日本の百貨店(にっぽんのひゃっかてん)では、「一つの事業者が複数の分野にわたる多種類の商品を一つの店舗で扱う大規模な小売店舗で、セルフサービス方式の売り場が50 %以下のもの」を指し、英語の department store、フランス語の grand magasin、ドイツ語の Warenhaus がこれに相当する。
勧工場は、百貨店が誕生する前に陳列販売の形態をとる店舗としての先駆けとなった。勧工場は、1878(明治11)年、第一回内国勧業博覧会の展示品を陳列販売することと、東京府下の職工保護と殖産興業を目的として、東京・辰ノ口に設置された。勧工場は、通路を設けた室内の空間で正札がつけられた商品を陳列販売する新しい店舗方式であった。勧工場では、入場料を取られず、購入をする、しないにかかわらず、人々が自由に商品を見ることができた。勧工場はその後、繁華街を中心に増加し、明治30年代に全盛期を迎えた。
合名会社三井呉服店(現在の三越)が1904年(明治37年)12月20日前後に顧客や取引先に三井・三越の連名であいさつ状を発送。株式会社三越呉服店を設立し三井呉服店の営業をすべて引き継いだことを案内するとともに、今後の方針として「当店販売の商品は今後一層その種類を増加し、およそ衣服装飾に関する品目は 一棟御用弁相成り候 設備致し、結局 米国に行はるるデパートメント、ストアの一部を実現致すべく候」とし、1905年(明治38年)元旦には全国主要新聞に全面広告を掲載した。のちに「デパートメントストア宣言」と呼ばれ、日本における百貨店の始まりとするのが一般的である。
しかし、実際の動きはもう少し早く始まっており、百貨店の特質のひとつである「陳列式」で見ると1895年(明治28年)11月に三井呉服店の土蔵造り2階の大広間を打ち抜き「陳列場」として「座売り」を廃止したのを皮切りに、翌年の1896年(明治29年)には髙島屋の京都南店で「陳列式」のひとつでもあるショーウィンドウを設置している。さらに1900年(明治33年)10月に三井呉服店が「座売り」を全廃し全館を「陳列場」へ切り替え開場している。1903年(明治36年)には白木屋も和洋折衷の3階建ての洋館を建設し「座売り」の廃止と「陳列式」への全面的な切り替えを行うと同時にショーウィンドウや食堂を設置している。
三越呉服店による「デパートメントストア宣言」の後には、松坂屋の前身の「いとう呉服店」も1905年(明治38年)に名古屋店で「座売り」の廃止と「陳列式」への切り替え、1907年(明治40年)4月1日には東京の上野店でも「座売り」の廃止と「陳列式」への全面的な切り替えを行うと同時にショーウィンドウの導入、そして雑貨、家庭用品などへの品揃えの拡充など百貨店化を進めたほか、同年には高島屋も大阪店を洋風2階建に改装して「陳列式」を一部導入するなど、百貨店化への動きは各地で行われている。
呉服店の改装に留まらない近代的な洋館を建設して本格的な百貨店を開設する動きとしては、1903年(明治36年)の白木屋が和洋折衷でショーウィンドウや食堂のある店舗を造ったのをはじめ、1907年(明治40年)に松屋が神田今川橋に洋風3階建ての店舗を建設。1908年(明治41年)4月には三越が6年後に完成予定の本格的な近代百貨店へと建て替えるため、日本橋の本店横に38メートルにも及ぶショーウィンドウなど豪華な装飾を施した木造3階建ての仮店舗をオープンさせる。松坂屋は1910年(明治43年)3月、鈴木禎次設計で名古屋に屋上にドームを持つ3階建てルネサンス風の洋館にホール・食堂などの最新設備を備えた百貨店を開業。1912年(明治45年)に大丸京都店が鉄筋木造3階建の建物で百貨店化し開業。
1914年(大正3年)になると三越呉服店でルネサンス様式の新館が落成。鉄筋地上5階・地下1階建てで「スエズ運河以東最大の建築」と称され、建築史上に残る傑作といわれた。日本初のエスカレーターとエレベーター、スプリンクラー、全館暖房などの最新設備が備えられた。屋上庭園、茶室、音楽堂などもあり、正面玄関にはロンドンのトラファルガー広場にあるホレーショ・ネルソン提督像を囲むライオン像がモデルの「ライオン像」を設置。三越がハロッズから学んで豪華な建築にしたのは、ハロッズの責任者が「わびしい店に客が来ると思いますか。店内を豪華にし、客を豊かな気分にさせることに使う資金こそ、生きた資本です」と日比翁助に述べたからとされる。そして1916年(大正5年)の札幌の今井百貨店(現・丸井今井)や鹿児島の山形屋の百貨店開店など明治末から大正にかけて、日本全国各地で呉服店などを前身に持つ百貨店の開店がみられた。
その後、各百貨店が競って豪華で近代的な建物を使用して人目を引いて集客を図り、江戸時代からの呉服に加えて海外から美術工芸品や輸入した舶来品なども扱ったため高級感を持たれ、よそゆきの着物を着てお洒落をしてショッピングを楽しむ「格式の高い場所」となっていく。
しかし京都帝大法学部(現・京都大学法学部)教授の戸田海市や、東京帝大法学部(現・東京大学法学部)教授の河津、桑谷克堂らが述べているように、百貨店は「よそよりも一銭でも高いものがあればお知らせ下さい。粗品を差し上げます。」という新聞広告を打った大丸が掲げた「どこよりも良い品をどこよりも安く」に代表されるように、比較的安く売ることにより大量販売するもので、大規模な店舗で幅広い商品を扱い、いわゆるワンストップショッピングを可能としていたこともあり、比較的低価格な美術工芸品の販売が行われたことや購入品を無料で配送したこと、定価(正札)で現金販売であることなどと合わせ、中流階級以下の庶民に広く受け入れられ、急速に売上を伸ばすことに成功した。
