松本 清張(まつもと せいちょう、1909年12月21日 - 1992年8月4日)は、日本の小説家。
松本 清張 (まつもと せいちょう) | |
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誕生 | 1909年12月21日 日本・広島県広島市または福岡県企救郡板櫃村(現・北九州市小倉北区) |
死没 | 1992年8月4日(82歳没) 日本・東京都新宿区河田町(東京女子医科大学病院) |
墓地 | 富士見台霊園 |
職業 | 作家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 板櫃尋常高等小学校 |
活動期間 | 1950年 - 1992年 |
ジャンル |
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代表作 | |
主な受賞歴 | |
デビュー作 | 『西郷札』 |
親族 | 松本峯太郎(父) 岡田タニ(母) 渡辺幸治(娘婿、元外務審議官) |
公式サイト | 北九州市立松本清張記念館 |
ウィキポータル 文学 |
1953年に『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。以降しばらく、歴史小説・現代小説の短編を中心に執筆した。1958年には『点と線』『眼の壁』を発表。これらの作品がベストセラーになり松本清張ブーム、社会派推理小説ブームを起こす。以後、『ゼロの焦点』『砂の器』などの作品もベストセラーになり、第二次世界大戦後の日本を代表する作家となる。その他、『かげろう絵図』などの時代小説を手がけているが、『古代史疑』などで日本古代史にも強い関心を示し、『火の路』などの小説作品に結実した。
緻密で深い研究に基づく自説の発表は小説家の水準を超えると評される。また、『日本の黒い霧』『昭和史発掘』などのノンフィクションをはじめ、近現代史に取り組んだ諸作品を著し、森鷗外や菊池寛に関する評伝を残すなど、広い領域にまたがる創作活動を続けた。
「せいちょう」はペンネームで、本名は「きよはる」と読む。
音読みのペンネームは小説家の
(「なかやま ぎしゅう」、本名は「議秀」(よしひで))に倣ったもの。もっとも清張は、「ぎしゅう」が本名であると勘違いをしていた。編集者は、1950年代中盤まで清張を「きよはる」と読んでいた。
公式には、福岡県企救郡板櫃村(現在の北九州市小倉北区)生まれとされ、多数の刊行物また北九州市立松本清張記念館によるものを含め、大半の資料の年譜において、小倉生まれとされている。しかし小倉は出生届が提出された場所で、清張自身は1990年の『読売新聞』のインタビューで「生まれたのは小倉市(現北九州市)ということになっているが、本当は広島」と話しており、実際には広島県広島市で生まれたと推察される。
また松本清張記念館に展示される清張の幼児期の記念写真の裏や台紙には、広島市内の実在する地名「広島京橋」と、広島市内に実在した写真館の名前がはっきりと記載されている。 光文社で清張の初代担当編集者だった櫻井秀勲は、「作家というものは、自伝を書く際もあるので、資料は取っておいた方がいい」と清張にアドバイスしたこともあって、清張は「櫻井君には話しておくか」という気分になったようで、時折、櫻井に自身の生い立ちを話したと証言しており、清張は「広島で生まれたが、父親のだらしなさから、村役場に出生届を提出していなかった」と話したという。また、清張から「父は米の仲買人だった。儲かったときもあったらしく、その話はよく聞かされたが、実際は大損するほうが多かった。私が生まれたときは、その大損をして逃げ出したときで、真冬の寒さの中を、私は母に引かれて小倉にやってきた。ここでやっと出生届を出してもらった」と聞いたと証言している。後年、櫻井は板櫃村(現・小倉北区)に行き、清張の家族が住んでいたと覚しき町を歩いたが、この頃の住民は清張の家族がどこに住んでいたか誰も知らなかったという。
この他、清張自身「これまでの作品の中で自伝的なものの、もっとも濃い小説」「私の父と田中家の関係はほとんど事実のままこれに書いた」と記述している『父系の指』の中で「私は広島のK町に生まれたと聞かされた」と書いており、清張研究の第一人者といわれる郷原宏は、私小説に書かれているすべてが事実とは限らないが、ここは誰が見ても事実を曲げる必要のないところであり、しかも単に「広島」と書けばすむところをわざわざ「広島のK町」と具体的に踏み込んだ書き方をしており、記念写真の件と合わせて郷原は「小倉は本籍地で出生地とは考えられない」「清張の出生地は広島」としている。郷原はこの「K町」とは広島駅近くの京橋町(現在の南区)と推定している。
『松本清張の残像』(2002年)の中で、「松本清張は広島生まれ」と指摘した松本清張記念館館長・藤井康栄は「古い一枚の写真は広島生れの傍証となるものかもしれないけれど、だからといって生年月日や出生地などの公式記録を書きかえることはできない。それらは本人が生涯なじみ、確認しつづけたものなのだから」としつつも、2009年に『朝日新聞』(12月10日付29面)や『中国新聞』(5月28日付11面)の紙上で、清張は広島生まれとしたうえで、清張の戸籍謄本他、全ての公式記録の出生地が小倉になっており、清張本人が出生地の訂正をしなかったものを他人が換えられないと説明している。ただ藤井が「松本清張は広島生まれ」と指摘して以降、清張関連文献に於いて「広島生まれ」と記述するものが増えてきている。 日外アソシエーツは2014年刊行の『人物ゆかりの旧跡・文化施設事典』で、松本清張の出生地を「広島県広島市」と記載している。清張自身が「広島で生まれた」と話し、藤井が「松本清張は広島生まれ」と公表したものの、藤井が館長を務める北九州市立松本清張記念館は、清張の出生地が広島であるとの報道について「新説」として触れる一方、現在も「小倉生まれ」との見解をとっている。清張には、清張本人以外に"公式"なる存在があるという奇妙なことになっており、それは松本清張記念館と考えられるが、公立の文学館が広島生まれを証明する物証を展示しながら、なお「小倉生まれ」と言い張らざるを得ない理由として、清張を「広島生まれ」と認めてしまうと、清張は10歳〜11歳頃から小倉で育ったとされるため、「小倉出身」「北九州出身」とは言えない状況が生まれるためと考えられる。
