姜 尚中(カン サンジュン、朝鮮語:강 상중、英語:Kang Sang-jung, 1950年(昭和25年)8月12日 - )は、在日韓国人の政治学者、思想家、エッセイスト。東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長兼理事長。長崎県の学校法人鎮西学院学院長・理事。鎮西学院大学の初代学長。 専門は政治学・政治思想史。特にアジア地域主義論・日本の帝国主義を対象としたポストコロニアル理論研究。所属事務所は三桂。
鎮西学院大学学長として(2021年) | |
人物情報 | |
---|---|
全名 | 姜 尚中 (강 상중) |
別名 | 永野 鉄男 (ながの てつお) |
生誕 | 1950年8月12日(73歳) 日本・熊本県熊本市 |
国籍 | 韓国 |
学問 | |
時代 | 20世紀 - 21世紀 |
活動地域 | 日本 |
研究分野 | 政治学 政治思想 ナショナリズム |
主要な作品 | 『在日』(2004年) 『姜尚中の政治学入門』(2006年) 『愛国の作法』(2006年) 『悩む力』(2008年) 『母 オモニ』(2010年) など他多数。 |
影響を受けた人物 | 藤原保信 夏目漱石など |
主な受賞歴 | 青丘文化賞(1995年) |
熊本県熊本市出身。 在日韓国人二世。通名は永野 鉄男(ながの てつお)。姜尚中の日本式の音読みは「キョウ ショウチュウ」。 メディアで論客として活躍。日本の偏狭なナショナリズムを否定し、韓国・朝鮮に対する歴史的な偏見を指摘する。著書に『愛国の作法』(2006年)、『悩む力』(2008年)、『悪の力』(2015年)など。
1950年(昭和25年)に、熊本県熊本市春日町で在日韓国人二世として生まれる。父は、1916年(大正5年)に当時大日本帝国が統治していた朝鮮南部の慶尚南道昌原郡南山里(現・昌原市義昌区)の小作人の長男として生まれ、1931年(昭和6年)に仕事を求めて自らの意思で日本本土へ渡った。母も1923年(大正12年)に日本統治時代の朝鮮で生まれ、1941年(昭和16年)に釜山近くの鎮海(現・昌原市鎮海区)から許嫁の父を訪ねるべく関釜連絡船で渡日した。母親は母国語を含め文盲だった。両親は親戚を頼って各地を転々としたのち、日本の大学で法学を学び憲兵となった父方叔父が暮らす熊本に落ち着いた。叔父は日本の敗戦後帰国して軍人となり、その後ソウルで法律事務所を開いて成功した。両親は熊本市内の朝鮮部落で養豚や闇酒造りなどに従事したのち、1956年頃に土地を買って転居し、廃品回収業「永野商店」を開いた。
熊本県立済々黌高等学校を卒業。高校時代は野球部に所属、また吃音を発症する。当初、日本名「永野鉄男(ながのてつお)」を名乗っていたが、早稲田大学在学中に韓国文化研究会に参加し、1972年(昭和47年)の訪韓以来、韓国名を使用する。2011年(平成23年)に開催された句会の席上、姜は自らの生い立ちについて「生まれは熊本で本名は永野鉄男です。でも今から三十八年前、二十二歳のときに、思うところがあって姜尚中を名乗りました」 と語っている。
1974年(昭和49年)早稲田大学政治経済学部卒業後、1979年(昭和54年)早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。指導教官藤原保信の助言により西ドイツ・エアランゲン大学文学部研究生として留学(1979年(昭和54年) - 1981年(昭和56年))。帰国後、ソウル大学に留学経験を持つ日本女性と結婚して埼玉県上尾市に暮らし、一男一女を得る。明治学院大学講師などで一家を支える。
1985年に埼玉県における指紋押捺拒否表明第一号となり(翌年押捺)、その後、支援者であった地元牧師の尽力で国際基督教大学助教授(のち准教授)の職を得る。
1991年(平成3年)1月、テレビ朝日の「朝まで生テレビ! 異議あり!湾岸戦争ソ連そして日本」に出演し、マスメディアへの露出が始まる。
1998年(平成10年)東京大学社会情報研究所助教授、2004年(平成16年)東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授(所属:社会情報研究所 情報行動部門)就任。
2006年(平成18年)自殺対策基本法制定を求める署名活動の賛同者代表を務める。
2008年(平成20年)に開設したインターナショナル・スクール、コリア国際学園の理事長に就任する予定だったが、東大の兼業規程に違反するとの指摘があり、辞退している。
2010年(平成20年)東京大学大学院情報学環教授 兼 現代韓国研究センター長就任。
