戦闘機(せんとうき、英: fighter aircraft, あるいは単にfighter、独: Jagdflugzeug,略称としてJäger)は、敵対する航空機との空対空戦闘を主任務とする軍用機。
フランス空軍のローラン・ギャロスが1915年にモラーヌ・ソルニエ Lの中心線に固定銃を装備したことで思想が生まれ、ドイツによるフォッカー アインデッカーの量産によって、固定銃を装備して敵の航空機を撃墜する機体として登場した。時代が進むにつれて技術の発達、戦訓により戦闘機の任務は多様化し、技術的、思想的にも違いが生まれていった。また、高い運動性を持つため、特殊飛行の公演にも利用される。
現在の戦闘機には、従来は攻撃機が担っていた対地攻撃・対艦攻撃・爆撃をこなせる機種も多い(マルチロール機)。
世界で最も生産された戦闘機はドイツのBf109の約35,000機。ジェット機最多はソビエト連邦のMiG-15の約15,000機(超音速機ではMiG-21の約10,000機)。日本最多生産機は零式艦上戦闘機の約10,000機。
英語では「Fighter」だが、1948年以前のアメリカ陸軍航空軍では「pursuit aircraft (追撃機)」と呼ばれていた。また、兵器を搭載できる航空機全般を指して戦闘機と呼ぶ場合がある が、その意味での戦闘機は軍用機を参照。
戦闘機の命名方法については軍用機の命名規則を参照。
支援戦闘機は、航空自衛隊での攻撃機の名称で、任務は対艦攻撃、対地攻撃、近接航空支援と広く、状況に応じて航空脅威の対処にも使用される。
第二次世界大戦で夜間戦闘機が登場し、それ以外を昼間戦闘機と区別することもあったが、レーダー計器の発達で全天候戦闘機が登場して定着し、それらの名前も廃れていった。
他の軍用航空機の多くがセミモノコック構造で胴体部が構成され中央翼構造を備えているのに対して、ほとんどの戦闘機は剛性の高い削出/溶接フレーム構造で構成され、外板は内部保護と空力特性向上を担う要素が大きい。一般に1-4名程度の乗務員は狭い操縦室に着座したまま飛行する。
与圧の有無は任務によるが、ジェット戦闘機の場合は破裂を避けるため被弾に備えて与圧をせず、パイロットは酸素マスクを着用する。
戦闘機誕生以来、対空戦闘のための兵装は機関銃・機関砲と相場が決まっていた。第一次世界大戦時には、対気球・飛行船用としてロケット弾を装備した例もある。第二次世界大戦時に再びロケット弾装備が復活し1960年代頃まで使われたが、誘導装置のついたロケット弾、すなわちミサイルに取って代わられる事になる。現代でもロケット弾ポッドを搭載可能な戦闘機は多いが、専ら対地攻撃用である。
戦争初期、航空機は戦闘力を持たず敵地偵察に使われただけであった。最初期は、お互いに攻撃手段を持たず、敵偵察機に対し、そのまますれ違ったり、お互い手を振って挨拶していることもあった。しかし、航空偵察の効果が上がり始めると、敵偵察機の行動は妨害する必要性が出てきた。最初は持ち合わせていた工具を投げつけたのが始まりとされている。やがて煉瓦や石を投げ合い始め、拳銃や猟銃を使い始めた。操縦士は操縦桿から長時間手を離せないため、火力不足であるが片手で使え狭い操縦席でも取り回しやすい拳銃が多く使われた。また多少高価であってもモンドラゴンM1908のような半自動小銃を採用した例もある。
戦闘機誕生のきっかけは、フランス空軍のローラン・ギャロスが1915年にモラーヌ・ソルニエ Lの中心線に固定銃を装備したことに始まる。4月1日ドイツのアルバトロス製の航空機が初めて撃墜され、その後半月で4機撃墜し初のエースパイロットが誕生する。当初のエースパイロットの条件は10機以上撃墜であったが、士気高揚のため5機以上撃墜に改められた。
日本では1914年10月、日独戦争下の青島の戦いで日本陸軍の(日本陸海軍初の)実戦飛行部隊たる臨時航空隊が日本初の空中戦を経験する。機関銃を積んだドイツ軍機ルンプラー・タウベが上空を飛び回るため、日本のモーリス・ファルマン機は偵察任務を行えず、そのため臨時航空隊長有川鷹一陸軍工兵中佐がニューポールNG機に地上用機関銃を積んで偵察機の味方を支援、敵を妨害するという、戦闘機的な空中戦が行われた。
