日本お笑い史(にほんおわらいし)では、日本における演芸の歴史について述べる。
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物真似や軽業・曲芸、奇術、幻術、人形まわし、踊りなど、娯楽的要素の濃い芸能の総称として散楽が発達し、そのうちの物真似芸を起源とする猿楽は、後に観阿弥、世阿弥らによって能へと発展した。曲芸的な要素の一部は、後に歌舞伎に引き継がれた。滑稽芸は狂言や笑いを扱う演芸になり、独自の芸能文化を築いていった。奇術は近世初期に和妻となった。散楽のうち人形を使った諸芸は傀儡(くぐつ)となり、やがて文楽(人形浄瑠璃)へと引き継がれていった。
1925年、東京放送局(NHKラジオ第1放送)が開局。
1903年、東京市浅草区浅草公園六区に、「日本で初めての常設活動専門館」として「電気館」がオープン。以降、映画は常設の興行メディアとして、東京・大阪といった大都市のみならず、日本全国に拡大した。特に、1930年代トーキー映画の技法が確立すると、榎本健一など軽演劇の人気者が出演するようになり、その人気が全国的なものとなった。
1960年代に一般家庭にテレビが普及するまでは、全国に向けてのメディアは、ラジオと映画であり、特に映画は、その予算や影響力から、森繁久彌(『社長シリーズ』・『駅前シリーズ』)などトップスターを輩出した。
1953年、NHK・日本テレビが相次いで開局したが、当初一流俳優などはテレビを「電氣紙芝居」として敬遠し、その結果それまで浅草公園六区や新宿などで活躍していた軽演劇の役者など、実力はあるが陽の目を見ず燻っていた者達がテレビの世界に飛び込んだ。三木のり平や八波むと志・由利徹・南利明の「脱線トリオ」、佐山俊二、関敬六・谷幹一・渥美清(のち海野かつをに交替)のスリーポケッツ、石井均一座の他、浅草で人気を博していた大宮敏充の「デン助劇団」などが初期のテレビ・バラエティを飾っていた。
一方、大阪でも梅田の実演劇場・北野劇場に出演していた薄給のコメディアンであった茶川一郎、佐々十郎、芦屋雁之助・小雁兄弟、大村崑等に白羽の矢が立ち、花登筺脚本の一連のコメディーで脚光を浴びた。とりわけ大村は時代の寵児となり、「コンちゃん」ブームを巻き起こした。この他に藤田まことや白木みのる等が進出。吉本新喜劇は当初からテレビを意識して制作されたもので、毎日放送とのタイアップもあり多くのスターを生み出した。一方の松竹新喜劇も看板役者の藤山寛美がよみうりテレビを中心にコメディー数作を発表した。
1959年、フジテレビ開局と同時に始まった時事コント番組『おとなの漫画』は、本来本格的なジャズバンドであったハナ肇とクレージーキャッツを起用。青島幸男作の洗練された都会的なギャグで一躍市民権を得た。クレージーはこのあと日本テレビの『シャボン玉ホリデー』で更に人気を増し、国民的なお笑いグループとして認知された。特にメンバーの植木等が演じる「無責任男」が高度経済成長を背景とした時流に乗り、大いに当たった。
『シャボン玉ホリデー』もそうであったが、この手の番組の嚆矢は同じ日本テレビの『光子の窓』である。草笛光子を主役に起用したこの番組は、歌と踊りと笑いの全てを集約させた音楽バラエティであった。このあと、NHKが『夢であいましょう』をスタート。渥美清、E・H・エリック、黒柳徹子などがコントを演じていた(作・永六輔)。草笛と黒柳は女性バラエティタレントの先駆者であり、黒柳は現在もなおバラエティ番組に出演し続けている。
日本テレビ開局当日に発生した放送事故の穴埋め番組出演を機に、2代目三遊亭歌奴(3代目三遊亭圓歌)・三遊亭小金馬(4代目三遊亭金馬)・一龍齋貞鳳・3代目江戸家猫八の4人は正力松太郎同社社長に認められ、番組一本を持たされた。これに目を付けたNHKは2代目歌奴以外の三人を引き抜き、『お笑い三人組』をスタートさせる。一方、文化放送で放送された『落語討論会』をフジテレビがテレビ化し、大喜利番組『お笑いタッグマッチ』(5代目春風亭柳昇司会)がスタート。レギュラー陣の4代目柳家小せんが発した「ケメコ」の流行語も相まって一躍人気番組となった。この流れが後述の「演芸ブーム」に繋がる。
