黒柳 徹子(くろやなぎ てつこ、本名同じ、1933年〈昭和8年〉8月9日 - )は、日本の女優、タレント、テレビ司会者、エッセイスト。日本史上最初のテレビ出演者のひとりで、ニュースショーのキャスターや、トーク番組の司会を女性では初めて務めた。愛称はトットちゃん、チャック。所属事務所は有限会社吉田名保美事務所。日本芸術院会員。
くろやなぎ てつこ 黒柳 徹子 | |||||
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文化功労者顕彰に際して 公表された肖像写真(2015年11月) | |||||
生年月日 | 1933年8月9日(90歳) | ||||
出生地 | 日本・東京府東京市赤坂区乃木坂 | ||||
血液型 | A型 | ||||
職業 | 女優 タレント 声優 司会者 エッセイスト | ||||
ジャンル | ラジオドラマ・テレビドラマ・映画・舞台・CM | ||||
活動期間 | 1953年 - | ||||
配偶者 | 独身(未婚) | ||||
著名な家族 | 黒柳守綱(父) 黒柳朝(母) 黒柳紀明(弟) 黒柳眞理(妹) 田口修治(伯父) | ||||
事務所 | 吉田名保美事務所 | ||||
公式サイト | 黒柳徹子 公式ホームページ トットちゃん | ||||
主な作品 | |||||
テレビドラマ 『若い季節』 『繭子ひとり』 『元禄太平記』 吹き替え 『ひょっこりひょうたん島』 『サンダーバード』 バラエティ番組など 『NHK紅白歌合戦』(司会) 『徹子の部屋』 『音楽の広場』 『ザ・ベストテン』 『世界・ふしぎ発見!』 舞台 「海外コメディ・シリーズ」 『幸せの背くらべ』 『マスタークラス』 | |||||
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黒柳徹子 | ||||||||
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YouTube | ||||||||
チャンネル | ||||||||
活動期間 | 2021年 - | |||||||
登録者数 | 21.7万人 | |||||||
総再生回数 | 33,321,643回 | |||||||
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チャンネル登録者数・総再生回数は 2023年11月7日時点。 |
日本でテレビの放送を開始した初日からテレビ出演を続ける(1953年2月1日)、日本史上最初のテレビ女優である。テレビ草創期から活躍を続けるタレントの一人として知られ、日本史上最初のテレビ女優としては唯一、21世紀に至るまでテレビ番組のレギュラーを継続して持ち続けており、日本のテレビ放送史を代表する芸能人の1人であると言える。冠番組の『徹子の部屋』では、同一司会者によるトーク番組の最多放送世界記録保持者として、記録更新中である。幅広い層が観るバラエティ番組に数多く出演しており、大御所同士だけでなく若手芸人とのトークも好評であるため、21世紀においても国民的人気を維持している。
『徹子の部屋』や『NHK紅白歌合戦』などの司会業、累計800万部を記録し 、戦後最大のベストセラーとなっている『窓ぎわのトットちゃん』の著者、長年ユニセフ親善大使を務めていることで知られる。
テレビ番組だけでなく、舞台に出演したり、コンサートなどのイベントで司会を務めることも多い。新しい物好きで、2010年代以降ではスマートフォンとフィーチャーフォン(ガラケー)の2台を持ち、デコレーションを施した上で、SNSも活用し、特に福山雅治に勧められて始めたInstagramでは美的センスを活かして芸術作品のような映える画像を公開しており、10代から20代の若年女性にも好評である。黒柳も従来のテレビではありえなかった視聴者との直接の対話を新鮮に感じており、コメントもすべて読んでいる。
東京府東京市赤坂区乃木坂に生まれ、父の音楽の練習場が洗足池近くに移ったため、旧東急目蒲線洗足駅に近い大森区北千束町で育った。母が徹子を妊娠していた時、両親は男児が生まれるものと思い込んでおり、「徹」という名前を考えていたが、実際に生まれたのは女児だったため、やむを得ず「子」をつけて「徹子」にしたというエピソードがある。「黒柳」とサインを書くときには、柳の異体字である「栁」(木偏に夘)を使用する。
父は音楽家で、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)のコンサートマスターも務めたヴァイオリニストの黒柳守綱(旧姓:田口)、母はエッセイストの黒柳朝(旧姓:門山)。弟には幼くして亡くなった黒柳明兒、ヴァイオリニストの黒柳紀明、妹には元バレリーナで美容師に転身したエッセイストの黒柳眞理がいる。また、伯父には松竹蒲田撮影所の初代所長の田口桜村や、日本ニュース社のニューヨーク支社長やアメリカ・メトロニュースの極東代表を務めた田口修治がいる。
