麻生 太郎(あそう たろう、1940年〈昭和15年〉9月20日 - )は、日本の政治家、実業家、元射撃選手。自由民主党所属の衆議院議員(14期)、自由民主党副総裁(第17代)、志公会会長、自民党たばこ議員連盟顧問、中曽根康弘世界平和研究所会長、全国経理教育協会会長。
内閣総理大臣(第92代)、副総理兼財務大臣(第17・18・19・20代)、内閣府特命担当大臣(金融)(第2次安倍内閣 - 菅義偉内閣)、デフレ脱却担当大臣(第2次安倍内閣 - 菅義偉内閣)、外務大臣(第132・133代)、総務大臣(第3・4・5代)、国民スポーツ担当大臣(第2次小泉改造内閣・第3次小泉内閣)、情報通信技術(IT)担当大臣(第2次森改造内閣)、経済財政政策担当大臣(第2代)、経済企画庁長官(第53代)、文部政務次官(竹下改造内閣)、衆議院財政構造改革特別委員長、衆議院外務委員長、衆議院石炭対策特別委員長、自由民主党総裁(第23代)、自由民主党幹事長(第44・46代)、自由民主党政務調査会長(第44代)、自由民主党経理局長を歴任した。
1976年モントリオールオリンピックの射撃競技のクレー射撃・スキートにて日本代表で出場したオリンピック選手でもあり、日本クレー射撃協会の第11代会長を務めた。
学習院初等科、学習院中・高等科を経て、学習院大学政経学部を卒業後、麻生産業に入社し、麻生セメント(現、株式会社麻生)の社長や日本青年会議所の会頭などを経て、1979年(昭和54年)衆議院選挙に初当選。以後、1983年(昭和58年)の落選を除き、当選回数13回を数える。相続した自宅は25億円など世襲議員として政界有数の資金力を有する。
経済企画庁長官(第53代)、経済財政政策担当大臣(第2代)、自由民主党政務調査会長、総務大臣(第3代・第4代・第5代)、外務大臣(第137代・第138代)、自由民主党幹事長を経て2008年自由民主党総裁選挙により、第23代自由民主党総裁に選出され、第92代内閣総理大臣に就任した。
第2次安倍内閣で副総理兼財務大臣兼金融担当大臣として入閣した。首相経験者の入閣は幣原喜重郎、宮澤喜一、橋本龍太郎に続き、戦後4人目。
1976年モントリオールオリンピッククレー射撃(クレー、スキート競技)日本代表(41位)。弟の麻生泰は、学校法人麻生塾や麻生セメントなどを傘下に持つ麻生グループ代表である。また、皇族の寬仁親王妃信子は実妹にあたる。
麻生太郎は、福岡県飯塚市に麻生太賀吉・和子の長男として生まれる。麻生家は、高祖父が大久保利通、祖父が吉田茂、義父が鈴木善幸元首相、妹が皇族の寬仁親王妃信子という華麗なる血脈を持つ。小学3年生のころ上京し、学習院初等科に編入する。学習院中等科・高等科を経て、学習院大学政経学部を卒業する。大学在学中は、射撃部に所属し、射撃の腕を磨いた。
父親と親交があった水野成夫が経営する産業経済新聞社の試験を受けるも海外留学を選び、帰国後は、1966年に実家の麻生産業(「株式会社麻生」の初期の中核企業、後に清算)に入社し、1960年代後半にブラジル、サンパウロに1年近く駐在していたことがあると本人は語っている。
その後、1970年から2年間に渡ってシエラレオネにて、同国のダイヤモンド産業国有化政策実施後に地元有力者から鉱区の提供を受けた麻生家の現地駐在員として、ダイヤモンド採掘業に従事していた。
1973年にセメント事業の分社化の後にグループ中核企業となった麻生セメント(現・株式会社麻生)の代表取締役社長に就任する。これにより炭鉱業からセメント業への転換を成功させた。なお、麻生産業時代に社長業の傍ら、1976年モントリオールオリンピックにスキート射撃の日本代表選手として出場し、41位の結果となっている。
1979年10月、第35回衆議院議員総選挙に旧福岡2区(現:福岡8区)から出馬、4位(定員5名)で初当選し政界入りする。 (当選同期に亀井静香、保利耕輔、船田元、丹羽雄哉、岸田文武、吹田愰、小里貞利など)1982年、自民党青年局局長に就任。
2期務めた後、いわゆる田中判決解散後に行われ自民党が過半数割れした第37回衆議院議員総選挙で5位当選した共産党候補に2600票余り及ばず次点となり落選する。その後第38回衆議院議員総選挙で2位の社会党候補に3万6000票余りの差をつけトップ当選し国政に復帰して以降、現在まで全ての総選挙で選挙区当選している。宏池会に所属。
1996年には第2次橋本内閣の経済企画庁長官に就任し、初入閣。1999年1月、党内で長年所属した宏池会を離脱、河野洋平を会長とする大勇会(河野グループ)の旗揚げに参加。
2001年1月、不祥事により引責辞任した額賀福志郎の後任で、経済財政政策担当大臣、情報通信技術(IT)担当大臣、新千年紀記念行事担当大臣に就任。4月、2001年自由民主党総裁選挙に出馬し、小泉純一郎・橋本龍太郎・亀井静香と戦い31票で3位。その後発足した小泉政権では党政務調査会長を務め、その後は総務大臣や外務大臣などを務める。
2004年9月、国民年金保険料未払い期間があったことが判明している(1996年11月から2000年9月までの3年10か月間。経済企画庁長官就任時、国民年金への切り替えを忘れたため)。後に自身も未納期間があることが発覚した民主党代表の菅直人(当時)が「未納三兄弟」と呼称したうちの1人である。
2006年9月、2006年自由民主党総裁選挙に立候補するも当時の内閣官房長官安倍晋三に敗れる(安倍:464票 麻生:136票 谷垣禎一:102票)。安倍新総理の下、引き続き外務大臣を務め、12月、河野グループが解散し、新たに為公会(麻生派)を結成、会長に就任する。
2007年3月20日、衆議院議員在職25年を迎え、衆議院より院議をもって表彰された。同年8月の内閣改造及び党役員人事で、幹事長に就任したが、ほどなく安倍が退陣を表明。9月、2007年自由民主党総裁選挙に立候補し、党員票では福田康夫を僅差で上回ったが、133票差で敗れ(福田:330票 麻生:197票)、1か月で幹事長の座を退く。