テレビ創成期にあっては、映画は娯楽のメディアとしての優位性を誇っており、カラーテレビの普及までは、手軽ではあるが画像・音声で劣るものとの認識があった。テレビで人気が出たコメディアンも予算が豊富な映画を重視する傾向があり、クレージーキャッツなどは、ゴールデンウィークや年末といった時季に合わせ、シリーズものの大作喜劇を制作し、爆発的にヒットした。
1962年頃から1969年頃まで続いた、テレビの演芸番組を中心としたブーム。景気後退の中、番組制作費が抑制された各局は制作コストがかからず視聴率が取れる演芸番組に傾斜。また、視聴者の側も不景気による沈滞ムードの中、テレビに笑いを求めていた。
演芸ブームの後、テレビ界のお笑いはコント55号・ザ・ドリフターズが台頭することとなる。コント55号は活動休止後、萩本欽一がピン芸人として数多くの番組で司会を務め、冠番組の視聴率合計から「視聴率100%男」の異名をとることとなる。1969年に開始したドリフ司会の『8時だョ!全員集合』(TBS)は、最高視聴率50.5%というバラエティ番組史上の最高記録を叩き出す人気を誇った。このほか、せんだみつおや桂三枝(現・6代目桂文枝)、てんぷくトリオ出身の三波伸介・伊東四朗、そして小松政夫などが人気を博したが、当時のテレビ界の中心は歌手と俳優であり、お笑いは添え物、脇役に過ぎず、全体的には萩本とザ・ドリフターズの2強が長く続くこととなる。
一方大阪では演芸ブーム以降Wヤング、コメディNo.1、中田カウス・ボタンといった吉本興業の漫才師が台頭し、特に若者に人気の高かった中田カウス・ボタンを筆頭に笑いの潮流が吉本側に傾きつつあった。特に1969年にはじまった桂三枝らが司会を務める『ヤングおー!おー!』(毎日放送)は、ターゲットを若者層にすえ、明石家さんま、島田紳助・松本竜助、西川のりお・上方よしお、ザ・ぼんち、オール阪神・巨人、太平サブロー・シローらを世に出し、関西ローカルにおける若者中心の人気を確実なものにし、漫才ブームへの先駆を形成していた。しかしながら、この傾向はまだ関西ローカルに止まっており、全国向けの関西の演芸は依然としてかしまし娘やレツゴー三匹などが起用され、松竹芸能の力が強かった(松竹でも笑福亭鶴光や笑福亭鶴瓶などが登場していた)。
1979年から1982年頃まで続いた、テレビの演芸番組を中心としたブーム。
澤田隆治、横澤彪といったテレビマン達の手により、寄席演芸の傍流であった漫才がテレビのメインコンテンツに躍り出た。特にパワー溢れた当時の若手漫才師達は一躍時代の寵児となり、笑いが流行の最先端となった。吉本興業はこのブームに乗じて多くの漫才師を送り出し、松竹芸能との形勢を逆転させて東京再進出の足がかりを築いた。
東京においては小劇場やライブ・スペースを活動拠点にした笑いのストリームが生まれつつあった。この主体となったのは硬直した組織の活動に飽き足らないゲリラ集団であり、東京では傍流であったマセキ芸能社の意欲的な活動や三遊亭円丈の「新作落語」ムーブメントは見過ごせない。また自身でネタを構成する芸人や、深夜放送のハガキ職人出身の放送作家の増加に伴い、若者ウケのよいスピーディーで毒や刺激の強いお笑いが増える。また当時は若手の女性芸人が少なかったこともあり、芸歴で言えば後述のお笑い三世代に該当する山田邦子が新人ながらいきなりブレイクし、1つ上の第二世代に混じって台頭していくこととなる。この点、まだ大阪はテレビ局を軸としており興行資本の「小屋」への資本投下はまだ少し先の話となる。
お笑い第二世代の台頭は芸能界にも大きな影響を与え、ギャランティの向上もあり、歌手や俳優と比べて低く見られていたお笑いの地位が大きく飛躍することとなった。特にツービートから独立したビートたけしはラジオパーソナリティや俳優業、歌手活動や店舗プロデュースなど多岐に渡る活動を行い、今日に続くお笑いタレントの多角活動の先鞭をつけることとなった。
この他、関西弁は漫才ブームの影響で全国的な知名度を一層強めることとなった。また、それまで放送業界でタブー視されていた「楽屋ネタ」「(出演者の)内輪ネタ」の一般化や、裏方スタッフ(ディレクター・プロデューサー・AD等)が演者としてテレビに登場するようになったのもこの時期である。