幼少期は「問題児」とされたため、尋常小学校を1年生の時に退学させられ、トモエ学園1年生に転校する。太平洋戦争末期の1945年3月の東京大空襲をきっかけに、以前に北海道の母の実家から帰る汽車で青森の農家と隣り合わせた縁で青森県三戸郡の諏訪ノ平に疎開する。
1945年8月の終戦後に東京に戻り、トモエ学園、香蘭女学校中等科・高等科、東洋音楽専門学校(現在の東京音楽大学)声楽科卒業。
音楽学校卒業後オペラ歌手にはなれないと分かり、「自分の子どもに人形劇や絵本の読み聞かせを上手にできるお母さんになろう」と思い立って、「ひょっとしたら絵本の読み方も教えてくれるかもしれない」と新聞で見かけたNHK放送劇団の俳優募集の広告に応募、履歴書を持参すべきなのに郵送してNHKから注意されたり、筆記試験の会場を間違えて遅刻した上で、問題が分からず答案用紙の裏まで長所を書き連ねた上で、消しゴムで答案用紙を汚損するなどのトラブルに見舞われながら、約6,000人の応募者の中から第6次までの審査を経て13人の劇団員の1人として選ばれた。
NHK放送劇団では五期生で、同期には友部光子、里見京子、横山道代、幸田弘子ら。
放送劇団入社時の面接では「親に言ったらこんなみっともない仕事を(するのはやめろと言われた)…」、「こういう世界は騙す人が多いから気をつけろという話を聞く」などのマイナスな発言を繰り返したのにもかかわらず、採用に至った。
女優の志望動機は前述の通り「母親になった時に子供に絵本を読み聞かせられるようになりたかったから」だったが、1952年に翌年のNHKのテレビ放送に備え招かれていたアメリカ合衆国NBCプロデューサーのテッド・アレグレッティーの講演で「アメリカのテレビ局はスポンサーの影響でニュース・教養番組はテレビ放送全体の15%だが、一公共放送が建前のNHKではニュース・教養番組が主になると聞いているので、世界の風俗・習慣・戦争を見る事が出来るので、永久的な平和がテレビによってもたらせる」と聞き、プロとしての女優意識に目覚める。
こうしてテレビ放送の開始を翌月に控えた1953年1月にNHK放送劇団の一員となり、テレビ女優の第一号としてデビューした。
当初はラジオやテレビの通行人として出演しつつ、テレビの現場を学ぶ。
1954年、NHKラジオ第1で放送され、自身初の主演となったラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』(1954年 - 1957年)が開始した。
同番組は日本のラジオドラマ史上初めて大人の女性が子供の声を演じた番組である。「大人でも子どもの声を出せるはずだ」との劇作家・飯沢匡の発案により、NHK始まって以来のオーディションを経て、三男・トン坊役を演じて一躍有名になる。
以降も人形劇『チロリン村とくるみの木』(1956年 - 1964年)、『ブーフーウー』(1960年 - 1967年)などに出演し、さまざまなキャラクターの声を演じる。
子ども番組に加えてテレビドラマ『若い季節』(1961年 - 1964年)、『夢であいましょう』(1961年 - 1966年)などの人気番組にも出演し、週6、7本のレギュラー番組を抱えるなど多忙を極めるようになる。
20代後半にはテレビとラジオのレギュラーが週に10本を数え、平均睡眠時間3時間という日が続いて、過労からすべてのレギュラー番組を降板し1か月の入院を余儀なくされる。
NHK専属女優時代の初めの頃、ディレクターは「私をずっと降ろしたがっていた」と述べている。
1958年の『第9回NHK紅白歌合戦』では、自身初となる『NHK紅白歌合戦』の紅組司会を務めた。それから22年の月日が経った1980年の『第31回NHK紅白歌合戦』で紅組司会に復帰し、1983年の『第34回NHK紅白歌合戦』まで4年連続、通算5回紅組司会を務めた。4年連続、通算5回の紅組司会という記録は、いずれも佐良直美に並び史上最多である。その32年後である2015年の『第66回NHK紅白歌合戦』では、総合司会として再度紅白の司会に復帰した。通算6度はNHKアナウンサー以外の女性の最多記録となっている。
1961年、第1回(昭和36年度)日本放送作家協会賞・女性演技者賞を受賞した。
舞台出身の俳優との間に演技力の差を感じていたことから、慕っていた杉村春子に文学座への入団を相談し、1961年に開設された文学座附属演劇研究所に3期生 として入所。NHKを退社し演技を学ぶ。江守徹、高橋悦史らが同期。
文学座の分裂後、1970年に出演した東宝のミュージカル『スカーレット』(帝国劇場)でブロードウェイのスタッフとともに仕事をして親しくなり、作曲家のハロルド・ロームの夫人・フローレンスから「面倒見てあげるから、ぜひニューヨークにいらっしゃい!」と招きを受けて、もっと勉強したいとニューヨークへの留学を決意する。
