鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年〈大正11年〉6月25日 - 2015年〈平成27年〉7月20日)は、日本の哲学者・評論家・政治運動家・大衆文化研究者。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留重人、丸山眞男らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人とされる。
『映画評論』1960年1月号より。 | |
生誕 | 1922年6月25日 日本 東京府東京市麻布区 (現:東京都港区) |
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死没 | 2015年7月20日(93歳没) 京都府京都市左京区 |
出身校 | ハーバード大学 |
配偶者 | 横山貞子 |
両親 | 鶴見祐輔 |
研究分野 | 哲学 |
主な概念 | アメリカのプラグマティズムを日本に紹介 |
米国ハーバード大学で哲学を学んだのち、リベラルな立場の批評で論壇を牽引。思想史から大衆文化まで幅広い分野を扱う。著書は『戦時期日本の精神史』(1982年)、『アメリカ哲学』(2008年)など多数。
1922年6月25日、東京府東京市麻布区(現在の東京都港区)で、父・祐輔と母・愛子(後藤新平の娘)の間に、4人きょうだいの2番目(長男)として生まれる。
鶴見が幼少の頃、父・祐輔は新自由主義を標榜して新政党・明政会を結成し、自宅には父の政友が集まり会合を開いていた。また父・祐輔は雑誌「雄弁」の創刊に関わり、旅行記や小説、評論を執筆するなど講談社と関係が深く、鶴見は姉・和子と自宅に寄贈される講談社の本を競うようにして読み、「満州事変以前の講談社文化にひたりきって育った」。
1929年、東京高師附属小学校入学。父・祐輔は海外での講演旅行などで自宅を空けていることが多く、特に1930年の明政会事件の後、約2年半を海外で過ごし、その間、鶴見は一緒に暮らしていた母・愛子から「しかられつづけのくらし」をしていた。小学3年生ないし11歳の頃、不良化し、近所の子供たちと万引き集団をつくって本や小物の万引きを繰り返し、家の金を持ち出し、小学校をサボって映画館に入り浸り、歓楽街に出入りして女給やダンサーと交際するなどした。12歳の頃にはうつ病になり、睡眠薬を飲んで道路に倒れる自殺未遂を繰り返し、精神病院に3度入院。1935年に府立高校尋常科に入学するも2年生の夏に退学になり、1936年に府立五中に編入したが、1937年5月に中退した。
1937年7月、父・祐輔の計らいで井口(いのくち)一郎とオーストラリアを旅行。同年末に父に伴われて米国へ渡り、翌1938年3月までワシントンの斎藤博の公邸に預けられる。米国滞在中に、父と面識のあったハーバード大学の歴史学者・アーサー・シュレシンジャー・シニア教授を介して、同大学大学院に在籍していた都留重人と面識を得る。都留は生涯の師となった。同年9月に単身渡米し、マサチューセッツ州コンコードのミドルセックス校(全寮制中等学校)に入学。
1939年9月、16歳のとき、大学共通入学試験に合格してハーバード大学に進学、哲学を専攻。記号論理学者のホワイトヘッドやラッセルの講演を聴講し、カルナップ、クワインに師事した。
1941年7月、日本軍の南部仏印進駐に対抗して在米日本資産が凍結され、日本からの送金が止まったため、夏休みにニューヨーク日本文化会館の日本図書館で本の運搬をして働く。先行きへの不安から、生活費を切り詰め、成績優秀だったため卒業を急いで4年制の大学を3年で卒業できる飛び級コースを選択。この頃、結核のため喀血。
1942年3月下旬、大学の第3学年前期が終わったとき、FBIに逮捕され、東ボストン移民局の留置場を経て、同年5月に戦争捕虜としてメリーランド州ミード要塞内の収容所に送られる。抑留中に卒業論文を完成させ、第3学年後期は大学の授業に出席できず、留置場で受けた後期の試験は不合格だったが、それまで成績優秀だったため、卒業論文を参考資料とすることで教授会の投票により特例的に卒業が認められた
1942年6月、日米交換船グリップスホルム号に乗船、経由地のロレンソマルケスで交換船・浅間丸に乗り換え、同年8月に日本に帰国。
1942年8月、米国から帰国の翌日、自主的に麻布区役所に出頭し、4日後の徴兵検査で第2乙種合格。陸軍に召集されるのを避けるため、海軍軍属にドイツ語通訳として志願し、1943年2月にドイツの封鎖突破船でジャワ島に赴任。ジャカルタの在勤海軍武官府に2年間勤務し、主に連合国のラジオ放送を聴いて情報をまとめ、部外秘の新聞を作成する業務に従事した。カリエスが悪化し、ジャワ島・チキニの海軍病院で2度手術を受けた後、シンガポールの輸送船団、通信隊での勤務を経て、1944年12月初に練習巡洋艦「香椎」で日本に帰還。