1915年6月ドイツがフォッカー アインデッカーを量産し、プロペラ内固定銃を装備して敵の航空機を撃墜する機体として登場し、この駆逐機(戦闘機)の独立出現を各国が見習うことになる。 本格的な空中戦闘はこの機体から始まり、それまで単一機で行われていた飛行機作戦から任務が細分化され、偵察→爆撃→空戦と発展して行く過程で専用機種が生まれた。この時代の戦闘機の構造は木製帆布張りが主体であった。エンジンは水冷式と、シリンダーを放射状に配置し、エンジン全体をプロペラと一緒に回転させて冷却する回転式(ロータリー式)の2種類があり、出力は200馬力程度であった。主翼は単葉(主翼が1枚)から三葉(同じく3枚)まで種種とりどりであったが、複葉(同じく2枚)が最も多かった。その後、プロペラ同調装置の発明により機首から機銃を射撃できるようになり、以降戦闘機は機首部に同調装置付きの機銃を装備するという形態が標準となった。
1915年後半になると戦闘機、爆撃機という専用機種が現れた。1916年には戦場上空での制空獲得思想が生まれる。ドイツは戦場制空のため、空中阻塞、駆逐戦法という数層に配置した防御的阻塞幕を構成する方法をとり、戦闘機の発達とともに敵機撃墜、航空優勢を獲得する戦法に発展し、空中アクロバット戦が展開されていった。しかし、航続距離が短かったため、侵攻して攻撃する戦法は未熟だった。
レシプロ戦闘機の形体が完成していくのと並行して、空冷式エンジンは、素材や設計の進歩により冷却効率が向上したこと、ならびに高回転化に伴って重いエンジン自体を振り回すデメリットが目立ってきたことから星型エンジンに変わっていった。水冷式エンジンも改良が進み、両方とも1000馬力程度までパワーアップした。主翼はしばらく複葉機の全盛時代が続いたが、第二次大戦の開戦前には、少数の複葉機(イタリアのCR.42やソ連のI-15bisなど)を除き主翼は単葉になった。また同時期に主脚も固定式から引き込み式になり、飛行時には主翼内や胴体内に格納されることで空気抵抗の低減が図られるようになった。機体構造も木製帆布張りから、鉄骨帆布張りへと移行、更に全金属モノコックへと変わっていった。
第一次世界大戦における戦闘機は格闘戦的技術尊重が伝統となり撃墜数を競ったが、飛行機、武器の性能向上と数の増大で新しい傾向が生まれていった。編隊空中戦闘の思想が現れ、空戦では各個で行動するが、有利な態勢で空戦を開始するための全体大勢の指導や、終末後の集結帰還の指導が重視された。また、後方視界を持ち武装強化された複座戦闘機が現れ、対戦闘機以外の要地防衛、援護、地上攻撃など多様な戦闘機が現れ始めた。各国ともに国を挙げて戦闘機の改良と増産に励み、大半の戦闘機が全金属製・単葉・単座・単発となったが、例外もまだ多かった。
1921年10月9日、設計自体はイギリスの招聘技師によるものであるが日本でも初の国産戦闘機である一〇式艦上戦闘機が完成した。
1921年航空戦力の本質を攻勢とし空中からの決定的破壊攻撃を説いたドゥーエ(イタリア)の「制空」が発刊され、1927年ころには世界的反響を生んだ。ドゥーエやミッチェルに代表される制空獲得、政戦略的要地攻撃重視するために戦略爆撃部隊の保持が好ましく、1930年代には技術的にも可能となり、列強国は分科比率で爆撃機を重視するようになった。日本陸軍でも1928年3月20日統帥綱領制定で航空は攻勢用法に徹底して地上作戦協力を重視し、戦場空中防空、制空獲得の姿は消えてしまった。そういった動きから爆撃機(攻撃機)の発達で爆撃を戦略上重視し、戦闘機を軽視する戦闘機無用論が台頭する。日本では1936年前後に陸海軍で広く支持され、攻撃機を重視して戦闘機を無用視する主張や戦闘機に急降下爆撃をさせることで攻撃側にも使うという主張があったが、支那事変で戦闘機の価値が認識された。ドイツでも支持されたが、1940年バトル・オブ・ブリテンによって戦闘機の価値を認識した。アメリカでも支持され、1944年にはドイツ奥地への爆撃が中止される甚大な被害を受けて、戦闘機の必要性を認識した。
