グロスター ミーティア(Gloster Meteor)は、イギリスの航空機メーカー、グロスター・エアクラフト社が開発した連合国軍側初の実用ジェット戦闘機。ドイツ空軍の世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミット Me262 に遅れること数週間で実戦配備された。
1941年に連合国軍側初のジェット試験機 E.28/39 を進空させたグロスター社は、軍需省仕様 F.9/40 に基づき同国初の実用ジェット戦闘機の基本設計に着手した。歴史は古いものの二流メーカーと見做されていた当時のグロスターには第一線機がなく、下請生産中のホーカー ハリケーンも終息間近と、戦時下にもかかわらず手隙にしていたため、同社が指名された経緯がある(同時期、アメリカのマクドネル・エアクラフトも同様の理由で、アメリカ海軍初のジェット艦上戦闘機「FH-1 ファントム」の開発を受注した)。
高速化目的で単発を主張する空軍省に対し、エンジンの低信頼性を憂慮する同社主任技師のジョージ・カーター(George Carter)は双発を主張して譲らず、結局双発で計画は進められた。
機体自体は革新性皆無の極めて凡庸なもので、早くも1942年春には8機の試作が開始されたものの、搭載予定エンジン W.2 を巡る混乱で計画は大きく遅延し、先に実用化したハルフォード H.1(後のデ・ハビランド ゴブリン)を仮に積んで、1943年3月にようやく初飛行した。
当初「サンダーボルト」と命名予定だったが、イギリス空軍も採用していたアメリカ製戦闘機 P-47 との競合を避けるため、程なく「ミーティア」に改称された。テイル・ヘビー傾向とヨー安定不良が深刻でスピン癖が強かったが、各種試験を続行し小改良で実用化の目処を立てた。量産試作型 F.1 の原型機は、米英定期技術交流でベル P-59 と交換されている。
2年間にわたる試験と訓練を経て、1944年7月、ケント州マンストンで初就役した。ウェランド搭載のミーティア F.1 と、スピットファイア Mk.VII からなる混成評価飛行隊(616th sq.)の編成は1944年7月12日で、8月4日にはV1飛行爆弾を主翼同士を接触、反転させて初撃墜を記録し、その後も14発ばかりの戦果を上げたが、上昇力に劣り、加減速が緩慢で姿勢制御が難しく、またウェランドの軸受強度から機動は± 2G 程度に制限されていたため、この段階で対戦闘機戦闘は事実上不可能だった。Me262 とは異なり、F.1 はただ連合国側初のジェット機という存在価値しかなく、高度に発達したレシプロ戦闘機に優る点はあまりなかった。
連合軍はミーティアがドイツ軍の手に落ちるのを恐れて、最初の作戦は連合軍の領空に限られていた。しかし、ドイツ空軍の活動が非常に弱まった大戦最後の数週間は、ミーティアはドイツ上空で作戦した。
ダーウェント Mk.I 搭載の本格量産型 F.3 は同年12月から配備が開始され、1飛行中隊がベルギーにも展開したが、この頃既にドイツ側の反撃は少なくなっており、想定された Me262 との交戦機会もなく、専ら対地攻撃機 として試験運用されるうちに終戦を迎えた。
1944年末に遠心式ターボジェットの決定版ロールス・ロイス ニーンが完成すると、直ぐさまそのミーティア向けの縮小版ダーウェント Mk.V が計画された。この専用エンジンを搭載した F.4 は1945年5月に初飛行し、パワーアップに空力的洗練も相俟って Me262 に比肩し得る性能を発揮したものの、同時期にアメリカで実用化したロッキード P-80 と同様、時既に遅く第二次世界大戦には間に合わなかった。F.4 の内2機はスピードレーサーに改造され、1945年11月7日に初めて600 mph(970 km/h)を突破したが、未公認に終わった。
この F.4 を元に、コックピットをタンデム複座とした練習機型 T.7 が開発され、イギリス空軍最初のジェット練習機として飛行学校などに配備された。複座化に伴い胴体を延長したことで方向安定性が向上したため、胴体延長は後述の F.8 にも取り入れられた。また、これを元にしてレーダーを搭載した夜間戦闘機型も開発された。ただしこれら複座型のコックピットは、単座型と異なり太いフレームに覆われたキャノピーを使用した時代遅れのものであり、単座型と同様のバブルキャノピーが採用されたのは夜間戦闘機型の最終型 NF.14 のみであった。