翌2008年8月、再び幹事長に就任するも、またしてもひと月後に、総理・総裁の福田が退陣を表明。同年9月の2008年自由民主党総裁選挙に4度目の立候補をし351票を獲得。自民党総裁に就任する。9月24日、第92代内閣総理大臣に就任。麻生内閣を組閣する。首相就任の際、「日本を明るく強い国にする」と述べた。
2009年8月1日、1977年に横田めぐみが北朝鮮工作員に拉致されたとされる新潟市内の現場周辺を、現職首相として初めて視察した。
2009年8月30日、第45回衆議院議員総選挙で自由民主党が惨敗、衆議院第1党の座から転落。同日夜に退陣を表明。9月16日午前、内閣総辞職・首相指名選挙前に自由民主党総裁を辞任。同日午前の閣議にて内閣総辞職を決定。同選挙で300を超える議席を獲得した民主党代表の鳩山由紀夫に政権を明け渡すこととなった。麻生は第二次世界大戦終結以前に生まれた最後の内閣総理大臣となった。
野党時代の2012年自由民主党総裁選挙では続投を表明していた谷垣禎一総裁に造反する形で出馬した幹事長の石原伸晃を批判して安倍晋三を支持した。
2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙で自民党が政権を奪還。まもなく成立した第2次安倍内閣では副総理兼財務大臣兼内閣府特命担当大臣(金融)として再入閣した。首相経験者の入閣は第2次森改造内閣(中央省庁再編後)に宮澤喜一が財務大臣、橋本龍太郎が沖縄及び北方対策担当大臣兼行政改革担当大臣として入閣した時以来となる。また、首相経験者が副総理として再入閣するのは第1次吉田内閣の幣原喜重郎以来である。また、内閣総理大臣退任後に財務大臣に就任したのは宮沢喜一以来2人目である。
2017年7月、為公会が番町政策研究所などと合流し志公会(麻生派)が発足、会長に就任。
2020年7月16日、新型コロナウイルスの感染拡大の中、3000人もの出席者を集めて政治資金パーティーを行った。
2021年10月4日、第1次岸田内閣発足に伴い、副総理兼財務大臣兼金融担当大臣を退任。財務大臣としての在任期間は戦後最長となった。また、同月8日に自由民主党副総裁に就任した。
同年10月22日、中曽根康弘世界平和研究所の会長に就任した。
首相官邸プロフィールによると公称サイズは、身長175 cm(ただし、『1975年度 日本体育協会スポーツ科学研究報告集』のモントリオールオリンピック大会クレー射撃男子代表選手の身長欄によると35歳時点で172.2 cm)、体重70 kg。名門の一族に育ち、財閥の元社長でもあるが、本人は「首相の家庭なんて幸せなもんじゃねえ」「両親にほったらかしにされて育った」「生まれはいいが、育ちは悪い」と語っている。口の左端が下がり気味なため雑誌などの似顔絵ではへの字に描かれることが多い。べらんめえ調の軽妙な語り口と歯に衣着せぬ発言で、街頭演説などで聴衆の人気を博した。周囲からは、「明るく気さくな人柄で、親しく付き合えば一方で魅力が伝わる人物」と認識されており、その人柄を評して「半径2メートルの男」とも呼ばれる。
海外留学などの経験から、英語が堪能であり、海外などの公務で媒体の登場時は通訳を介さずに自身の英語で直接スピーチを行っている。内閣総理大臣就任後、アメリカ合衆国大統領バラク・オバマとも2人で会談している。
2013年の財務大臣・中央銀行総裁会議では襟元に毛皮がついた黒のロングコート、斜めにかぶった黒のボルサリーノ帽、淡い水色のマフラー姿をして『ウォール・ストリート・ジャーナル』は「ギャング・スタイル」と評した。
クリスチャン(カトリック)である。洗礼名はフランシスコ。
原敬、高橋是清、片山哲、鳩山一郎、大平正芳、祖父の吉田茂に加えて、7人目のクリスチャン首相であった。
靖國神社への参拝も行っている(総理在任時には参拝していない)。また、靖国神社の非宗教法人化を提唱している。終戦の日の8月15日ではなく、春秋の例大祭に合わせて参拝している。
内閣総理大臣在任中の2009年(平成21年)1月4日、伊勢神宮に参拝した。また、神道政治連盟国会議員懇談会の名誉顧問でもある。
政界きっての資産家であり、内閣発足時に発表される閣僚資産公開では常にトップである。最新の2020年時点においても、自宅のある東京都渋谷区(25億円)や別荘のある長野県軽井沢町に所有する不動産などで総資産は6億4845万円で、菅内閣ではトップであった。
大学時代からクレー射撃を始め、22歳の時全日本選手権を当時の日本新記録で優勝。1974年に行われた第2回メキシコ国際射撃大会に優勝。1974年アジア競技大会では金1つ、銀1つを獲得。1976年モントリオールオリンピック日本代表に選出されるが41位に終わる。それ以来クレー射撃は封印し、以後一度も引き金を引いていない。2000年5月には日本クレー射撃協会会長に就任した。
野村総合研究所の主席研究員であるエコノミストのリチャード・クーが「経済政策の理論的支柱」として麻生の財政出動を中心とする政策作りに協力していると朝日新聞で報道されている。
首相時代は定額減税や公共事業を中心とする財政出動に積極的な意向を示しており、財政健全化よりも景気対策の優先を提唱し、財政健全化を目指した小泉政権の構造改革路線を見直し、「基礎的財政収支(プライマリーバランス)の11年度黒字化目標」の延期に言及していた。
消費税の増税に関しては、「もはや、広く薄い負担を税制に追加していくとしたら消費税しかない」として消費税増税を示唆したが、2008年9月に世界的な金融危機が発生すると「消費税増税を早期に行えば、著しく景気を冷やす」として、当面の増税を見送ると述べる一方で、2011年以降に10 %(パーセント)を超える水準まで消費税を引き上げる意向を示した。第二次安倍政権では財務省の代弁者として消費増税を訴えたが最終的には首相判断に従い増税延期を了承した。
労働問題に対しては、「企業の生産活動で得られた付加価値の分配は個々の企業が判断する」と述べ、企業の給与体系に対して国家が介入することに否定的な見解を示した。