1937年9月日本海軍の源田実は支那事変で、それまで主として防御用と見られていた戦闘機を積極的に遠距離に進攻させ、制空権を獲得する「制空隊」を初めとする攻撃的、主体的な戦闘機の戦術を考案した。従来の攻撃機主体の戦術思想を一変させた戦闘機中心の画期的な新戦法であり、戦闘機の新たな価値が認識された。これを端緒に、戦爆連合、戦闘機の単独進出など積極的に使用する航空戦術の型が確立されていった。
1938年ドイツ空軍ヴェルナー・メルダースはスペイン内戦で、それまで3機編隊が主流となっていた戦闘機の最小編隊構成を、2機1組で編隊を組み、長機が攻撃・追撃に集中し、もう1機の僚機が上空ないし長機の後方で援護・哨戒を行う「ロッテ戦術」を考案した。さらに2機プラス2機の4機で編隊を組む「シュヴァルム戦法」にまで発展させた。これらはドイツ空軍だけの採用に留まらず、後に世界的に利用される編隊の形として定着していった。
第二次世界大戦初期までは格闘戦が主流であり、高い格闘性能を持つ機体が空戦で優勢だったが、アメリカ軍のように組織的に格闘戦を避けて一撃離脱を行うように指導する国も現れ、零戦対F4F、スピットファイア対Bf 109の対戦のように格闘戦と一撃離脱のどちらが有利な空戦に持ち込むかも勝敗に関係してきた。
日本海軍は太平洋戦争で敗色が濃くなると戦闘機で体当たり攻撃を行う特攻戦法を主張する者が現れた。軍令部第2部長黒島亀人は1943年8月6日戦闘機による衝突撃戦法を提案、1944年4月体当たり戦闘機の開発を提案している。1944年10月20日大西瀧治郎中将によって編成された最初の神風特別攻撃隊の機体として零式艦上戦闘機が使用されて以降戦闘機による特攻が終戦まで行われた。
第二次世界大戦は、航空機主体の戦いとなり、開戦当初1,000馬力未満だったエンジン出力は大戦後半には2,000 - 2,500馬力にも達した。その急速な技術進歩の過程で、Me262などのジェット戦闘機が誕生した。プロペラは その先端速度が音速(1,200km/時:海面)に近づくと空気圧縮の発生により推進効率が悪くなる。その結果プロペラ機の最高速度は800km/時あたりで頭打ちとなってしまう。レシプロ戦闘機は第二次大戦終了からさほど経たないうちにその速度域に達し、主力戦闘機としての使命が終了した。以後ジェット戦闘機の時代に突入する。
1930年代頃から、レシプロエンジンに代わる新しい推進装置として、ドイツやイギリスなどでジェットエンジンの研究が進められていた。世界で初めて飛行したジェットエンジン機は、1939年に初飛行したハインケルHe178である。第二次大戦後期にかけて各国でP-80 シューティングスター(アメリカ)、Me 262(ドイツ)、ミーティア(イギリス)などのジェット戦闘機が登場したが、本格的な実用化はドイツのMe262だけであった。初期のジェット機はレシプロ戦闘機の設計の延長上にあるものが多く、エンジンの装備位置は、第二次大戦中のMe 262や直線翼機では主翼下に吊り下げたポッド式や主翼に埋め込んだ機体が多かった。
ジェット戦闘機が本格的に実戦投入されたのは、朝鮮戦争からである。その頃のアメリカ空軍ではF4Uコルセアなど第二次世界大戦末期に採用されたレシプロ機が多く存在したが、格闘性能ではMiG-15と同等に渡り合うなどジェット戦闘機とレシプロ機の差が交錯する時期でもあった。
ソ連の支援を受けた中国人民志願軍はいち早く後退翼のMiG-15を投入した。当時国連軍の主力となったのはF-80 シューティングスターやグロスター ミーティアなどの直線翼戦闘機であり、設計思想ではMiG-15の方が先進的であった。その後、これに対抗してアメリカ軍を中心とする連合軍も後退翼のF-86 セイバーなどを投入した。性能的にはMiG-15とF-86は一長一短であり、上昇力や格闘性能ではMiG-15が勝ったが、レーダーや照準器などの儀装面ではF-86の方が優秀であった。結果としては米空軍パイロットの技量の高さもあって、この後退翼戦闘機同士の戦いではアメリカの圧勝であった。
音速に達する前のジェット戦闘機は「第1世代」と区別される。
各時代区分ごとにその国である程度多数 が生産されたものや、主力や主力候補として開発されたものを、各時代5機以内を目安として以下にあげる。
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