辛 淑玉(シン スゴ、日本名:新山 節子(にいやま せつこ)、韓国語:신숙옥、ラテン文字表記:Shin Su-gok、女性、1959年1月16日 - )は、韓国人の人材育成コンサルタント、フリーライター、政治活動家。のりこえねっと共同代表、TRAI(Trans-pacific Research and Action Institute for the hisabetu-nikkei)東京代表。先住民族アイヌの権利回復を求める署名呼びかけ人。東京都渋谷区笹塚出身。
シン スゴ 辛 淑玉 | |
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生誕 | 1959年1月16日(65歳) 日本 東京都渋谷区 |
国籍 | 韓国 |
別名 | 新山節子(にいやま せつこ) 신숙옥 |
出身校 | 東京都立第一商業高等学校 |
職業 | 人材育成コンサルタント 活動家 大学研究員 |
活動期間 | 2013年 - |
団体 | のりこえねっと |
1959年1月16日、東京都 生まれの在日韓国人3世。父は在日韓国人2世の辛開星(シン・ケソン/新山開一)、母は金癸仙(キム・ケソン/金海桂子)。日本名(通名)は、「新山 節子(にいやま せつこ)」を名乗っていた。「4歳の頃、『朝鮮人は幼稚園に入園できない』と拒絶されたことを契機に、自身を朝鮮人であると強く自覚するようになった」という。
本人の自伝『せっちゃんのごちそう』によれば、収入を得るため、小学校2年の時から内職をし、小学校4年からはヤクルト販売の仕事に従事していた。 小学校3年時に朝鮮学校に転校するまでは日本の小学校を通っていた。8歳の頃に近所の店で駄菓子を万引きした際、定期券に書かれていた朝鮮名が店主にバレたため、朝鮮系への偏見が広まることを恐れ「日本名にしておけばよかった」と思ったと語っている
辛は父母が預けるために様々な彼らの親戚の家を転々とした。この時代について、辛は叔父たち親戚が贅沢品を食べている隣室で食事をもらえずに放置されていたとし、当時のことを「惨めだった。」と振り返っている。
朝鮮学校への転校以後
辛は小学校三年生からの朝鮮学校時代が最も不登校であったと語っている。父親は韓国籍 であるが、小学校3年のときに朝鮮総聯活動家の「朝鮮学校は、貧しい人にはちゃんと昼食を支給します」の言葉を信じ、朝鮮学校に転校した。しかし、朝鮮学校では「非朝鮮学校からの転校者」は「敵国から来た」と考えられていたことで一番の激しいいじめの対象となり、「思想的に問題がある」と叩かれた。特に朝鮮語が話せなかった辛は「総括」の時間に、先生が「今日、日本語を話した人」と聞くと同級生らが、辛が日本語を使う度に毎日と糾弾・密告した。密告を受けた朝鮮人先生からは日本語を使ったことを知られる度に暴行を受けていた。
そして、朝鮮学校では半日本人(の在日)を意味する蔑称である「パンチョッパリ」と呼ばれ、"総括"と呼ばれる反省会の場で毎日のように自己批判をさせられた。朝鮮学校教師から面白半分で指示されたキムという男子生徒による蹴りによって、一回目の椎間板ヘルニアになった。後に放逐されるまで通い出すものの、これをきっかけに、本格的な朝鮮学校への不登校となった。このように朝鮮学校における暴力被害で「殺される」という恐怖までいかないと、朝鮮学校に通わないということができなかったと語っている。不登校になっても親には何も言われなかったことについて、辛は朝鮮民族の信じる儒教では「女が学問を積む必要はない」と考えられているために、女の自分は学校に行かなくても勉強しなくても怒られたことがなかったと解説している 。
その後に辛はジーパン(北朝鮮の敵国アメリカ合衆国発祥の服)を穿いていたというだけで暴行された。この時の暴行で辛はヘルニアを患っている。弟も朝鮮学校関係者によって、意識喪失する程の暴行を受けている。朝鮮学校への登校拒否について伝えたが聞く耳をもたなかった父親は、「相手方の意見を聞くという」という姿勢のみで、担任の朝鮮学校教師には話を聞き、学校側の「あの子はウソつきだ」との主張を信じた。また幸いにも意識が取り戻した弟からも彼からも朝鮮学校内で「何が行われているのか」を聞くことはなく、父親は一切を知ろうとしなかったという。淑玉は父の人物評について、相手の話を聞く「リベラルのような振る舞い」をすると批判している。
「革命キャンプ」未参加による暴行放逐後