1971年9月から1年間ニューヨークへ留学し、セントラル・パーク西隣のワンルームに生活する。ローム夫妻がニューヨークでの身元引受人となり、フローレンス夫人を「ニューヨークのお母さん」と呼んだ。『スカーレット』演出家のジョー・レイトンの夫人で元女優のイブリン・ラッセルの紹介により、スタニスラフスキー・システムに基づいてプロの俳優に指導する「メアリーターサイ演劇学校」にて演技を学び、開校以来初の東洋人の生徒となる。また、同じ建物の中にある「ルイジ・ダンススクール」でモダン・ダンスを学ぶ。アフターファイブには振り袖を着てカクテルやディナーなど社交の場に足を運び、「着物と洋服、どちらにも似合う髪型を開発したい」との思いから、ニューヨークで知り合って友人となったアメリカで活躍中のヘアメイクアーティストの須賀勇介のアイディアを交えつつ、後にトレードマークとなる「タマネギヘア」を考案する。「あなたのように1人でぷらぷらしている人の目で世の中を見て、そのままの感性で好きに話してほしい」とのオファーを受けて日本初の女性司会者によるワイドショーで『徹子の部屋』の前身番組となる『13時ショー』(NETテレビ)の司会就任が決まり、放送開始前月の1972年9月に帰国する。
1976年のテレビ朝日の『徹子の部屋』の放送開始を機に、「役を演じながら司会もやると混乱を招く」「悪女役をしていたら、悪い人が話を聞いているみたいに思われる」との考えから、本人役などで出演した一部作品を除いてテレビでの女優活動を控えるようになる。
一方で、舞台女優として1989年より「海外コメディ・シリーズ」の上演を開始。劇作家・演出家の飯沢匡の発案により黒柳の主演で毎年秋に海外の喜劇を紹介する企画で、1994年に飯沢が死去した後は主に高橋昌也が演出を手掛けて、2016年秋で30回目を数えた。1997年には『幸せの背くらべ』および『マスタークラス』での演技により第38回毎日芸術賞ならびに第4回読売演劇大賞の大賞・最優秀女優賞を受賞、2013年には「永年の翻訳劇に対する情熱と功績に対して」の受賞理由により第38回菊田一夫演劇賞特別賞を受賞している。2017年秋の『想い出のカルテット〜もう一度唄わせて〜』では、同年8月末の右大腿骨骨折と手術を経て、設定を変更して車椅子で舞台を務めた。ライフワークとして30年間で32作品を上演し、2018年秋に上演の『ライオンのあとで』で幕を下ろした。継続を希望するファンの声を受けて、2019年10月には朗読劇『ラヴ・レターズ』の舞台に上る。
1976年にはテレビ朝日で自身の冠番組『徹子の部屋』が開始。長寿番組となっている。2011年4月27日放送分(35周年記念SP第2弾『出張!徹子の部屋』)を以って放送8961回を迎え、「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」としてギネス世界記録に認定された。2015年5月27日には放送回数が通算10000回となり、上記の「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」を自ら更新し、再びギネス世界記録を受賞した。1995年には「橋田賞」を、1997年には「第23回放送文化基金賞」を受賞している。2006年には黒柳と『徹子の部屋』が第54回菊池寛賞を受賞した。受賞理由は「30年間休むことなく良質な対談番組を送り続けている努力」に対してである。
『徹子の部屋』開始と同じ1976年には、「主婦の選んだテレビパーソナリティーNO.1」に初めて選出され、1989年まで14年連続で選出された。
1978年からは、最高視聴率41.9%を記録する大ヒットになったTBSテレビの音楽番組『ザ・ベストテン』が放送を開始し、黒柳は初回から1989年の最終回まで司会を務めた(なお、初期からコンビを組んでいた久米宏は1985年で降板した)。1978年度の日本女性放送者懇談会賞を受賞する。
1970年代には『音楽の広場』『おしゃべりオーケストラ』などのNHKクラシック音楽番組の司会も大きな比重を占めた。ユーモラスな早口は同種番組としては異色だったが、芥川也寸志、尾高忠明らソフトな語り口の専門家たちとのコンビネーションも好評で、賑々しいが訊き上手でもあるというお茶の間のイメージを定着させている。
1981年、自身の著書『窓ぎわのトットちゃん』が出版された。単行本・文庫本を合わせて累計800万部を発行し、世界35カ国で翻訳された。記録的なベストセラーとなり、「トットちゃんブーム」が起こった。また、黒柳は同作で、「第5回路傍の石文学賞」やポーランドの文学賞「ヤヌシュ・コルチャック賞」などを受賞している。