1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけての1年間の東京市内における売上で見ると、6万の小売業者のうち18しかない百貨店が織物被服類の売上総額の69 %、小間物用品類では59 %を百貨店が占めるほど急速に売上が伸びたため、大正時代後期になると中小小売業から営業規制を求める声が上がり、1938年(昭和13年)12月に最初の百貨店法が制定されることとなったが、太平洋戦争開戦により百貨店が立ち行かなくなり有名無実化し、GHQの意向もあって1947年(昭和22年)に廃止された。
1920年11月1日に白木屋が阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)梅田駅構内の旧阪急ビルディング(5階建て)の1階に出張売店として出店し、世界初のターミナルデパートとなった。1926年9月16日に大阪電気軌道(大軌、のちの近畿日本鉄道〈近鉄〉)上本町駅構内の大軌ビルディングの地下1階から地上3階に「三笠屋百貨店」の開設で本格的な売場面積を持つターミナルデパートが誕生した。梅田駅の白木屋は1階のみの小規模な店舗だったため、売り場も広く品揃えも幅広かった三笠屋百貨店を最初のターミナルデパートとする見方もある。
その後、1925年に白木屋との賃貸契約満了に伴う閉鎖後に開店した阪急電鉄直営の阪急マーケットが、1929年4月に阪急百貨店となった。これは阪急電鉄の創業者の小林一三による考えで、鉄道会社自らが都心への移動需要を創出することで、鉄道事業との相乗効果を狙った。これにより呉服店系と並び日本の百貨店の2大潮流のひとつとなる電鉄系百貨店が誕生した。1935年に大阪電気軌道が三笠屋百貨店との契約を解除して大軌百貨店(現・近鉄百貨店上本町店)を開業して直営化し、これに続いた。
こうしたターミナルデパートの成功を受けて、鉄道事業者(特に大都市圏の大手私鉄)が起点となる都市部のターミナル駅に系列百貨店を設立し、あるいは既存百貨店と提携して、店舗を併設する動きが急速に進んだ。前者は1934年11月1日に渋谷駅東口に出店した東横百貨店(のちの東急百貨店東横店、2020年3月末で閉店)や1937年11月に阿倍野橋駅(現・大阪阿部野橋駅、あべのハルカス)に出店した大鉄百貨店(現・近鉄百貨店あべのハルカス近鉄本店)などであり、後者は東京初のターミナルデパートである京王新宿ビルディング(旧・新宿追分駅ビル)、1932年7月15日の南海・髙島屋(難波駅ビル、南海ビルディング)、1931年11月1日の東武・松屋(東武浅草駅ビル、現:浅草エキミセ)などが代表的なものである。
阪急百貨店は最上階に豪華な食堂を置き、ライスカレーやランチが名物になるなど、のちに各地の百貨店に広まった「デパート大食堂」のはしりとなる。浅草駅の松屋屋上にオープンした屋上遊園地もその後各地に広がるなど、電鉄系デパートが生んだ新たなサービスは、呉服店系の百貨店にも取り入れられることになった。
新宿駅東口(新宿三丁目)に位置している京王新宿ビルディングには、1927年に2階から5階まで 「武蔵屋呉服店」が入居。1929年以降は「新宿松屋」(銀座松屋とは無関係)を経て「東横百貨店新宿店」などと変遷した。1945年の京王線の国鉄新宿駅西側への乗り入れにより、駅ビルとしての役目を終えて京王帝都電鉄(現・京王電鉄)本社となった。現在は建て替えにより京王新宿追分ビルとなり、「新宿マルイ アネックス」が入居する。なお、京王電鉄自体が京王百貨店として百貨店経営に乗り出すのは戦後の1964年になってからである。
大手私鉄による百貨店事業への進出は1960年代まで続けられ、大手私鉄のほとんどは系列に百貨店を持つようになった。一方、京阪百貨店は1983年、京急百貨店は1996年開業と他社に比べて遅れることとなり、これら2社は自社の沿線郊外に店舗展開を行い、都心の大型店を持たない。この当時大手私鉄とされていた14社のうち、南海電気鉄道(南海電鉄)と西日本鉄道(西鉄)以外のすべてが私鉄名を冠する系列百貨店を有していた。南海電鉄は髙島屋との提携関係である。西鉄は西鉄ストアでスーパーマーケット事業を行っているが、西鉄百貨店は存在せず、西鉄福岡(天神)駅の駅ビル(現・ソラリアターミナルビル)にはテナントとして岩田屋三越の福岡三越が入居している(かつては岩田屋がターミナルデパートとして駅と直結していた)。ただし北九州市で百貨店を経営する井筒屋はかつては西鉄グループであり、現在でも9.2 %の株式を保有する筆頭株主である。
現在はこれらに加え、西武鉄道(1971年に西武鉄道グループと西武流通グループ〈のちのセゾングループ〉が分裂、その後セゾングループは解体)、相模鉄道(1990年に大手私鉄へ昇格)、東京メトロ(2004年に帝都高速度交通営団が民営化)も傘下に百貨店を有していない。相鉄ホールディングスは高島屋の株式を1.37 %保有しており、横浜駅ビル「相鉄ジョイナス」の核店舗として横浜高島屋が出店するなど関係が深い(相鉄が展開するスーパーマーケットの「そうてつローゼン」のローゼンとは髙島屋のシンボルであるバラのドイツ語読みに由来している)。
