タモリ(1945年(昭和20年)8月22日 - )は、日本のお笑いタレント、テレビ司会者、俳優。福岡県福岡市南区市崎出身。田辺エージェンシー所属。ビートたけし、明石家さんまと共に、日本の「お笑いBIG3」の一角を担う。本名は森田 一義(もりた かずよし)。
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タモリ | |
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本名 | 森田 一義(もりた かずよし) |
ニックネーム | タモリさん タモさん タモちゃん |
別名義 | Mr.タモリ タモリ一義 |
生年月日 | 1945年8月22日(78歳) |
出身地 | 日本・福岡県福岡市南区市崎 |
血液型 | O型 |
身長 | 161 cm |
言語 | 日本語 |
方言 | 共通語 博多弁 |
最終学歴 | 福岡県立筑紫丘高等学校卒業 早稲田大学第二文学部西洋哲学専修除籍 |
師匠 | 赤塚不二夫 |
芸風 | 漫談 物真似(形態模写) など |
事務所 | オフィス・ゴスミダ→フリーランス→田辺エージェンシー |
活動時期 | 1975年 - |
同期 | ザ・ハンダース(現在は解散) おすぎとピーコ |
現在の代表番組 | レギュラー番組 ミュージックステーション(金) スペシャル番組 世にも奇妙な物語 春・秋の特別編 ミュージックステーションスーパーライブ ブラタモリ×鶴瓶の家族に乾杯 新春スペシャル タモリステーション |
過去の代表番組 | テレビ番組 笑っていいとも! タモリ倶楽部 タモリのボキャブラ天国 ジャングルTV 〜タモリの法則〜 トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜 他多数 ラジオ番組 タモリのオールナイトニッポン タモリの週刊ダイナマイク だんとつタモリ おもしろ大放送! 他多数 |
作品 | CD 「タモリ」 「タモリ2」 「タモリ3 - 戦後日本歌謡史 -」 「ラジカル・ヒステリー・ツアー」 「タモリのワーク・ソング」 「狂い咲きフライデイ・ナイト」 他多数 著書 「タモリのおじさんは怒ってるんだぞ!」 「タモリのTOKYO坂道美学入門」 他多数 |
他の活動 | 日本坂道学会(副会長) 日本変態協会 (会長) |
配偶者 | 既婚 |
親族 | 伊佐山ひろ子(遠戚) |
公式サイト | TANABE AGENCY.Co.Ltd. |
受賞歴 | |
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1982年から2014年まで『森田一義アワー 笑っていいとも!』で総合司会を務め、「同一司会者により最も多く放送された生バラエティー番組」として、また1987年から現在まで『ミュージックステーション』で総合司会を務めており、「同一司会者による生放送音楽番組の最長放送」としてそれぞれギネス世界記録に認定されている。
太平洋戦争終戦から一週間後の1945年8月22日に福岡県福岡市に生まれる。本名の「一義」は、祖父が尊敬していたという政治家・田中義一から名前をもらおうとしたところ、上下の画数の差が大きく「頭でっかちな子供になる」という理由で上下ひっくり返して「一義」にしたものだと言われる。
本人曰く、幼少時代より大人びていて、「偽善」という言葉を知っていたと語っている。幼稚園入園時期が迫り、とある園に見学に行った際に「ギンギンギラギラ夕日が沈む(童謡『夕日』葛原しげる作詞・室崎琴月作曲)」を両手を回転させてお遊戯している園児らを見て、自分には出来ないと入園を拒否したというエピソードがある。
小学校入学に至るまで、毎日、一日中坂道に立って人間観察を行っていたことから坂道好きとなり、後に「日本坂道学会」を設立している。
小学3年生のとき、下校途中に電柱のワイヤに顔をぶつけ、針金の結び目が右目に突き刺さって失明。2か月休学して治療したものの、視力は戻らなかった。
小学5年生の頃、予餞会で「喜劇カラス天狗」の台本を書いて披露したが、受けなかった。しかし、後に脚本家として活躍している同級生と再会した際、「面白かった」と評された。スポーツにも興味があり、野球をやっていた。ラグビーなどのスポーツ観戦も興味があるという。