1981年から1985年までの5年間と1987年には、高額納税者番付の俳優・タレント部門で、森繁久彌、大橋巨泉、石原裕次郎、三船敏郎、三田佳子ら時代を代表するタレントを抑えて1位となった。1985年には、タレントとしては珍しく政府の税制調査会に参考人として招かれ、その場で「現在の私の収入の90%が税金。1時間の番組の何分か話したらあとは全部税金。原稿用紙400字詰めの2行書いたら、あとの18行は全部税金。勤労意欲を失うことが無きにしもあらず。最高税率を10%下げて欲しい。」と発言した。この発言が影響を及ぼしたかは不明だが、2年後には最高税率が60%まで下げられている。
1983年には、「新鮮な発想と円熟した話術で視聴者の共感を呼び、新しい健全な娯楽番組の定着・充実に寄与した」として、第35回NHK放送文化賞を受賞した。
1984年より、国際連合傘下のユニセフ(国際連合児童基金)親善大使を務めており、現在でも精力的に活動している(詳細は後述)。
1986年にはTBSテレビのクイズ番組『世界・ふしぎ発見!』が放送を開始し、こちらも長寿番組になっており、黒柳は初回からレギュラー解答者として、毎回出演している。また、初回から毎回出演している人物は黒柳の他には総合司会の草野仁のみである。
1991年には「第7回東京都文化賞」および「外務大臣賞」を受賞している。
2010年に「放送ウーマン賞」の日本女性放送者懇談会40周年特別賞を受賞。同年には、平成27年度文化功労者に選ばれた。2015年5月27日には『徹子の部屋』が放送回数通算10000回を達成した。
2017年にはこれまでの活躍が評価されて名誉都民に選ばれる。2020年には第29回石井十次賞を受賞。以後もテレビ番組『徹子の部屋』と『世界・ふしぎ発見!』にレギュラー出演するほか、声優や女優、司会者、国際連合児童基金の親善大使として幅広く活躍している。また、ほぼ毎年舞台に立ち続けている。
Instagramも積極的に活用しており、近況などを伝えている。2021年7月にはYouTubeに公式チャンネルを開設。
芸能活動以外にも、国際連合傘下のUNICEF(ユニセフ、国際連合児童基金)親善大使としての活動が特に知られる。親善大使には1984年アジアの人物として初めて就任し、その後最古参のメンバーになった。当時のユニセフ事務局長ジェームス・グラントは、任命理由として黒柳の子どもへの愛と、障害を持つ人々や環境への黒柳の広範囲な活動と実績を挙げている。以後、アフリカ、アジアなどの途上国を毎年欠かさず訪問し、現在までの訪問国数は30ヶ国に上る。親善大使としての活動に対して、ユニセフからは、1985年に「第1回ユニセフこども生存賞」、2000年に「第1回ユニセフ子どものためのリーダシップ賞」を受賞。また日本政府からは、2003年に勲三等瑞宝章(現:瑞宝中綬章)を授与された。
黒柳がユニセフ親善大使に就任することになったきっかけは、当時ユニセフ事務局長だったジェームス・グラントが『窓ぎわのトットちゃん』を緒方貞子の紹介により読んだことである。
これらの視察の模様は日本国内や視察した国々の中で広く報道され、2002年に黒柳がアフガニスタンとソマリアを訪問した際には、同行した日本のテレビ番組制作チームによって、視察の様子を撮影した90分間のドキュメンタリー番組が2本放送された。また、テレビ朝日『ニュースステーション』でも視察報告を行い、広範囲に亘る黒柳の現地視察は、他の報道番組や『徹子の部屋』、多数の新聞や雑誌の記事の中で伝えられている。黒柳の活動が広く報道されたことでアフガニスタンやソマリアにおける子どもと母親を支援するための資金提供を呼びかけることにもつながった。
黒柳は個人で募金活動を行っており、黒柳のもとへ寄せられた募金総額は2014年現在50億円以上に上る。黒柳のもとへ寄せられた募金は事務費用などには一切使われず、100%がユニセフの本部へ送られ、子どものために使われている。
1996年5月28日にユニセフ活動のためテレビ朝日取材班とともに訪れたボスニア・ヘルツェゴビナで、クロアチア人警察に軍事基地を撮影したという嫌疑で3時間ほど拘束されている。真相がわかるまで日本ではスパイ容疑で逮捕、身柄拘束と誤報された。
1997年にユニセフの政府拠出金が削られそうになった時、黒柳は親善大使として自ら新聞に投書して政府拠出金の維持を訴えかけた。黒柳の投書を読んで当時外務大臣だった小渕恵三が黒柳に直接電話し、「今日予算のことなんで、ユニセフのために頑張るからね」と話した。そして、黒柳の尽力もあってその年はユニセフの政府拠出金は削られなかった。
2001年、黒柳が「朝日社会福祉賞」を受賞した。受賞理由は「ユニセフ親善大使として活躍し、『トット基金』を通じてろう者の社会参加も支援した功績」である。
