ナインティナイン(英: NINETY-NINE)は、吉本興業(東京本社)に所属する岡村隆史と矢部浩之からなる日本のお笑いコンビ・司会者。1990年4月結成。略称は「ナイナイ」「99」。
ナインティナイン | |
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メンバー | 岡村隆史 矢部浩之 |
結成年 | 1990年4月 |
事務所 | 吉本興業 |
活動時期 | 1990年 - |
出身 | NSC大阪校9期 |
出会い | 大阪府立茨木西高等学校 |
現在の活動状況 | テレビ中心 |
芸種 | コント 漫才 |
ネタ作成者 | 岡村隆史 |
現在の代表番組 | レギュラー番組 ぐるぐるナインティナイン 週刊ナイナイミュージック ナインティナインのオールナイトニッポン スペシャル番組 爆笑ヒットパレード ENGEIグランドスラム THE MANZAI マスターズ |
過去の代表番組 | ASAYAN めちゃ2イケてるッ! ナイナイサイズ! など |
同期 | 宮川大輔 星田英利 矢野・兵動 へびいちご 川畑泰史 杉岡みどり よゐこ フォークダンスDE成子坂 天野ひろゆき(キャイ〜ン) 飯尾和樹(ずん) 日村勇紀(バナナマン)ほか |
公式サイト | 公式プロフィール |
受賞歴 | |
1991年 今宮子供えびすマンザイ新人コンクール こども大賞 1992年:第13回ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞 1993年:第22回上方お笑い大賞銀賞 1997年:第39回ブルーリボン賞 新人賞・作品賞 |
大阪府立茨木西高等学校サッカー部の先輩後輩として出会う。岡村(当時高1)は矢部の兄・矢部美幸(当時高2)とサッカー部の先輩後輩で面識があり、自宅へ招かれたところに後の相方となる矢部(当時中3)がいたのが初対面となる。後に矢部が同じ高校のサッカー部へ所属し、練習中に矢部から岡村に「岡村さん、『夕やけニャンニャン』って見てはります? 僕あれ観てるとドキドキするんですよ」と話しかけたのが初めて交わした会話である。
サッカーのプロを目指していた矢部であったが、志半ばで断念。進路で悩んでいた中で昔からお笑いが好きであったことや、矢部の兄・美幸が吉本総合芸能学院(NSC)に入学したのがきっかけで芸人を志すようになった。そこで当時浪人生であった岡村を誘ってみると、「大学に合格できたら」という条件付きで承諾される。それから1年が経過した1990年、岡村が立命館大学経済学部第二部に合格したため改めて矢部からの誘いを承諾。ある日、「お笑い芸人になるからには笑いの聖地を見学しに行こう」という理由でなんばグランド花月に2人とも足を運んだところ、その日がたまたまNSC入学希望者の二次面接の日で矢部が願書の提出を忘れていたことが発覚。当時の担当者だった大﨑洋(現・吉本興業ホールディングス会長)にNSC入学希望の旨を伝え、当初は門前払いされたものの面接終了まで待ち続けて頼み込み何とか入学の許可が下りた。そして2人は、NSCへ9期生として入学する。
コンビ結成時に初めて作ったネタでは岡村がツッコミ、矢部がボケを担当していた。しかしNSCでの最初の「ネタ見せ」の授業で、当時のNSC講師だった漫才作家の本多正識から「(ボケとツッコミが)逆やろ」と指摘されたため役割を交代している。
NSC在学中、NSC生が参加したお笑いのコンテスト「2丁目アマチュア大会」で優勝し、優勝特典である吉本が運営している心斎橋筋2丁目劇場の舞台出演権を獲得。しかしその直後、先輩である宮迫博之(元雨上がり決死隊)や矢部の兄・美幸から「授業料はほとんど払わなかったけど許してもらえた」という経歴を聞いていた2人は、NSCを授業料未納のままで乗り切ろうとしていたものの岡村曰く「自分たちの年から授業料未納に対する扱いが厳しくなった」らしく、2人とも授業料未納によりNSC除籍処分を通告される。2丁目劇場の舞台出演権を獲得しながらもNSCを退学させられたのを報告するため、2丁目劇場の支配人であった木山幹雄の下を訪れたところ木山の厚意により2丁目劇場の舞台へ立つことを許可される。NSCサイドから「なぜクビになった2人が出演しているんだ」とクレームが寄せられたが、木山は「うちらは面白い芸人をつくるのが仕事です。面白いヤツは出します」などとフォロー。最終的にNSCサイドから「ナインティナインを引き続き出演させる代わりに、NSC出身のへびいちごも出演させる」という条件を木山が受け入れる形で、2人は舞台に出演し続けられた。
