ホーカー ハンター (Hawker Hunter) は、イギリスの航空機メーカー、ホーカー社で開発され、各国で使用されたジェット戦闘機である。イギリス空軍の戦闘機であるグロスター ミーティアの後継機として開発された。1960年代に戦闘機としての役目を終えたが、対地攻撃機型が1970年まで運用された。すでに旧式化しており、2014年に最後の利用者であったレバノン空軍から退役し、軍用機としては引退となった。ただし、民間機や記念機としては現在も飛行している。
ホーカー ハンター
1947年1月に航空省が発行した仕様書E.38/46のためにシドニー・カムはホーカー P.1052を設計し、これはホーカー シーホークの翼を後退翼に修正した機体であった。1948年に初飛行を行ったが、政府や軍に採用されなかった。しかし、シドニー・カムはP.1052の開発を生かして昼間ジェット要撃機を求める仕様書F.3/48の要求を満たす新たな戦闘機P.1067の開発に取りかかった。最初に機首にエアインテークを配置した試作機が製造された。これは速度の向上に繋がったが、エアインテークを主翼の根元に配した従来の双ブーム式と比較した際にレーダーの搭載や兵装搭載力に劣った。結局エアインテークを左右主翼付け根前縁に移動し、機首にレドームを設け、風洞試験で懸念されたダッチロール対策として尾翼の配置と形状を変更し、まとまった機体形状にはP.1067/5の名称がつけられた。。この機体にはロールス・ロイス製のジェットエンジン、ニーンよりも一回り小さくて出力の大きいエイヴォンを搭載した。
1951年7月20日にエイヴォン Mk.107 エンジンを搭載して初飛行した。補給省は初飛行に先立つ1950年3月にハンターと命名して、生産を決定した。部隊配備は1954年7月からイギリス空軍で開始された。政府側からバックアップとして他社のエンジンを搭載するよう要請を受けたため、1952年11月30日にはサファイアを搭載した試作機が初飛行したが、ホーカー社はエイヴォンにこだわり、サファイアを搭載した量産モデルは2種しか製造されなかった。
ハンターは機動性が良く、ADEN 30 mm機関砲を4門搭載し火力も強力であった。初期型ではトラブルも続出したが、改良されたエイヴォンを搭載したF.4型以降は元来の堅実かつ頑丈な設計も相まって非常に信頼性に富んだ機体となった。また機体にモジュラー構造を取り入れていたことから、古い型でもアップグレードや練習機型への改造が容易に行えた。
アビオニクスに関しては、機首に対空射撃照準用の測距レーダーが搭載されているのみであり、夜間や荒天時の空戦には不向きであった。このためイギリス空軍は、夜間ないし荒天時の迎撃を担当する全天候戦闘機としてグロスター ジャベリンを導入している。
練習機型においては座席の並列複座配置が採用されたが、この実現のためにコックピットの外形が大きく左右に膨らむこととなり、試作段階ではコックピット後部で激しいバフェッティング(気流の剥離)が起こり問題となった。この問題は困難で時間を要し、当時研究が進んでいたエリアルールに基いてコックピット後方から主翼部分にかけての胴体を整形することにより、ようやくの解決を見た。
ハンターが登場した時期にはアメリカ合衆国やソビエト連邦で超音速の機体が開発・実用化されつつあり、亜音速のハンターは速度の面では同時期の機体に劣っていた。このため戦闘機としての運用期間は短く、常に旧ソ連の新鋭機に対峙していたオランダ、ベルギーなどヨーロッパ諸国では早い時期に退役し、イギリスでも攻撃や偵察などの用途に早々と転用された。
しかし、低空での機動性の良さや兵装搭載量の多さ、そして4連装のADEN機関砲の火力を買われ、様々な紛争に直面していた発展途上国においては、対地攻撃機として長く運用された。この際には、ヨーロッパ諸国で退役した機体がホーカー社によって買い戻され、近代化改修・オーバーホールを受けて再度販売されたケースも多い。また、高等練習機としても使用され、イギリスではコックピットが狭いナット練習機に乗るには大柄すぎるパイロットの訓練を引き受けていた。
イギリス空軍は第二次中東戦争にハンターをキプロス島(現:キプロス共和国)のアクロティリ空軍基地に派遣したが、航続力不足により活躍する機会がなかった。1960年から当時イギリス領だったアデン保護領(現イエメン)のアデンに常駐していた部隊が、デ・ハビランド ベノムと入れ替わりでハンターとなった。アデンの部隊は1961年にアブドルカリーム・カーシム政権のイラクがクウェートへ侵攻する意思を見せたことからクウェートに派遣された。仮にイラクが実際に侵攻を行った場合、イラク軍のハンターとの戦闘が起こり得たが、侵攻は実際には行われず、戦闘は発生しなかった。1962年からアデン保護領においては、北イエメンとの国境地帯において北イエメンによる地元部族への反乱工作が行われ、また北イエメン機による領空侵犯もたびたびあった。続く1963年~1964年にかけて部族による反乱や北イエメンからの越境攻撃があり、ハンターはこれを鎮圧すべく対地攻撃に出撃し、ロケット弾と機関砲による地上攻撃を行った。また、やはりシンガポールに配備されていたハンターの部隊は、1962年から1966年にかけて起こったマレーシアとインドネシアとの対立においてボルネオ島に進出し、哨戒を行い、回数は少なかったがインドネシアからの空挺兵侵入が起こった際には地上攻撃に出撃した。
インド空軍のハンターは、パキスタンとの間に起こった印パ戦争(第二次及び第三次)においてパキスタン軍機との間で激しい戦闘を行い、戦果も上げたが損害も大きかった。
1973年にはイラク空軍が第四次中東戦争に派遣し、イスラエル空軍機と対峙した。
このほか、スウェーデン、スイス、ペルー、シンガポール、レバノン、オマーン、クウェート、ローデシア(後のジンバブエ)、ソマリア、ケニア、チリ等多くの国で使用された。
主翼を改良しリヒート付きエイヴォンを搭載した超音速型ハンターのホーカー P.1083も計画されたが、試作機を製作中の段階で、より高速を目指すP1(後のイングリッシュ・エレクトリック ライトニング)の計画が存在したため、予算の制約からホーカー P.1083の開発は1953年6月に中止されてしまった。その後ハンターには空対空ミサイルの装備がテストされたがイギリスでは採用されず、一部の海外輸出国が運用したのみに留まった。
その頑丈さから、現在でも民間に払い下げられた機体が多数飛行可能状態にある。アメリカ軍の訓練支援飛行等を行う民間軍事会社ATACは、スイス軍で使用されていたF.58を電子戦環境や艦艇へのミサイル攻撃を演出する仮想敵機として使用しており、日本国内のアメリカ軍基地にも度々飛来している。
耐空証明を取得すれば民間企業や個人が運用することも可能であるため、軍の払い下げ機が流通している。
出典: The Great Book of Fighters
諸元
性能
武装
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