旱魃・内戦・殺戮・地雷がある状況で、「なぜそこまでして行くのか? 怖いとかためらうとかの気持ちはないのか」との質問に、「ユニセフ親善大使として少しでも皆様に知ってもらう。(だから)あまり大変と思わない。何かあったら、その時はその時でね。戦争を通してきた人間って、そういう所が有りますよ。だって、いつ死ぬか分からなかったんですから、小学生の時から。飢えた事も親のいない寂しさも(疎開経験で)分かり合えますから」といい、やってあげる支援ではなく、トモエ学園の「皆、一緒に行う」の思想がユニセフ活動のもとになっていると答えていた。
ちなみに、ユニセフ親善大使としての黒柳への年間報酬は、1アメリカドルである。
子供の頃、叔父がアメリカからのおみやげにパンダのぬいぐるみを持って帰ってきたことをきっかけにパンダの研究を始めた。パンダの研究は70年以上に及び、日本パンダ保護協会名誉会長を務めている。
黒柳がテレビ出演をするようになってからは、当時日本では知られていなかったパンダを紹介した。そして、黒柳の尽力もあって1972年には、日中国交正常化の記念に2匹のパンダ「カンカン・ランラン」が日本に初上陸。上野動物園に展示され、一大パンダブームが起こった。
黒柳は「日中の国交が回復したので、パンダをお願いして欲しい」と首相官邸に電話をしようと思っていたという。また、パンダが初めて日本に移送された日には、仕事のリハーサルを抜け出して上野動物園の裏口でパンダを乗せたトラックの到着を長時間待っていたが、パンダはコンテナの中で外からは全く見ることが出来なかった。さらに、それを中継していたニュース番組に、見学している黒柳の姿が映った、というエピソードがある。また、1986年に初めてパンダの名前の公募が始まった際は、当時の鈴木俊一東京都知事とともに選考委員を務めた。
長年に亘るジャイアントパンダ保護活動への功績から、四川省の成都パンダ繁育研究基地より、今年生まれたパンダの命名権が初めて無償で与えられたことが2012年9月放送の『世界・ふしぎ発見!』内で伝えられた(通常は一定金額の寄付などで期間限定の命名権が与えられる場合がある)。2012年に命名式が行われた。
1981年には、自身の大ベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』の印税を寄附して、社会福祉法人「トット基金」を設立し、黒柳自身が理事長に就任している。また、同年には「国際障害者年障害関係功労者内閣総理大臣賞」を、翌1982年には「全日本ろうあ連盟厚生文化賞」を受賞している。
その他にも、社会福祉法人「あゆみの箱」理事、日本ペンクラブ会員、世界自然保護基金ジャパン顧問、ちひろ美術館・東京館長、東京フィルハーモニー交響楽団副理事長、日本チャップリン協会名誉会長、日本パンダ保護協会名誉会長、としても活躍している。1985年に、ポーランド政府からコルチャック賞を贈られた。
『窓ぎわのトットちゃん』の印税で、アメリカの聾学校の生徒たちによる劇団「デフシアター」の日本公演を経済的に支えたことが知られている。黒柳自身も手話を使うことができ、本人役で特別出演した映画『アイ・ラヴ・ユー』でも手話を披露している。
また、これらの関係から大阪府の薬品メーカの東和薬品のテレビ広告が制作される際に広告イメージキャラクターに抜擢され、継続して出演している(広告には黒柳を模した人形が登場している)。
『夢であいましょう』で共演した渥美清とは関係が深く、「お兄ちゃん」と慕っていた。
知名度を上げるきっかけを作った人物の一人でもある。
日本初のトーク番組『徹子の部屋』を始めるにあたり、黒柳がテレビ朝日に出した条件が「スタッフの入れ替えをしないこと」「編集をしないこと(「撮って出し」の手法)」だった。後者の理由は「ゲストのありのままの姿を引き出すため」「番組の質の低下を防ぐため(帯番組を編集するのは多大な労力がかかる)」「ゲスト・黒柳・スタッフの三者間で『ここをカットしてほしい』『ここを残してほしい』と編集に関する意見が衝突するのを防ぐため」の3点である(ただし、1度だけカットをしたことがある)。黒柳は「一切編集をしない。ほぼ生放送の状態。だから皆さん本心を話してくれるんでしょう。」と語っている。
話す内容は、黒柳がゲストについてその日担当のディレクターからレクチャーを受けた際に、その内容を特注のA6サイズのメモ用紙に2Bの鉛筆で縦書きに書いたものを繋ぎ合わせたリスト(台本や質問稿ではない)をテーブルに置いて進行する。老眼鏡を使わないで読むので、ゲストに驚かれることがある。そのメモの上にゲストがコップを置くと除けたり、置かないようにあらかじめ釘を刺す。
放送第1回目のゲストは森繁久彌だった。2009年11月11日に森繁が死去した際には、翌12日に追悼特集が放送されている。
黒柳の衣装はゲストと事前打ち合わせはせず、黒柳およびスタイリストによって選ばれている。放送開始から8000回を超えるまでは全て黒柳本人が衣装を用意・選定していたが、その後はスタイリストが用意した衣装も着用するようになった。本番組で使用された衣装の一部は、年に1度日本橋高島屋で開催されているチャリティーセールへ出品されている(売り上げは「青少年とともに歩む会」に寄贈)。