1980年中盤から1990年初頭にかけて、テレビの深夜番組を発端としたブーム。演芸ブームを「お笑い第一世代」、漫才ブームを「お笑い第二世代」と数えて「お笑い第三世代」と呼ばれた。
1983年に放送開始した『オールナイトフジ』により、いわゆる「女子大生ブーム」が起こり、「素人」がバラエティ番組に多く出演するようになった。『オールナイトフジ』からの派生番組である『夕やけニャンニャン』が1985年に放送開始し、同番組でレギュラー出演者だったとんねるずが大ブレイク。『ねるとん紅鯨団』『とんねるずのみなさんのおかげです』などの大ヒットでとんねるずの人気は絶頂となった。とんねるずは並行して歌手活動も行い、『情けねえ』『ガラガラヘビがやってくる』『一番偉い人へ』などが大ヒット。1991年に『情けねえ』で第42回NHK紅白歌合戦に初出場。その後も、『とんねるずのみなさんのおかげでした』で結成した音楽ユニット「野猿」が番組人気と共に大ヒットし、1999年、2000年と紅白歌合戦に出場している。
1982年、吉本興業は新人発掘を目的として、大阪に新人タレント養成所「吉本総合芸能学院」(通称:NSC)を開校。NSC1期生にはダウンタウン、ハイヒール、トミーズなどがいる。当時は、漫才ブームが衰退し、劇場は閑古鳥が鳴く状態で劇場に若者は来なくなっていた。ダウンタウンの松本人志は当時の状況を「焼野原」だったと語っている。その後、ダウンタウン、ハイヒール、トミーズらは大阪で人気を博し、特にダウンタウンは『4時ですよーだ』でアイドル的な人気となり、1988年に『夢で逢えたら』で東京進出。ウッチャンナンチャン、清水ミチコ、野沢直子と共にコントを演じ、ミュージシャンを起用したオープニングや音楽コーナーなど、都会的でおしゃれな雰囲気も相まって深夜番組でありながら視聴率20%を超える大ヒットとなった。
その後、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンは冠番組を多く持ち、長年にわたり、高視聴率を記録。とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンの3組はビートたけしや明石家さんまらが押し上げたお笑いの地位をさらに向上させ、後進のお笑い芸人に多大な影響を与えた。
1990年代に入ると、これまでのバラエティ番組人気の中心となっていたフジテレビに倣う形で、ターゲットおよび内容をサブカルチャー的観点に絞り込んだ多種多様なバラエティ番組が多く制作されることとなった。
東京吉本の渋谷公園通り劇場が1998年、銀座7丁目劇場が1999年、大阪でも心斎橋筋2丁目劇場が閉館した。そんな中、2001年にルミネtheよしもとが開館し、大阪でも心斎橋筋2丁目劇場に続く若手芸人の拠点として、baseよしもとが開館。また、1999年にスタートした『爆笑オンエアバトル』(NHK)がヒットすると、他局でも若手のお笑い芸人を発掘しようとする動きが起こり、2000年代中盤から『エンタの神様』(日本テレビ)『笑いの金メダル』(朝日放送)などのいわゆる「ネタ見せ番組」が急増した結果、子供や若者を中心に人気となり、お笑いブームが巻き起こった。また、2001年には島田紳助企画立案の結成10年以内のコンビを参加対象とした新たな漫才コンテスト『M-1グランプリ』(朝日放送)が立ち上がり、翌2002年からは1人芸を対象にした『R-1ぐらんぷり』→『R-1グランプリ』(関西テレビ→カンテレ・フジテレビ共同)が、2008年からはコントのコンテスト『キングオブコント』(TBS)が開催されるなど、年に1度開催されるお笑いコンテストを生中継する番組が誕生した。
この時期になると吉本興業や太田プロといった老舗のみならず、数多くの芸能事務所からお笑いタレントが登場するようになった。その中にはサンミュージック企画やソニー・ミュージックアーティスツ、ホリプロコム等従来お笑いタレントを手がけていなかった事務所も多数参入している。