帰国後、体調が回復したため、1945年4月から慶應義塾大学日吉校舎に置かれていた海軍軍令部に勤務し、翻訳業務に従事。同年7月に結核性腹膜炎のため辞職し、熱海で療養中に敗戦を迎えた。
戦後、鶴見は軽井沢の別荘で結核の療養生活を続けながら、姉・鶴見和子の尽力で、和子と丸山眞男、都留重人、武谷三男、武田清子、渡辺慧とともに7人で「思想の科学研究会」を結成して雑誌『思想の科学』を創刊。同会では、米国留学の前後で日本の論壇全体の傾向が変わったとの自覚から着想して1954年から「転向研究会」を作り、『共同研究 転向』をまとめるなど思想史研究を行い、1962年に『共同研究 転向』全3巻を平凡社から刊行した。
1948年11月、桑原武夫の推薦により京都大学嘱託講師となり、1949年4月に京都大学人文科学研究所[要出典]助教授となる。
1951年5月にうつ病を再発、京大を1年間休職、精神病院に入院し、翌1952年1月に退院。「親父のもとに出入りしていたら、自分がだめになると思って」家を出る。
1954年11月、東京工業大学助教授。
1959年、加太こうじ、森秀人、佐藤忠男、虫明亜呂無、邑井操らと大衆芸術研究会を創設。
1960年5月20日、新安保条約が強行採決される。翌5月21日、東京都立大学人文学部教授の竹内好は強行採決に抗議し、辞表を提出した。5月30日には鶴見も、「岸内閣が多数暴力をふるって新安保を抜き打ち承認したこと、とくにさる28日の記者会見における岸首相の非常識な発言」などに激しい憤りを感じたとして、東京工業大学に辞表を提出した。同日、新聞の取材に鶴見は「私は竹内さんを戦後エッセイを通じて知り合い尊敬していた。その人があのような理由で大学をやめられたことは大きなショックだった。辞任の決意はそのとき決まったといえる。〝竹内さんに続いた〟といってよいだろう」と答えた。
同年6月4日、小林トミらによって「声なき声の会」の最初のデモが行われ、鶴見と政治学者の高畠通敏は国会で合流。以後、声なき声の会はデモを重ね、岸内閣による日米安全保障条約改定に反対した。同年秋、横山貞子と結婚。うつ病を再発し、新婚の妻と別居。
1961年、同志社大学文学部社会学科教授。1962年から一時期、脳軟化症で自宅療養生活を続ける父・祐輔の介護のため、東京都練馬区関町にあった父の自宅で父と同居。
1965年2月7日、アメリカが北ベトナム爆撃(北爆)を開始。同年3月、文藝春秋の画廊で富士正晴の絵の展覧会が1週間開かれた。貝塚茂樹、桑原武夫と共に発起人を務めた鶴見はその頃、年の半分近くを東京で暮らしていたことから、期間中毎日受付にいた。その最終日、「声なき声の会」事務局長の高畠が訪れ、「北爆に対し無党派の市民として抗議したいが、『声なき声の会』では小さすぎる。政党の指令を受けないサークルの呼びかけで、ベトナム戦争を支援する日本政府に抗議するデモをやろう」と鶴見に働きかけた。鶴見は当時西宮市にいた小田実を誘った。高畠、鶴見、小田は東京新橋のフルーツパーラーに落ち合い、新しい団体の素案を練り、同年4月24日に「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」(のちの「ベトナムに平和を!市民連合」)を結成した。
1966年6月にはベトナム北爆に抗議して在日アメリカ大使館前で座り込みを行った。1967年には横須賀に寄港した空母イントレピッドからの脱走兵2人を東京・練馬の父の家に匿い、のち京都の自宅に移し、スウェーデンに送る。1970年、大学紛争での警官隊導入に反対して同志社大学教授を退職。
1976年には、桑原武夫、多田道太郎、井上俊、津金沢聡広らと現代風俗研究会を創設(桑原が初代会長)。
1984年発行の『架橋-私にとっての朝鮮』飯沼二郎編著(麦秋社)の中で、吉田清治について「あの、独力で韓国に強制連行の謝罪碑を建てた人でしょう。(中略)碑の前で土下座して韓国人に謝罪すると、やっぱり悪罵を浴びせられるということが出ていますね、当然だと思うけれども、そのために謝罪碑を建てたっていうのは偉いですね」と述べた。
2004年6月には、大江健三郎や小田実らと共に九条の会の呼びかけ人となる。 2011年10月に脳梗塞を患い、以降発話と筆記が困難となるが、旺盛に読書を続けた。
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