1987年に日本国有鉄道(国鉄)から分割民営化したJR各社も自社で独自に百貨店の経営には乗り出すまでは至らないものの、大手私鉄と同様に大手百貨店との提携や自社のターミナル駅の再開発に伴い、核テナントとして誘致している(JR博多シティの博多阪急やJRタワーの大丸札幌店など)。JR西日本は伊勢丹と提携してジェイアール西日本伊勢丹を、JR東日本は阪急百貨店と提携してグランデュオ(現在のグランデュオ立川)を、JR東海は髙島屋と提携してジェイアール名古屋タカシマヤをそれぞれ設立している。特に、ジェイアール名古屋タカシマヤは名古屋駅直結(JRセントラルタワーズ)という好立地から地元の松坂屋を抜いて地域1番店となり、店舗別売上高においては国内4位となるまで成長した。
アメリカなどで急速に発達したチェーンストアの概念が「連鎖店」として輸入され、高島屋が経営する1931年(昭和6年)に高島屋十銭ストアが登場し始めると、広い地域に出店して多数の店から商品を売りさばけるこれらの店との相違点が意識されるようになり、正札(価格表示)販売と現金主義はもはや百貨店を定義するものではなくなった。
アメリカではチェーンストアなどとの競合で、1937年(昭和12年)当時すでに百貨店が食品の取り扱いからほぼ撤退に追い込まれていたため「百貨店の強敵は連鎖店 米国における最近の傾向」との報道がなされるなど、大量販売による低価格も百貨店だけではなくなるどころか、品目を絞って多店舗で販売するチェーンストアに敵わず、チェーンストアが厳しい競争相手になるとの見方が急速に広まったが、戦時体制への突入でチェーンストアの多くが姿を消したため、この課題は戦後のスーパーマーケットの登場まで大きな問題とならなかった。
戦時中の経営統合や空襲での焼失、戦後のGHQによるPXとしての接収などの結果、1938年(昭和13年)に全国で206店舗ほどあった百貨店は、1945年(昭和20年)- 1948年(昭和23年)には119店舗にまで減少していた。1947年(昭和22年)に百貨店法がGHQの意向もあって廃止されたあとは各地で出店が相次ぎ、1954年(昭和29年)には売場面積が1938年(昭和13年)の水準を超え、1955年(昭和30年)には158店舗に達した。
こうした急速な店舗拡張に伴い、中小小売業者から百貨店法の復活が要求された結果、1956年(昭和31年)に百貨店法(昭和31年法律第116号)が成立し、再び出店規制が行われるようになったが、1960年(昭和35年)には310店舗で約152万平方メートル、1966年(昭和41年)には364店舗で約225万平方メートル、1971年(昭和46年)には477店舗で385万平方メートルと、その後も急速に出店や店舗拡大が進んだ。
戦後は戦前からの旧富裕階級が没落したことや、店舗拡大が進んだこともあって一般大衆の顧客化も一段と進み、衣料品や雑貨など日用品を大幅に値引きした特売価格で販売する「特売場」を上層階に設けて一般大衆を引きつけた。こうして百貨店は高級品から一般大衆向けの商品まで幅広く扱う小売業の頂点として君臨し、大食堂や大型遊具まで備えた、家族連れで楽しめるレジャーランド的な場としても親しまれた。
しかし1955年(昭和30年)ごろのスーパーマーケットの登場は、百貨店を大きく変質させることになる。1953年(昭和28年)に東京の紀ノ国屋が初めて導入したセルフサービス式の売場を主体するスーパーマーケットは、1956年(昭和31年)に小倉の丸和フードセンター(現・丸和)が大規模店舗でのセルフサービス低価格販売を開始するなど急速に拡大し、1972年(昭和47年)にはダイエーが三越を上回って小売業第一位になるなど、百貨店を取り巻く環境は大きく変化した。
セルフサービス式の売場は、1962年(昭和37年)9月に西武百貨店(池袋店)、10月に近鉄百貨店と大丸(大阪心斎橋店)が導入したものの、SSDDS(セルフ・サービス・ディスカウント・デパートメント・ストア)は百貨店ではないとして、百貨店では主力の販売手法としては導入されなかった。スーパーマーケットの登場で、大規模店舗で大量販売による低価格という強みを失うことになった百貨店は、店員が対応する対面販売をスーパーにはまねのできない強みととらえるようになり、「値段で売る時代から品質の時代に移り変わりつつある」として品質強化をうたい文句に高価格商品へ主力を移す傾向が現れるなど、百貨店は変貌していくことになった。
こうした環境の変化を受け、地方百貨店の中には大手百貨店の傘下に入って資本力と信用を強化し、高価格化路線への対応する動きが表れる一方、従来からの価格競争路線を維持するため、自らスーパーマーケットに業態転換したり、大手スーパーの傘下に入ったりするものなどが表れ、独立系の地方百貨店は急速に減少していくことになった。
百貨店の高価格化路線はイメージ的にも定着し、「ハイエンド商品を扱う」「最高のサービスを提供する」存在と見られるようになったため、誰もがいわゆる高級ブランド品の買い物を楽しんだバブル時代には経済的に大いに潤い、1991年(平成3年)に総売上高はピークの9.7兆円に達した。そうした活況を受けて、催事場での美術展開催から館内に美術館を開設して展覧会を専門に行ったり、積極的に地方都市や海外に出店したりと多くの分野で活発な設備拡充が行われた。