中学2年のとき、朝鮮学校で夏の遠足「革命キャンプ」の費用が家庭の経済的な原因で支払えなかったため、朝鮮籍の教師たちに暴行を受けた上で放逐された。そのため、日本人が通う杉並区立泉南中学校に転校した。転校した中学では、「朝鮮学校から来た生徒」と特別な目で見られた。朝鮮学校で使われない日本の学校用語がわからず、ホームルーム、公民、ラジオ体操などを知らないため、無知扱いの目で見られていた。そのため、転校先の中学校では日本人の子どもに「おい日本人の男って小食なんだって。」と言って睨みながらスープを垂らすなどの嫌がらせを行っていたが、これは日本人からのいじめを未然に防ぐためであり、「威嚇行為であった」と語っている。弟は朝鮮学校での過酷な暴行を受けたことをきっかけに、14歳で家出した。そのため、淑玉は暫く連絡が弟と取れなかった。
中学生の頃、美容室のヘアモデルで収入を得たのをきっかけに、ヘアショーにも出るようになった。泉南中学校卒業後は東京都立第一商業高等学校に入学し、在学中は新宿区の焼肉料理店「名月館」などでアルバイトをして学費と生活費を稼ぎながら、代々木ゼミナールと代々木学院に通学したという。
17歳で銀座のモデルクラブに所属し、翌年映画のエキストラ出演で知り合った「DJ」に音楽の仕事を紹介してもらい、しばらくモデルと兼業した。20歳の時、博報堂で契約社員(特別宣伝班)となるが、夜間はアルバイトを続けた。1983年頃にフリーランスの広告業者として独立。この頃から、本名(辛淑玉)を名乗るようになった。1985年、人材育成会社(株)香科舎を設立。
2000年から、親交のある永六輔の誘いで『週刊金曜日』編集委員を務めるようになった。しかし、2001年6月に性的少数者(LGBT)である男性同性愛者(ゲイ)を取り扱った記事における「オカマ」という言葉についてホモフォビア表現だとして批判してきた一部のスタッフと対立した。そのことが直接の原因となって、同年に編集委員を辞任した。
2000年、 石原慎太郎東京都知事(当時)の「三国人発言」を受け、初めて立ち上げた社会運動団体 『石原やめろネットワーク』で共同代表に就任。団体として記者会見や抗議活動などを行った。また2001年3月5日から3月9日まで開かれた[要出典]国連人種差別撤廃委員会に参加した。その委員会の集まりにおいて、石原「三国人」発言だけでなく「在日コリアンが日本人社会においてさまざまな人種差別に遭い、被害を受けた」と訴えた。同年6月、同委員会は日本政府に対して「高位の公務員の差別的な発言」についての言及に続けて「本条約(注:人種差別撤廃条約のこと)第7条に従い、人種差別につながる偏見と戦うとの観点から、特に公務員、法執行官、及び行政官に対し、適切な訓練を施すよう要求する」ことを含む勧告を採択した。その原因は、その委員会において、日本人は在日コリアン(主に子どもや児童・生徒)に対して暴力を振るう、人種差別的な人たちであると考える人に賛同するロビイストが多くなったためである[要出典]。
2003年、反差別・反ファシズム闘争が評価され、多田謡子反権力人権賞を受賞する。韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が推進する「戦争と女性の人権博物館(通称:従軍慰安婦博物館)」日本建設委員会の呼びかけ人となる [14]。
2008年3月18日、恒久平和のために真相究明法の成立を目指す議員連盟(会長:鳩山由紀夫)に招かれて講演。日本では血のつながりが重視されるあまり在日韓国・朝鮮人を差別、排除する傾向があり、在日コリアンに日本への所属意識が生まれないと述べた。
2009年11月18日、日本軍慰安婦問題の立法解決を求める緊急120万人署名の賛同人になる [15]。
2014年東京都知事選挙で、宇都宮健児候補を応援した。結果は、宇都宮は得票数2位で落選。自由民主党と公明党推薦の舛添要一元参議院議員(厚生労働大臣歴任)が当選した。
2017年1月2日に放送されたTOKYO MXテレビの『ニュース女子』において、「番組内で人権名誉を傷つけられた」として、放送局に対し、同番組内での訂正放送と謝罪、同放送局の報道番組での検証結果の報告、再発防止策の公表などを求め、同時に放送倫理・番組向上機構(BPO)に対しても審議を申し立てた。2018年3月にBPOの放送人権委員会は申立て内容について「人権侵害が成立する」と認定した上で、MXに「再発防止の努力」を勧告し、MX側は社長を筆頭に辛淑玉に謝罪した。
