歩兵第452連隊に配属、高知県で終戦を迎える。
青年団活動に身を投じ、同じく各地の青年団運動を行っていた竹下登(後の首相)、浜田幸一らと活動を通じて知り合う。
衆院議員・田中好の秘書を経て、園部町議会議員(3期)、園部町長(2期)として町政に携わった。町長時代には京都府町村会の会長や政府税制調査会の委員なども務めた。その後、府政に進出し、京都府議会議員(3期)を務める。京都府議の12年間は野党議員として社会党及び共産党などを与党とする蜷川虎三革新府政と対峙した。
7期28年間の革新府政の蜷川虎三知事引退によって、1978年に革新から府政を奪還した林田悠紀夫知事の下で京都府副知事を荒巻禎一(後、林田の後任の京都府知事)との府初の二人制で務める。
副知事時代の功績の一つに第三セクターによる産業廃棄物処理施設の建設がある。近年の環境省は不法投棄や不適正処理等の対策として産業廃棄物処理への公共関与の強化を進めているが、既に野中は20余年前に行っていた。後に「地球のバランス」と称した環境問題に関する文章を著している。また、当時の京都府庁では府職員に対する福利厚生に力を入れており、課長以上の職員の自宅の電話代や部長以上の職員の昼食代まで府が肩代わりしていた。副知事就任後にその実態を知った野中は「こんなことに税金を使ってどうするんだ」 と一喝し、それらの制度を廃止させた。
1958年、京都市の重度身体障害者グループが「寝たきり障害者に愛のホームを!」と声をあげたことから、日本で最初の重度障害者療護養施設が野中の地元である園部町に設置された。施設を訪れた野中は入園者が働く場所を設ける必要性を感じ、作業所、重度障害者授産施設を備えた社会福祉法人を設立した。その後、先行して設立されていた重度障害者療護施設の運営依頼も受け、自ら設立した社会福祉法人「京都太陽の園」に統合、理事長として両施設を運営することになった。野中は当初、京都府副知事を退任後は政界を引退して、この社会福祉法人の運営に専念するつもりだった。
1983年8月7日に、前尾繁三郎、谷垣専一の両衆院議員死去に伴う衆議院旧京都2区補欠選挙において自民党公認・木曜クラブ新人として、2議席を自民党の宏池会新人谷垣禎一候補(後の自民党総裁)、日本共産党の有田光雄候補(同党京都府委員会役員、後にジャーナリスト・参議院議員になる有田芳生の父)、日本社会党の山中末治候補(元京都府八幡市長。後、衆議院議員)、前尾系無所属林長禎候補(前京都市議会議長)らと争う。開票直後は、野中リードの速報が入るものの、次第に谷垣、有田両候補にリードを許し始めた。谷垣候補が当確し、続いて有田候補が勝利宣言、野中は敗北宣言の準備を始めた。しかし、野中の地元・園部町で未開票の投票箱の存在が判明して、有田候補を逆転し初当選を果たした。野中が一度は敗北を覚悟した選挙結果に、京都府議時代から目をかけていた田中角栄元首相が自民党京都府連会長上田稔参議院議員(後の環境庁長官)に対して激怒したという。なお、当初自民党には2人区に対しては谷垣1人のみ擁立する案があったが、それに対して独占を目指して2人擁立論を自民党総務局長として強硬に主張して谷垣・野中の2人擁立を行ったのが、後に野中と対立することになる小沢一郎であった。
1987年7月、経世会が結成され、田中派が竹下派(経世会)、二階堂グループ、中立系に3分裂した際は竹下派に移った。
自治大臣・国家公安委員会委員長、自民党幹事長代理、内閣官房長官、自民党幹事長などを歴任。自民党郵政事業懇話会の会長を務め、「郵政族のドン」としても知られ、特定郵便局長会に強い影響力を持ったほか、副知事などの地方行政の長い経験や自治相の経験から、自治省(後の総務省)にも影響力を持っていた。
金丸信の不祥事スキャンダルによる議員辞職に端を発した竹下派分裂の際に、反小沢一郎グループの急先鋒として名を知られるようになった。