以降も舞台への出演を続け、NSC9期出身として吉本所属の芸人となる。
1991年、吉本の若手コンビ6組で構成されるユニット「吉本印天然素材」に加わり東京進出。1992年には第13回ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞を受賞、頭角を現す。程なくして当時人気番組であった『ねるとん紅鯨団』(フジテレビ系)の芸能人大会にコンビで出演した頃から人気・知名度が急上昇。
1992年に『新しい波』から選抜され、1993年には『とぶくすり』が放送開始。
1994年、「天素」から脱退。理由としては岡村曰く「ミーハーな女性ファンの多さに危機感を持った」とのこと。その後、本格的に活動拠点を東京へ移す。東京本格進出1年目の1994年には放送時間こそバラバラなものの、『ナインティナインのオールナイトニッポン』『ぐるぐるナインティナイン』『ジャングルTV 〜タモリの法則〜』と関東放送番組3つのレギュラーを務めた。途中で『銀BURA天国』のメインMCにも抜擢されていたが、とぶくすり内の「うのうの団」ですぐ終わったと述べていた。
1995年に『森田一義アワー 笑っていいとも!』のレギュラー、『めちゃ2モテたいッ!』『ASAYAN』が放送開始。1996年10月に『めちゃ2イケてるッ!』が放送開始。1997年〜1999年『ナイナイナ』放送開始。このうち、『ナインティナインのオールナイトニッポン』『ぐるナイ』『めちゃイケ』の3番組については以後15年以上続くロングランの番組となっている。
1999年にはゴロ合わせで「ナイナイの年」と銘打ち、映画出演や多数のライブイベントなどを精力的に熟した。
2004年、中居正広と共に『FNS27時間テレビ めちゃ2オキてるッ! 楽しくなければテレビじゃないじゃ~ん!!』の総合司会を務めた。岡村はこの番組の企画においてボクシングに挑戦、本番では具志堅用高と対戦した。
2010年、岡村が7月15日から体調不良を理由に休養を発表。休養期間中のコンビ活動は休止となり、レギュラー番組には矢部が単独で出演していた。岡村は約5ヶ月後の11月27日放送(24日収録)の『めちゃ²イケてるッ!』にて復帰。以後はその他の番組にも順次復帰を果たしている。
2011年2月26日放送『めちゃイケ』ナインティナイン結成20周年記念SP内で、宣材写真を撮り直した。
2011年6月5日放送『爆笑!大日本アカン警察2時間スペシャル』で、ダウンタウン(松本人志・浜田雅功)と14年ぶりの共演を果たす。
2011年、中居正広と共に『FNS27時間テレビ めちゃ2デジッてるッ! 笑顔になれなきゃテレビじゃないじゃ〜ん!!』の総合司会を務めた。矢部はこの番組の企画において100kmマラソンに挑戦した。
2013年3月27日、矢部が予てから交際していた元TBSアナウンサーでフリーアナウンサーの青木裕子と入籍。
2014年9月25日、『ナインティナインのオールナイトニッポン』終了、20年半と長い歴史に幕を閉じたとともに歴代最長記録を保持している。翌週10月2日から岡村のみとなり『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』が放送開始。
2015年、『FNS27時間テレビ めちゃ2ピンチってるッ! 1億2500万人の本気になれなきゃテレビじゃないじゃ〜ん!!』の総合司会を中居正広と共に務めた。
2018年3月31日、『めちゃイケ』放送終了。これによりコンビでのレギュラー番組は単発を除けば『ぐるナイ』のみとなった。
2020年5月14日、『ナインティナインのオールナイトニッポン』放送再開。コンビ結成30周年を迎える。
2020年9月10日の 『ぐるぐるナインティナイン 2時間SP』で、15年ぶりにネタを披露。
2020年10月22日放送の『ナインティナインのオールナイトニッポン』内で、岡村が30代の一般人女性との結婚を報告した。これにより、コンビで既婚者となった。
2023年10月11日、およそ5年半振りにコンビでの新レギュラー番組『週刊ナイナイミュージック』放送開始。