首都圏と地方の間の格差問題については、「地方の自立には、きちんと財政出動をやって、道路、交通網を整備しないといけない」として地方経済振興のために公共事業が必要との考えを示している。また、「(地方の)医療、介護が一番しんどいのではないか。病院をつくるより病院と結ぶ道路を造った方が安い」と述べ、道路交通網の整備による緊急医療体制の充実を主張している。一方で地方自治体に対し、地方公務員の給与削減を要請している。
2008年(平成20年)10月30日には、リーマンショック以降の世界的な金融危機と景気低迷への対策として事業総額26兆9000億円の追加経済対策を発表。2度の補正予算と2009年(平成21年)度予算の"3段ロケット"として、最終的には75兆円の景気対策を実施した。
主なものとして、
などである。
エコカー減税や家電エコポイント制度は鳩山由紀夫内閣にも引き継がれた。
小渕内閣の地域振興券とよく似た、2兆円を超える定額給付金(「4人家族で6万円程度になる」としている。実際は一人1万2000円を給付)を全世帯に支給した。この政策については、以下の通り評価が分かれている。
定額給付金の成果については、消費拡大に一定の効果を生み、家具や家電などの購買を促進させるなど、新たな消費を生むきっかけになったと麻生の総理大臣退任後に報道された。
効果の期待できない法人税の引き下げではなく、投資減税により景気刺激を行なっていくべきとした。これに対し、2013年7月の政府税制調査会で、一橋大学特任教授の田近栄治委員からは、法人税収入に占める製造業の割合が26 %程度に低下しており、「製造業が日本の法人税を担う時代は終わった。」とし、法人税の法定実効税率を35 %から30 %へ引き下げすべきとの主張が出された。また、2014年5月16日には大田弘子委員が座長を務める政府税制調査会法人課税ディスカッション・グループで、「法人税率の引き下げは避けて通れない」とする改革案の確認が行われた。同年6月3日には麻生も「責任ある代替財源が示されるのであればいい。」と、初めて実効税率引下げを容認し、骨太の方針にも盛り込まれることとなった。
2013年5月18日、麻生は札幌で次のように講演した。「『株価が上がっても株は持ってないので関係ない』という人もいると思うが、年金は株式の運用で成り立っている。7月に年金の運用状況が出てくるが、ウン兆円の黒字になる」。
2015年3月26日、麻生は2012年度末に304兆円あった民間企業の内部留保が1年間で328兆円まで約24兆円増えたことに触れ、デフレでなければ配当とか賃金とか設備投資に回らなければならないとした。後にメガバンクの配当引き上げが報じられた。
「価値の外交」を重視した。特に、日本が非欧米圏でそれら価値の先駆者であることに着目した上で、北東アジアから、東南アジアを経て、インド、中東、中央アジア、中・東欧にかけての「弧」上にある国との間で、日本がリーダーシップをとってこれら価値を共有し、「弧」地域全体の繁栄に貢献する、その結果として経済や安全保障などで日本も国益を享受するという「自由と繁栄の弧」を外交の基本方針としている。著書『とてつもない日本』では、民主化支援、法律の整備や法律家人材育成に日本の制度や経験を活かす法整備支援などのほか、自衛隊のPKO活動、カンボジアのカンボジア特別法廷上級審裁判官としての野口元郎の派遣、自身の思い入れのある漫画も含めた日本文化を通じた交流も、その具体的施策として位置付け、重視する姿勢を示した。
第1次安倍内閣の「自由と繁栄の弧」構想は民主主義や法の支配などの価値を共有しているとはいえない中華人民共和国の反発を招くとの批判もあった。日本の国際的存在感の低下、尖閣諸島問題に象徴される日中間の力関係の変化という新たな国際情勢のもと、中華人民共和国との正面衝突を回避しつつ、アジアにおけるパワーバランスを適正に保ち、アジア及び世界の安定と発展に寄与する外交政策であるとの評価されている。
第2次安倍内閣の副総理兼財務大臣としても、最初の外遊先として、民主化や法の支配を急速に進めるミャンマーを選んだ。この点、第2次安倍内閣では、安倍晋三首相、麻生太郎副首相兼財務大臣に加え、元の企画・立案者とされる谷内正太郎元外務事務次官も内閣官房参与となったため、「自由と繁栄の弧」が外交の基本方針として復活するとの指摘もある。
韓国に対しては、日韓議員連盟の副会長も務めており、首相在任中は、日韓シャトル外交を定着させるなど日韓の親善に尽力した。麻生が議長を務める夢実現21世紀会議の「国づくりの夢実現検討委員会」を通じて日韓トンネルの実現に向けた政策提言を発表していることが2003年に自民党機関紙で伝えられた。2007年1月26日に「日本と韓国は、互いにとって最も近く、基本的価値を共にする大切な民主主義国同士であります。そのような間柄にふさわしい、未来志向の関係を打ち立てます」と述べている。また、2005年12月25日の韓国の大手メディアである『中央日報』のインタビューで、「韓国に一年に2度ずつ計40-50回ほど行っているが、私が知っているかぎり今の両国関係が最も良いのではないかと思う。それは韓国の生活水準が良くなり、自信をつけているためと思われる。サムスンだけでなく、韓国製品が非常に良くなった」と発言している。
2008年10月24日、北京市の人民大会堂で開かれた「日中平和友好条約締結30周年記念レセプション」に内閣総理大臣として参加し「『友好』というお題目のため遠慮する関係ではなく切磋琢磨して協力していくことこそ真の戦略的互恵関係」と挨拶し、日中が競い合うことで「共益」を実現し、両国関係強化につなげる方針を打ち出した。2009年4月の日中首脳会談では、麻生が中華人民共和国への核軍縮を求め、温家宝首相が歴史認識問題を追及したため緊迫したが、日本が中華人民共和国の環境汚染や廃棄物対策に協力する「日中環境・省エネルギー総合協力プラン」で合意したほか、羽田 ― 北京間の定期チャーター便を開設することや、閣僚級による中日経済ハイレベル対話を日本で開催することを決定した。また、「日中韓の経済はドイツ・イギリス・フランスの合計も上回る」として中韓との経済協力強化を打ち出し、麻生の地元でかつ中韓からも近い福岡県太宰府市の九州国立博物館で第一回日中韓首脳会談を開催して「三国間パートナーシップに関する共同声明」に署名した。