清張の年譜の初出は1958年の角川書店『現代国民文学全集27 現代推理小説集』の著書略歴とされるが、以降、年譜関連の記述では出生地を福岡県小倉市(または単に福岡県)と記される。ただ清張はインタビューや自伝的小説と呼ばれる作品の中でも「小倉で生まれた」と発言・記述したことはない。なお『松本清張全集』(文藝春秋)の編纂にあたって、清張が特に年譜の訂正を行わなかったことも指摘されている。この点について郷原宏は「出生の環境を恥じる思いもあって、あえて(年譜を)訂正しなかったのだろう」と考察している。2010年の広島市郷土資料館展示では、清張の広島出身の可能性が、多くの資料により検証されている。
田中雄三郎 | とよ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松本米吉( (鳥取県米子市) | 養父)|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
峯太郎 (→広島県広島市) | タニ | 嘉三郎 (→東京都杉並区荻窪) | りう | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
清張 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
父・松本峯太郎は鳥取県日野郡日南町の田中家出身で、幼少時に米子市の松本家に養子入りした。青年期に養父母宅を出奔し大阪に赴いた後、日清戦争開戦の1894年、21歳の時に広島市に来て、書生や看護雑役夫などをする。
当地で広島県賀茂郡志和村(現在の東広島市志和町)出身の農家の娘で、広島市内の紡績工場で働いていた母・岡田タニと知り合い結婚。清張の姉2人は乳児のときに死亡している。
年譜では、この後「当時日露戦争による炭鉱景気に沸く北九州に移ったものらしい」と書かれ、この後に清張は生まれたと書かれている。
しかし、『読売新聞』のインタビューでは、清張自身が「生まれたのは小倉市(現北九州市)ということになっているが、本当は広島である。それは旅先だったので、その後、すぐ小倉に行ったものだから、そこで生まれたことになっている」と話している。
1909年12月21日とされるが、2月12日ともされる。
実際の誕生日に関しては、松本清張記念館にも展示されている清張の幼児期の記念写真の台紙の裏に、「明治四十二年二月十二日生、同年四月十五日写」と墨書されており、残されている幼児期の他の肖像写真にも、「明治四十二年二月十二日 同年六月二十七日写 松本清治」と書かれている。これらの写真や台紙に記載のある写真館は、広島市内に当時実在したことが確認されている。両親が自分の子の誕生日を二度にわたり誤記する可能性は低いことから、1909年2月12日が清張の実際の誕生日であると推定される。
12月21日という日付は、出生届が受理された戸籍上の誕生日の可能性が高く、広島から小倉に移った両親が、まだ出生届を出していなかったことに気づき、あるいは他人から指摘されて提出した日か、その際、届け出の遅れを吏員に叱責されるのを恐れ、届け出日の数日前の日付を記入した、などの事情が考えられる。
清張は実際には1909年2月12日に広島市で生まれ、2枚目の写真が撮られた同年6月27日までは少なくとも広島に居住しており、出生届を出したとされる同年12月21日頃までの間に一家は広島を出て、小倉で同年12月21日頃に出生届を提出、その後に祖父母のいる山口県下関市に移住した、と考えられる。清張は『半生の記』で「広島から峯太郎とタニとが九州小倉に移った事情はよく分からない。(中略)それで、炭鉱景気で繁昌している北九州の噂を聞いて、ふらふらと関門海峡を渡ったのではないかと想像する。明治四十二年十二月二十一日に私が生まれている」と書いている。
清張は自身の過去についてはあまり話さなかったともいわれ、出生から作家として世に出るまでの記述は主として『半生の記』を基に作成されている。
1910年、下関市壇ノ浦に転居。家の裏は渦潮巻く海で、家の半分は石垣からはみ出し、海に打った杭の上に載っていた。両親は、ここで通行人相手の餅屋を始める。だが3年後に、線路建設のためダイナマイトで火の山麓を崩していた際に起こった地滑りのため家が押し潰され、同市田中町に移った。父はあらゆる下層の職業を転々としたが、学問については憧憬を持ち、夜手枕で清張に本を読ませて聞かせた。両親には一人っ子のため溺愛された。清張7歳の時に父は借金取りに追われて姿をくらます。残された母と清張は知人の家に世話になる生活を経験している。11歳まで下関にて育つ。1916年、下関市立菁莪尋常小学校に入学。
1920年、家族で福岡県小倉市に移ったため、天神島尋常小学校に転校。小倉に定住したのは小学校5年生の時(10歳〜11歳)と推定される。
古船場町の銭湯の持で暮らし、後にバラック家を借り、そこに住んだ。家の前には白い灰汁の流れる小川があり、近くの製紙会社から出る廃液の臭気が漂っていた。1922年、板櫃尋常高等小学校に入学。両親は大八車を転がす露天商を経て翌年、飲食店を開業した。
1922年に小倉で発行された同人誌『とりいれ』に「風と稲」と題する松本清張名義の詩が掲載されており、これが従来は知られていない少年期の清張作品である可能性が指摘されている。
生家が貧しかったために、1924年、板櫃尋常高等小学校を卒業したのち、職業紹介所を通じ、株式会社川北電気企業社(現在のパナソニック エコシステムズ株式会社の源流)小倉出張所の給仕に就職した。掃除、お茶くみ、社員の使い走り、商品の配達などに携わり、初任給は11円、3年後に昇給して15円であった。この時期、新刊書を買う余裕はなく、本は貸本屋で借りるか、勤め帰りに書店で立ち読みしていた。当初清張が興味を持って読んだのは、旅の本であった。特に田山花袋の紀行文を好み、当初清張は花袋を紀行作家と思っていたほどであった(エッセイ『雑草の実』による)。しばらくして、家業の飲食店の経営がやや楽になり、家が手狭になったので、祖母とともに近所の雑貨屋の二階に間借住まいをする。