しかし1990年代にバブル崩壊が起き平成不況となると、モータリゼーションの進展に伴い、新規開業店舗の60 %強が郊外地域に立地するほど増加した郊外型ショッピングセンターや、ロードサイドショップの台頭とも時期が重なったこともあり、特にその傾向が強い地方都市では無理な増床や改装のツケが祟った丸正(和歌山市)や松菱(浜松市)、逆に十分な拡張や改装ができず施設の老朽化、商品拡充ができなかった上野百貨店(宇都宮市)や松木屋(青森市)など、名門地元百貨店が相次いで破産するなど店舗閉鎖が相次いだ。新興のショッピングモールに対して百貨店は店舗が狭苦しく、拡張しても動線が狂いやすかった。またかつて百貨店と対峙したダイエーも同時期に衰退していった。
大都市圏の店舗においても、施設の老朽化と商品拡充に問題のあった東急百貨店日本橋店(旧・白木屋)の閉店、無理な増床や出店を続けたそごうの経営破綻などが起きたほか、赤字の増加により百貨店美術館の閉館、店舗の統廃合や採算性の低い店舗の閉店が立て続けに起こり、最後の華と「さよならフェア」などと題した閉店特売を行ったニュースが相次いだ。
2000年代に入っても景気は回復せず、経営面では依然厳しい状況にあり、福田屋百貨店(FKD、宇都宮市)やトキハ(大分市)のように郊外のショッピングモールへの出店に活路を求めたり、一部大衆デパート(スーパーマーケット)化してしのいでいたりする百貨店も見られる。また1990年代後半より展開された、海外高級ブランド(ルイ・ヴィトン、ティファニー、カルティエなど)が銀座など都心部に開店した直営店や、地方都市に進出した外国資本の郊外型量販店・専門店(コストコ、トイザらスなど)に客を奪われる傾向も見られる。このため地方の百貨店でも、再建に向けてリストラや閉店による体制再構築が見られる。
さらに少子高齢化が見込まれる中、売り上げの鈍化に伴い、大手百貨店同士の経営統合や業務提携が進んだ。まず2003年、経営破綻から再生したそごうと、やはりバブル崩壊の影響による経営悪化からセゾングループが崩壊し経営再建を余儀なくされた西武百貨店が持株会社方式で経営統合し、ミレニアムリテイリンググループが発足した。さらに、ミレニアムリテイリングは2006年にコンビニエンスストア・総合スーパーを手がける流通大手セブン&アイ・ホールディングスの傘下となっている(2009年にはミレニアムリテイリング、そごう、西武百貨店と、もともとセブン&アイが手がけていたロビンソン百貨店が合併しそごう・西武となっている)。
当初、業務提携の中心は当初は2008年のエイチ・ツー・オー リテイリング(阪急阪神百貨店)と髙島屋のように電鉄系と非電鉄系の提携が有力であり、駅前の優良資産を生かしきれていない電鉄系と、駅前に注目する非電鉄系の思惑により進められてきた。しかし2007年には大丸と松坂屋(J.フロント リテイリング)、2008年には三越と伊勢丹(三越伊勢丹ホールディングス)など、非電鉄系で戦前からの「老舗」「名門」と呼ばれてきた百貨店同士の経営統合も行われるようになった。さらに地方都市を中心に店舗を閉店したり、中小規模の百貨店や郊外型百貨店を関連会社の専門店ビル化させる動きがあり、東京や大阪などの大都市中枢でも小規模な不採算店舗は閉店の動きが進んでいる。さらに百貨店の激戦区にユニクロやH&M、FOREVER21(2019年10月31日閉店)などの安価なファストファッション専門店、各種インターネットショッピングの普及により、わざわざ百貨店に行かなくても買えようになり、百貨店離れが加速した。その一方で集客力の高い主力店では増築を行いランドマークとして際立たせる「巨艦」化が行われており、構造の二極化が進んでいる。いわゆる「大阪2011年問題」はその顕著な例である。
2013年には百貨店での食品偽装問題が相次ぎ、日本百貨店協会に加盟する会社85社のうち、約6割の51社121店で食品の産地偽装などの虚偽表示が判明した。協会は再発防止のため、テナント業者に対して食品産地の証明書提出を求めることなどを加盟各社に要請した。しかし多くの百貨店が内部申告で問題を把握していながら当初発表を見送っていたことや、対応の遅れなども相まって、百貨店のブランドや信用を傷つけた。
2010年代後半、苦境が続く百貨店業界は大都市の基幹店舗を訪れる外国人観光客(インバウンド需要)を頼みの綱として依存するようになっていたが、地方百貨店はこの恩恵を受けにくく、さらに2020年代に入って新型コロナウイルスの世界的流行によって外国人観光客自体が一時消失した。
日本百貨店協会の2023年1月24日の発表によれば、加盟71社について2022年の売上高は、前年より13.1 %増の4兆9812億円で、コロナ禍前の2019年の約9割まで回復したが、緊急事態宣言による休業要請などもあって各社の業績悪化・閉店の動きはますます加速した。
こうした経緯もあり、「百貨店の無い都道府県」の更なる急増に拍車が掛かる事となる。
また東京都心部の本店格の店舗でも東急百貨店本店や小田急百貨店新宿店本館のように再開発による建替えを機に閉店し、建替え後に百貨店形態で再出店するかどうかは未定というケース、西武池袋本店のように百貨店区画を大幅に減らす可能性が指摘されるケースも出てきている。