親台派として知られ、総理大臣退任後も台湾政界に太い人脈を持つ。参議院予算委員会で「民主主義が成熟し、経済面でも自由主義を信奉する法治国家であり、日本と価値観を共有する国」と発言し、中華人民共和国のマスメディアから「日本の外相が『台湾は国家』と発言」と非難され、中華民国国内からは絶賛されたこともある。
2021年7月5日、中国が台湾に侵攻した場合、日本政府が安全保障関連法の定める「存立危機事態」に認定して、限定的な集団的自衛権を行使する可能性があるとの認識を示し、「(台湾で)大きな問題が起きると、存立危機事態に関係してくると言って全くおかしくない。そうなると、日米で一緒に台湾の防衛をしなければならない」と述べた。
麻生の内閣総理大臣就任後の2008年10月21日から23日にかけて、インドの首相マンモハン・シンが日本を訪れた。麻生はシンとの首脳会談に臨み、外交と防衛における対話、船舶の安全航行などの協力について合意した。その後、両者は国際問題に関する情報交換、船舶の安全航行、テロとの戦いを骨子とする「安全保障協力に関する共同宣言」、日本とインドのあいだで合意済みの諸事項の一層の促進を求める「戦略的グローバルパートナーシップの前進に関する共同声明」に署名。麻生はこの会談で日本とインドの経済関係の促進に前向きの姿勢を見せ、デリー - ムンバイ間の貨物鉄道建設計画に総額4500億円の円借款を供与することを伝えた。麻生はシンに対し、NPTに未加盟のインドに対する原子力協力分野での協力について慎重な日本の立場を説明した。経済連携協定交渉については、早期妥結を目指すことで一致した。麻生との共同記者会見の席でシンは、意見交換を行った22日の首脳会談を「非常に生産的で充実したものであった」とした。シンは麻生に対して「古くからのそして非常に尊敬すべきインドの友人」と述べ、2年の間に首相として2度来日したことについて「2年の間に2度来日しているという事実が、インドが日本との関係をいかに重視しているかを表している」と強調した。
2006年12月13日の衆議院外務委員会において、北方領土問題を解決するために、北方4島(択捉、国後、色丹、歯舞)全体の面積を2等分して、半分をロシア連邦に譲ることにより解決を目指す考えを示した。これは元首相の海部俊樹から「北方領土の返還は党是だ。党の基本問題として守るべきものは守ってきちっとやってほしい」と批判された。
また、2009年2月に州内のコルサコフ近郊で行われたサハリンプロジェクトの一つサハリン2のLNG工場稼働式典に合わせ、日本の首相としてはかつての領有時代を含めて初めてサハリン州を訪問し、ロシアのドミートリー・メドヴェージェフ大統領と会談した。日本政府の公式見解では「所属未定地」となっている南樺太(サハリン南部)での会談には一部の有識者から批判が提起され、日本では鳩山邦夫総務相が国会答弁で「正直、実に微妙な問題だなと思う」と感想を述べた。これについては北方領土問題とは異なり、南樺太については、ロシアが実効支配していることについてロシア以外のいかなる国の政府も領有権の主張を行っておらず、領有権を放棄した日本政府も異議を唱える立場にはなく、2001年にはサハリン州ユジノサハリンスクに総領事館を設置して、ロシアの実効支配を前提とした日常業務を行っている事もあり、訪問への反対運動は広がりを見せなかった。
政府開発援助 (ODA) には積極的な姿勢を取っている。2007年1月26日、「ODAは、我が国外交の重要な手段であります。国際社会の一員としての責務を果たし、かつ、自らの繁栄を確保していくために、ODAを一層戦略的に実施します。「自由と繁栄の弧」形成のためにも、ODAを活用していきます。そのうえで、ODA事業量の100億ドルの積み増し、また対アフリカODAの倍増など、対外公約を達成すべく努めてまいります」と述べた。
2006年10月、自民党政調会長(当時)の中川昭一が「核武装論も選択肢として考えておくべき」と発言したことで一部から非難を受ける。麻生は非核三原則の堅持を前提と明言しつつも、「隣の国が持つとなったときに、1つの考え方としていろいろな議論をしておくことは大事だ」「日本は言論統制された国ではない。言論の自由を封殺するということに与しないという以上に明確な答えはない」と発言した。この発言が原因で、12月に民主党、社民党、共産党ら4党から外相としての不信任決議案を提出された。
2009年11月23日、総理大臣時代に、日本に対するアメリカ合衆国の「核の傘」堅持のため、米議会が中期的な核戦略検討のために設置した「戦略態勢委員会」に働きかけを行っていたことがわかった。
諜報機関や国家運営に必要な情報収集能力を「インテリジェンス」と呼ぶ。麻生は英米のインテリジェンスを次のように比べた。イギリスはMI6(現SIS)と外務省の2つのインテリジェンスがある。英首相は2つを競合させる、つまり真贋を見分けて最終判断を下す機会を持ち、判断の政治的責任を引き受けている。他方、アメリカのインテリジェンスはCIAだけであり、米大統領はインテリジェンスを競合させたり政治的責任をとったりできない。これは、イラク戦争の際に大量破壊兵器が存在すると誤認した構造要因だったと麻生は考えている。このような事実から、インテリジェンスの吟味が大事だという。この結論を手嶋龍一は高く評価した。
2016年アメリカ合衆国大統領選挙を勝ち抜いたドナルド・トランプ大統領は、就任直後より日本を含む貿易黒字を抱える国々に対し貿易不均衡の是正を求めた。2017年4月18日以降、麻生太郎副総理とマイク・ペンス副大統領による日米経済対話が二回開催されたが、アメリカ側の自由貿易協定交渉要求などを相応にさばいたためトランプ大統領は不満つのらせ、茂木敏充経済再生担当大臣とロバート・ライトハイザーアメリカ合衆国通商代表との日米貿易交渉 (2018年 - 2019年) へ移行した。2019年4月25日、訪米中に行われたスティーブン・ムニューシン財務長官との会談の中で、新たな貿易協定に為替条項の導入するよう迫られるも「貿易政策と為替政策をリンクする議論には賛同しかねる」として反論したことが伝わっている。