フジテレビでは、「お笑い8年周期説」に則り『新しい波8』が放送された。その後2001年に、キングコングがメインキャストを務めた『はねるのトびら』がスタート。「若手芸人」がブームの中心であったが、「若手」と言ってもその多くが20代後半-30代であるのが特徴的で、(芸歴で考えて)第四世代にあたる中堅芸人と同い年・同期あるいは年上・先輩であるなどといった不思議な現象が起きている。これは、コンビ結成が遅かったり、先のボキャブラ世代の時代にブレイクを逃したり、未だ東京進出を果たしていなかった大阪吉本所属の芸人が多く流入してきたことや、これらの芸人の知名度が低いゆえに正規の第五世代と同じ扱いを受けたことが主な要因である。特に『ボキャブラ天国』に起用されていた芸人(いわゆる「キャブラー」)が東京芸人に偏重していたため、中川家、ケンドーコバヤシ、たむらけんじ、陣内智則などボキャブラ芸人とほぼ同世代の関西芸人が第五世代のブームによって売れるケースが目立った。
2000年代後半からは、先述の3番組の他にも『ウンナン極限ネタバトル! ザ・イロモネア 笑わせたら100万円』や『お笑いメリーゴーランド』(ともにTBS)、『爆笑レッドカーペット』や『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ)における「博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜」など、短尺のネタを1ネタだけ披露させる構成のネタ見せ番組がブームとなる。ネタの時間が短いため多くの出演者を確保でき、新人芸人の出演チャンスが増やされた事がこれらの番組の大きな特徴である。2007年に放送開始された『あらびき団』(TBS)などでも短いネタ見せを中心としており従来の番組とは趣を異にしている。
ネタ見せ番組が増えたメリットとして、ネタが正当に評価されブレイクできる芸人が増えた一方で、単に番組用にネタ時間を短く調整した漫才やコントだけでなく、もともと短く構成されたショートコントや一発芸、キャラネタ、リズムネタなどが数多く生み出され、そのようなネタに適応したピン芸人が台頭した他、ブリッジを多用した「一発屋」といわれる芸人が急増するきっかけにもなった。ピンネタでブレイクした芸人の中にはレイザーラモンHG、犬井ヒロシ、なだぎ武、世界のナベアツ、ムーディ勝山、天津木村などもともとコンビを組んでいるにもかかわらずピン芸人のような扱いを受けた若手・中堅芸人も多い。一発屋芸人はブレイクした年のあらゆる番組に出演し一世を風靡するものの、年明けには飽きられその後テレビから姿を消す、という新たなパターンが生まれた。また、こういった芸人はNHK紅白歌合戦にゲスト出演したり、流行語大賞を受賞するケースがほとんどである。
大ブームを起こした芸人が消費し尽くされてしまうと簡単に忘れられてしまう、という傾向は年を経るごとに激しくなっていった。このようなブームはそれまでお笑いに興味すら示さなかったような人々まで包括したため、その人気の基準は一種のトレンド的な性格を強めるようになり、芸人の在り方の変容ともされたが、一方でそれは笑いのレベルの低下と見る向きもあった。
また次長課長・井上聡、チュートリアル・徳井義実などに代表される“イケメン芸人”が急増したことや、お笑い情報のみを取り扱ったお笑い専門誌が次々に発行されるなど、芸人のアイドル化が一般的となった。
この時代は一時的にコント番組が復活傾向にあった時期で、特にお笑いブーム真っ只中の2005年には『ワンナイR&R』『リチャードホール』『10カラット』『落下女』『ミンナのテレビ』と各局で若手芸人のコントコーナーがある番組が放送されていた。
2010年代に入ると、2000年代のお笑い人気を支えたバラエティ番組やネタ見せ番組が慢性的な人気低下を抱えるようになる。いわゆる「テレビ離れ」の影響が示唆される中、2010年の『M-1』の一時終了に始まり、やがてほとんどのお笑い番組が放送を終了した(もしくは定期の特番化)。また、BPOによる規制などテレビ局にコンプライアンスが求められるという時代の流れも相まり、ある意味でハラスメント的な性格を含むお笑いバラエティ番組への風当たりが強まったことで、『めちゃ2イケてるッ!』『とんねるずのみなさんのおかげでした』といったかつてお笑いブームを牽引し、長寿番組となっていた番組までもが相次いで放送を終了した。