三越、伊勢丹、松坂屋、そごうなど古くからの呉服屋が百貨店になったものが多いが(呉服系)、鉄道会社がターミナル駅の駅ビル内に系列の百貨店を作る場合もある(電鉄系)。大手私鉄を中心とした鉄道会社がターミナルデパートを経営する業態は阪急電鉄の創業者小林一三が創始した、日本特有の経営モデルである。大手私鉄16社のうち西武・東京地下鉄(東京メトロ)・相鉄・南海・西鉄以外の各社はグループ会社に百貨店を有しており(前述の5社のうち相鉄・南海は自社のターミナル駅に髙島屋を、西鉄はターミナル駅に岩田屋三越(福岡三越)を入居させている。西武は1971年の堤兄弟によるグループ分割で百貨店業がグループ外となった)。山陽電鉄・伊予鉄道のような準大手・中小私鉄でも百貨店を傘下に持っている鉄道会社があるほか(伊予鉄道はそごう、後に高島屋と提携)、JRグループの東日本・東海・西日本の3社もそれぞれ阪急百貨店・髙島屋・三越伊勢丹と提携して百貨店業へ参入している。また、信販会社・スーパーマーケット・家電量販店チェーンなどを持つ総合流通企業系列のものある。
バブル経済が崩壊した1990年代以降は流通業界全体で経営統合が繰り返されたため、歴史的な系列と資本的な系列が異なる場合がある(例:呉服系のそごうと電鉄系の西武百貨店(旧セゾングループ)が経営統合したそごう・西武)。業界再編が進んだ現在では、三越伊勢丹(三越伊勢丹HD)、大丸松坂屋(J.フロント リテイリング)、髙島屋、阪急阪神百貨店(H2Oリテイリング)、そごう・西武の5社が大手百貨店グループに数えられる(髙島屋のみ独立系)。
バブル崩壊以降の消費不況、イオンモールやららぽーとなどの郊外型の大型ショッピングセンターの増加とそれに伴う街の中心繁華街の地盤沈下などが響き、業界の売上高は1991年の9兆7000億円をピークに減少し、2010年代以降は約6兆円を推移している。そのため経営統合・共同配送・共同仕入れなどの効率化を行う企業が増加している。高級志向を強めたり、個性を出したり、集客力を持つテナントを誘致したり、開店時間を早めたり、閉店時間を遅らせたりといった工夫をしている店舗もある。また、百貨店内のテナント構成比率を上げて、小売業から安定的な収益が見込まれる不動産事業へシフトする傾向が業界全体として見られる。
また、経営不振のために郊外や地方都市を中心に閉鎖される店舗も増加しているが、都市の中心市街地に位置する基幹大型百貨店の閉鎖は周辺の商店街などにも大きなダメージを及ぼすとされている。これが原因でいわゆる「シャッター商店街」化するケースも少なくない。2024年現在、山形県、徳島県、島根県の各県は県内に百貨店が1店舗も存在しない百貨店空白県である。
1956年(昭和31年)制定の第二次百貨店法では、新規出店・増床・経営統合などが中小商業者の保護のため規制されていた。そのため、スーパーマーケットチェーンが、売り場を各系列企業のテナントが運営する形で規制を逃れ大規模な店舗面積で出店するケースが増えた。こうした店舗は「擬似百貨店」と呼ばれて問題視され、1974年(昭和49年)3月1日に第二次百貨店法を廃止し、大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律(大規模小売店舗法)が施行してそれらの大型店舗も規制の対象とするようになった。
これもデパートと呼ばれる場合もあり(その場合、あまり百貨店とは呼ばれない)、デパートとスーパーという用語の境界が不明確とされることもあるが、「セルフサービスを主力として採用しているものをスーパーマーケット、対面販売を主力としているものを百貨店とする」考え方が統計など行政側で採用されているほか、当事者の百貨店業界もそうとらえるのが一般的である。
2000年(平成12年)、中小商業者の保護など経済的規制を目的とした大規模小売店舗法を廃止し、交通渋滞・騒音・廃棄物処理など周辺環境を悪化させないための社会的規制を目的とした大規模小売店舗立地法が施行された。
百貨店は大きく分けて、政令指定都市・県庁所在地への出店を中心とした「都市型」と、地方への出店を中心とした「郊外型」に二分されるが、主流なのは前者の「都市型」である。
都市型百貨店は呉服店をルーツとする店が多く、古くは都市の中心部の繁華街、商店街の核として立地することが多かった。この立地形態の代表的な店舗としては日本橋、銀座(東京)、栄(名古屋)、心斎橋(大阪)の各百貨店などが挙げられる。
一方、阪急百貨店(1929年(昭和4年)4月開店、梅田駅、現・阪急うめだ本店)の成功を皮切りに拠点駅の建物に百貨店を併設する、あるいは駅の近隣に建設することで高い集客力を見込める、いわばターミナル立地型の百貨店が増加した。代表的なものとしては、阪急百貨店に習ったとされる東横百貨店(1934年(昭和9年)11月1日開店、渋谷駅、現・東急百貨店東横店)、武蔵野百貨店(現・西武池袋本店)および、東横百貨店池袋店(現・東武百貨店池袋店、池袋駅)、大鉄百貨店(1937年開店、大阪阿部野橋駅、現・あべのハルカス近鉄本店)など電鉄系に多く見られる。さらに、髙島屋の大阪店(難波駅(南海))や横浜店(相鉄横浜駅)のように呉服屋系の大手百貨店が駅ビル内に入居したり、ジェイアール京都伊勢丹(京都駅)、ジェイアール名古屋タカシマヤ(名古屋駅、JRセントラルタワーズ)などJRが呉服屋系の大手百貨店と共同出資するケースも増えた。また、百貨店は駅前や都市中心部の再活性化のための都市再開発事業に核店舗として参加を要請されることがあるが、出店取りやめによる再開発事業の中断のような事態が発生するリスクもあるため、再開発事業者側が撤退を容易に認められない傾向にあり、不採算を覚悟で出店する羽目になる危険もある。