朝鮮、台湾に対しては肯定的側面もあったとする発言をしている。2003年5月31日、東京大学学園祭において「創氏改名は朝鮮人が望んだ」、「日本はハングル普及に貢献した」と述べた(当該項目も参照)。また、2006年2月4日の福岡市での講演において、日本が植民地台湾の義務教育に力を入れたと指摘したうえで「台湾はものすごく教育水準が上がって識字率などが向上したおかげで今極めて教育水準が高い国であるが故に、今の時代に追いつけている」「我々の先輩はやっぱりちゃんとしたことをやっとるなと正直そのとき思った」と述べた。
2007年(平成19年)3月21日、長崎県時津町で講演。日本独自の中東和平外交として、ヨルダン渓谷の開発を進める「平和と繁栄の回廊」構想に触れ、「米国人にできないことを日本がやっている。日本人というのは信用がある。青い目で金髪だったら多分駄目よ」「われわれは幸いにして黄色い顔をしている。そこ(中東)で搾取をしてきたとか、ドンパチ、機関銃撃ったとか1回もない」と述べた。
2006年(平成18年)5月26日、アジア各国の政府首脳や経済界リーダーを招いた国際交流会議「アジアの未来」において「近代の生んだ毒......。それはすなわち『国民国家』であり、『自民族中心主義』という意味に規定される『ナショナリズム』でした。この2つは、地図に黒々と、太い国境を引く思想でした。また時として、その国境を外へ外へ、無理やりにでも広げていくのをよしとする考えでした。(中略) 他人(ひと)のことは言いますまい。日本人は一度、国民国家とナショナリズムという、強い酒をしたたかにあおった経験があります。皆さんこれからのアジアは、国民国家の枠、ナショナリズムの罠に絡め取られるようではいけません」と述べた。
2008年10月2日には日本の過去のアジア支配に対する反省と謝罪を明確にした「村山談話」について、「いわゆる村山談話と17年8月15日の小泉純一郎首相の談話は、先の大戦をめぐる政府としての認識を示すものであり、私の内閣においても引き継いでいく」として麻生内閣でも、明確に堅持する方針を示した。同年10月31日には航空自衛隊幕僚長の田母神俊雄が旧大日本帝国軍の侵略行為を否定する論文を執筆していたことが判明したが、麻生は記者団に対して「個人的に出したとしても、立場が立場だから適切ではない」と述べた。
麻生内閣メールマガジン「太郎ちゃんねる(2008年12月4日配信)」において、「1941年12月に第二次世界大戦が真珠湾攻撃で始まる」と書いたことについて、「1941年12月に始まったのは第二次世界大戦ではなく太平洋戦争である。この歴史認識は知性を疑われる恥知らずの間違い」として、新党日本の田中康夫から国会での謝罪と訂正を求める質問主意書が提出された。
内閣総理大臣としては河野談話を踏襲することを表明したが、アメリカ合衆国下院に提出された慰安婦問題をめぐる対日非難決議案にある「日本軍による強制的な性奴隷化」といった記述について「客観的な事実にまったく基づいていない」と強い遺憾の意を示している。麻生はまた、国連の自由権規約委員会が従軍慰安婦に対して日本政府に謝罪と補償などを行うよう勧告したときも、第171回国会において、内閣総理大臣として「この勧告は、法的拘束力を持つものではなく、市民的及び政治的権利に関する国際規約の締約国に対し、当該勧告に従うことを義務付けているものではないと理解している」と述べ、慰安婦に対して謝罪や賠償をする意思がないことを表明した。麻生個人の見解としては、慰安婦問題をめぐる対日非難決議案は、日本と米国が緊密な関係になることを良しとしない第三国による日米離間工作であると見なしている。
2006年(平成18年)8月8日付の朝日新聞朝刊にて『靖国にいやさかあれ』という論文を寄稿した。
政治家の靖国神社問題については、政教分離が問われるなど一番の問題は靖国神社が宗教法人であることだとしており、2006年の総裁選では総理になった場合に靖国神社を非宗教法人化(国が関与できる特殊法人への移行)し、国立追悼施設にすることを公約に掲げた。2008年10月にも「神社という名前が問題なら、靖国廟でも招魂社でもいろんな形がある」として、非宗教法人化を支持する姿勢を示している。
2006年には、「首相になった際には靖国参拝を自粛する」という考えを示していた。2008年に首相に就任した直後には「行くとも行かないとも答えることはない」として曖昧な姿勢を見せている。外交問題に飛び火した小泉首相の参拝について「中国が(参拝を中断しろと)言えば言うほど行かざるを得ない」とし、「これはタバコを吸うなと言うと吸いたくなるのと同じだ」と述べた。麻生本人は外相在任当時、外務大臣は個人ではないという理由で靖国神社には参拝しなかった。
A級戦犯の分祀については、「靖国神社に戦死者でない人が祭られていることが非常に大きな問題点だ」「(首相の参拝について)他の国々、国内からいろいろ言われないよう、英霊から感謝されるような形で参拝できる制度を考えるべきだ」との見解を示している が、靖国神社が宗教法人である限り政治の介入による分祀は厳に慎むべきであるとしている。そのため、靖国問題の解決策に関しては、靖国神社の非宗教法人化を行い、国が関与できるようにしてA級戦犯を分祀することを「1つの方法」と発言し、「望ましい」として賛成している。
2006年1月28日、愛知県名古屋市で行われた公明党議員の会合で、「英霊は『天皇陛下』のために『万歳』と言ったのであり、『首相万歳』と言ったのはゼロだ。天皇陛下が参拝(正確には「親拝」という)なさるのが一番だ」と述べ、「(天皇が)公人か私人かという論議のため参拝できなくなったが、解決の答えはいくつかあるはず」と付け加えたが、批判を浴びると「今の状況で天皇陛下に参拝していただきたいとは、一切言ってない」と発言を修正し、釈明した。