1993年8月、細川内閣発足によって自民党は下野し、野党となる。ほとんどの自民党議員は長年与党議員だったため、野党的な追及型の国会質問などができる議員は少なかった。そんな中、野中は京都府議会議員時代の長期にわたる野党経験を生かし、東京都議会議員として美濃部革新都政に厳しく対峙した深谷隆司と共に予算委員会で細川内閣を追及し、党内で実力を認められるようになった。細川批判で名を挙げた野中は細川護熙の首相退陣の際は「細川さんはなんですぐ辞めちゃったんだろう。あんな疑惑で辞めるとは思わなかった。こっちは攻撃材料を色々と作っていたのに」とぼやいたという。特筆すべきは、昭和45年2月10日付けの国税庁長官の全国の税務署長宛て通達による「同和控除」である。この税の優遇措置がエセ同和団体に悪用されていることを衆議院予算委員会で追及した(これは後に野中が自治大臣になったときに、部落解放同盟上杉佐一郎委員長と交渉を行い、国税庁も解消の通達を行うこととなる)。
1994年に自社さ連立による村山内閣で自治大臣・国家公安委員長として初入閣。自治大臣として小選挙区の区割り法案など、政治改革を担当したほか、1995年には国家公安委員長としてオウム真理教によるテロ事件に破壊活動防止法を適用することを強硬に主張した。また、松本サリン事件で被疑者と疑われた通報者の河野義行に対し、国家公安委員長として真っ先に謝罪に訪れた。村山富市首相が公安調査庁に破防法適用申請を認めたものの、公安審査委員会の審議により否決された。
1996年の橋本内閣では、小沢一郎率いる新進党と連携を図ろうとする梶山静六官房長官ら「保保大連合」派と対立する「自社さ」派の中心メンバーとして、加藤紘一幹事長を支えた。
1996年山口県知事選挙では、二井関成の推薦を野中は認めなかった(ただし党山口県連は推薦。対立候補の自身と同年代で同じ町長経験者で同じ自治相・国家公安委員長経験者の新進党推薦候補で後に自民党復党する吹田愰に対する配慮)。
第41回衆議院議員総選挙では初の小選挙区比例代表並立制で自身は京都4区で共産党新人や新進党現職豊田潤多郎に圧勝(自身が重複立候補した比例近畿ブロックで後藤田正晴擁立を検討していた)。選挙後は幹事長代理として加藤幹事長と組んで、早くに新進党から復党した杉山憲夫らと共に、新進党からの議員を引き抜いた。その結果、1997年には自民単独過半数を回復させ、新進党解散の一因を作った。野中らは、新進党を引き抜きの「釣り堀」と呼んだ。野中は自社さ連立堅持を主張していたが、自民単独過半数回復は、社民党、新党さきがけの発言力を低下させ、連立崩壊を早めることになった。
1997年、小泉純一郎厚生大臣が厚生省幹部と参議院厚生委員会理事と食事をした際に、村上正邦参議院幹事長が、事前通告もなく参議院理事を動かし参議院スケジュール管理に支障を来たしたとして、参議院厚生委員長に対して議事権発動を促し、同委員会への厚生省幹部の出席差し止めにすることで小泉厚生相に反発した。このことについて、野中は党執行部として加藤紘一幹事長を補佐する形でこの事態を打開するために村上を参議院幹事長から更迭しようとするが、村上は参議院の独自性を盾に抵抗。最終的に党執行部が折れて小泉を村上に謝罪させる提案を行ったが、野中は村上について「あなたは実質的に参議院を支配しようとしている。天下をとるつもりか」と述べたとされる。
同年、沖縄県の米軍基地用地の確保を続けるため、橋本内閣は米軍用地特別措置法改正案を出し、野中は衆議院で改正案の特別委員長を務めた。法案の委員会通過後、4月11日に野中は衆議院本会議で委員会報告を行ったが、壇上での報告の最後に緊張で腕を大きく震わせながら
「この法律がこれから沖縄県民の上に軍靴で踏みにじるような、そんな結果にならないようことを、そして、私たちのような古い苦しい時代を生きてきた人間は、再び国会の審議が、どうぞ大政翼賛会のような形にならないように若い皆さんにお願いをして、私の報告を終わります」