やがて文学に夢を託すようになる。この頃から春陽堂文庫や新潮社の文芸書を読み、15~16歳の頃、特に愛読したのは芥川龍之介であった。他に菊池寛の『啓吉物語』や岸田國士の戯曲も愛読した。休日には小倉市立記念図書館に通い始め、ここで森鷗外や夏目漱石、田山花袋、泉鏡花などの作品を読み、新潮社版の世界文学全集を手当たり次第に読み漁った。しかし、当時世評の高かった志賀直哉『暗夜行路』などは、どこがいいのかさっぱりわからなかったという。また、雑誌『新青年』で翻訳探偵小説の面白さに開眼、国内では江戸川乱歩の出現に瞠目、作品を愛読した。
だが1927年、出張所が閉鎖され失職。子供の頃から新聞記者に憧れていた清張は、地元紙『鎮西報』の社長を訪ねて採用を申し入れたが、大学卒でなければ雇えないと拒否された。この頃、一時は繁盛した父の飲食店も経営が悪化し、失職中の清張も露店を手伝い、小倉の兵営のそばでパンや餅などを売っていた。文学熱はさらに高まり、八幡製鉄所や東洋陶器に勤める職工たちと文学を通じて交際し、文学サークルで短篇の習作を朗読するなどした。また、木村毅の『小説研究十六講』を読んで感銘を受けた。
1928年になっても、働き口は見つからなかった。手に職をつける仕事をしたいと考えた清張は、小倉市の高崎印刷所に石版印刷の見習い工となる。月給は10円であった。しかし、本当の画工になれないと思った清張は、さらに別の印刷所に見習いとして入る。ここで基礎から版下の描き方を学び、同時に広告図案の面白さを知った。この頃、飲食店の経営はさらに悪化、一家は紺屋町の店を債権者に明け渡して、工場廃液の悪臭が漂う中島町に再び戻り、小さな食堂を開いた。しかし全く商売にならず、父は相変わらず借金取りに追われていた。印刷所の主人が麻雀に凝って仕事をしなくなったため、清張は毎晩遅くまで版下書きの仕事に追われた。
1929年3月、仲間がプロレタリア文芸雑誌を購読していたため、「アカの容疑」で小倉刑務所に約2週間留置された。釈放時には、父によって蔵書が燃やされ、読書を禁じられた。
1931年に印刷所が潰れ、約2年ぶりに高崎印刷所に戻ったが、博多の嶋井オフセット印刷所(正確には嶋井精華堂印刷所。博多三傑の一人、島井宗室の末裔が経営、現在の島井印刷株式会社)で半年間見習いとなった。ポスターの図案を習うつもりだったものの、文字もデザインの一つだからという理由で、もっぱら文字を書かされていた。書を清張に教えたのは、能書家で俳誌『万燈』の主宰者でもあった江口竹亭であった。後の作品中に覗われる俳句趣味・能書家の下地がここで培われた。
その後、高崎印刷所に三度復帰、ようやく一人前の職人として認められた。その頃から広告図案が重視されるようになり、嶋井精華堂で学んだ技術が役立った。1936年11月、佐賀県人の内田ナヲと見合い結婚。ナヲが裁縫を習いに通っていた近所の寺の住職の紹介であった。
高崎印刷所の主人が死去し経営状態が悪化、勤めを続けながら自宅で版下書きのアルバイトをした。将来に不安を感じ、1937年2月に印刷所を退職、自営の版下職人となった。この頃、朝日新聞西部支社(現・西部本社)が門司から小倉に社屋を移転し、最新設備による印刷を開始する旨の社告が載った。版下の需要が増えると見込んだ清張は、支社長の原田棟一郎に版下画工として使ってほしいと手紙を書き、下請け契約を得ることに成功した。1939年に広告部の嘱託、1940年には常勤の嘱託となった。なお1938年に長女、1940年に長男、1942年に次男が誕生している。
大東亜戦争下の1943年には広告部意匠係に所属する正社員となったが、独創性を必要とされない仕事内容で、また学歴差別が根強く、実力を評価されない職場環境であり、『半生の記』ではこの時期を「概して退屈」「空虚」と記している。そのような中、清張の楽しみの一つは、図案家仲間との交流であった。仲間と共に年に一回、ポスターの展示会を開き、東京から有名なデザイナーを呼んで審査してもらっていた。もう一つの楽しみは、北九州の遺跡めぐりであった。当時清張の職場の隣席に浅野という校正係がおり、浅野は収集した石器や土器の破片を取り出して清張に見せ、考古学者・森本六爾の話をして聞かせたという。浅野の影響から、休日には各地の遺跡を訪ね歩いた。
やがて教育召集のため、久留米の陸軍第56師団歩兵第148連隊に入隊、陸軍衛生二等兵として3ヶ月の軍務に服した。その後、1944年6月、臨時召集の令状が届いた。この時は、同じ久留米で第56師団から新編された第86師団歩兵第187連隊に入隊、直ちに歩兵第78連隊補充隊への転属を命じられるが、これはニューギニアへ補充のために送られる部隊であった。
補充隊は日本統治時代の朝鮮に渡り、7月4日に竜山に到着、同地に駐屯となった。その後、戦況の変化から同部隊のニューギニア行きは中止となったため、清張は中隊付きの衛生兵として医務室勤務となり、軍医の傍らでカルテを書いたり、薬品係に渡す薬剤の名前を書き入れたりする作業に従事した。12月に陸軍衛生一等兵となる。1945年3月、歩兵第292連隊第6中隊に編入され、4月には歩兵第429連隊に転属した。所属は変わっても衛生兵としての任務は変わらなかった。5月、第150師団軍医部勤務となり、全羅北道井邑に移り、6月に衛生上等兵に進級、終戦を同地で迎えた。
10月末、家族が疎開していた佐賀県神埼町の農家へ帰還、朝日新聞社に復職した。小倉市内の黒原営団(現・黒住町)の元兵器厰の工員住宅に住み、砂津に在った朝日新聞西部本社まで歩いて通勤していた。20坪前後の敷地に一家8人で生活した。しかし当時の新聞はタブロイド版1枚、広告は活字の案内広告だけで、清張の仕事は事実上なかった。会社の給料だけでは生活困難であったため、会社の休日や食糧買い出し制度を利用し、藁箒の仲買のアルバイトを始めた。佐賀地域の農家が副業で作る藁箒を仕入れ、小倉近辺の荒物屋に卸した。当初清張の活動範囲は北九州だけであったが、そのうち広島まで足を延ばし、やがて見本を持って関西方面にまで遠出、空いた時間を使って京都市、奈良県の奈良市や飛鳥地方の古い寺社を見学した。
1948年頃になると、卸売を担う正規の問屋が復活し、このアルバイトが成り立たなくなったため、今度は印刷屋の版下描きや商店街のショーウィンドウの飾り付けなどのアルバイトに従事。また生活費を稼ぐ目的もあって、観光ポスターコンクールなどに応募していた。