また、コンプライアンス問題は芸能人側にも波及し、不祥事で活動を休止するお笑いタレントも現れた。暴力団関係者との交際が噂されていた島田紳助は多数のレギュラー番組を抱えたまま2011年に芸能界を引退した。2019年にはお笑い芸人による闇営業問題が発覚。この件は問題の背景に吉本興業のマネジメント体制の不備があり、問題発覚後の対応も含め吉本所属タレントからも批判が殺到することとなった。
しかしそんな中でも、『アメトーーク!』(テレビ朝日)や『人志松本のすべらない話』(フジテレビ)『しゃべくり007』(日本テレビ)といったトーク番組や、俳優やタレント、アイドル、知識人などを交えたVTR主体の情報番組などは変わらず安定した人気を獲得。それに伴い「雛壇芸人」というジャンルが大々的に紹介され、お笑いファンの間で新たなジャンルとして知られる様になった。また、加藤浩次・近藤春菜の『スッキリ』(日本テレビ)、南原清隆の『ヒルナンデス!』(日本テレビ)、設楽統の『ノンストップ!』(フジテレビ)など、午前-昼間に放送する情報番組で芸人がMCやコメンテーターを務めるというケースが増加した他、田村裕や又吉直樹、若林正恭の著書がベストセラーとなるなどお笑い芸人の活動に多様化が見受けられるようになる。ただ、このような展開によってお笑い界の第一線に定着したのは2010年以前にブレイクを果たした、既に「売れている」芸人たちであった。
フジテレビでは、次世代の若手を発掘すべく制作された『新しい波16』から発掘されたメンバーによる『ふくらむスクラム!!』→『1ばんスクラム!!』が放送され、新たなスター発掘が試みられたが不発に終わった。その後、『ピカルの定理』や『ミレニアムズ』、『爆笑レッドシアター』などが放送され、一定の人気を獲得したものの、かつての人気番組ほどの長期放送とはならなかった。
2011年には『THE MANZAI』が『M-1』に代わるお笑いコンテストとして復刻、そして2015年には『M-1』が復活を遂げ(『M-1』復活以降は年1回放送の大型ネタ番組『THE MANZAI プレミアマスターズ』として放送)、年3回放送の大型ネタ番組『ENGEIグランドスラム』(フジテレビ)が放送を開始。2013年には歌ネタのコンテスト『歌ネタ王決定戦』(毎日放送)、2017年には女芸人のコンテスト『女芸人No.1決定戦 THE W』(日本テレビ)がそれぞれ新設された。また、『水曜日のダウンタウン』(TBS = 2014年放送開始)、『さんまのお笑い向上委員会』(フジテレビ = 2015年放送開始)といった比較的過激な内容のバラエティ番組も少なからず存在し、「お笑いとは何か」を新たに問い直す内容も含むことで人気低下への対抗策が講じられている。さらには、「テレビ離れ」を逆手にとる形でAmazonプライム・ビデオやAbemaTVなど、規制の少ないネット配信サービスを利用したバラエティ番組の放送も増加しており、お笑い番組やバラエティ番組の大きな変革期に突入した。
2018年頃まで減少傾向にあったお笑い・ネタ見せ番組が2019年頃から再び増加しており、コント番組もレギュラー・特番問わず復活するようになった。これはビデオリサーチの視聴率調査方式の大規模なリニューアルが行われ、各テレビ局は広告の取引指標を世帯視聴率から個人視聴率に変更し、「コアターゲット」とよばれる消費意欲の高い層(局によって異なるが概ね13~49歳まで)を設定し、それに合わせた改編を実施するようになったことや、2020年の新型コロナウイルス流行の影響で、それまでバラエティ番組の主流だった雛壇芸人を集めるタイプの番組制作が難しくなったという背景もある。
『エンタの神様』や『爆笑レッドカーペット』、『M-1グランプリ』(第1回 - 第10回)などのネタ見せ番組によるお笑いブームの恩恵を受けた団塊ジュニア世代(1970年代生まれ)の第六世代 とゆとりの第七世代の狭間の(1980年〈昭和55年〉-1986年〈昭和61年〉生まれのプレッシャー世代)を指す言葉として、「お笑い第6.5世代」という言葉も誕生した。