小学生の頃、当時としては珍しい考えの祖母が「今の内から男も料理ができるようにならないと、後々奥さんがいざと言うときに困るでしょ。私が料理をしている姿を見ていなさい」と言われ、毎日祖母が支度する姿を見ていたことが料理を始めたきっかけだという。この頃のことを「小学生時代は、学校から帰ると暇でテレビゲームもなければ、習いごともなく、人を見ているか、坂道を見たり、船を見たり、(祖母の料理支度の見学は)暇つぶしにはもってこいだった」と述懐している。そのため、金銭面にも余裕がなかった学生時代に友人らと料理を作る際には、一人で大体の料理を作ったり、出汁の取り方まで全部覚えていたと語っている。
福岡市立高宮中学校時代には、近所にあった平尾バプテスト教会に通ったという。キリスト教に興味があったわけではなく、宣教師の身振り手振りや喋りが面白いからという理由であり、この経験が後に『笑っていいとも!特大号』で見せる「来日3年目の外国人牧師」等に生かされている。なお、このものまねにはモデルが存在し(当教会の宣教師、R.H.カルペッパー)、当教会関係者から見ても「確かによく似ている」そうである。
部活動は、主に剣道と陸上競技を行っており、陸上部で短距離200mを走っていた。
ちなみに福岡市立高宮中学校は、1958年当時全国で2番目のマンモス校であった。
福岡県立筑紫丘高等学校へ入学し、剣道部と吹奏楽部を両立してトランペットを担当していた。アマチュア無線クラブにも入ってアマチュア無線技士の資格も取得していて個人の無線局JA6CSHも開局し、船の無線通信士にもあこがれた。さらに居合道場も通い、二段を取得した。ファンであった地元球団・西鉄ライオンズが身売りをしたため、野球への興味を失う。
高校卒業後、1年間の浪人生活を送る。大学浪人中はしばしば押入れに篭り、中国や韓国からのラジオ放送を長時間聴いていたことが、「4か国語マージャン」などの「インチキ外国語芸」へとつながった。また、座禅を組んで極度の瞑想に近い経験をしたこともある。
無線に興味があったため電気通信大学を目指したが、物理が克服できず、1965年に早稲田大学第二文学部西洋哲学専修へ入学。
早稲田大学ではモダン・ジャズ研究会に在籍し、高校時代から引き続きトランペットを担当。同期に増尾好秋、1年先輩には鈴木良雄らがいた。しかし、「マイルス・デイヴィスのラッパは泣いているが、お前のラッパは笑っている」などの批評を受け、トランペットは3日でやめてしまい、代わりにマネージャーと司会を担当することになった。この時期に付けられたニックネームが、森田をバンドマン読みとした「タモリ」である。
その後、学生バンドの司会としてTBSラジオの番組「大学対抗バンド合戦」に出演し、司会の大橋巨泉からその才能を認められている。
大学2年次5月の連休に、友人2人と旅行を計画し、学費用の仕送りを旅行用に一旦充てたが返済されず、自分の授業料の支払いが滞ることとなり、3年次に学費未納のため抹籍処分となった。
大学を抹籍処分になった後もモダン・ジャズ研究会のマネージャー役を続行し、バンドの司会などでかなりの収入を得ていた。しかし、間もなく叔父に福岡に引き戻され、朝日生命に3年近く保険外交員として勤務し、2歳年上の同僚の女性と結婚した。その後旅行会社に転職し、系列の大分県日田市のボウリング場支配人に転属となった。
1972年、渡辺貞夫の福岡でのコンサートスタッフに大学時代のジャズ仲間がいたことから、コンサート終了後、友人が泊まっていたホテルで終電がなくなる時間間近まで飲みながら話し込んでいた。いざ帰ろうと部屋から出た際、やけに騒がしい一室があり、半開きになっていたドアから中を覗くと、室内ではコンサートに同行していた山下洋輔トリオ(山下洋輔、中村誠一、森山威男)が歌舞伎の踊り、狂言、虚無僧ごっこなどで乱痴気騒ぎをしていた。そこに通りがかりのタモリが乱入し、中村誠一が被っていたゴミ箱を取り上げると、それを鼓にして歌舞伎の舞を踊り始めた。山下トリオの面々は「誰だこいつ?」と動揺するが、中村が機転を利かせてその非礼をデタラメ朝鮮語でなじると、タモリがそれより上手なデタラメ朝鮮語で切り返し、中村とのインチキ外国語の応酬に発展。表情を付けてデタラメなアフリカ語を話し始めた際には、山下は呼吸困難になるほど笑ったという。始発が出る時間まで共に騒ぎ、「モリタです」とだけ名乗って帰宅した。
「この男はジャズファンに違いない」と確信した山下は、福岡市内のジャズバーに「モリタという名前の男を知らないか」と片っ端から問い合わせた結果、「喫茶店の変人マスターでは?」という情報が入り、再会を果たすことになる。この時期タモリは転職して喫茶店のマスターとなっており、ウィンナ・コーヒーを注文すると、ウィンナーソーセージが入ったコーヒーを出すなど、地元では奇妙なマスターとして有名であった。再会後は、山下トリオが九州に赴く際の遊び仲間となり、山下のエッセイ等でしばしば取り上げられるようになった。