日本と韓国の緊張関係について、「両国が靖国問題にあまりにも執着しているのが最も大きな問題だ。当分はマスコミが靖国問題を書かないのが一番よさそうだ。問題をあおって増幅させた」との考えを表明している。
2006年5月26日に都内のホテルで開かれた国際交流会議「アジアの未来」で講演し、「23日に自分がカタールで中韓の外務大臣と会談したので関係改善の流れが出て来た」と発言。これに対して韓国産業資源部長官は、「アジア共同体形成に関して各国間合意はできたが、韓中日の共同体構築努力が他地域に比べ足りない、原因は一部政治家の靖国参拝や歴史問題だ、ヨーロッパがいかにしてこれを克服したか考えて欲しい」と講演した。
首相在任中の2009年には「(靖国神社は)最も政治やマスコミの騒ぎから遠くに置かれてしかるべきものだ。もっと静かに祈る場所だ」 として、終戦の日に靖国神社参拝を行わない意向を示した。
2009年10月17日には、首相在任中には参拝しなかった靖国神社に参拝した。
教育基本法に関して麻生は、改正前の2002年に、「教育基本法には「国」という概念を明確に打ち出す必要がある。〔…〕「愛国心」を持つことの大切さを明示すべきなのだ」との見解を示していた。また、「思い切って中学の義務教育をやめてもいいのではないだろうか」として、義務教育を9年から6年に短縮する構想を示した。
これに対して高橋哲哉は「11歳か12歳で自分の人生に見きわめをつけよというのですから無理な話です」と述べ、この構想を批判している。
2008年9月の国連総会での演説後、自衛隊の集団的自衛権の行使について「できるようにすべき」と憲法改正もある程度は必要との認識を持っている。2016年の西日本新聞のアンケートでは「国民的合意が得られるものから適宜行うべきだ」と回答している。
麻生内閣時代に国籍法改正について舵を取った。
2016年の『西日本新聞』のアンケートでは、選択的夫婦別姓制度導入について、「結婚したら全員が夫婦同姓にすべき」としている。一方、野田聖子は麻生は選択的夫婦別姓制度導入に基本的に賛成である、と述べていた。また、政策CPプロジェクト衆議院選挙2005プログラムでは「選択的夫婦別姓を認めるか」に対し「認めるが子供の姓はどちらかに統一する」と回答している。
漫画やアニメの表現規制強化を推進する立場を明確にしている。松江市教育委員会によって『はだしのゲン』に閉架措置がとられた問題について「(はだしのゲンを)出たころ毎週の連載を読んでいましたけど、もっと禁止したほうがいい成人向け漫画がある。自民党でポルノコミックについて(規制を)やったときは「成人向けにすべきじゃない」とずいぶん反対があった。そういうもののほうが、もっと問題なんじゃないかね」と述べた。1989年から発生した有害コミック騒動では規制強化の立場から自民党を代表して「子供向けポルノコミック等対策議員懇話会」の会長を務めたうえ、児童ポルノ禁止法についても法規制の必要性を主張している。
自らも喫煙者であることから、受動喫煙防止を目的とした健康増進法改正案について反対している。
当初は宏池会に所属したが、河野洋平の大勇会立ち上げに伴い離脱した。ハト派的な河野とは政治スタンスが異なるが信頼関係は深く、麻生にとっては首相時代に孤独を癒やしてくれる精神安定剤のような存在だったという。
岸田自民党の副総裁として自民党の新フィクサーとなる。
麻生の2008年自民党総裁選出馬表明の直後には、公明党支持母体の創価学会婦人部・公明代表代行の浜四津敏子が異例のスピードで支持を表明した。その後、2008年8月11日にまだ自民党総裁が決まってない段階で、公明党幹事長の北側一雄も「日本の未来を考えたときにリーダーは明るさが必要だ」として明確な支持を表明している。
麻生の信仰宗教はキリスト教(カトリック派)であるが、神道政治連盟(神社関係者などの神道の政治団体)から支援を受けている[要出典]。2009年(平成21年)12月9日には、神道政治連盟国会議員懇談会の名誉顧問に就任している[要出典](これはカトリック教会が政治活動をしないためであり、公職である政治家を司教や教会などが応援すると、カトリック教会の教義にあたる教会法第285条に抵触する為である[要出典])。
麻生グループ関連会社「麻生」(福岡県飯塚市)から、2002年4月30日付で麻生が支部長を務める自民党支部が総額650万円の政治献金を受けていた。前年度中に「麻生」は国から補助金1458万円を交付されており政治資金規正法違反の疑いを指摘された。同社は県から間接的に受給していたので問題ないとの認識であった。報道後に同社は返金を求めることを表明した。
東京電力や関連企業がパーティー券購入額の目安として、東京電力が政治家の電力業界での重要度を査定しランク付けしていた上位10議員の内の1人であったことが朝日新聞に報じられた。
外務大臣だった2007年6月、大規模な政治資金パーティーを自粛すると定めた大臣規範に反し、資金管理団体のパーティーを開催して約8470万円の収入を得ていたことが、政治資金収支報告書で分かった。
麻生はマスコミに対して「質問に乗ってまた言うと、それをまた挑発のネタにされる。そっち(メディア)の飯の種になるかもしれないが、こっちはそういうことにならないから」と嘆いたが、この発言も問題発言として紹介される状況であった。
妻・千賀子は「米国発の金融危機が来て主人は景気対策のため本当に頑張りました。でも政策ではなく、政権交代という作られた流れの中で政局を問題視されました」「口が曲がってるとか、漢字が読めないとか。それと変な話をしたと。全体を見ればきちんとした話でも一つの単語が極端だったり、不用意だったり、そんなことだけが取り上げられました。人間失格のような印象すら作られ、私は本当に辛く、主人を可哀想に思いました。」と述懐している。