2013年(平成25年)3月末、東京大学の定年を3年残し退職。同年4月より次期学長含みで聖学院大学に移籍して、全学教授に就任、同年7月22日の理事会で正式に第6代学長に選出された(任期5年)。同年1月には、長男の自死をきっかけに執筆した小説『心』を刊行し、同5月NHKテレビの「我が息子へ~姜尚中“死”と向き合った4年~」に出演。同年6月に東京大学より名誉教授の称号を得る。
2014年(平成26年)4月より聖学院大学長兼総合研究所長 兼政治経済学科教授に就任。しかし任期途中の2015年3月31日付けで聖学院大学学長を辞任した。辞任理由については「諸般の事情」としている。
近年は『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)をはじめ、多くの討論番組やトーク番組に頻繁に出演している。『朝まで…』における論敵は親米保守の村田晃嗣であり、主に外交問題で対立している。
2016年(平成28年)1月から熊本県立劇場館長兼理事長を担当している。
2018年(平成30年)4月から長崎県にある、学校法人鎮西学院学院長・理事に就任している。
2021年(令和3年)4月から学校法人鎮西学院鎮西学院大学の初代学長に就任。
在日韓国人という立場を、エドワード・サイードの言う「周辺者」あるいは「亡命者」とみなし、日本と韓国という二つの祖国を持つ独自の存在とし、日本社会が歴史的に捉えてきた朝鮮史観、およびそこにあるいわゆる「偏見」に対して批判を加えている。ここでは、日本の戦前の朝鮮史観の始まりは、山縣有朋の「主権線・利益線」にまで遡ると主張。日本の近代化としての理想像が西欧社会であるならば、その反転としての未開地域、停滞地域として朝鮮半島・東北アジアが「発見」されたと主張している。また、戦後の日本の対朝鮮史観については、丸山眞男のいう「悔恨の共同体」を経て、経済復興、高度経済成長を背景に「日本特殊論」などが登場してくる中で、西欧との同一化と差異化のプロセスとして、再び戦前と同様の対朝鮮・東北アジア史観が「再発見」されたと主張している。
ナショナリズム批判についての著作も多い。ただし、現在の世界システムを自由主義経済による支配システムとして考えた場合、その中枢にいる一握りの経済大国と周辺に追いやられた諸国との経済格差はますます大きくなっているとし、有無を言わさず周辺化される力学に反抗する手段としての、いわばイマニュエル・ウォーラーステインのいう「反システム運動」として発現するナショナリズムに対しては一定の理解を示している。また、サミュエル・P・ハンティントンが主張した「文明の衝突」に対しても、世界システムにおける中枢国と周辺国の格差を無視したオリエンタリズム的観点であると批判している。
「マガジン9」発起人を務めている。
50歳で運転免許を取得。
最近の趣味は登山・ドライブ・絵画。また、俳句の鑑賞も好んでおり、2011年(平成23年)には金子兜太が宗匠を務める句会にも参加している。癌で亡くなった友人を悼む気持ちを布団の情景に重ねた句や、諧謔を凝らした句などを披露した。
絵画趣味に関連して、2009年(平成21年)4月 - 2011年(平成23年)3月には『日曜美術館』(NHK教育テレビ)の司会を務めた。
韓国帰郷時に訪ねた叔父は日本の大学出身であり、その後は日本軍憲兵となり日本人と結婚して子供をもうけ、戦後に妻子を残して韓国に帰郷。良家の韓国人と結婚し弁護士として成功している。叔母にあたる日本人と混血の従妹は行方不明であるとしている。『続、悩む力』を執筆前、2011年頃に長男を亡くしている(26歳)。
他多数
This article uses material from the Wikipedia 日本語 article 姜尚中, which is released under the Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 license ("CC BY-SA 3.0"); additional terms may apply (view authors). コンテンツは、特に記載されていない限り、CC BY-SA 4.0のもとで利用可能です。 Images, videos and audio are available under their respective licenses.
®Wikipedia is a registered trademark of the Wiki Foundation, Inc. Wiki 日本語 (DUHOCTRUNGQUOC.VN) is an independent company and has no affiliation with Wiki Foundation.