黒柳とゲストのトークは基本的にゲストの活躍している内容について行われるが、常連のゲストのさらに一部の相手とは、「お約束」と言えるような展開で行われる。例えば、小沢昭一が単独ゲストの場合、黒柳と小沢が何らかのテーマに沿った扮装をしてトークを行う「扮装シリーズ」が定番となり、2010年の小沢の最後の出演までに15回行われた。
黒柳が司会を務めた『ザ・ベストテン』放送期間中は、よくその番組にランクインした歌手も登場していた。
様々な俳優、文化人の才能を引き出すトークがある一方、お笑いタレントがゲストの時には、芸人がネタを見せた際「面白い!」と一人喜んでいつまでも出演した芸人のネタの披露をやめさせないこと、またゲストがトークに入る前に開口一番「今日は何か面白いネタを披露して下さるんですって?」とわざとトークのハードルを引き上げること等がある。
黒柳が長年ユニセフなどの慈善事業に参加していることから、一般には知られていない各種市民運動団体やボランティア団体の関係者が出演することもある。これらの出演者の場合、黒柳は冗談めいた発言をすることは少ない。
TBS『チューボーですよ!』に黒柳が出演した際、堺正章が「『徹子の部屋』で気に入らなかったゲストとかいますか?」と尋ねたのに対し、黒柳は「気に入らないゲストはそもそも呼びません。ゲストは私が選んでます」と発言した。しかし、実際のところゲストは基本的にスタッフが選び、黒柳が関与するのは最終段階のみとなっている。しかし、福本清三のように本来出演予定になかった人物が、黒柳の意向で出演を依頼したケースもある。
2015年5月27日に『徹子の部屋』が放送40年目にして、放送回数通算10000回を達成した際には、「とりあえず50年まで。90歳でここにたどり着くのは大変だと思いますけど、大丈夫かね」と放送50周年となる90歳まで番組を続けていくことに意欲を示している。
2015年9月に関西テレビ『さんまのまんま』に出演した際その収録の合間に司会の明石家さんまと「今度は『徹子の部屋』にも来てください」「出まっせ、出まっせ」といったやりとりがあった。さんまは社交辞令として「出ます」と返事したつもりが、その翌日にスタッフがさんまを訪ね、本人は「まさか、次の日に来るとは思っていなかった」と驚いた。そして、『祝40周年 最強夢トークスペシャル』(2016年2月11日放送)にスペシャルゲストとして所ジョージと共に25年ぶりの出演。両者とも他局の全国ネットのレギュラー番組の収録日をずらして、この日の収録に臨んだ。
黒柳・久米コンビによる司会決定の経緯については、資料によって内容が異なっている。山田修爾の著書によれば、最初にTBSの局アナウンサーだった久米が前番組『トップスターショー・歌ある限り』から続投することが決まり、次に相方を女性とすることとなって黒柳がキャスティングされた。制作サイドでは西田敏行を加えた3人体制での司会を予定していたが、西田がスケジュールの都合がつかず、結局2人体制で番組がスタートすることとなった。久米は当初『トップスターショー』を最後に音楽番組の司会から足を洗うつもりだったが、黒柳とのコンビが決まったことで音楽番組を担当し続ける気になったという。しかし2013年9月27日放送の『中居正広の金曜日のスマたちへ』で紹介されたものでは、先に黒柳の起用が決まり、久米がリポーターを務めるTBSラジオの番組のファンだった黒柳がもう1人の司会が決まっていない状況を知り、スタッフに気に入っていた久米の起用を打診したとのものだった。なお、黒柳と久米は番組開始前の1977年暮れに同じTBSの番組『第19回日本レコード大賞』で司会を担当し共演している。
出演する歌手が地方や海外に行っていてスタジオに来られない場合でも、「追いかけます、お出かけならばどこまでも」を売りに、当時TBSアナウンサーだった松宮一彦や生島ヒロシ、JNN各局のアナウンサーが「追っかけマン」「追っかけウーマン」として登場し、TBS系列各局の協力を得て、現地からの歌唱を中継披露するのも恒例行事であったが、追っかけの対象は歌手だけでなく司会である黒柳にも及んだ。これは番組開始時に、黒柳が司会に就任する条件の1つとして「毎年海外旅行に行くので2 - 3週間の夏季休暇が取れること」を挙げ、番組側がこれを受諾したことが遠因である。しかし、番組制作側としては要の一人である黒柳を3週間も欠くことは大きな痛手であると考えたため、結局黒柳の旅行先である海外までスタッフを派遣し衛星生中継で黒柳を出演させた。黒柳を追いかけての衛星生中継は1978年のアメリカ・ニューヨークに始まりノルウェー・オスロ、フランス・パリなど毎年夏の恒例となり、1984年には遂に久米も一緒に海外に飛び出してミュンヘンからの生中継を行った。
