カラーテレビ(英語: Colour television)は、映像に色が付いているテレビジョン放送、またはこれに対応したテレビ受像機である。
日本で登場したばかりの頃は「総天然色テレビジョン」と呼ばれていた。
モノクロ画像をカラーにするため三原色に分解変換する必要があるが、NTSC・PAL・SECAMといった方式が出来上がるまでに模索期があり、大別すると「フィールド順次方式(逐次方式)」と「同時方式(並列方式)」、並びに後者に準じた「点順次方式」となる。
テレビ画面を1コマ(フィールド)ごとに赤・緑・青と切り替え、これを高速化することで残像現象で自然な色彩像になるというもの。
赤・緑・青の信号を同時に送りだすというもの。NTSC方式はこの方式の代表例である。白黒放送の映像も見ることができ、上位互換性を保っている。また白黒テレビの受像器でも色は付かないものの映像を見ることができ、下位互換性を保っていることが強み(両立性)となり、こちらが主流になった。
カラーで画像を送る発想は1928年、イギリスのJ・L・ベアードが、三重スパイラルニポー円盤を使用して行った試みが最初で、翌年にはアメリカのベル研究所で飛点走査方式による実験が行われた。
ブラウン管を使った実用的カラーテレビ方式の実験は、1940年のアメリカ・コロンビア放送による初期CBS方式の実験が最初だが、戦争のため中断され、戦後これが再開されて、1950年に一度CBS方式がアメリカのカラーテレビ放送の標準方式としてFCC(連邦通信委員会)に採用されたが、RCAを中心とするアメリカ電子工業会では従来の白黒テレビではCBS方式が全く受像できないことを理由に反対し、全米テレビジョン方式委員会(NTSC:National Television System Committee)を組織して全電子方式を開発し1953年に公表、同年にFCCはNTSC方式を標準方式として採用し、日本でも1960年にこの方式の採用が決定された。これ以外の放送方式には、ヨーロッパで使われるPAL方式やフランスやロシアで使われるSECAM方式がある。
世界初のカラーの本放送は1954年1月23日、アメリカのNBCのニューヨーク局であるWNBC局が最初である。日本では1960年9月10日に本放送開始。
ただし、この後すぐにカラーテレビが広まったわけではなく、アメリカでも1965年4月時点で白黒テレビ5260万台に対し、カラー330万台(推定)と白黒テレビの1割ほどでこの年の後半になってから普及が活発化して、三大ネットワークの1つであったNBCがゴールデンアワーの95%をカラー放送し、残りのCBS・ABCもこれに刺激されて50%をカラー化した。
日本ではさらに遅く、1965年時点でも受像機の全国台数は5万台以下で、カラー番組の週間合計時間も東京の4社(NHK・日本テレビ・TBSテレビ・フジテレビ)が30時間程度という状況で、かつ民放のカラー番組もカラーテレビの普及促進上、家電メーカーの一社提供がほとんどという有様だったが、1964年の東京オリンピックを契機に電電公社の国内中継路線のカラー規格化がなされ、撮影方法・受像機共に画質の改善も行われたりした結果、受像機の生産台数もこの時期に急激に伸び始めた。
1968年4月からNHKがラジオ契約を廃止してカラー契約を創設することにより、カラー放送を大幅に増やしたことなどから普及が促進され、1968年頃から1970年代にかけて「ユニカラー」(東京芝浦電気(現:東芝))、「パナカラー」(松下電器産業(現:パナソニック))、「キドカラー」(日立製作所)、「トリニトロンカラー」(ソニー)、「サンカラー」(三洋電機)、「純白カラー」(日本ビクター(現:JVCケンウッド))、「ロングランカラー」(シャープ)、「ダイヤトロン」(三菱電機)など各社から高性能カラーテレビが出揃った。それと同時に大量生産で値段が下がったことによって、1970年の大阪万博の前後から爆発的に普及し、1973年にはカラーテレビの普及率が白黒テレビを上回った。
1969年には日本が世界で生産第1位国になるものの、1970年に日本国外において日本国内よりも廉価で販売していたため、アメリカ政府からダンピング認定を受けたことから、日本国内で消費者団体により、価格が高止まりしたままのカラーテレビを買い控える運動が推奨された。また、こうした動きからダイエーがクラウン(当時存在した電機メーカー)と協力して5万円台のカラーテレビを発売するなど価格破壊を仕掛けて、各メーカーは国内価格値下げを余儀なくされた。
1970年頃から、真空管を使用したカラーテレビは、トランジスタを使用したモデルに移行し始めた。その後は日本国外への工場移転が進み、日本国内生産は薄型テレビへとシフトしていった。
カラーテレビの普及促進などの目的から、カラーテレビ時代を意識した番組やプロスポーツチーム(読売ジャイアンツ・オークランド・アスレチックスなど)も存在した。
カラーテレビ普及初期の番組表には、カラー放送の番組には「カラー」の表記あるいはそれを表す記号がされ、テレビ放送でも番組開始の冒頭でカラー放送を示すマーク(「【カラー】」等、局によって異なる)を数秒間表示していた。逆にカラー放送が急速に普及し、相対的に白黒番組の減少が著しくなった1971年頃より、白黒放送の番組に「モノクロ」と表記あるいはそれを表す記号がされるケースも見られた。
カラー放送であることを示す「INCOLOR」アイキャッチが海外のアニメでは冒頭に入っている場合があるが、日本での放映時では省略されることが多い。
日本で、再放送等を除いて完全にカラー放送となったのは1977年10月1日であった(NHK教育の完全カラー化によるもの)。新聞表記の「モノクロ」表記およびそれを表す記号もこの時期までに消滅した。
日本放送協会(NHK)はかつて日本放送協会放送受信規約に於いて、カラー契約、普通契約、衛星カラー契約及び衛星普通契約の4つを設け、カラーとモノクロを区別していた。
2007年10月1日に施行した現行の日本放送協会放送受信規約では、カラー契約及び普通契約は地上契約に、衛星カラー契約及び衛星普通契約は衛星契約にそれぞれ統合されている。
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