1975年の春、山下が行きつけの新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」で、「山下がそんなに面白いと言うのなら一度見てみたい」と、タモリを上京させる機運が高まり、バーの常連(奥成達、高信太郎、長谷邦夫、山下洋輔、森山威男、坂田明、三上寛、長谷川法世、南伸坊ら)により「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」が結成され、会のカンパによって、1975年6月に上京を果たす。
上京時に開かれた独演会では、「4か国語麻雀」や「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎演じる宇宙飛行士が、宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」など、リクエストを含めた即興芸を披露した。
福岡で生活しつつ、カンパの資金により月1回上京し「素人芸人」として即興芸を披露するという一種の二重生活を開始した。
8月初旬、ジャックの豆の木での独演会に、面白いことをやっている人間がいるという噂を聞きつけた赤塚不二夫が訪れ、その芸に心酔した赤塚は、8月末に生放送が決定していた自らの特別番組へ出演させることを決意する。
放送までまだ日数があったため福岡に帰ることを望んでいたが、「芸をもっと見たい。福岡に帰したくない」と考えた赤塚の、常人ではありえない発想の懇願方法(当時、赤塚が住んでいた4LDKのマンションや、保有するベンツのスポーツタイプなど、それら全てを自由に使っていい)を了承、赤塚宅での居候生活が始まった。さらに、赤塚から月に20〜30万円の小遣いが渡され、新宿の飲み屋で赤塚や山下らと馬鹿騒ぎしながらネタを作る日々を送ることとなる。
居候の秘訣は「卑屈になるな」であると、ことあるごとに語っているものの、家主(赤塚)は仕事場に寝泊まりしており、「居候」「居候生活」と言っているが、実質は貸与である。
マンションを譲ることになった赤塚は、仕事場のロッカーを倒し、それに布団を敷いて寝場所を確保するなど、侘しい生活を送ることとなる。着る服がなくなりやむなく一時帰宅した際に、探していた服をタモリが着ていたという笑い話がある。
タモリが赤塚宅で居候し、東京に居住することになったのと同時に、「ジャックの豆の木」のA子ママ(A子は匿名ではなく通称)を社長、山下洋輔を常務とするマネジメント事務所「オフィス・ゴスミダ」(「ゴスミダ」はタモリによる韓国語モノマネの1フレーズ)が設立され、所属タレントとなる。同事務所のマネジメントにより、前述の赤塚が出演させたかったバラエティ番組『マンガ大行進 赤塚不二夫ショー』(1975年8月30日、NETテレビ『土曜ショー』にて放送)で、テレビ番組初出演を果たす。放送ではインチキ牧師などのパフォーマンスを次々と披露したが、たまたま番組を見ていた黒柳徹子から「今の人、誰?すごいじゃない」とその夜のうちに問い合わせがあり、次いで『13時ショー』(『徹子の部屋』の前身番組、NETテレビ)の素人芸能コーナー「珍芸スターお笑い大行進」(コーナーMCはラビット関根)に、赤塚とともに2回目のテレビ番組出演をした。
京都大学の学園祭に、筒井康隆・高信太郎・山下洋輔とともに出演し、野坂昭如・日高敏隆などの文化人との出会いを果たすが、学園祭主催者と発生した金銭的なトラブルを機に「オフィス・ゴスミダ」は解散した。しかしこれを機に元々は山下洋輔と家族ぐるみの付き合いに等しかった筒井康隆の家に自身も神戸に足を伸ばして訪問したり、当時まだ小学低学年生であった筒井の子息である筒井伸輔にも強く慕われるほどの関係を築き80年代からの筒井原作の映画に多数出演等を果す事になる。
赤塚のテレビ特別番組に出演させるという当初の目的を達成した赤塚らは、次の目的を「タモリを芸能界入り(芸能事務所に所属)させる」に設定し、赤塚宅での居候生活は田辺エージェンシー入りする直前まで継続され、途中には妻も呼び寄せている。
赤塚らと飲み屋で騒ぐ中で、放送作家の高平哲郎らとも知り合うなど、芸能界的な人脈も増えていく。売り出すための算段などが練られて、「戦後最大の素人芸人」というキャッチフレーズが作られたり、浅井慎平がサイレント映画の大スター・ルドルフ・バレンチノ風にスタイリングしたアイパッチ姿をトレードマークとするなど、徐々にキャラクターが作り込まれていった。