一方、郊外型では、高島屋玉川店や東急百貨店たまプラーザ店など所得層が比較的高い新興住宅地や、人口があまり多くない地方に在住する新規顧客を見込んで立地するほか、西武岡崎店(イオンモール岡崎内)など、大規模な駐車場を用意したショッピングセンターに出店することもケースもあるが、中三秋田店(イオン秋田ショッピングセンター)や武蔵村山三越(イオンモールむさし村山)、船橋そごう(ららぽーとTOKYO-BAY)、名取三越(イオンモール名取)、堺 北花田阪急(イオンモール堺北花田内)のように売り上げ不振で撤退することも少なくない。そこでは、他のテナントと共同の催事を行うこともある。しかし、昨今の消費低迷などから専門店ビルに鞍替えするケースも見られる。この「郊外型」については、2011年以降閉店が相次ぐ見込みで、生き残りが厳しくなっているという指摘がある。一方で、京王百貨店のららぽーと新三郷店やそごう・西武の西武ショップ武蔵小杉などのように、小型店をショッピングセンター内に出店する動きもみられる。
また、近年では地方でモータリゼーション(自家用車の普及)が進み、GMSによる郊外型ショッピングセンターとの競合に対抗するため、宇都宮の福田屋百貨店の福田屋ショッピングプラザ宇都宮店やFKDショッピングモール宇都宮インターパーク店、松本の井上百貨店のアイシティ21、大分のトキハのトキハわさだタウンのように、地方の百貨店が自ら郊外型ショッピングセンターを開設して進出する例も見られる。
百貨店は各の社風や体制などによって外商などを主として法人、富裕層をメインに顧客を開拓していったり、また「庶民派」として中堅層を相手に店売りを主として行ったり、地域密着を強調したりするなど、個性の違いが反映される。代表的な例では、法人および一般向け外商が過半数を占めると言われ、長年の格式を重んじる日本橋三越本店と、もともと庶民派として親しまれていた伊勢丹新宿本店の対比がある。他に、京阪百貨店は創業当初「奥様百貨店」というコンセプトを打ち出していたことがあり、従来の百貨店につきまとっていた入りにくさを取り払うことで、まんべんなく顧客を開拓し、成功を収めている。地域密着の例では、たとえばかつて存在した東北地盤の百貨店「中合」は、同業他社と何度も統合したが、店舗ブランドは中合に統合せず統合前からある店舗ブランドを引き続き使用し長年親しんでいる地元に配慮することで、地元住民の歓心を買っていた。電鉄系百貨店の出資・経営統合を受けた白木屋デパートは東急百貨店、丸物(京都、岐阜)は近鉄百貨店、そごう神戸店は阪急百貨店にブランドを変えているが、いずれも地元の老舗としての歴史があるため、一定期間、旧来の屋号で営業し、旧来の顧客や従業員の離反を抑えている。
また、年齢層による客層の絞り込みも重要な点であり、どの世代を主体としていくかで大きく店舗の性格が変わっていく。そして、この判断を見誤った店舗が不採算に陥り閉店に追い込まれたりするほど経営戦略の中できわめて大きな要素となっている。その基準となるのは買い廻りが多い女性客であり、マチュア、マダム、ミセス層に重視すると一人あたりの購入金額は多くなり採算性は上昇する一方で、話題性、集客力は下がり、逆にティーン、ヤング、ミドル層といった若年層を重視すると話題性、集客力は上がるが購入金額が低くなり採算性は下がるため、そのバランスを取るのは難しい。なお、男性客は現在でもさほど重視されていない(伊勢丹メンズ館の成功などはあるが、依然として百貨店売上に対するウェートは断然低く、戦略を左右するほどの事象ではない)。一方で、百貨店に関心を持たないファミリー層の男性客を囲い込もうと、百貨店の近隣に大型家電量販店などが進出するケースがある。
デパートのフロア構成・レイアウトは地域や店舗によって異なるが、昭和期のデパート文化普及の過程の中で、一定程度平均化されたレイアウト手法が確立した。下記に標準的な構成を挙げる。
日本では食料品関連の売場がデパートの地下に設けられることが多いことから、百貨店の食品売り場のことをデパートの地下を略してこう呼ばれるようになった。
野菜や肉・魚介類・加工食品など通常のスーパーなどでも扱われものもあるが、有名な料亭やレストランがその料理を惣菜や弁当などの形で販売したり、有名な菓子店のケーキや和菓子、地元の銘菓などが各々の店ごとに多数並ぶほか、輸入食品も扱うなど食品全般に渡って幅広い品揃えをしているのが特徴である。
また、地方の繁華街にある百貨店など、観光客が来店することの多い百貨店では、地元の食品などの銘菓や銘酒などを土産物コーナーとして名所にする例がある。地元の地産地消、地元名物をそろえることで拠点としての存在として重要である。
1936年(昭和11年)に松坂屋が名古屋店に名店街を作り、商品のみを卸売りしたがらない有名菓子店などを出店させることに成功したことで、こうした売場構成が可能になり、現在ではデパートの代表的な売場のひとつとなっている。