1940年代末には旧態化が顕著になったミーティアだったが、ホーカー ハンターなどの後退翼ジェット戦闘機の配備が遅れたため、繋ぎとしてエンジンをダーウェント Mk.VIII にパワーアップし、西側初の射出座席を装備した全面改良型 F.8 が開発され、1949年8月から部隊配備が開始された。上昇率を除く全ての面で F.4 より性能が向上した F.8 は、暫定的な戦闘機として戦闘機軍団の戦力ギャップを埋める重要な役目を果たした。なお F.8 が射出座席を採用したにもかかわらず、複座型は夜間戦闘機型を含め最後まで射出座席未搭載のままであった。
既に超音速時代に入った1954年まで生産され続けたミーティアは、1950年代中頃から第一線部隊や飛行学校からの退役を開始したが、その後も技量維持訓練機や連絡機として1970年代まで使用されていた。
ミーティアは、各種試験のテストベッド機としても多用されている。
ロールス・ロイス トレントに換装された F.3 の1機(トレント・ミーティア)は、世界初のターボプロップ推進機として各種試験を行い、後のダート開発に大きく貢献した。この他にも、ミーティアはさまざまなジェット・ロケットエンジンの試験に使用された。またマーチンベーカー社は、射出座席の試験用に T.7 の改修機を使用した。
F.3 のうち数機は航空母艦から運用できる艦上機型のテストに用いられており、脚部が延長されアレスティング・フックを装備した。運用試験はインプラカブルにて行われ、空母への着艦及び空母からの発艦も含まれた。 F.3 による試験結果が発艦性能を含め好ましいものだったため、F.4 でのさらなる試験へと移行した。F.4 の艦上機型は翼端切り落とし(clipped wing)の折りたたみ翼を備えた。しかし艦上機型は運用試験にとどまり、ミーティアがイギリス海軍で運用されるようになった際には、陸上基地での訓練用に T.7 が用いられるのみであり、シーバンパイアなどの艦上機に搭乗する前段階のパイロット訓練に使用された。
ミーティアはその凡庸さ故に従来のプロペラ機からの乗員移行が容易だったため、各国空軍が初めて導入するジェット戦闘機として需要が高く、F.4 以降はイギリス連邦以外の友好諸国へ多くが輸出され、局地紛争には1960年代まで参戦した。
累計は約3,900機に達し、フランス、ベルギー、オランダ、スウェーデン、デンマーク、エジプト、シリア、イスラエル、アルゼンチン、ブラジル、エクアドル、オーストラリア、ニュージーランドの各空軍で運用され、ベルギーとオランダではライセンス生産が行われた。
少なからぬ残存機が博物館等で静態保存されているが、飛行可能な機体はイギリスの4機とオーストラリアの1機のみである。
1946年から1952年にかけてミーティア113機を調達したオーストラリア空軍は、イギリス連邦占領軍岩国基地所属の第77編隊を1951年7月にノースアメリカン F-51D からミーティア F.8 に転換して金浦基地に転出、朝鮮戦争の前線に投入した。
同年8月29日、圧倒的に高性能な新鋭機 MiG-15 との初交戦では1機を喪失2機を大破され戦果なく、北側空軍が練度を上げるに従って更に損害が増し、12月1日のミーティア12機とミグ40機の遭遇では1機の初撃墜を記録したものの逆に4機を失ったため、以降は制空任務をノースアメリカン F-86 に譲り対地攻撃と低空写真偵察に専念した。期間を通じて少なくとも30機のミーティアが敵側戦闘機により撃墜されたが、対空砲火による被害はそれ以上に上る。
スエズ動乱では、イスラエル、エジプト、シリアの機体が実戦投入された。イスラエル機はエジプトのバンパイアと交戦し撃墜を記録している。また、エジプト機はイギリスのヴァリアント爆撃機を迎撃し脅威を与え、シリア機はイギリスのキャンベラ偵察機を撃墜している。
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