と付け加え、物議を醸した。野中は、梶山官房長官らが首相官邸主導で新進党と合意・裁決にはいったこと及び社民党や共産党をのぞくすべての政党が充分な議論を経ずに賛成したことに反発・批判したかったとし、「沖縄の痛みや日本外交の今後を考えると、法案はもっと緊張感を持って通すべきだったと思い、警鐘を鳴らす意味を込めて削除覚悟であえて発言した」とのちに語っている。この発言は、小沢一郎率いる新進党側の要求により、国会会議録から消されている。なお、法案は同日の衆議院通過後、4月17日に参議院で可決成立した。
1998年第18回参議院議員通常選挙大敗で橋本首相が退陣すると、後継の小渕内閣で官房長官と沖縄担当大臣を務めた。小渕恵三総理は、官房長官を固辞する野中に土下座をしてまで就任を頼んだという。小渕内閣では一転して自自公連立を推進した。官房長官在任中は広島県内の校長が卒業式での日の丸掲揚の対立を巡り自殺したのを機に国旗及び国歌に関する法律を策定、社民党などの猛反対や党内の慎重論を押し切り成立させるなど、ハト派らしからぬ一面も見せている。
1999年8月に神奈川県足柄上郡山北町にて発生した玄倉川水難事故に際しては、事後に当時の防衛庁運用局運用課長の任に在った黒江哲郎(後に防衛省事務次官)と同じく当時の警察庁警備課長を内閣総理大臣官邸に呼び、事故遭難者救援作業などについて事情聴取を行った。その際に「(遭難者の救助のために)ヘリコプターや水陸両用車などあらゆる手段を使えなかったのか?」と問い、自衛隊や警察・消防などの事故対応について黒江らを厳しく叱責した。
また同年9月30日に茨城県那珂郡東海村で発生した東海村JCO臨界事故の際には事故対応の指揮を執った。内閣総理大臣官邸に事故状況の報告に来た科学技術庁(当時)の幹部がおろおろして事故現況の報告に詰まると、野中は「とにかく現場へ行きなさい。現場を見ないでどうやってこちら(官邸)に報告出来るのか! 現場を見て、その状況を報告しないことにはこちらも対策を講じられないではないか」と一喝し、その科学技術庁幹部に東海村の現場へ直ちに行くよう命じた。これは野中自身が後にこの臨界事故について聞かれたときに語っている。
2000年に小渕首相が倒れると、森喜朗自民党幹事長、青木幹雄官房長官、村上正邦参院議員会長、亀井静香政調会長と協議を行い、森幹事長を小渕の後継自民党総裁にすることとした。この協議は、首相を五人組によって密室で選出させたものとして、野党から厳しく追及され、国民からも大きく批判された。野中は、森の後継として自民党幹事長代理から幹事長へ昇格した。国会で小渕の死を悼む発言をした鳩山由紀夫民主党代表に対し「小渕前総理のご心労の多くがあなたにあったことを考えると、あまりにも白々しい発言」と厳しく批判した。
第42回衆議院議員総選挙では衆議院比例区に73歳定年制を導入し総務局長鈴木宗男と共に多くの高齢代議士の引退を迫って党内の反発を買い、これが3年後の政界引退の遠因となった。
同年秋の加藤の乱では、加藤派の古賀誠国会対策委員長らと連携、同派議員の多くを切り崩し総理総裁経験者で志帥会最高顧問中曽根康弘から「三木武吉を超えましたなぁ」と賞賛を受けた。その直後、野中は幹事長を辞任、後任に古賀が就任した。野中は幹事長として、加藤の乱で欠席した議員たちを処分することはしなかった。むしろこれによって総理の森には党内にも憂国の士がいることを知って総理の重みを感じ取ってほしいという趣旨の発言をしたのに対して、森が「不信任案が否決されているのに幹事長は何を言ってるんだい」と言ったのを聞いた野中が失望し、幹事長辞任に至ったという。この頃、小渕・森政権時代には官房長官・幹事長代理・幹事長として仕切ったことから「影の総理」と呼ばれたこともあった。