特異な芸風から所属事務所が中々決まらなかったが、高平の紹介を受けて大手芸能プロダクション・田辺エージェンシーと契約を結ぶ。大恩人ともいえる社長の田邊昭知とは、後に親友になっている。
なお、芸能界入りする際、4つの戒律を自らに掲げたという。
1976年4月、東京12チャンネルの『空飛ぶモンティ・パイソン』で、正式なメディアデビューを果たす。その後、バラエティ番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系列)にもレギュラー出演が決まるが、この時期は「タモリ専用のコーナー」で密室芸をするという形が取られていた。30歳で芸能界入りした為、ビートたけし、笑福亭鶴瓶、明石家さんまなどは年齢が下であるが先輩になる。
当時の芸は、イグアナの形態模写に代表される体芸、反知性を打ち出した中洲産業大学教授、デタラメ言語「ハナモゲラ」など、他の芸人とは一線を画しており、テレビ的にはキワモノ芸人的存在と考えられていた。本人は、イグアナの形態模写と称してブリーフ一枚で芸を行う等キワモノとして扱われていた当時を「今で言えば江頭2:50が出てきた様なもので、江頭よりもっと気持ち悪がられていた」と評している。
同年10月からは、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)でパーソナリティを務めるようになり、徐々にマニアックな層からの支持を集めていく。また、この頃、山下洋輔主催の全日本冷し中華愛好会に参加した。
1977年には、赤塚不二夫、滝大作、高平哲郎らと「面白グループ」を結成。週3回以上の宴会を催し、その成果を何らかの方法で発表することを目的にした団体であり、まもなく、坂田明、内藤陳、小松政夫、団しん也、たこ八郎、三上寛、研ナオコ、柄本明、所ジョージ、アルフィー、劇団東京ヴォードヴィルショー(一部メンバー)も参加。ビートたけしも参加しようとしていたが、たけしはタモリの芸風を嫌ってすぐに脱退したという。
なお、同年10月29日、面白グループ旗揚げ公演として、渋谷公会堂で「輝け!第一回いたいけ祭り」という、タモリや赤塚の「宴会芸」を見せるイベントを行う。
1979年には、赤塚が企画した映画『下落合焼とりムービー』に出演。また、1981年には、面白グループ名義で、当時ヒットしていた女子大生2人が執筆した書籍『ANO・ANO(アノアノ)』のパロディ本、『SONO・SONO(ソノソノ)』を刊行するなどしていた。
1980年からは、芸能生活僅か5年のキャリアで、お笑いオーディション番組「お笑いスター誕生!!」に、審査員として出演し若手芸人を講評していた。同番組に出場したとんねるずに対して、タモリ、赤塚以外の審査員らにはとんねるずの芸は不評であったが、2人のみが「何か良いんじゃないか」と高評価であったと後年とんねるずは語り、それ以前から尊敬していたがさらに崇拝度合いが増したと語っている。
1980年代に入ってからは、密室芸の披露の場を減らし、『ばらえてい テレビファソラシド』(NHK)、深夜バラエティ番組『今夜は最高!』(日本テレビ系列)などで、知性的な部分を前面に打ち出すようになり、ファン層を拡大していく。ただし、当時は下ネタ発言が多く、夜の番組の芸人というイメージが強かった。
その一方で1980年10月からニッポン放送において、夕刻のナイターオフシーズン放送として主婦向けトークバラエティー「だんとつタモリ おもしろ大放送!」が放送開始。主婦向けに夜の生活秘話などのきわどいトークで人気を集めるようになった。この番組がきっかけになり、1982年、当時フジテレビのプロデューサーであった横澤彪が、「夜の顔を昼に」とタモリを昼の帯番組に起用するという荒業に出る。『森田一義アワー 笑っていいとも!』・『笑っていいとも!増刊号』(フジテレビ系列)は開始当初こそ視聴率が低迷したものの、間もなく人気となり、2014年3月31日の放送終了まで31年半続く長寿番組となった。
また、深夜番組向けであるタモリ本来の芸風を崩さない目的で、所属する田辺エージェンシーが制作に加わる深夜番組『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系列)が放送開始され、2023年4月1日の放送終了まで41年続く長寿番組となった。