「麻生前首相が資質を問われ始めたのは漢字の誤読が発覚してからだ(毎日新聞論説副委員長・与良正男)」といわれるように、麻生が国会答弁の中で、踏襲を『ふしゅう』と読み間違えたことを朝日新聞が報じた。
こうした報道について、自民党の細田博之幹事長は「麻生総理が字が読めないらしいと言って楽しんでいる。日本国の程度を表している。国民の程度かもしれない」と発言したが、この発言も非難の対象となり、細田は発言を謝罪した。
マスコミなどの報道機関は、麻生の原稿の読み間違いについて批判し、2009年1月20日の参院予算委員会では、麻生の漢字力を質すため、民主党の石井一副代表が『就中(なかんずく)』など12個の漢字を並べたボードを用意したが、麻生から「『窶し(やつし)』以外は普通に読める」と返された。
一方、2009年4月10日、麻生首相が皇室主催の祝賀会で読み上げた祝辞で「弥栄」を「いやさかえ」として読み上げたことが誤読としてマスコミ各社で報道された が、「弥栄」には「いやさか」「いやさかえ」と2通りの読み方があるため、マスコミ側の誤読ではないかと話題となり、新聞各社が慌ててネットの掲載した記事を削除する騒動となった(特に「歴史的な誤読」と報じたTBSWEB多事争論は、編集委員の吉岡弘行が謝罪文を掲載する事態にまでなった)。(なお、麻生本人のブログでは、「弥栄」を「いやさか」と書いている。)
総理在任中の麻生は、マスコミから「庶民感覚がない」と批判的な報道が繰り返し行われた。
麻生は政財界の要人と帝国ホテルのバーなどで会合を行っていたが、メディアからは「庶民の感覚と懸け離れた贅沢をしている」と非難の対象となった。
渋谷区神山町に、敷地面積2400平方メートル(25億円)の邸宅を所有している。マスコミから「麻生御殿」と呼称されることがある。
麻生の自宅を非難する団体が無届デモを行い、逮捕される事件も発生した(不起訴)。
当落 | 選挙 | 施行日 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 (%) | 得票順位 /候補者数 | 定数 | 票差 (と次点者) | 惜敗率 (%) | 比例区 順位 | 政党当選者数 /政党候補者数 |
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当 | 第35回衆議院議員総選挙 | 1979年10月 | 7日旧福岡2区 | 自由民主党 | 71,041 | 12.88 | 4/9 | 5 | 7,513 | - | - | - |
当 | 第36回衆議院議員総選挙 | 1980年 | 6月22日旧福岡2区 | 自由民主党 | 85,826 | 15.47 | 2/8 | 5 | 11,661 | - | - | - |
落 | 第37回衆議院議員総選挙 | 1983年12月18日 | 旧福岡2区 | 自由民主党 | 75,412 | 13.77 | 6/6 | 5 | - | 96.57 | - | - |
当 | 第38回衆議院議員総選挙 | 1986年 | 7月 6日旧福岡2区 | 自由民主党 | 134,179 | 23.65 | 1/6 | 5 | 58,806 | - | - | - |
当 | 第39回衆議院議員総選挙 | 1990年 | 2月18日旧福岡2区 | 自由民主党 | 99,876 | 17.77 | 2/6 | 5 | 19,015 | - | - | - |
当 | 第40回衆議院議員総選挙 | 1993年 | 7月18日旧福岡2区 | 自由民主党 | 101,080 | 19.27 | 1/6 | 5 | 36,428 | - | - | - |
当 | 第41回衆議院議員総選挙 | 1996年10月20日 | 福岡8区 | 自由民主党 | 114,408 | 50.49 | 1/3 | 1 | 33,434 | - | - | - |
当 | 第42回衆議院議員総選挙 | 2000年 | 6月25日福岡8区 | 自由民主党 | 120,178 | 49.91 | 1/5 | 1 | 54,898 | - | - | - |
当 | 第43回衆議院議員総選挙 | 2003年11月 | 9日福岡8区 | 自由民主党 | 132,646 | 57.72 | 1/3 | 1 | 56,767 | - | - | - |
当 | 第44回衆議院議員総選挙 | 2005年 | 9月11日福岡8区 | 自由民主党 | 145,229 | 56.89 | 1/3 | 1 | 57,373 | - | - | - |
当 | 第45回衆議院議員総選挙 | 2009年 | 8月30日福岡8区 | 自由民主党 | 165,327 | 62.21 | 1/3 | 1 | 69,000 | - | - | - |
当 | 第46回衆議院議員総選挙 | 2012年12月16日 | 福岡8区 | 自由民主党 | 146,712 | 68.36 | 1/3 | 1 | 100,499 | - | - | - |
当 | 第47回衆議院議員総選挙 | 2014年12月14日 | 福岡8区 | 自由民主党 | 126,684 | 71.32 | 1/2 | 1 | 75,737 | - | - | - |
当 | 第48回衆議院議員総選挙 | 2017年10月22日 | 福岡8区 | 自由民主党 | 135,334 | 72.23 | 1/2 | 1 | 83,307 | - | - | - |
当 | 第49回衆議院議員総選挙 | 2021年10月31日 | 福岡8区 | 自由民主党 | 104,924 | 59.63 | 1/3 | 1 | 66,841 | - | - | - |
当選回数14回 (衆議院議員14) |
麻生太郎 | 父: 麻生太賀吉 | 祖父: 麻生太郎【先代】 | 曾祖父: 麻生太吉 |
曾祖母: 麻生ヤス | |||
祖母: 麻生夏子 | 曾祖父: 加納久宜 | ||
曾祖母: - | |||
母: 麻生和子 | 祖父: 吉田茂 | 曾祖父: 竹内綱 | |
曾祖母: 竹内瀧子 | |||