屋上 | ビアガーデン |
---|---|
7階 | レストラン、催事場 |
6階 | 子供服、玩具、スポーツ用品、文具 |
5階 | 家庭用品、日用雑貨、呉服、宝飾品、時計、寝具 |
4階 | 紳士服、喫茶室 |
3階 | 婦人服 |
2階 | 婦人服、高級ブティック |
1階 | 化粧品、バッグ、婦人靴 |
地下1階 | 食料品 |
地下2階 | 美術画廊 |
百貨店の外商(がいしょう)とは、法人や多額の購買が見込める有力な個人客を対象に店舗外で直接顧客宅を訪問して商品を販売する事業部門で、当然「陳列式」ではなく、「正札」価格より値引きを行い、現金ではなくツケ払いであるなど百貨店の定義と矛盾する点が多くあるが、「現金掛値なしの呉服店」のほとんどが「固定客に対しての掛売り」を当然のように行っていた伝統があり、それが番頭制度(またはお帳場制度)とともに引き継がれたもので、呉服店系の百貨店では初期から当然のように存在していたサービスであり、部門である。
売上拡大に直接役立つだけでなく、大切な固定客を大事にするサービスとしての意義が大きいとされるほか、百貨店法の成立以降、店舗の出店や拡張に制約が生じた百貨店にとって店外で売上高を伸ばせることはむしろ大きなメリットであり、スーパーマーケットとの棲み分けから進められた高級化路線のターゲットとしてぴったりな高額の購入が期待出来る外商顧客の性格も相まって、外商部門は強化されるようになったケースが多い。
クレジットカードが普及したため、近年は外商の顧客には、その百貨店でだけ優待価格で決済できる、外商カードと呼ばれるクレジットカードが付与されることが多い。
百貨店外商の顧客であることを「外商である」(例:うちは○○百貨店の外商でして)と表現することがある。
多くの百貨店で行われており、店舗販売とともに重要なもので、遠方の顧客のために店舗とは別の場所に(住宅地など郊外に所在することもある)「ギフトショップ」のような名称で外商の拠点(ほとんどは小型の事務所のような感じ)を持っていることも多い。三越伊勢丹の「丹青会」やそごう・西武の「高輪会」のように外商顧客向けの特別な催事を開催する百貨店もある。
外商部門の販売品目としては、一般法人に対してはギフト品、販売促進用の物品(ノベルティ)、制服・制帽、店舗やホテルの食器などの備品や客室などの内装デザインが多く、個人に対してはギフト品・高級ブランド品・高級食材などである。
また、一般顧客向けに百貨店のブランドイメージを生かした通信販売を行っていることも多い。特にギフトシーズンになると、コンビニエンスストアにギフトカタログが置かれ、商品の注文を受ける場合もある(ファミリーマートでの三越ギフト、デイリーヤマザキでの松坂屋のギフトの取り扱いなど)。
外商と同じく顧客を優遇し、固定客としていくものとして導入されている制度で、一般的に毎月一定額を1年間積立、満期になるとそれを商品券などとして顧客に戻し、自店で購入してもらう仕組みである。
1925年(大正14年)に鹿児島市の山形屋がお得意様の要望ではじめた「山形屋七草会」がその最初のもので、1951年(昭和26年)に佐世保玉屋、鹿児島丸屋、1953年(昭和28年)に岩田屋や井筒屋でも導入されるなど九州地方で早くから普及が進み、1953年(昭和28年)の阪急百貨店、1964年(昭和39年)の京王百貨店などと全国的に広まることになった。
1972年(昭和47年)に割賦販売法が改正され、友の会の運営は、前払式特定取引業として規制対象となり、資金の別管理が要求されたため、友の会を別会社として設立して営業を継承し、現在に至っている。
そごう・西武のように、友の会を廃止している百貨店もある。
百貨店が誕生した当時は欧米などと同じく、現金販売による資金回収の速さと大量販売・大量仕入による低価格戦略を採っていたため、「買い取り仕入れ」と呼ばれる完全に買い取り、売れ残っても返品しない仕入形態を採るのが普通であった。
下表のとおり1958年(昭和33年)にはまだ70 %近くを買い取り仕入れで行っており、在庫リスクを自社で背負いながらも高い粗利益率を確保する欧米と同様の営業形態が残っていたが、1987年(昭和62年)には逆に一時的に買い取りはするが、商品が売れ残ると返品できる「委託仕入れ」が約3分の2を占め比率が完全に逆転し、「買い取り仕入れ」は約20 %にまで減少している。そして現在では推計が正しければ売れた時点で仕入れとみなす売り上げ仕入れ(消化仕入)と、一段と百貨店側のリスクも関与も少ない仕入形態の比率を高めており、幅広くきめ細かな品揃えを可能にしてきたが、アメリカの百貨店の最終粗利益率は40 %に対して、日本の百貨店は26 %程度ときわめて低収益で、売り方や価格設定などの自主性もほとんどなくしてしまったとの厳しい評価がされることも多い。
しかし、こうした批判に対して大丸や松坂屋を傘下に持つJ.フロント リテイリングのCEO奥田務はむしろ日本特有のユニークな制度として強みとしてとらえ、「買い取り仕入れ」による「自主運営売場」と「売り上げ仕入れ」による「ショップ運営売場」を混同して各々に合わせた管理・運営を行ってこなかったために高コストになり、その結果として「粗利益率は低いが顧客が求める新鮮な商品やショップを導入できなかった」ことにより「顧客の求める商品やブランドが百貨店に少なくなり、お客様が離れる」という悪循環に陥ったことこそが問題だとしている。