『いいとも』で司会術を磨き、1983年には芸能生活たった8年のキャリアで『第34回NHK紅白歌合戦』(NHK総合テレビジョン)の総合司会を務めることになる。NHKアナウンサー以外が「紅白歌合戦」の総合司会を務めるのは史上初という異例の起用であった。また、1987年4月3日からは音楽番組『ミュージックステーション』(テレビ朝日系列)の総合司会を関口宏から引き継ぎ、2017年には30周年を迎えた。
1990年代以降は、趣味や知識(本人曰く「広く浅く」)を前面に打ち出すようになり、『タモリ倶楽部』の他にも、『タモリの音楽は世界だ!』(テレビ東京系列)、『タモリのボキャブラ天国』『タモリのジャポニカロゴス』(フジテレビ系列)、『ブラタモリ』(NHK)などの冠番組を持った。
2001年11月5日、友人とゴルフ中、友人の打ったゴルフボールが頭部に当たり、左こめかみ付近を負傷し、15日まで検査入院した。期間中は生放送番組である『いいとも』と『ミュージックステーション』の両番組を欠席し、『いいとも』は各曜日レギュラーが、『ミュージックステーション』はアシスタントの武内絵美アナウンサーとKinKi Kidsら当日のゲストが曲順ごとに輪番制で総合司会代行を務めた。
2002年4月5日、『笑っていいとも!』が放送5,000回を達成。「生放送単独司会世界最高記録」としてギネスブックに登録された。
2002年4月〜翌年3月、「TVガイド」創刊40周年のCMに出演。タモリがインチキ外国語を喋るCMで、中国・フランス・ドイツ語バージョンと、韓国・ロシア・イタリア語バージョンが作られた。
2002年5月、『タモリ倶楽部』内企画「プロジェクトSEX 性の挑戦者たち〜シリコンの女神を創った男達」が平成13年度 第39回ギャラクシー賞奨励賞を受賞。
2002年8月、23年間マネージャーを務めた前田猛が急性くも膜下出血のため死去。田辺エージェンシー社長の田邊昭知と共に葬儀委員長を務めた。
2004年10月16日、「TOKYO1週間」での連載「TOKYO坂道美学デートNAVI入門」をまとめた書籍『TOKYO坂道美学入門』が発売された。
2006年1月3日、短編映画『やどさがし』公開。三鷹の森ジブリ美術館でのみ上映されている約12分の短編アニメーションで、タモリはすべての効果音や擬音を声で演じた。
2007年2月、鈴木良雄・伊藤潔・五野洋ら共に、ジャズレーベル「ONEレーベル」を設立。「ONE」は「一義」から取られたもの。5月16日に「ONEレーベル」から第1弾CDとして、鈴木良雄トリオの「For You」を発売。12月5日には、第2弾CDとして鈴木良雄率いるBASS TALKの『Love Letter』が発売された。
2007年6月5日、TOYOTAエコWEBマガジン「あしたのハーモニー」が創刊し、編集長を務めた。
2007年9月8日、木村拓哉から直々のオファーを受け、『HERO』に出演。
2007年11月26日、ライブ「中洲産業大学&ほぼ日刊イトイ新聞 presents 『はじめてのJAZZ2 ヒストリーもたのしみなりー!』」(昭和女子大学 人見記念講堂)が開催され、20数年ぶりに中州産業大学・タモリ教授のジャズ講座が復活した。
2008年2月24日、『ANN』40周年記念番組『俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル』の中で『タモリのオールナイトニッポン』を放送した。
2008年8月2日、赤塚不二夫が肺炎のため死去。7日の告別式ではタモリが生涯で初めて弔辞を読み「私もあなたの数多くの作品のひとつです」と語った。この弔辞は9月刊行の『文藝春秋』(10月号)に全文が掲載された。
マリーナメンバーの高齢化を危惧し、若い世代をヨット界に集めようと、ヨットレース「タモリカップ」を2008年から、ヤマハマリーナ沼津にて開催した。
2010年4月9日、第2回伊丹十三賞受賞。「テレビというメディアに『タモリ』としか名づけようのないメディアを持ち込み、独自の話芸と存在感を発揮する稀な才能」と評価された。
2011年10月10日放送の『タモリ・中居の手ぶらでイイのに…!?〜 ドラマチック・リビングルーム〜 』が、第49回ギャラクシー奨励賞を受賞。
2012年7月21日から22日にかけて生放送された『FNS27時間テレビ笑っていいとも!真夏の超団結特大号!! 徹夜でがんばっちゃってもいいかな?』では『いいとも』放送30周年を記念し、89年の第3回目以来の総合司会を務めた。
2013年5月、『タモリ倶楽部』が第50回ギャラクシー賞テレビ部門特別賞を受賞。