久米と共演した過去があることから、2004年3月まで放送されていたテレビ朝日『ニュースステーション』に、UNICEF親善大使として毎年ゲスト出演していた。また、2009年4月18日には、TBSラジオ『久米宏 ラジオなんですけど』に、黒柳がゲストで生出演し、番組冒頭から最後まで「全編黒柳徹子スペシャル」として放送された。また、14時台後半には『ザ・ベストテン』の最多ランキング記録を持つ田原俊彦も飛び入り出演し、当時の『ザ・ベストテン』を振り返った。
ヨーガが得意で、着衣のまま水中浮揚を披露したこともある。
近藤真彦のファンであり、親子のような関係だと自認している。ある時、近藤が「車を欲しいんだけど、タイヤだけでいいから買ってくれないか」と頼まれたんです。タイヤは4つ必要じゃないですか。だから、私がジャニーズ事務所のジャニー喜多川さん、メリー喜多川さんと久米さんに頼んで4人で買ってあげることにしたんです。久米さんは「何で俺が…」って言っていたけど。
桑田佳祐も近藤同様親子関係だと黒柳は述べている。TBSテレビ系の音楽番組「ザ・ベストテン」に、桑田がサザンオールスターズの一員として出演して以来、親交が深い。サザンが2ndシングル「気分しだいで責めないで」で出演した際、桑田が歌の間に「ノイローゼ、ノイローゼ」と叫んでいたのを聞き、桑田への同情と司会者として出演者をかばわなければいけないという意識が働き、黒柳がとっさに「みなさま息子が失礼いたしました」と言えばいいと考え、それ以来桑田を「息子」と呼ぶようになり、桑田もその後黒柳を「お母さん」と呼ぶようになった。また、桑田の妻である原由子のことを「嫁」と呼んでいる。
黒柳の話が余りに長くなると、久米が強引に話を打ち切り歌や中継に振ることも多かったが、若林正人のようにこのことで久米批判はしていない。
久米について黒柳は「渥美さんのような温かさはないんです。でも、考え方や持って生まれた価値観が似ていて、話が合う。」と述べている。
TBS『世界・ふしぎ発見!』などのクイズ番組の書き問題時には、必ずと言っていい程答えを縦書きで書き(ただし、答えの中にアルファベットが入っている場合は例外的に横書きにする)、漢字を最大限に使う。
1986年の番組開始当初、それまでクイズ番組に出演したことがなかったため、「当時『徹子の部屋』と『ザ・ベストテン』をやっていましたので、もし、クイズができなくて『頭、悪いんじゃないの?』と思われることを心配しました」と、当時は出演を迷っていた。
衣装は着物姿で出演する。この理由は「(世界の歴史や文化を取り上げる番組にもかかわらず)レギュラーで日本の伝統的な着物を着ている人が一人もいないということが分かったこと」「もし答えができなくても着物を着てれば、誰だか分かんないかもと思ったこと」の2点である。
2014年9月13日には「黒柳徹子 不老不死伝説 100歳まで元気に美しく生きる方法」という企画が放送された。番組内では「番組始まって以来最大のミステリー」と紹介された。
イースター島を取り上げた回でモアイ像を持ち上げる作業を見て「クレーン車があったら良いんじゃない?」と発言した所、実際に日本の企業からイースター島にクレーン車が寄贈された事がある。
最終回で驚異の正解率から「答えを教えられていたのではないか?」と疑問を投げ掛けられたが、「(スタッフから取り上げる)テーマだけは教えられていたからそれを頼りに図書館に行き、一日中本を読んでいた」と語り、正解率の裏に人知れず努力していた事を明かした。
1958年の『第9回NHK紅白歌合戦』で、紅組司会を初めて務めた。現存している映像の中から、江利チエミと淡谷のり子の歌の音声の紹介の時には、黒柳の曲紹介の音声も一緒に紹介された(後の声と比べると高い声をしている)。当初、番組側は当時常連出場歌手の楠トシエを紅組司会に起用する予定だったが、当時は歌手兼司会が認められておらず、歌手としての出場を希望した楠が紅組司会の打診を断った。楠に続いて打診を受けた黒柳は「歌手の方と付き合いが乏しい」と拒否したが、番組側の説得に応じる形で最終的に引き受けた。なお、この時の黒柳の年齢は25歳であり、当時の紅白における最年少司会記録であった。
1958年当時は、テレビ各局で、紅白と同様に外部の大型劇場を借り切っての歌謡番組が大晦日の「目玉プログラム」として編成されていたため、出場歌手の大半が紅白の放送が始まる時点でまだ会場に到着していないという異常事態が起きている。その混乱ぶりから、黒柳は松島詩子の出番の際に、誤って「渡辺はま子さん」と紹介してしまうミスを犯している(しかし後年、『徹子の部屋』に松島がゲスト出演した際に、黒柳はこの件につき謝罪したところ、当の松島本人はすっかりこの時の黒柳のミスのことを忘れていた)。