木村毅の『小説研究十六講』を座右の書としていたが、元々は作家志望ではなかった。生活のためにアルバイトなどをしていたところ、『週刊朝日』の懸賞小説の応募を見つけ、賞金目当てに暇を見つけてはシャープペンで小説を書き続けた。1951年に書いた処女作『西郷札』が『週刊朝日』の「百万人の小説」の三等に入選。この作品は第25回直木賞候補となった。この年初めて上京。全国観光ポスター公募でも『天草へ』が推選賞を取った。
1952年、木々高太郎の勧めで『三田文学』に「記憶」「或る『小倉日記』伝」を発表。同年、日本宣伝美術協会九州地区委員となり、自宅を小倉事務所とした。
1953年に「或る『小倉日記』伝」は直木賞候補となったが、のちに芥川賞選考委員会に回され、選考委員の一人であった坂口安吾から激賞され、第28回芥川賞を受賞。
同年、『オール讀物』に投稿した「啾啾吟」が第1回オール新人杯佳作を得た。
1953年12月1日付で朝日新聞東京本社に転勤となり、上京する。当初単身赴任となった清張は、まず杉並区荻窪の田中家に寄宿した。
翌1954年の7月に一家が上京。当初は練馬区関町の借家に住んでいたが、3年後の1957年に上石神井に転居した。
朝日新聞社勤務時代には歴史書を雑読し、広告部校閲係の先輩から民俗学の雑誌を借りて読んでいた。また樋口清之の考古学入門書を愛読していた。
西部本社勤務時に引き続いて意匠係の主任となったが、1956年5月31日付で朝日新聞社を退社。退社の直接の契機は井上靖からの助言であった。
以後、作家活動に専念することになる。1956年9月に日本文芸家協会会員。
1955年から『張込み』で推理小説を書き始め、1957年に短編集『顔』が第10回日本探偵作家クラブ賞(現・日本推理作家協会賞)を受賞。同年から雑誌『旅』に『点と線』を連載する。翌年刊行され、『眼の壁』とともにベストセラーとなった。「清張以前」「清張以後」という言葉も出て、「清張ブーム」が起こった。『放送朝日』1957年8月号特集「テレビジョン・エイジの開幕に当たってテレビに望む」に寄せた評論で、テレビ番組に対する大宅壮一の発言「一億白痴化運動」に“総”の一字を挿入、「かくて将来、日本人一億が総白痴となりかねない」(一億総白痴化)と述べ、これは流行語となった。
その後も執筆量は衰えず、『ゼロの焦点』『かげろう絵図』『黒い画集』『歪んだ複写』などを上梓。執筆量の限界に挑んだ。清張の多作は同時代の作家にとっても驚きであり、種々の憶測も呼んだ。作家の平林たい子は韓国の雑誌『思想界』1962年8月号に「朝から晩まで書いているんですけど、何人かの秘書を使って資料を集めてこさせて、その資料で書くだけですからね。松本と言えば人間ではなく『タイプライター』です」と発言した。これに対し清張は「事務処理をする手伝いの人が一人いるのみで、事実に反する」と反論している。しかしのち、書痙となり、以後は口述筆記をさせ、それに加筆するという形になった。
1959年、帝銀事件を題材にして『小説帝銀事件』を発表。当時、帝銀事件は既に最高裁判所で被告に死刑判決が下されて、裁判は終わっていた。それを踏まえて改めて事件を「推理」することは、裁判批判を意味した。ただし当時は裁判批判が高まった時期であり、清張が特殊であったわけではない。松川事件に対しては、作家の広津和郎が裁判批判を書き、宇野浩二は「世にも不思議な物語」(『文藝春秋』1953年10月号掲載)を執筆しており、清張も広津を支援するなどの活動を続けた。『小説帝銀事件』は1959年、第16回文藝春秋読者賞に選ばれた。なお帝銀事件の被告平沢貞通は死刑執行されないまま1987年まで長きにわたり収監されて獄死し、事件に対しては冤罪説が根強くある。
下山事件に関しては、清張は広津や南原繁元東京帝国大学総長とともに「下山事件研究会」を結成、「推理は推理、真実の追及は別になければならない」として真相究明を訴え続けた。
1960年、ノンフィクション『日本の黒い霧』の連載が始まる。『日本の黒い霧』は『文藝春秋』の1960年1月号から連載され、第二次世界大戦終結以後、1945年から1952年までの7年間に日本で起こった10の諸事件(下山事件のほか、もく星号墜落事故、白鳥事件、ラストヴォロフ事件、ゾルゲ事件、鹿地事件、松川事件など)に対する清張の推論とその背景が論じられた。同書は連載中から大きな反響を呼び、「黒い霧」は流行語になった。当時はまだノンフィクションが一般的に読まれる時代ではなく、同ジャンル隆盛のもととなった作品の一つとされている。 また、『日本の黒い霧』は連載中からさまざまに議論を引き起こし、大岡昇平と論争を行った(後述)。
このあと清張は、実際の歴史を題材にするにあたって、
等々、様々なスタイルでの記述を試みていく。清張によると「最初、これ(『日本の黒い霧』)を発表するとき、私は自分が小説家であるという立場を考え、「小説」として書くつもりであった」。
1961年、前年度の高額納税者番付で作家部門の1位に。以降13回1位。杉並区高井戸に転居。直木賞選考委員を務める。『わるいやつら』、『砂の器』、『けものみち』、『天保図録』を発表。
1961年9月の『朝日新聞』において、平野謙が「松本清張、水上勉らの社会派推理小説などの中間小説の優れたものが台頭し、純文学という概念は歴史的なものに過ぎない」と述べたことから、伊藤整、高見順などと純文学論争が起こった。福田恆存によれば、同年1月に大岡昇平が井上靖の『蒼き狼』を批判した時から始まっていたもので、大岡はついで、清張、水上らの中間小説を批評家が褒めすぎるとして批判していた。
1963年、江戸川乱歩の後を受けて日本推理作家協会理事長を務める。1971年には同会長となる( - 1974年)。
1963年11月から1964年1月にかけて古代史の知識を色濃く反映した『陸行水行』を発表。以降、小説に留まることなく、自身の見解をより深く世に問う著作を発表していく。清張は「この小説(『陸行水行』)は、論文として書かれたものでもなければ、私の邪馬台国論を小説化したものでもない。(中略)本にまとまるとかなりの反響があった。そこでこういうものが私の邪馬台国論と思われては困ると思い、その後二年して「中央公論」に『古代史疑』を執筆した」と発言している。
1964年に初の海外旅行へ出かけ、ヨーロッパ・中東諸国を歴訪した。