2014年3月21日、『いいとも!』のコーナー「テレフォンショッキング」に、現役首相として初めて安倍晋三が出演。新聞の首相動静欄に「タモリと会食」と載せたいタモリの要望により、一緒にイチゴを食べるが、翌日、新聞各紙は「会食」に触れず、朝日新聞は「試食」と表現した。
2014年3月31日、『笑っていいとも!』が最終回を迎える。1982年10月4日から続いてきた全8,054回の当番組は、『生放送バラエティー番組 単独司会最多記録』として、ギネス記録に認定された。
2014年9月、サントリー「プレミアムボス」宇宙人ジョーンズシリーズの新CMに出演。『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングを模したスタイルおよびスタジオセットで、イグアナのモノマネなどを披露した。CMのコピーは「この惑星のテレビはタモリがいないと寂しい」。
2014年10月15日、授賞理由は「独自の視点を持つ数多いテレビ番組の『顔』として、日本の笑いを革新した」ことが評価され、第62回菊池寛賞を受賞した。
2014年12月31日、『第65回NHK紅白歌合戦』に審査員として、総合司会を務めた第34回以来、31年ぶりに出演。
2016年、日本テレビ系列スペシャルドラマ『天才バカボン』の主題歌を担当。
2016年6月、一般社団法人めぐろ観光まちづくり協会の名誉会長に就任。
2016年12月19日、『SMAP×SMAP』内企画『ビストロSMAP』の最終回に、最後のゲストとして出演。実食のコーナーでは、中居の提案とタモリの発声で、タモリとSMAPの6人皆で食事を楽しんだ。勝負の判定で、タモリは「最終回だから判定はしない」「どっちも美味しかった」「人生で判定なんかどうでもいいこと」として、判定なしとした。また、勝者へのプレゼントでは、SMAPメンバー5人分を用意し、星型のオブジェにSMAP×SMAPのロゴと、メンバーの名前、タモリの名前が入った小物を贈った。
2018年7月19日に発売された週刊新潮2018年7月26日号において、脚本家の中園ミホとの不倫密会が報道された。しかし、所属事務所の田辺エージェンシーは報道を否定した。
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
多くの芸能人から「タモリさん」「タモさん」と呼ばれる。大橋巨泉、山下洋輔などからは「タモリ」、和田アキ子や小松政夫、愛川欽也などからは「タモちゃん」と呼ばれる。中居正広からは稀に「森田さん」と呼ばれる。
オールバックの髪型、サングラスがトレードマークである。上京してデビューした頃は、普通のメガネに七三分けという真面目なサラリーマンそのものの風貌であり、中洲産業大学教授を演じるときのみボサボサの髪型にしていたが、「顔に特徴がない」との理由で浅井慎平によるアイパッチをつけたキャラクターでデビューし、『空飛ぶモンティ・パイソン』の収録時に高平哲郎から「素顔では迫力がないから」との理由でレイバンのサングラスをかけさせられた。
初期はサングラスとアイパッチを併用し、1977年3月より放映された初のCM出演となるキヤノンのテレビCMに整髪料で固めた真ん中分けの髪型で出演し、撮影終了後そのまま帰宅し、翌日同じ髪型で仕事に行って以来、この髪型で通すこととなった。
『笑っていいとも!』では、開始当初は七三分けにアイビールックの姿で出演していた。
ジャズをこよなく愛し、所有レコードも数多く、植草甚一の死後に、散逸を防ぐためにその膨大なレコードコレクションをすべて引き取ったことでも知られる。新宿ジャズスポット「J」を経営する株式会社ノースウエストエンタープライズの取締役を務め、また奏者としては、各種セッションへの参加は勿論、テレビの場でもトランペットを度々演奏している。他方、「意味性」のある音楽については苦手としており、自身は数多くの音楽番組の司会を長年務めているものの、ポップスなどのミュージシャンについての言及はほとんどない。例外として、Pen 2020年5月1・15日合併号『井上陽水が聴きたくて。』に登場し友人関係にある井上陽水の楽曲について語ったり、小沢健二に「いいと思う歌詞は小沢くんだけ」と述べたり、「盆ギリ恋歌」「ヨシ子さん」「悪戯されて」などのサザンオールスターズ及び桑田佳祐の楽曲を絶賛するなど、自身が気に入った曲に関しては感想を述べる事もある。
カラオケはあまり得意ではないといい、「人生で一度ぐらいしかカラオケに行った事が無い」「行っても君が代ぐらいしか歌えない」と語っている。