1980年には、『ザ・ベストテン』、『徹子の部屋』、『音楽の広場』の司会ぶりを買われ、22年ぶりに「第31回NHK紅白歌合戦」の紅組司会に起用された(司会返り咲きまでの当時の最長インターバル記録となっていた)が、その際、黒柳は紅組司会を受ける条件として、「紅白の番組構成に私の意見を取り入れて欲しい」と要望。これが「1980年代最初の紅白なのでフレッシュな内容にしたい」と考えていたNHK側の思惑と合致しての司会起用だった。なお、これは後に自身が更新するまで紅白における司会返り咲きの最長ブランクだった。この年は、宝くじの抽選会で使用されているものと同仕様のルーレットを使用して、本番の中で攻守を決めるという異例の構成が採られたが、これも黒柳の「自身の意見を取り入れて欲しい」という要求を与して考え出されたものであるとされる。
翌1981年の「第32回NHK紅白歌合戦」についても同年、著書『窓ぎわのトットちゃん』が350万部を超す大ベストセラーを記録し、「トットちゃんブーム」が起こったことあり、紅組司会を続投した。以後、1983年の『第34回NHK紅白歌合戦』まで連続して紅組司会を務めた。
そのうち、黒柳が最後に紅組司会を務めた第34回では、当初紅組司会に当時放送中で高視聴率(最高60%)を記録していたドラマ『おしん』の出演者である田中裕子(ヒロイン)か泉ピン子(ヒロインの母親役)を据える計画があったという。しかし最終的には1度は完全にリストから消えていた黒柳が続投することとなった(4年連続起用)。黒柳は司会発表会見で「週刊誌では『気くばり先生』(鈴木健二。当時NHKアナウンサー)と『おしん』と書かれていたようで…。新鮮味に欠ける私で申し訳ありません」と述べた。一方、『窓ぎわのトットちゃん』が大ベストセラー(この時点で563万部)になっていた黒柳と、『気くばりのすすめ』が300万部突破のベストセラーを記録していた鈴木のベストセラー作家同士の両組司会として話題にもなった。
1984年の『第35回NHK紅白歌合戦』も当初は引き続き黒柳の紅組司会起用で決定しかけていたが、この年9月に黒柳が「もう今年が引き時では」と辞退を申し入れる。結局、白組司会の鈴木は続投したが、紅組司会はこの年紫綬褒章を受章し、黒柳とも親交がある森光子に交代となった。
2015年の『第66回NHK紅白歌合戦』では総合司会を担当、32年ぶりの司会復帰となった(先述の司会返り咲きまでの最長インターバル記録を自身が更新)。黒柳の年齢は82歳であり、第35回で紅組司会を務めた森の64歳という記録を抜いて史上最年長司会となるほか、70代以上の人物が司会を担当するのは史上初。NHKアナウンサー以外の女性が総合司会を務めるのは史上初であり、またNHKアナウンサー以外の女性が組司会と総合司会の双方を経験するのも初めて。
1955年の『第6回NHK紅白歌合戦』・1963年の『第14回NHK紅白歌合戦』・1969年の『第20回NHK紅白歌合戦』・1989年の『第40回NHK紅白歌合戦』・2017年の『第68回NHK紅白歌合戦』には応援ゲストとして、2014年の『第65回NHK紅白歌合戦』・2020年の『第71回NHK紅白歌合戦』・2022年の『第73回NHK紅白歌合戦』にはゲスト審査員として、2016年の『第67回NHK紅白歌合戦』にはVTRゲストとして出演している。 その他、1970年の『第21回NHK紅白歌合戦』、1979年の『第30回NHK紅白歌合戦』、1994年の『第45回NHK紅白歌合戦』でも紅組司会の有力候補に挙がっていたとされる。
1971年から1972年にかけて放送されたNHK連続テレビ小説『繭子ひとり』に、黒柳は下宿のおばさん・おケイさん役で出演し、東北なまりと特徴的な老けメイクでの演技が話題を呼んだ。黒柳は少女時代を疎開で同ドラマの舞台である青森県三戸町の隣町である諏訪ノ平で過ごしていたが、黒柳は、当時の芸能人としては異例となるアメリカ留学をするため、途中で降板。12月2日の放送で、「おケイさんは家政婦の仕事でニューヨークに渡る」という設定を取り入れ、羽田空港から旅立った。後には、「おケイさんから久しぶりにフィルムの便りが届いた」との設定で、黒柳が大きな眼鏡をつけたおケイさんスタイルでアメリカ・ニューヨーク5番街を散策するフィルムが放送された。この役が黒柳にとってもひとつの転機となった。
同一司会者番組最多放送記録【世界記録】*ギネスワールドレコーズ認定(継続中)
基本的には元職員だったNHKと、レギュラー番組を持つテレビ朝日とTBSの番組が多く、スケジュールの都合もあり他の放送局の番組にはあまり出演していない。
PARCOがプロデュースする黒柳主演の舞台シリーズ。ニール・サイモンやピーター・シェーファーなどが書いた、ブロードウェイやロンドンで話題となった戯曲を積極的に取り上げた。1989年の第1作から始まり、1994年を除いて毎年連続上演された。第1作は、ピーター・シェーファー作の『レティスとラベッジ』。演出は飯沢匡、公私ともに親交の深かった山岡久乃と共演した。30年間で32作品を上演し、2018年上演の『ライオンのあとで』で終了した。
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