「お笑い第6.5世代」という言葉は『アメトーーク!』(テレビ朝日)の企画「僕らビミョーな6.5世代」(2020年2月27日放送)が発端で、それ以前に太田博久(ジャングルポケット)がプレゼンした企画「たぶんお笑い第6世代」が前身である。昭和生まれ2000年初頭以前デビューの第六世代(南海キャンディーズ、オードリー、千鳥など)の流れを汲みながら、平成生まれ2010年以降デビューの第七世代(霜降り明星、ミキ、ハナコ、EXIT、宮下草薙、四千頭身など)からあぶれているため辛酸を舐めている苦労人が多い。『アメトーーク!』内での山内健司(かまいたち)の「第7世代って言葉を作ったからこんな窮屈なことになっている」の発言通り、この区分は曖昧なもので、同期の芸人でも早咲きの場合は第六世代に分類されるため、「第6.5世代」は置かれている状況を指し示す言葉である。第七世代は少数で括られた若手芸人であるため仲間意識が強く、彼らを若林正恭(オードリー)は「観てきた景色が違う」、6.5と7の狭間にいる屋敷裕政(ニューヨーク)は「俺ら(ニューヨークは)最後のガラケーみたいな」としている。新たなネタ見せ番組『有吉の壁』(日本テレビ、2020年 - )の誕生により、雛壇芸人や第六世代、第七世代からあぶれた第6.5世代の賞レース常連組(チョコプラ、シソンヌ、パンサー、ジャンポケ、さらば、三四郎など)が再浮上、再評価される流れにある。また、第6.5世代から大学お笑い出身者が賞レースやバラエティ番組で頭角を表し始める。
2010年代後半になると、1987年(昭和62年)以降に生まれたデジタルネイティブである「ゆとり世代」や、1989年1月8日生まれ以降の平成生まれに該当する、2010年代後半から活躍し始めた若手お笑い芸人を指す俗称として「お笑い第七世代」という言葉が用いられるようになる。「第七世代」という呼び分けについてはM-1グランプリ2018優勝の霜降り明星・せいやが、上記のような自身と同世代にあたる芸人を「お笑い第七世代」と定義付けて自称し、世代をあげての活躍を目指すことを提言したことに端を発しているとされているが、実際の発言は「お笑いに限らずスポーツや音楽を交えた多ジャンルの同世代と番組をやりたい」といった趣旨の発言だった。
この世代の特徴としては、先述したように地上波放送以外のデジタルコンテンツとの関わりが増しているお笑い界において、デジタルネイティブ世代として重要な役割を担うとされ、霜降り明星、ハナコ、EXIT、四千頭身などYouTubeで活動する芸人も多い。その一方で水溜りボンド、おるたなChannel、大松絵美、たっくーTVのように芸人からYouTuberに転身し、フワちゃんのようにタレントとしてブレイクするものまで現れた。また、ダウンタウンの影響をあまり受けておらず、このため、新たな時代のお笑いを形づくることが期待される世代となっている。また第6.5世代以上に大学お笑いサークルが活性化したことによって、新たな若手芸人が育ちやすい環境が増えたことも、彼らの成長を促している。
更に、この世代になると特定の芸能事務所に所属せず、個人事務所を立ち上げる者が現れるようになった。これは、前述のデジタルコンテンツの台頭により、既存の芸能事務所に依存しなくても芸能活動が出来る環境が整ったことや、前述した闇営業問題の影響から、公正取引委員会が独占禁止法の適用範囲をフリーランスにまで拡大する方針を打ち出し、芸能人と芸能事務所の関係が大きく変動したことが理由として挙げられる。特に事務所の退所・独立はこれより上の世代にも波及しており、コンビ間で所属事務所が異なる例も現れている。
平成に入って、落語界では1993年(平成5年)には初の「女真打」(三遊亭歌る多、古今亭菊千代)が誕生し、1995年(平成7年)には東京の5代目柳家小さん、翌1996年には上方の3代目桂米朝がそれぞれ「人間国宝」に認定され、古典芸能としての地歩を固めた。人間国宝には、その後、2014年(平成26年)に十代目柳家小三治が認定されている。