1964年から『週刊文春』に『昭和史発掘』(- 1971年)を連載、二・二六事件に至る昭和初期の諸事件を、関係者への取材や史料に基づいて描いた。連載中には、右翼の大物からの抗議もあった。呼びつけられたが、根拠を示して説明すると解放してくれたという。単行本の発行部数は300万部を突破し、清張自身も驚く売れ行きを示した。
二・二六事件に関しては、のちに清張が文藝春秋の出版局長に「資料集はたとえ商売にならなくても、大切なものは世に還元すべき」として資料集も出版された。
他方、安易な清張ブーム追随も多く、1960年代半ばには、トリックも意外性もない社会批判小説・風俗小説が「本格推理」と銘打たれ乱発される状況となった。推理小説の形骸化に対し、清張は責任監修を務めた叢書『新本格推理小説全集』(読売新聞社、1966 - 67年)の中で、「ネオ・本格」という標語を掲げ、次のように発言している。
この時期に推理小説はその本来のあるべき性格を失いつつあった。その理由の一つは題材主義に倚りかかりすぎたためであり、一つはジャーナリズムが多作品を要求したため不適格な作品が推理小説の名において横行したことであり、もう一つは、その結果、推理作家自体の衰弱を来したことである。これは反省すべきことであった」「今や推理小説は本来の性格に還らなければならない。社会派、風俗派はその得た場所に独立すべきである。本格は本格に還れ、である。— 叢書『新本格推理小説全集』序文
1967年、『昭和史発掘』『花氷』『逃亡』で第1回吉川英治文学賞、『砂漠の塩』で第5回婦人公論読者賞。同年より江戸川乱歩賞選考委員を務める( - 1975年)。
1968年に邪馬台国を探究した『古代史疑』を刊行して以降、古墳時代を論じる『遊古疑考』、日本神話をめぐる『古代探求』など、古代史に関する評論・随筆も多数執筆されていく。他方、造詣は小説作品にも生かされ、『Dの複合』、『巨人の磯』、『火の路』などの作品に結晶している。
ベトナム戦争に際して、一方の当事国であるアメリカ合衆国の新聞ワシントン・ポスト紙に掲載するベトナム反戦広告募集の呼びかけ人の一人となり、1967年4月3日に掲載された。また、「ベ平連」の中心人物の一人であった鶴見俊輔が清張に資金の不足を訴えた際、清張は「鶴見が驚くほどの額」を寄付した。
1968年、アメリカや南ベトナムと戦っていたベトナム民主共和国の対外文化連絡委員会からの招待を受け、2月に北ベトナム各地およびカンボジアやラオスなどの視察旅行に出発。4月4日、ファム・ヴァン・ドン首相との単独会見に成功した。また帰国後の4月には来日したエドガー・スノーと対談した。
1969年、カッパ・ノベルス版の発行部数が一千万部を突破した。
1970年、『昭和史発掘』などの創作活動で第18回菊池寛賞を受賞。「自分は作家としてのスタートが遅かったので、残された時間の全てを作家活動に注ぎたい」と語り、広汎なテーマについて質の高い作品を多作した。同年、『日本の黒い霧』、『深層海流』、『現代官僚論』で日本ジャーナリスト会議賞を受賞。1971年には『留守宅の事件』で第3回小説現代ゴールデン読者賞(昭和46年上半期)を受賞した。
1970年代以降には、伝奇小説の大作『西海道談綺』や、奈良時代に材をとった歴史小説『眩人』が書かれた。また邪馬台国ブームが、1970年前後に大きく盛り上がったことを背景に、古代史をめぐる対談・座談会等が、清張を交えてたびたび実施された。清張は、井上光貞や西嶋定生、上田正昭といった、歴史学界の第一人者とも交流した。清張の活動は当時の古代史ブームの先導の一つとなった。その関心は日本に留まらず、アジアや中東、ヨーロッパなど広い範囲に及び、のちにベトナム古代文化視察団(団員は騎馬民族征服王朝説で知られる江上波夫など)の団長を務めた。『古代史疑』以降、古代史に関する発言は晩年まで続いた。邪馬台国の所在地は21世紀の現在まで確定しておらず、清張は所在地論争では九州説の立場をとっている。
1974年に高木彬光が推理小説『邪馬台国の秘密』を発表した際、古代史に関する記述をめぐり清張との間で論争が行われた。
創価学会会長・池田大作と日本共産党委員長・宮本顕治の会談が1974年12月に清張邸で実施され、10年間互いの存在を認め相互に干渉しないことを約束する創共協定(共創協定)が結ばれていたことが、1975年7月に判明、清張はその仲介役を務めていた(協定は公表とほぼ同時に死文化)。
池田と清張の初対面は、『文藝春秋』1968年2月号での対談であり、両者はその後も親交を続けた。文藝春秋の清張担当者であった藤井康栄によれば、清張の大ファンと言う池田とも、自宅が当時清張宅のすぐ近くにあった宮本とも、ごく気軽に話せる関係であり、創共協定は偶然の重なりによるものであるという。
1976年、毎日新聞社の全国読書世論調査で「好きな著者」の1位に。以降、没年まで8回1位となった。
『東京新聞』にて1976年1月1日から1978年7月6日まで邪馬台国期から奈良時代に至る日本古代史の通史『清張通史』を連載。1977年の「邪馬台国シンポジウム」(博多全日空ホテル)では構成・司会者を務めた。江波波夫や井上光貞が講師として参加、全国から600人以上の聴講者が集まった。
アメリカの世界的な推理作家であるエラリー・クイーンを1977年に光文社などと共同で招待し、クイーン(フレデリック・ダネイ)と対談した。クィーン(ダネイ)との対談中、推理小説の基本的な考え方について互いに同意する一方、意見を対立させる場面もあった。クィーンは推理小説の世界ベスト10として、イギリスの推理作家トマス・バークによる「オッターモール氏の手」を挙げたが、清張は「意外性のみを狙ったもので動機皆無、普遍性がない」と主張し、論争になった。
なお、アメリカ版『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』において、初めて掲載された日本人推理作家の作品は、清張の『地方紙を買う女』である。クイーンと清張との縁はその後も続いた。クイーンは1967年に起こったジム・トンプソンの失踪事件に関心を持っており、既に『熱い絹』の執筆に着手していた清張と関心を共有することになった。清張やクイーンの作品を取り上げたテレビドラマ「傑作推理劇場」では、冒頭でクイーンが前説を述べる趣向が取られた。のちに清張はフランス世界推理作家会議で「あなたの作風はクイーンに似ていると思うが?」と質問された際、明確に否定している。