岡村によると、コンビ名の由来は岡村が嗜んでいたブレイクダンスの技の1つである「1990(ナインティーンナインティ)」から引用した。「NSC9期出身の2人だから」という説は後付けとしている。
初期は舞台を中心にコントや漫才を行っていた。岡村の全身を使ったダイナミックなボケと、矢部の「〜じゃないスか」などの冷静な「敬語ツッコミ」が特徴的。岡村が「身長はひゃく○○じゅっ○○センチです」とゴマかす「チビネタ」等も多かった。ねるとん出演時にて、チビネタがとんねるず(石橋貴明・木梨憲武)にハマっていた。
大阪から東京に活動の場を移してからはテレビのバラエティ番組をメインに活動している。岡村が常識的なことをあえて知らないフリをしたり勘違いしたまま暴走し、それを矢部が軽くツッコみながらも岡村を泳がす「勘違いボケ」などを得意としている。
ネタ作りは岡村が担い、仕切りや司会などは矢部が担当している。仕事の比率で言えば岡村の仕事量の負担が多く、ネタを考える岡村の横において矢部が新聞や週刊誌を読んで休んでいることでケンカが頻繁にあった。矢部は岡村が苦手としている仕切りや司会の仕事を矢部が練習もせず見事に熟すこと、岡村の真面目にネタを考え笑いに真剣に取り組んでいる部分、お互いに長所・短所をカバーしてコンビのバランスを取っている。
立命館大学に在学中は国家公務員を目指していた岡村だったが、それは「安定した職についてほしい」という父・治雄の勧めによるものであった。矢部の誘いをきっかけに「俺は親父の敷いたレールの上を歩いていただけやった」(岡村談)と思い直し、お笑いへの方向転換を決意したという。
当時の岡村の父は「隆史をヤクザの世界に誘いおって、矢部を絶対に許さへん!」と大激怒し、矢部が岡村の家に遊びに行っても一切口を利いてくれなくなった。岡村が休養したのをきっかけに矢部は岡村の父から「矢部さん、本当に隆史を見捨てんといて下さい」と言われ、2人はメールでやり取りをする仲にまで進展したのを元マネージャーとの対談で語っている。
ナイナイ担当の歴代マネージャーはあだ名を付けられるのが恒例になっている。その命名は何故か有野晋哉(よゐこ)。特にキャラクターが特徴的な人物は『ナインティナインのオールナイトニッポン』で面白いエピソードとして語られるため、リスナーにもネタにされることが多い。
歴代マネージャーのあだ名には、河内マン(河内)・坪倉大臣(ツボクレンジャー、坪倉)・磯塚センターフライ(磯塚)・イトックス(伊藤)・なかなかじま(中島)・お茶子さん(中村)・満喫太郎(織田)・サトスター(佐藤)・居眠り姫(古瀬)・アジアンビューティー(土橋)・大森二等兵(大森)・ジム大谷(大谷)・なうかど(今門)・新車車谷(車谷)などがある。
新しいマネージャーが付いた際に、大阪時代のマネージャーが矢部のファンに手を出して吉本をクビになった旨がオールナイトニッポンで半ばお約束として語られる。
ナイナイのオールナイトニッポンでよくマネージャーイジりをしていた。坪倉が野猿で唯一女性ボーカルで一度だけ参加したCA(荒井千佳)との入籍を「嫁が野猿」とイジったり、アナウンサーの内田恭子が週刊誌に「吉本のマネージャーKと熱愛(のちに結婚)」を岡村に「河内マンだと思う」と言われたが、矢部に「(河内マネージャーが)体型ちゃうし、河内は角刈りやん!」とイジられた。
ナイナイが今後どのような活動をしてゆくのか、壁にぶち当たった時などに2人だけで会議が行われている。テレビやラジオで会議が行われる場合もあるが、それ以外に他人から知られたくない議題は主にメールで行うことになっている。年齢と共に仕事への向き合い方での修正や活躍の仕方、コンビでの活動などが話し合われる。
レギュラー番組
スペシャル番組
現在
過去
毎年9月9日を「ナインティナインの日」と位置付け、2人の地元である大阪で毎年同日に『ナイナイライブ』と題し2005年まで開催されていた。詳細は『ナイナイライブ』を参照。
「岡村隆史のオールナイトニッポン歌謡祭 in横浜アリーナ」(岡村のみ)2015年から2019年まで開催。
「ナインティナインのオールナイトニッポン歌謡祭 in横浜アリーナ」2021年-
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