丸木 俊(まるき とし、1912年2月11日 - 2000年1月13日)は、日本の洋画家。出生名・赤松俊。
北海道雨竜郡秩父別村の善性寺に生まれる。丸木位里との結婚後も1956年までは赤松俊子(あかまつ としこ)の名を使用。位里の母・丸木スマの死後、「女絵かきの名を継ぐため」に丸木姓を名乗るようになり、1957年から1964年頃まで丸木俊子としていた時期もあったが、その後は丸木俊(戸籍名は俊)を名乗る。北海道庁立旭川高等女学校、女子美術専門学校師範科西洋画部卒。1933年から1937年まで市川尋常高等小学校の代用教員を務め、市川市で間借り生活を送る。1937年から1938年にかけて、市川尋常高等小学校の同僚であった平野婦美子の仲介で、一等通訳官・油橋重遠の子の家庭教師としてモスクワへ赴任。帰国後の春から8月まで市川尋常高等小学校の代用教員を務めたのち、東京・豊島区長崎のアトリエ村に住む。1939年、第26回二科展に初入選。1940年に半年間、当時日本の統治下にあった南洋群島のパラオ諸島、ヤップ島を旅する。1941年にはソ連公使・西春彦の子の家庭教師として半年間モスクワへ赴任。1941年7月、丸木位里と結婚。1942年から1946年まで美術文化協会展に出品。
1945年はじめに埼玉県浦和市に疎開していたが、原爆投下後に位里の実家のある広島へ駆けつけ、その惨状を目撃した。帰京後、ほどなくして日本共産党に入党。1946年には日本美術会結成に参加。アトリエで開催していた早朝デッサン会には後に絵本画家として活躍するいわさきちひろも参加し、デッサンなどに影響を与えた。1947年には前衛美術会結成に参加、同年5月の第1回前衛美術展には《解放され行く人間性》(東京国立近代美術館蔵)を発表している。女流画家協会展にも第1回展より参加した。
1950年2月の第3回日本アンデパンダン展に、位里との共同制作《八月六日》(のちの原爆の図第1部《幽霊》)を発表。8月に第2部《火》、第3部《水》を加えて、三部作完成記念展を日本橋丸善画廊と銀座三越で開催。同時に絵本『ピカドン』(ポツダム書店)を刊行する。10月には広島市内の原爆ドーム南隣にあった五流荘(爆心地文化会館)にて「原爆の図展」を開催。この展覧会の開催には、峠三吉の主宰する広島の詩人サークル「われらの詩の会」の仲間たちが協力した。米軍を中心とする連合国軍の占領下で、朝鮮戦争も勃発したことでさまざまな圧力があったにもかかわらず、「原爆の図展」はその後全国各地を巡回し、当時検閲によって報じられなかった原爆の被害を多くの人に伝える役割を果たした。1953年1月には世界平和評議会より国際平和賞を位里とともに受賞。同年に青山通春・今井正監督の映画『原爆の図』(新星映画社)公開。同年6月には「原爆の図」三部作を携えてデンマークのコペンハーゲンで開催された第2回世界婦人大会に参加。続いてハンガリーのブダペストで開催された世界平和評議会に参加し、ブダペスト国立美術館で海外で初めての「原爆の図展」が6月17日から5日間開催される。その後、中国の北京やルーマニアのブカレスト、デンマークのコペンハーゲンなどを経て、1955年にはイギリス各地を巡回。その際に制作されたパンフレットには、ジョン・バージャーが「原爆の図」についての最初の英文テキストを寄せている。さらにオランダやイタリアなどヨーロッパ各地で展覧会が開かれ、1956年には10部作完成を記念して国際運営委員会が組織され、東アジアやヨーロッパ、オセアニアなどで世界巡回展が行われた。
1963年に部分的核実験停止条約が締結されると、その評価を巡り日本の原水禁運動は分裂。俊と位里は1964年6月に朝倉摂、出隆、国分一太郎、佐多稲子、佐藤忠良、野間宏、本郷新、山田勝次郎、宮島義勇、渡部義通とともに党改革の意見書を提出し、翌月に日本共産党を除名される。同年夏には「原爆の図」の世界巡回展が終了し帰国した。
1965年、位里の友人画家岩崎巴人から、千葉県松戸市に美術館の候補地があると教えられ移住。しかし、美術館を建設するだけの土地は入手できなかった。
1966年に埼玉県東松山市に移住し、翌年5月に原爆の図丸木美術館を開設。8月には美術館開館を記念して宮島義勇監督による映画『原爆の圖』が完成。1970年には「原爆の図展」が初めてアメリカで開催され、ニューヨークのニュースクール・アートセンターをはじめ各地を巡回した。1973年に広島市平和記念館(現広島市平和記念資料館)の依頼により「原爆の図」の集大成と位置づけた壁画《原爆―ひろしまの図》(現在は広島市現代美術館蔵)を制作し、その後は原爆だけでなく、さまざまな戦争による虐殺、公害、差別などの社会問題を主題とした大作を描きつづけた。1979年にはブルガリアの第3回反ファシズム・トリエンナーレ国際具象美術展に《三国同盟から三里塚まで》を出品。ソフィア特別賞を受賞し、ブルガリア国立美術館へ寄贈。ブルガリア美術協会の名誉会員、ソフィア名誉市民に認定された。 1981年には土本典昭監督、武満徹音楽、石牟礼道子詩による映画『水俣の図・物語』、1984年には前田憲二監督の映画『命どう宝 おきなわ戦の図』も公開されている。
絵本作家としても数多くの作品を残し、1971年には『日本の伝説』(文・松谷みよ子、位里とともに絵を担当、講談社、1970年)が第3回ブラティスラヴァ世界絵本原画展でゴールデンアップル賞を受賞。1980年には絵本『ひろしまのピカ』(小峰書店)を刊行、第3回絵本にっぽん大賞を受賞。さらに全米図書館協会ミルドレッド・バチェスター賞、ボストングローブ・ホーンブック賞、ジェーン・アダムズ平和賞を受賞するなど国内外で高く評価され、15ヵ国語圏で翻訳出版された。1982年には絵本『みなまた海のこえ』(文・石牟礼道子、位里とともに絵を担当、小峰書店)で第32回小学館絵画賞、1984年には絵本『おきなわ島のこえ』(位里との共著、小峰書店)で1984年度講談社文化賞・絵本賞を受賞している。2000年には第30回赤い鳥文学賞特別賞を受賞した。
1986年にはジャン・ユンカーマンとジョン・W・ダワーの製作による映画『劫火―ヒロシマからの旅』(Hellfire: A Journey from Hiroshima)が公開され、1988年にマサチューセッツ州立芸術大学から位里とともに名誉博士号を授与される。
1995年にはニューヨーク州立大学アルバニー校ローレンス・S・ウィットナー教授がノーベル平和賞候補として位里とともに選考委員会に推薦した。同年、エイボン女性大賞受賞。位里とともに埼玉県民栄誉章受賞、広島市市制功労者として表彰される。翌1996年には朝日賞を受賞。
1995年には池田20世紀美術館「丸木位里・丸木俊の世界展」、2012年には一宮市三岸節子記念美術館「生誕100年記念 丸木俊展 女絵かきがゆく―モスクワ、パラオ、そして原爆の図」展、2016年には平塚市美術館「香月泰男と丸木位里・俊、そして川田喜久治」展、2018年にはベルナール・ビュフェ美術館「絵画と想像力 ベルナール・ビュフェと丸木位里・俊」、広島市現代美術館「丸木位里・俊《原爆の図》をよむ」展が開催された。
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