21世紀に入って、落語界には、マスメディアでも幅広く活躍していた春風亭小朝が発起人となった「六人の会」や、新作落語の隆盛をめざした話芸集団「SWA(創作話芸アソシエーション)」の結成という新たな展開が生まれ、一方では長瀬智也と岡田准一が主人公を演じたテレビドラマ『タイガー&ドラゴン』(TBS系)や連続テレビ小説『ちりとてちん』(NHK)などの影響によって新たな落語ファンが生まれた。
このような現象はしばしば「平成の落語ブーム」と呼ばれる。このブームの特徴は、「落語全般」が好きな落語マニアによるブームではなく、それぞれ自分のことばで語る個性的な落語家各人のファンによるブームであるということで、個別に熱烈なファン層をもつ落語家が多数存在することによっている。
決勝戦開催月 | 大会名 | 主催 | ジャンル | 出場資格 |
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1月 | 上方漫才協会大賞 | 上方漫才協会・吉本興業 | 漫才 | 上方漫才協会に所属する芸歴約10年以内の漫才師 |
2月 | ワタナベお笑いNo.1決定戦 | ワタナベエンターテインメント | 制限なし | ワタナベ所属のお笑いタレント |
3月 | R-1グランプリ | 吉本興業 | ピン芸 | ピン芸人 |
3月 | NHK上方漫才コンテスト | NHK大阪放送局 | 制限なし | 結成10年未満 |
3月 | ytv漫才新人賞 | 読売テレビ | 漫才 | 大阪拠点で芸歴10年以内 |
4月 | 上方漫才大賞 | ラジオ大阪・関西テレビ | 漫才 | 新人賞は結成10年以内、大賞・奨励賞は芸歴制限なし。奨励賞と新人賞は賞レース形式、大賞は選出 |
4月 | G-1グランプリ | G-1グランプリ実行委員会 | 制限なし | 芸歴15年以上 |
5月 | THE SECOND 〜漫才トーナメント〜 | フジテレビ | 漫才 | 結成16年以上のプロ芸人のコンビ |
6月 | UNDER5 AWARD | 吉本興業 | 制限なし | 芸歴5年以内のプロ芸人 |
7月 | ABCお笑いグランプリ | ABCテレビ | 制限なし | 芸歴10年以内 |
7月 | 漫才新人大賞 | 漫才協会 | 漫才 | 漫才協会に所属する結成20年以内のコンビ |
7月 | ツギクル芸人グランプリ | 日本音楽事業者協会・フジテレビ | 制限なし | 協会加入事務所の被推薦者(1事務所ごとに枠の上限あり) |
7月 | 笑ラウドネスGP | ABEMA | 制限なし | 芸歴制限なし |
8月 | 今宮子供えびすマンザイ新人コンクール | 今宮戎神社 | 漫才 | コンテスト受賞歴なしのコンビ |
9月 | ハイスクールマンザイ | 吉本興業 | 漫才 | 高校生限定 |
9月 | UNDER 25 OWARAI CHAMPIONSHIP | ニッポン放送・SLUSH-PILE. | 制限なし | 満25歳以下限定 |
10月 | キングオブコント | TBSテレビ | コント | 芸歴制限なし(二人以上) |
10月 | NHK新人演芸大賞 | NHK | 制限なし | 芸歴10年未満 |
10月 | NHK新人落語大賞 | NHK | 落語 | 入門15年未満の二ツ目格 |
10月 | マイナビ Laughter Night チャンピオンライブ | TBSラジオ | 制限なし | 同番組レギュラー放送での月間チャンピオン獲得者 |
11月 | 繁昌亭大賞 | 天満天神繁昌亭 | 落語 | 入門25年以下の上方落語家 |
12月 | M-1グランプリ | 吉本興業 | 漫才 | 結成15年以内 |
12月 | 女芸人No.1決定戦 THE W | 吉本興業 | 制限なし | 女性芸人限定で芸歴制限なし |
12月 | THE MANZAI マスターズ | フジテレビ | 漫才 | 招待制の非コンテスト |
12月 | オールザッツ漫才 | MBSテレビ | 制限なし | ネタ組とは別に若手芸人のトーナメント形式で優勝者が決まる |
春・秋の年2回 | IPPONグランプリ | フジテレビ | 大喜利 | 招待選手のみ |
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