映画監督の野村芳太郎らと1978年11月に「霧プロダクション」を設立、代表取締役に就任した。映画・テレビドラマの企画制作に関与し、同プロダクションは1984年まで続いた。同プロダクションの設立に清張が熱意を示したのは、『黒地の絵』の映画化を強く望んでいたからとされており、発足前の仮称は「黒地の絵プロダクション」とも報じられていた。
1978年にNHKの取材に同行して2度目のイラン訪問、翌年『ペルセポリスから飛鳥へ』(日本放送出版協会)を書き下ろし刊行した。取材中には、大地震とパフラヴィー朝の国王退陣を求める反政府暴動に遭遇し、この暴動はイラン革命となり王朝は倒れた。同年、第29回NHK放送文化賞を受賞した。
1981年の「正倉院展」(東京国立博物館)に際して、東京と京都で開かれたシンポジウムに参加した。この1981年頃には、鑑真をテーマにした歴史小説を『群像』(講談社)に連載する構想を持っていた。
1982年3月30日、「労組潰し」とも評された国鉄問題について「国鉄の自主再建を願う7人委員会」が発足し、会員として参加した。メンバーは中野好夫、都留重人、大河内一男、木下順二、沼田稲次郎(前東京都立大学学長)、矢島せい子(国民の足を守る会中央会議)。発足にあたっては、私学会館(アルカディア市ヶ谷)で協議した。清張はこの会について「硬直し、泥沼化していく労使の現状を見ておれない。声なき声を代表して、双方が真剣な気持ちで問題解決に取り組んでくれるようになれば」と述べている。この問題はその後、国鉄分割民営化で決着した。
1983年には19作品、24回の新作ドラマが放送されるなど、視聴率を確保できるとされた清張作品のドラマ化は過熱気味となっていたが、原作のテーマから逸脱した不本意な映像化を防ぐ目的もあり、霧プロダクション解散後の1985年に「霧企画事務所」が設立され、清張は監査役を務めた(2000年に解散)。
1983年、朝日放送の取材に同行しインドを訪問。デリーやマドラス、コルカタなどを歩いた。帰国後に『密教の水源をみる 空海・中国・インド』(講談社)を書き下ろし刊行した。
同年には中国も訪問し、首都北京で周揚・中国文学芸術界連合会主席、馮牧・中国作家協会副主席と会談した。清張は「文学は面白いことが第一。説教調のものでは読者に倦きられる」と主張したが、中国側は「文学作品としての水準が先決」とした。
1984年、『ニュードキュメンタリードラマ昭和 松本清張事件にせまる』(テレビ朝日・朝日放送)を監修。毎週コメンテーターとして自ら出演した。
1985年にスコットランドやフランスのカルナック列石を、『清張古代史をゆく』続編の取材のため調査、ヨーロッパ巨石文化の謎に取り組んだ。この時の取材記録は『松本清張のケルト紀行』(日本放送出版協会・共著)として刊行された。
1986年から発掘調査が続く吉野ヶ里遺跡に関してもシンポジウムや講演会に参加。清張の議論は『吉野ケ里と邪馬台国―清張 古代游記』(日本放送出版協会)に収録されている。
1986年に『点と線』の英訳(ペーパーバック版)が発売された際、『ニューヨーク・タイムズ』紙上で、「伝統的なものではあるが、息もつかせぬ探偵小説」として紹介された。
1987年、フランス東部グルノーブルでの第9回「世界推理作家会議」に招待され、日本の推理作家として初めて出席し、講演を行った(「グルノーブルの吹奏」「国際推理作家会議で考えたこと」)。「グルノーブルの吹奏」(1988年)中の講演記録によると、清張は、日本の推理小説作家の作品は翻訳数が少ないために知られていないが、海外の作品に比べて遜色がないと紹介し、日本の作家のトリックには欧米よりも優れているものが多くある、とも述べている。帰国後には、日本の推理小説の真価を海外に知らせるため、外国語翻訳がもっと行われるべきであると主張した。
また、フランスの推理作家・評論家のフランソワ・リヴィエールとの対談において、推理小説には骨格としてアイデア・トリックの独自性が必要であるが、他方、単調さを回避するために副主題を伴うべきで、既成事実への疑問追及や既成観念への挑戦がテーマとしてうってつけである、と「ネオ・本格推理小説」を提唱した。
1990年、「社会派推理小説の創始、現代史発掘など多年にわたる幅広い作家活動」で1989年度朝日賞を受賞した。
時代・歴史小説の執筆は減少傾向を示したが、最晩年には再び時代小説『江戸綺談 甲州霊嶽党』に取り組んでいた。上田正昭によれば、織田信長の比叡山焼き討ちを、延暦寺側から描く作品の構想も持ち、1992年春から取材を開始していた。
他にもグルノーブルの原子力発電所に絡んだ推理長編を構想しており、1992年の年明けに中央公論社の会長・社長を招いて執筆を約束、初夏にヨーロッパを取材する予定であった。グルノーブルに加えて、フランスのパリ、リヨン、モンテカルロのほかオーストリアのウィーン、ベルギーのブリュッセルなどを舞台とする構想だったという。
1992年4月20日、脳出血のため東京女子医科大学病院に入院、手術は成功したが、7月に病状が悪化、肝臓癌であることが判明し、8月4日に死去した(82歳没)。
遺書には「自分は努力だけはしてきた」などと記されていた。 遺書の日付は1989年6月10日夜、ヨーロッパ取材旅行の前日となっていた。『神々の乱心』『江戸綺談 甲州霊嶽党』(後者は未単行本化)が絶筆。
法名は清閑院釋文張。
芥川龍之介や菊池寛の短編小説に若い頃から関心を寄せていた清張は、特に短編小説を好んで執筆した。 特に初期はほとんどが短編作品であり、文学的な意味での完成度において、短編作品を高く評価する論者も少なくない。
これらの作品ではとりわけ、「何らかの意味で劣等感を抱いたり、社会的に孤立したりしながら、心の底では世の中を見返してやりたいという熱烈な現世欲を抱き、そのためにかえって破滅するような孤独で偏執的な人間像」が好んで取り上げられている。
その後、大きな反響を呼んだ『黒い画集』をはじめ、連作形式での短編発表が続き、清張の創作活動の大きな柱の一つとなった。長編執筆が主体となり、短編の創作量は減少したが、晩年に入っても短編シリーズ『松本清張短篇小説館』『草の径』を発表するなど、最後まで短編創作の試みは続けられた。歴史上の人物に新たな焦点を当てるなど、様々な角度からの創作が行われている。