2001年3月10日、森喜朗首相は首相官邸に自民党五役を招集し、事実上の退陣表明をした。自民党総裁選に向け、古賀誠、公明党代表の神崎武法、保守党党首の扇千景などから待望論が挙がるも、橋本派内からは橋本龍太郎や村岡兼造らの幹部からその突出振りを疎まれていたため、鈴木宗男らを除いて有力議員の支持が集まらず、野中は「たとえ推薦されても、受けることは200パーセントない」と出馬を否定した。そして3月20日に事実上の出馬断念を表明した。橋本派は、橋本を担ぐことになり、圧勝すると見られていたが、小泉純一郎に一般党員の支持が集まり、総裁選で七日会(後の名称・木曜クラブ)結成以来初の敗北を喫した。なお、野中は総裁選中に「橋本政権樹立後は三役に留任してもらう」と主流派の取り込みを図ったが、党内外で猛烈な反発にあった。
2003年自由民主党総裁選挙で、主戦論を唱え、小泉を支持する平成研幹部の青木幹雄参院幹事長、片山虎之助総務大臣、石破茂防衛庁長官、村岡兼造元官房長官らと激しく対立し、一部の議員をポスト目当てで小泉支持に回っていると批判し、「毒まんじゅう」という言葉を残した(「毒まんじゅう」はこの年の流行語大賞に選出され、本人が授賞式に出席した)。野中は自らの引退を賭けて藤井孝男元運輸大臣を擁立して総裁選に臨んだが、藤井は小泉純一郎の再選を阻止できず大敗した。
2003年10月政界を引退したが、小泉内閣を「非情の政治」と批判した。また、自身の軍隊体験から国防に関しては「ハト派」であり、憲法の改正にも反対の姿勢であり、多くの対立点を持つ小泉内閣に対して異を唱え続けた。引退する直前の7月4日、衆議院で行われたイラク復興支援特別措置法の採決では記名投票にするよう求めるも小泉に受け入れられず、同様に記名投票を主張した古賀誠元幹事長や西田司元自治大臣と共に投票を棄権し、退席している。
2004年に、日歯連闇献金事件が発覚したが、野中は橋本らと共に1億円の小切手を受け取る現場に居合わせたことを否定。東京地検も政治資金規正法違反で捜査していたが、関与しているが積極的でないとして起訴猶予となった。これについて検察審査会は不起訴は不当であるとする議決を行った。また、その後の村岡兼造の東京高裁判決において野中のアリバイが偽証であると認定された。
2005年の第44回衆議院議員総選挙では、かつて選挙区(京都府第4区)で後継者指名をした田中英夫(前亀岡市長)が、郵政民営化法案に造反し反対票を投じたため自民党から公認を得られず無所属で出馬。刺客として自民公認で出馬した中川泰宏元船井郡八木町長に敗れた。中川は野中の議員時代の腹心で後継者と目されたこともあったが、北桑田郡・船井郡の市町村合併から意見の齟齬が見られるようになった。さらに、中川が2002年の京都府知事選に笹野貞子元民主党副代表の応援を受けて立候補・落選して以来、野中との対立が決定的なものとなった。
亀井静香、藤井孝男、野田聖子、古賀誠、小林興起らかつての反小泉の勢力も落選・非公認・離党などで権力抗争から外れていったため、彼らを支援していた野中の影響力も次第に低下していた。小泉の後継者である安倍晋三が総理大臣を辞職すると、古賀誠の要請で麻生包囲網に参加したとも、福田康夫内閣成立の立役者(新五人組)の一人とも言われている。古賀が自民党選対委員長に就任したこともあり、低下していた野中の影響力に変化が生じたといわれた。その後、対立関係にある麻生太郎が党総裁・総理に就任すると、麻生を批判する発言を行った。2009年の第45回衆議院議員総選挙では、元の地盤の京都4区は田中英夫・中川泰宏がともに民主党の北神圭朗に敗れて落選し、小選挙区制導入以来続いた自民党の議席を失った。
政権交代後の2009年12月には、全国土地改良事業団体連合会の会長として、予算の半減が伝えられた土地改良費の復活を民主党の幹事長室に陳情に赴く姿が報じられた。この際、民主党側は過去に野中と確執のある小沢一郎幹事長ではなく、樋高剛副幹事長らが対応した。野中は陳情後に、2010年夏の第22回参議院議員通常選挙・比例区で連合会の政治組織である全国土地改良政治連盟からの自民党候補の出馬取り下げを要請すると発言した(ただし、同選挙の京都府選挙区に関しては民主党現職福山哲郎ではなく自民党現職二之湯智を支援)。2011年4月に自民党を離党(理由は後述)。2012年の第46回衆議院議員総選挙では徳島1区で自民党新人福山守ではなく民主党現職仙谷由人を応援。