基本的に弟子は取らない方針で、志願者が来ても「自分の芸は誰かに教えてもらったものではないので、人に教えようが無い」と断るというが、中には弟子入りを許されて付き人兼運転手をしていた者も存在していて、タモリは「うちの若いもん」「うちの若い奴」などと表現している。
1980年代後半には岡村、90年代後半には金子という付き人がいて、度々『いいとも!』などに出演させていた。岩井ジョニ男(イワイガワ)も付き人を務めていた一人で、当時『タモリ倶楽部』の『空耳アワー』では、「タモリマネージャー」の肩書きでVTRに出演するなどしていた。
なお、多くの芸能・有名人がメルセデスベンツやロールスロイスなどの高級車を移動に使用する中で、現在では多くの芸能人が使用しているワンボックスカーやミニバンを移動車としていち早く導入するなど、先進的な一面も見られる。
2016年8月、ごく身内のみが集まった71回目の誕生日会で引退を示唆する発言を行ったという。以前から親しい関係者に「古希になったら芸能界を引退する」と語っていたとも言われる。
『いいとも!』の総合司会時代だけでも、年5億円(1回の放送で200万円)程度、他番組と通算で7億円程度のギャラを得たとされる。2003年以降の推定年俸から考えると『いいとも!』開始から2013年までに135億円程度を稼いだと言われる。一方、自身は収入については無頓着であり、放送局とのギャラ交渉にも意見をすることはほぼない。2014年のいいとも終了後は、金額こそ減っているが、特に生活に困らないレベルの収入はあるとされる。
2015年にはNHKから『第66回NHK紅白歌合戦』の総合司会のオファーを受けたが、スケジュールの都合などを理由に辞退したと報じられている。
居候時代に培った芸は「密室芸」と呼ばれる。命名者は奥成達。近年も徹子の部屋などに出演した際に披露する。
リアルな動物の物まねが有名で「産まれたての仔馬」や「コンドルの着地」「ハエ」「イグアナ」などがある。
上京当初、「北京放送」や形態模写くらいしか持ちネタがなかったが、臨席した人物からの無茶振りをそつなくこなし、それを自らの芸として確立させていった。前述の「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が、宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」は「宇宙飛行士→大河内伝次郎の宇宙飛行士→ターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士…」と客の指示により、状況が変わっていく即興芸。
また、団しん也や小松政夫らも持ちネタとしている、「マジックショーの電動ノコギリで切られる有名人」は、おもしろグループでの宴会芸が発端となって、永六輔や野坂昭如などが切られたときのリアクションをそれぞれやったらウケたことから、とくに専売特許と決めていないと、2人は語っている。
ただし、放送できない部類のパロディ・ブラックユーモアを含むものがかなり多く、テレビなどで密室芸と称して行う場合は放送して差し障りの無い程度に表現を緩和あるいは差し替えている。持ちネタの一つであった昭和天皇の物真似については、1985年5月14日、作家の筒井康隆のパーティーで披露したところ、それが翌週の「週刊読書人」に掲載され、右翼から脅迫を受けることとなり、最終的には所属事務所の田邊昭知社長が半監禁状態で右翼から抗議される事態に至った。この後、6月26日に筒井が製作する映画『スタア』に昭和天皇役でオファーがかかったが、タモリ側の希望でアドルフ・ヒトラー役に変更になり、事件以降、昭和天皇ネタは封印されている。
総合司会者としては、多趣味を生かした話のフリと、相手の話をきちんと理解しきちんと切り返すという技術に確かなものがある。ただし、バラエティ番組の司会、とくに『いいとも!』においては、要所を押さえながらも自由すぎる行動や発言を織り交ぜるのを特徴としている。
またゲストに失礼なリアクションをした若い一般観衆に対して、場の空気を壊さずに注意したりたしなめたりする能力は他の追従を許さず、「これ程上手に叱る司会者はいない」と横澤彪に評された。
「誰でも弾けるチック・コリア」「誰でも弾けるハービー・ハンコック」など、誰でも弾けるシリーズや、中国人の弾き語りなど、ピアノの鍵盤を使った芸を数多く持つ。また、ラップ(得意の外国語風もおこなう)やヒューマンビートボックス、口三味線なども度々披露する芸である(いいともなどでラッパーやビートボクサー、楽器演奏のできるゲストであった場合の即興コラボは定番であった)。