全売上の80 %を占める売り上げ仕入れ中心の「ショップ運営売場」を最終粗利益率は低いものの、低経費で高収益な売場であるとして、運営方法の見直しによる低コスト化を推進することで「粗利益率や既存の取引先にこだわりすぎずに新たなショップやブランド導入」を進めて魅力的な売り場作りを行うことが重要だと反論しており、専門家と実際の経営を行う経営者との間で見解の相異があることが浮き彫りになっている。
なお、2021年4月1日以降に開始する事業年度から強制適用される企業会計基準第29号「収益認識に関する会計基準」では、消化仕入は「本人取引」ではなく「代理人取引」とみなされるため、売上から仕入を差し引いた純額のみを売上高とする必要があり、利益は変わらないものの売上高は大きく下がる可能性がある。
仕入形態 | 1958年 | 1987年 | 現在(推定) |
---|---|---|---|
買い取り仕入れ | 69.1 % | 21.0 % | 10.0 % |
委託仕入れ | 23.6 % | 66.4 % | 40.0 % |
売上げ仕入れ(消化仕入) | 7.3 % | 12.6 % | 50.0 % |
[1] 以下 現在。(SC)印=ショッピングセンター協会にも加盟。
地区区分は日本百貨店協会公式サイト「地区区分」に準じる。
経営母体が仕入を行って売場を運営せず、各店舗に完全に売場運営を委ね、売上が法律上も入居している各店舗で計上し、各々が個別に直接小売事業を行う業態を「寄合百貨店」や「ファッションビル」と呼ぶ。
かつては中小の小売業者が集まって1つのビルに入居し、各々が独自に店舗を運営しながら全体としては「百貨店」のような多品種を扱う形態が多かったため、「寄合百貨店」と呼ばれることが多く、現在でも経済産業省や市町村などの行政機関では個別に経営する店舗が集まって形成されるこうした大型店を「寄合百貨店」として統計などを採っていることが多い。
パルコやルミネ、ラフォーレ原宿、メルサに代表されるような大手企業が全体を統括し、全体の店舗構成やイメージコントロールを行いながら運営するケースが多くなり、ファッション関連のテナントが多かったことから、「ファッションビル」という呼び方がされる。
ファッション関連以外の専門店中心のビルの場合などには「専門店ビル」と称する場合もある。
近年は百貨店もインショップと呼ばれるアパレル業者(卸売業者)が自社のブランドで運営し、売上が上がった段階で仕入を起こす売上仕入のスタイルを採る売り場も多く、この部分が専門店に見えるため、専門店ビルと百貨店ビルの違いが素人目には分かりにくくなってきている。
全体を単独の企業が運営して特定分野の商品だけを扱う店舗は大規模であっても専門店とされる。
三越伊勢丹、大丸松坂屋百貨店、そごう・西武、髙島屋、阪急阪神百貨店、東急百貨店、近鉄百貨店およびその名前を社名に含む系列店については、各社の記事を参照。
地区区分は日本百貨店協会公式サイト「地区区分」に準じる。
この記事には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
南樺太
台湾
朝鮮・関東州
前述の通り、近年の消費構造大変革により、規模の大小・地域を問わず、百貨店業界は厳しい状況が続いている。このため大都市圏も含めて、主要都市であっても百貨店が姿を消す事例が珍しくなくなってきた。以下、百貨店協会加盟の百貨店が姿を消した主要都市を日本百貨店協会の地区分会ブロックごとに挙げる。
2019年までは全都道府県に百貨店が存在したが、2020年1月27日に山形県山形市で営業していた大沼が破産したことにより、山形県が全国で初めて百貨店協会加盟の百貨店が消滅した県となった。2021年7月には非加盟の百貨店マリーン5清水屋も自己破産することとなり、山形県内には県外百貨店のサテライトショップを残すのみとなった)。 2020年8月31日には徳島県徳島市のそごう徳島店が閉店し、徳島県は山形県に続いて全国で2番目に百貨店協会加盟店が存在しない県となった(非加盟店を含めた百貨店そのものの消滅は全国初)。なお、2022年にそごう徳島が入居していたアミコビル2階に三越徳島がオープンしたが、高松三越のサテライトショップという扱いのため、百貨店には含まれない(三越徳島としても百貨店協会に加盟していない)。2024年1月14日には島根県松江市の一畑百貨店松江店が閉店し、島根県は山形県・徳島県に続いて全国で3番目に百貨店協会加盟店が存在しない県となった。
2020年8月31日に滋賀県大津市の西武大津店と福島県福島市の中合が閉店した。これにより滋賀県・福島県は県庁所在地から百貨店が消え、滋賀県は草津市の近鉄百貨店が、福島県は郡山市のうすい百貨店が唯一の百貨店となっている。
政令指定都市では、2015年5月にさいか屋川崎店が閉店したため、川崎市が初めて該当している。そごう・西武の加盟店舗がのちに誕生したが、ショッピングセンター内の小型店舗(ギフトショップクラス)であり一般的な百貨店ではない。2019年には伊勢丹相模原店閉店により、相模原市からも消滅した。
地区区分は日本百貨店協会公式サイト「地区区分」に準じる。
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