また2018年には番組を制作したDHCテレビジョンなどを名誉毀損で提訴し、2021年9月の地裁判決で勝訴した。
2017年には、辛が行ったBPO審議申し立てに対し、ニュース女子から取材を受けて番組に登場していた「琉球新報、沖縄タイムスを正す県民・国民の会」代表運営委員の我那覇真子ら3名が、同年2月13日付で公開質問ならびに公開討論を申し入れを送り付けた。我那覇らはケント・ギルバート、杉田水脈らと共に2月24日に記者会見を開き、回答期限とした2月22日までに回答が届かなかったことを明らかにした。この申し入れ状について辛自身は、同年4月4日に埼玉県さいたま市での公演において「読んでいません。私、忙しいから時間がない」などと述べ、公開討論に応じない意向を示した。
2017年10月22日投開票の第48回衆議院議員総選挙では、現職候補であった日本共産党の池内さおりを「日本の希望」と評して支援を行ったが、池内は小選挙区で落選し、比例復活もできず議席を失った。
2017年12月1日、ハインリッヒ・ハイネ大学デュッセルドルフ日本研究所にて客員研究員。
石原慎太郎東京都知事の在日朝鮮人に対する差別発言を糾弾し、在日朝鮮人に対する特例入管法に関する差別的認識不足を糾弾した。
2013年9月に、「在日朝鮮人入管特例法により、在日朝鮮人が特権を受けている」といった所謂「在日特権」と呼ばれる誤った認識を正し、日本のヘイトスピーチを根絶することを目的として、反ヘイトスピーチ市民運動団体「のりこえねっと」を設立した。
しんぶん赤旗で、2015年1月17日に国会ヒューマンチェーン「女の平和」と題し、国会議事堂を赤い服を着た人間の鎖で包囲するとして、吉良佳子(日本共産党参議院議員)、横湯園子(元中央大学教授)、雨宮処凛(反貧困活動家)、藤原真由美(文藝春秋憲法問題対策本部副本部長)、坂本洋子(mネット・民法改正情報ネットワーク理事長)らとともに、安倍晋三首相(第3次安倍内閣)に「レッドカード」を突きつけるデモに参加することが報じられている。
元東京都知事・石原慎太郎をたびたび批判している。特に2000年4月9日に、石原が陸上自衛隊練馬駐屯地の創隊記念式典での挨拶の中で、「今日(こんにち)の東京を見ますと、不法入国した多くの三国人・外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」といういわゆる「三国人発言」を行った際に、どのような文脈で「三国人」という言葉を用いようとも、この発言は在日コリアンに対する侮辱であり、人種差別であると激しく批判した。この主張のもと石原慎太郎を辞任させるための「石原やめろネットワーク」をはじめとした活動を行っている。ただし1959年に日本政府が発表し、2010年にも再確認された資料によれば、当時の在日朝鮮人総数61万人のうち徴用労務者は245人で、日本に居住している者は「犯罪者を除き、自由意思によって残留したものである」としており、一方、戦後、朝鮮戦争などの戦火から逃れるために、荒廃した朝鮮半島より日本に密航した20万から40万と推定される密航者 がいた。現在の多くの在日韓国・朝鮮人はこれらの子や孫である(詳細は徴用・「強制連行」と渡航、戦後の在日韓国・朝鮮人各節参照)。
その一環として、2003年4月5日、落合恵子、佐高信と連名で『プレ東京都知事選挙』と題するネット投票サイトを開設した。『プレ東京都知事選挙』サイトに石原ら各候補者のプロフィールが書かれていたが、石原についてはきわめて批判的なものだった。このサイトが2ちゃんねるなどで広められたことなどから『祭り』となった。 フェミニズム系の新聞『ふぇみん』2000年4月25日号の編集後記で、「戦争になったら韓国と日本のどちらにつくんだと聞く人がいるけど、戦争が起きたら、在日は真っ先に殺されますよ」と述べた。
辛によると、1987年に帰化(日本国籍の取得)を申請をしたが、「辛淑玉(シン・スゴ)の姓名はそのまま戸籍上も使用したいと申し出たところ、法務省の担当審査官から『もっと日本人らしい名前にしてください。』と言われ却下された」と主張している。「当用漢字にも含まれているし、そのまま読み仮名抜きで」(辛、淑、玉いずれも当用漢字)、「『からし よしたま』と、日本語読みならよいか」と尋ねたところ、「改名しないのは『あなたには、よき日本人になろうという意思が感じられない』と担当者から拒絶されたから。」などと主張している。
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