元々『いいとも!』の「テレフォンショッキング」で紹介されたテレフォンゲストへのメッセージのメモをとるふりをし、実は放送禁止の女性器を簡素化した図形を描き、テレフォンゲストに見せ、その反応を楽しんでいた。次第に、その図柄にちなみ安産祈願と称しそのメモをテレフォンゲストが持ち帰るようになった。
特記のないものは日本テレビ制作
特記のないものはテレビ朝日制作
特記のないものはTBS制作
特記のないものはテレビ東京制作
特記のないものはフジテレビ制作
NO. | タイトル | B面 | 形態・発売日 | 品番・発売元 |
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1st | 狂い咲きフライデイ・ナイト | スタンダード・ウィスキー・ボンボン | EP:1981年 | 07SH-1011(CBS/SONY) |
2nd | タモリのワーク・ソング | 久美ちゃんMy Love 〜ディア・オールド・ストックホルム〜 | EP:1981年 | 07SH-1089(CBS/SONY) |
NO. | ジャケットタイトル | 形態・発売日 | 品番・発売元 | 備考 |
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1st | タモリ | LP:1977年03月20日 | ETP-72227(東芝EMI/Alfa) | 毛沢東風中国人・マッカーサー風アメリカ人・ヒトラー風ドイツ人・寺山修司風日本人のモノマネによる「四カ国親善麻雀」が収録されているが、元々は寺山修司ではなく昭和天皇の物真似であった。発売になったのは修正版。2007年発売版では「CMブラジャー・ミシン」(ブラザー工業風のラジオCM風パロディ)のセリフの一部がカットされて収録されている(乳がん患者への配慮と思われる)。 |
LP:1980年(再発) | ALR-4013(アルファ) | |||
CD:1995年06月16日(初CD化) | ALCA-9159(アルファ) | |||
CD:2007年12月20日(CD再発) ※初回のみ紙ジャケ仕様 | MHCL-1238(Sony Music Direct) | |||
2nd | タモリ2 | LP:1978年12月20日 | ETP-80060(東芝EMI/Alfa) | 講師として中洲産業大学芸術学部西洋音楽理論の森田一義助教授の音源が収録されている。 |
LP:1980年(再発) | ALR-4007(アルファ) | |||
CD:1995年06月16日(初CD化) | ALCA-9160(アルファ) | |||
CD:2007年12月20日(CD再発) ※初回のみ紙ジャケ仕様 | MHCL-1239(Sony Music Direct) | |||
3rd | タモリ3 - 戦後日本歌謡史 - | LP:1981年9月10日 | TAMORI-3(アルファ) | 実際には『タモリ2』発売以前より録音されており、当初はこの内容が『タモリ2』になるはずであった。戦後の名曲をパロディにしているため著作権上の疑義が指摘され、初回プレス分の3万5000枚だけを新星堂で限定発売し直ちに廃盤という運命をたどる。未CD化。 |
4th | ラジカル・ヒステリー・ツアー | LP:1981年05月01日 | 27AH-1237(CBS/SONY) | サザンオールスターズの桑田佳祐、THE SQUARE(現:T-SQUARE)の安藤まさひろ(本名の安藤正容名義)と当時メンバーであった久米大作が楽曲を提供。安藤、久米の提供曲はTHE SQUAREがバック演奏を担当している。CD化の際にシングル「タモリのワーク・ソング」AB面を追加収録。中野サンプラザなどで全国ツアーを行った。 |
CD:2007年12月20日(初CD化) ※初回のみ紙ジャケ仕様 | MHCL-1240(Sony Music Direct) | |||
5th | HOW ABOUT THIS | LP:1986年09月21日 | VIH-28272(Invitation) | 大マジなジャズ・アルバム。LPとCDで一部収録曲が異なる。 |
CD:1986年09月21日 | VDR-1276(Invitation) |
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