推理小説に清張がよく親しむようになったのは、川北電気小倉出張所の給仕時代、17~18歳の頃であった。雑誌『新青年』(1920年創刊)に掲載された翻訳小説により探偵小説の面白さを知った、と回想している。小酒井不木らによる翻訳を「むさぼり読んだ」一方、江戸川乱歩の初期作品に傾倒した。他に、牧逸馬が手がけたノンフィクション『世界怪奇実話』に憧れ、犯罪ドキュメントものに興味を持つようになったのは、その影響であると述べている。後に作家となって以降も、牧の自宅を訪れ、蔵書を一覧し、原資料について質問している。『日光中宮祠事件』『アムステルダム運河殺人事件』のような作品を書くようになったのは牧の影響であると述べている。 戦後の作品としては、香山滋『怪異馬霊教』の強烈な個性に関心を持ったという。
1961年に出版された随筆『黒い手帖』では、トリックの尊重や、また本格推理の面白さは肯定するが、限られた数のマニアのみを念頭に、設定や描写の奇抜さを競い合う状況が推理小説の行き詰まりを引き起こしているとして、多くの人々の現実に即したスリル・サスペンスを導入すべきことを訴えた。しかし推理小説に現実性を持たせる主張自体は、清張の独創ではない。古典的な探偵小説の非現実性に対する批判として有名なものに、アメリカの作家レイモンド・チャンドラーの1944年のエッセイ「The Simple Art of Murder(素朴な殺人芸術)」がある。ただし、清張は「推理小説が謎解きの面白さを骨子としている以上、トリックを尊重するのは当然である」とする立場を捨てず、動機の重視などチャンドラーとは異なる方法へと進んだ。
ほか動機の描写に力を入れることで人間描写を深めた。なお推理小説で人間を描くことについては、清張以前から議論が続けられてきた古典的な問題である。有名なものは、清張が作家として世に出る際大きな役割を果たした木々高太郎と甲賀三郎による昭和11年 - 12年の「甲賀・木々論戦」である。また、木々を中心とした新人推理作家グループによる「探偵作家抜打座談会」(『新青年』1950年4月号掲載)も行われたが、乱歩によれば「探偵小説本格主義打倒の純文学論を高唱したもの」であったという。推理小説に社会性を加えられることなどを主張している。
1962年初め頃、清張は欧米の推理小説に詳しいアシスタント(清張の速記者を務めた福岡隆の親戚)を使い、トリック分類表を作成させた。分類表は江戸川乱歩「類別トリック集成」の形式に倣ったものであり、6つの大カテゴリと各カテゴリ内での分類によって構成され、コナン・ドイル、アガサ・クリスティから乱歩に至る実作例が付されている。大カテゴリは以下の通り。
日本推理作家協会の理事長時代、中島河太郎と山村正夫に委嘱して、国内中心の150例近くを補充したトリック分類表を作成させた。
同時期の水上勉や有馬頼義らの執筆活動もあり、マスメディアは清張たちによる推理小説の新しい傾向を「社会派推理小説」と呼び、週刊誌など当時のマスメディアの発達もあり広く歓迎された。しかし清張は「社会派」の呼称が推理小説に使われることを好まなかった。晩年にも、社会派の呼称は適当ではないと明言している。
1970年代の横溝正史のリバイバルブームに際しては、近年の推理小説に良い作品が少ないことの反映だとして次のように述べた。「いい作品が少ないですね、社会派ということで、風俗小説か推理小説かわからないようなものが多い。推理小説的な意味で言えば水増しだよ。それで、トリックオンリーの探偵小説、たとえば横溝さんのものなど、どんでん返しもあれば意外性もあって、コクがあるでしょう、それで読者に迎えられているんだよ」。
デビュー当初の清張の執筆は歴史小説が中心であり、『くるま宿』『秀頼走路』『五十四万石の嘘』『いびき』など、多くの作品が執筆された。これらの歴史短編では、歴史の片隅でひっそりと消えていく薄幸の人々が好んで取り上げられ、また前述の留置所での拘留経験が反映された『いびき』など、かつての自身の生活経験が色濃く影を落としている作品も見られる。また、清張にとって初の長編小説は歴史小説であった。作家としての知名度が上がり執筆量が激増して以降も、連作時代小説『無宿人別帳』を連載するなど、しばらくは時代・歴史小説が並行して書かれた。
歴史小説に関して「鷗外流に史実を克明に淡々と漢語交じりに書くのが「風格のある」歴史小説ではない。史実の下層に埋没している人間を発掘することが、歴史小説家の仕事であろう。史実は結局は当時の人間心理の交渉が遺した形にすぎない。だから逆に言うと、歴史小説は、史実という形の上層から下層に掘られなければならないことになると思う。歴史小説と史実が離れられないゆえんである」と述べた。
出版社のシリーズ企画から江戸時代を論じた『幕末の動乱』がまとめられたが、その経験を生かす形で大作『かげろう絵図』『天保図録』が生まれた。
清張は、菊池寛の『日本合戦譚』(1932 - 1934年、『オール讀物』に連載)のモチーフを生かす形で、『私説・日本合戦譚』(『オール讀物』連載)を執筆している。また、岡本綺堂の『半七捕物帳』を始めとする捕物帳にも関心を寄せていたが、短編集成型の連作として『彩色江戸切絵図』『紅刷り江戸噂』を執筆した。ここでも推理小説と同様、シリーズキャラクターの登場は避けられている(『虎』『見世物師』の文吾は唯一の例外)。
ノンフィクション作品に加えて、中江兆民を論じた『火の虚舟』、山縣有朋を素材とする小説『象徴の設計』、大久保利通から吉田茂、鳩山一郎などを経て1980年に至る日本の首相についての『史観・宰相論』など、主に人物を通して近現代史を再考する取り組みが続けられた。
文藝春秋は、その後も清張に近現代史を素材とした作品を書いてもらう意向を持っていた。頓挫した文藝春秋の企画の一つとして「戦後内閣論」がある。
晩年に至り、ノンフィクションから小説作品に案が変更され、『神々の乱心』の執筆が開始された。
日本近代史専攻の有馬学によれば、『昭和史発掘』中で清張の駆使する史料は、当時の研究者から見ても、相当な水準のブレーンがいなければ集め得ないものであったという。このため種々の憶測も生まれたが、清張は「資料の捜索蒐集は、週刊文春編集部員の藤井康栄が一人であたった」と明言している。