2013年6月には、亀井靜香、村上正邦の呼びかけに呼応し、石原慎太郎、桜井新、島村宜伸、仙谷由人、平野貞夫、村山富市、矢野絢也らと円卓会議の創立に参加した。
2018年1月26日午後、京都市内の病院で死去。92歳没。日本国政府は同年2月13日の閣議で正三位に叙すことを決めた。
2006年10月より平安女学院大学で文化創造センターの客員教授として政治学を中心とした教育、研究活動をおこなっている。2009年4月より立命館大学客員教授に就任。年数回程度、講義を行う。また、京都府土地改良事業団体連合会の会長 を務め、全国土地改良事業団体連合会(全土連)でも会長理事に就任するなど、いくつかの公職に就いている。
元来は自民党を支持してきた全土連は2009年の政権交代後、政治的に中立な立場を表明。2011年3月29日に野中が全土連会長職に3選されたため、「国から補助金を受けている団体の責任は政党色がない方がいい」と、同年4月に自民党を離党。ただし、この離党の背景には東北地方太平洋沖地震に対応するための布石と捉える向きもあった。自民党が2012年に政権復帰した後、2016年6月に自民党へ復党した。
但し、野中の想定する弱者は被部落差別・障害者・戦災者といった昭和中期までの段階で既に社会に知られていた弱者であり、野中現役時からも問題になっていたシンママ等の昭和末期以降の時代の弱者には冷淡であった事は事実である。
「総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会 の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これから大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんかできようはずがないんだ。私は絶対に許さん!」
野中の激しい言葉に総務会の空気は凍りついた。麻生は何も答えず、顔を真っ赤にしてうつむいたままだった。
「おい、こんな国、もう二度と来ないぞ。俺は今日まで、金丸さんの気持ちを継いで、何とか近くて近い関係にしたいと思って努力をして、日本ではいろんなことを言われながら、まあ、自分で傷つき、家族に迷惑かけてきたけれども、もうこんな誠意のない国、二度と来ん」
と話した。翌朝午前6時、朝鮮労働党アジア太平洋委員会の宋浩京が野中を訪れ、「拉致問題は、拉致では受け入れられない。行方不明者という呼び方で拉致7件10名の名簿を預かって、朝鮮赤十字会での調査」を提案してきたため、森及び外務省の槙田邦彦審議官と相談を行い、槙田審議官が「行方不明でも結構です。拉致事件についてとにかく調査しようと足がかりできたら大きな収穫です」と野中に話した。
議会 | ||
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先代 古賀誠 | 衆議院建設委員長 1993年 | 次代 鳥居一雄 |
先代 上草義輝 | 衆議院逓信委員長 1991年 | 次代 谷垣禎一 |
公職 | ||
先代 村岡兼造 | 内閣官房長官 第63代:1998年 - 1999年 | 次代 青木幹雄 |
先代 鈴木宗男 | 国務大臣 (沖縄担当) 第4代:1998年 - 1999年 | 次代 青木幹雄 |
先代 井上吉夫 | 沖縄開発庁長官 第37代:1999年 | 次代 青木幹雄 |
先代 石井一 | 自治大臣 第46代:1994年 - 1995年 | 次代 深谷隆司 |
先代 石井一 | 国家公安委員会委員長 第56代:1994年 - 1995年 | 次代 深谷隆司 |
党職 | ||
先代 森喜朗 | 自由民主党幹事長 第34代:2000年 | 次代 古賀誠 |
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