祖母: 吉田雪子 | 曾祖父: 牧野伸顕 | ||
曾祖母: 牧野峰子 |
野田勢三郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
野田健三郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
野田宏一郎 (野田昌宏) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ツヤ子 | 鈴木俊一 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鈴木善幸 (首相) | 千賀子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
加納久宜 | 加納久朗 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
八重子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
夏子 | 麻生太郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
麻生太賀吉 | 麻生次郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
麻生賀郎 | 麻生太吉 | 麻生太郎 | 雪子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
和子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
竹内綱 | 吉田茂 (首相) | 吉田健一 | 相馬和胤 | (相馬家第33代当主 ミングオブジャパン社長) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
吉田正男 | 旦子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
雪子 | 江子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大久保利通 | 牧野伸顕 | 桜子 | 荒船清彦 | (駐スペイン大使) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三島通庸 | 峰子 | 彬子女王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
利武子 | 寬仁親王 | 瑶子女王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
麻生泰 (麻生社長) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
英子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
和子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秋月種英 | 武見太郎 (日医会長) | 武見敬三 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
公職 | ||
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先代 福田康夫 | 内閣総理大臣 第92代:2008年 - 2009年 | 次代 鳩山由紀夫 |
先代 岡田克也 | 国務大臣(副総理) 2012年 - 2021年 | 次代 空席 |
先代 城島光力 | 財務大臣 第17 - 20代:2012年 - 2021年 | 次代 鈴木俊一 |
先代 中塚一宏 | 特命担当大臣(金融) 第21 - 24代:2012年 - 2021年 | 次代 鈴木俊一 |
先代 町村信孝 | 外務大臣 第132・133代:2005年 - 2007年 | 次代 町村信孝 |
先代 片山虎之助 | 総務大臣 第3・4・5代:2003年 - 2005年 | 次代 竹中平蔵 |
先代 額賀福志郎 | 経済財政政策担当大臣 第2代:2001年 | 次代 竹中平蔵 |
先代 田中秀征 | 経済企画庁長官 第53代:1996年 - 1997年 | 次代 尾身幸次 |
先代 船田元 | 文部政務次官 1988年 - 1989年 | 次代 町村信孝 |
議会 | ||
先代 牧野隆守 | 衆議院外務委員長 1991年 - 1993年 | 次代 伊藤公介 |
党職 | ||
先代 福田康夫 | 自由民主党総裁 第23代:2008年 - 2009年 | 次代 谷垣禎一 |
先代 高村正彦 | 自由民主党副総裁 第14代:2021年 - | 次代 現職 |
先代 中川秀直 伊吹文明 | 自由民主党幹事長 第40代:2007年 第42代:2008年 | 次代 伊吹文明 細田博之 |
先代 亀井静香 | 自由民主党政務調査会長 第44代:2001年 - 2003年 | 次代 額賀福志郎 |
先代 結成 | 志公会会長 初代:2017年 - | 次代 現職 |
先代 結成 | 為公会会長 初代:2006年 - 2017年 | 次代 志公会へ合流 |
先代 塚原俊平 | 自由民主党青年局長 第17代:1982年 - 1984年 | 次代 船田元 |
ビジネス | ||
先代 麻生太賀吉 | 麻生セメント社長 第2代:1973年 - 1979年 | 次代 麻生泰 |
その他の役職 | ||
先代 島村宜伸 | 日本会議国会議員懇談会会長 第2代:1997年 - 2003年 | 次代 平沼赳夫 |
先代 鬼塚喜八郎 | 日本バスケットボール協会会長 2008年 - 2014年 | 次代 深津泰彦 |
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