歴史学者の成田龍一と日本文学者の小森陽一は、『日本の黒い霧』と『昭和史発掘』は、清張の戦後歴史学(アカデミズム)に対する批判意識が見出せると述べている。戦後歴史学が、権力対民衆運動の枠組みに縛られ、権力(=天皇)の問題を考察する(=天皇制は封建制の残滓であり日本の遅れの象徴という)イデオロギー構造になっていたのに対し、敗戦日本を統治したGHQの謀略という視点を持ち込み、また、法則性に基づいた歴史の発展(=マルクス主義)ではなく、個別ばらばらの事件を追求して背景を探るという発想自体、当時の歴史学にはなく、『日本の黒い霧』の手法が新しいものであったこと、『日本の黒い霧』は天皇をめぐる議論には触れていないため、当時の多くの歴史学者は清張の議論を軽視・無視したが、のちに清張は『昭和史発掘』でファシズムの問題に取り組み、戦後歴史学が、大政翼賛会を念頭に思想統制や治安維持法に代表される上からのファシズムを強調するパターンを取っていたのに対して、清張は下士官や兵のレベルまで資料発掘・言及する対象を拡大し、二・二六事件で決起した青年将校や、東京裁判におけるA級戦犯に戦争の全ての責任があるのではなく、国民一人一人が戦争への欲望を持ち、下からファシズムを望んでいたことを論証しようとした、と指摘している。
清張の古代史への関心は、北九州中心に各地の遺跡を歩いていた小倉在住時に培われている。清張は「わたしの書く「歴史」ものでは、古代史と現代史関係が多く、その中間が抜けている。人からよく訊かれることだが、これは「よく分からない」点に惹かれているからだろう。古代史には史料が少ないために、現代史は資料が多すぎるがその価値が定まっていないために、どちらも空白の部分がある。「歴史」はやはり推理の愉しさがなくてはならない」と述べている。考古学は創作の初期から重要なモチーフとなり、『断碑』『石の骨』などの短編が書かれた。
清張の提示した仮説に関しては、その後の考古学・歴史学研究の成果により、現在では乗り越えられたものもある。しかし、一般の広い関心を喚起し学界に刺激を与えたとして、その着想を高く評価する学界研究者も存在している。井上光貞や上田正昭は、清張が『古代史疑』を発表した時点でこれに高い評価を与えている。この対談にも参加した考古学者の佐原真はのちに、清張の考えそのものには従えないところも多いが、研究者には到底思いもよらないその発想・着想は大いに刺激的であると評している。また清張の古代史論は基本的に文献からの学習に基づいていたが、普通の研究者があまり着目しない明治期以来の古い研究史をも熟読しており、学史の学習が清張を強くしたのではないか、とその特色を分析している。
歴史学者の門脇禎二と考古学者の森浩一は対談で、清張没後に進んだ三内丸山遺跡の発掘結果により清張説が否定された例もあるものの、当時の政治史中心の学界に対して、国際的な人的交流、貿易史の視点を強調したこと、あるいは朝鮮文化の影響を大きく評価する当時の研究風潮に対して、ゾロアスター教などペルシア文化の影響力を強調したことなどは、学界に大きな刺激となったこと、また清張がいる間は、学者もテレビなどでいい加減なことは言えない雰囲気があったことなどと述懐している。
菊池のいうテーマ小説の出現は、それまでの自然主義的傾向の小説、白樺派の人道主義的小説の流れと切りはなしては云えない。田山花袋らに代表される自然主義的小説は「あるがままのものをあるがままに描く」ことをモットーとしたが、それは自己の経験を中心にしたものであり、題材はきわめて狭かった。狭いゆえに描写の深化はあったが、その深化は行き詰りにつながっていた。(中略)自然主義的小説は人間生活の暗黒面が強調され、題材も主として女と貧乏にかぎられるようになった。大正末期までの「私小説」は、葛西善蔵に代表されるように生活落伍者と女関係とが主題になっている。(中略)「告白」はトルストイなどからの影響だが、その「告白」を皮相的にあるいはストイックに解釈し、または意識的に自己流に歪曲したのが大正期の私小説といえようか。自然主義小説は、人生を観照しても、実人生に解決がない如く、小説にも解決がない。自我を主張するが、その自我も因襲的な家族制度と社会機構に押し潰される。かくて自然主義小説は絶望の文学となり、虚無的となる。しかし、ここにも感傷的なロマンチシズムがあるのは見のがせない。これが愛読者を得た理由でもある。けれども題材が自己の経験や周囲の観察に限られているため、同じような話をくりかえして書く結果になり、マンネリズムに陥って、衰弱した。わずかに徳田秋声や正宗白鳥などが命脈をつぐ。その自然主義小説に反抗してあらわれたのが白樺派である。彼らはトルストイの告白面よりも、その人道主義に共鳴した。有島武郎、武者小路実篤、志賀直哉、長与善郎など学習院卒の、貴族の子弟がそのグループだった。(中略)白樺派の小説は、一部に熱狂的な支持者を得ても、一般からはひろい共鳴を得られなかった。いわば、貴族のお坊ちゃんのひとりよがりの小説としてその底の浅さを云われ、嘲笑された。そこに登場したのが、菊池や芥川のテーマ小説である。人間の暗黒面、無解決、いつはじまっていつ終わったかわからないような叙述、小説の興味を抹殺したような平板、単調な構成の自然主義小説や私小説類、もしくはそれとは対蹠的だが白樺派の感傷的な人道主義小説または楽天的な理想小説に不満だった読者は、明快で理知的な人生裁断を前面に押し出した菊池の小説を歓迎した。菊池の小説は「自我」がテーマになっている。自然主義小説にも自我はあったが、それは内在的なものとしてしか扱われていなかった。菊池はそれを正面に押し出した。(中略)彼はその自我をテーマに、現代小説にしても歴史小説にしても、存分に面白い物語をつくりあげた
この他、オランダ語、スペイン語、ポルトガル語、チェコ語、フィンランド語、エストニア語、リトアニア語、ブルガリア語、ギリシア語、ロシア語、アルメニア語、グルジア語、韓国語や台湾での翻訳もある。
俯瞰、上から見下ろす。そういう角度が、私という作家には適している — 。
この作家(清張)はね、もしも養成すれば、たいへんにいいものが出るのではなかろうか、と思って返事を出しましてね。これ(『西郷札』)一つじゃ困る、これくらいのものを二・三編送ってくれ、そうすれば自分も『三田文学』に紹介するつもりでいる、という返事を出した。 —
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