番付(ばんづけ、番附とも表記)は、大相撲における力士の順位表。正式には番付表という。
古くは興行の場所に「興行札」という木の掲示板を立て、興行日時と、出場力士の名前と序列を明らかにした。古番付が基本的に写本の形式で伝承されているのはそのためである。しかし、興行の規模が拡大し、広く告知する必要が生じたために、木版印刷の形式で番付を発行(享保年間(1716~1735年)に木版印刷となる)し、直接相撲場に行く前に、興行の概要を知ることができるようにした。現在でもこの流れを継いで、行司による毛筆書きを写真製版して印刷している。江戸の相撲では、現在宝暦年間(1755年頃)以来の印刷された番付が確認されている。日本相撲協会によれば、1757年(宝暦7年)に縦一枚形式の番付が初めて発行され、2007年(平成19年)は発行250周年にあたるという。大坂相撲では、1869年(明治2年)3月場所より江戸時代からの横東西二枚番付を、初めて縦一枚番付の江戸風に改めて発行した。古番付の記録として最古のものは、1699年(元禄12年)5月に京都岡崎天王社において勧進相撲が興行された時のもので、三役の名称もこの番付が初見である。大坂で最古の番付は1702年(元禄15年)4月、大坂堀江勧進相撲公許興行の時のもので、以後享保年間の頃より大坂・京都番付を多くみる。
番付は単なる順位表ではない。その特徴は以下のようなものである。
すでに江戸時代にはこの形式を借りて、古典園芸植物の品種や各地の名所、温泉、三味線演奏家、遊女、本拳(数拳/崎陽拳/豁拳)や藤八拳(東八拳)といった拳遊び、落語・講談などの寄席芸人や歌舞伎役者など、ありとあらゆるものをランク付けし、それを番付表として出版することが盛んに行われた。これら相撲以外の様々なものを番付にしたものは「見立て番付」「変わり番付」などと呼ばれる。
格下のものが上位のものを倒す「番狂わせ」などの言葉はここから発している。
大相撲に所属する力士は本場所の成績によって地位が序列づけられており、毎場所後に行われる番付編成会議で地位が上下する。
地位 | 定員 | ||||
---|---|---|---|---|---|
関取 | 幕内 | 横綱 | 不定(不在でもよい) | 42名 | |
三役 | 大関 | 不定(下限2名) | |||
関脇 | 不定(下限2名) | ||||
小結 | 不定(下限2名) | ||||
前頭(平幕) | 不定 | ||||
十両 | 28名 | ||||
力士養成員 | 幕下 | 120名 | |||
三段目 | 180名 | ||||
序二段 | 不定 | ||||
序ノ口 | 不定 | ||||
番付外 | 不定 |
場所 | 幕内(横綱 - 前頭計) | 十両 | 幕下 | 三段目 |
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1888.1 | 毎場所変動(28 - 49人、1907年までは40人以下) | 東西10枚20人 | ||
1912.1 | 毎場所変動(40 - 49人) | 東西15枚30人 | ||
1926.5 | 40人と42人の場所あり | 毎場所変動(20 - 25人) | ||
1929.5 | 40人 | 東西11枚22人 | ||
1932.2 | 毎場所変動(1932年2月、春秋園事件の影響で一旦20人に減少した後また増える。1941 - 1958年は大半の場所で50人台) | 毎場所変動(1932年2月は20人、1938 - 1951年は大半の場所で30 - 32人、その後漸次増加、1958年には史上最多の東西24枚48人) | 毎場所変動(終戦後しばらくは人数が少なく戦後最少は1949年1月の51人、その後漸次増加傾向) | 毎場所変動(終戦後しばらくは人数が少なく戦後最少は1948年5月・10月の43人、その後漸次増加傾向) |
1961.3 | (1960年7月より)41人 | 東西18枚36人 | 毎場所変動(170人台 - 190人) | 毎場所変動(最多は1961年11月の239人) |
1962.3 | 41人 | 東西18枚36人 | 毎場所変動(190人台前後) | 毎場所変動(190人台前後) |
1964.1 | 40人 | 東西18枚36人 | 毎場所変動(190人台前後、最多は1966年1月場所の203人) | 毎場所変動(190人台前後) |
1967.5 | 34人 | 東西13枚26人 | 東西60枚120人 | 東西100枚200人(1970年3月より徐々に減らす) |
1970.9 | 34人 | 東西13枚26人 | 東西60枚120人 | 東西80枚160人 |
1972.1 | 毎場所変動(35 - 37人) | 東西13枚26人 | 東西60枚120人 | 東西80枚160人 |
1973.9 | 36人 | 東西13枚26人 | 東西60枚120人 | 東西80枚160人 |
1976.5 | 36人 | 東西13枚26人 | 東西60枚120人 | 東西90枚180人 |
1979.7 | 毎場所変動(35 - 38人) | 東西13枚26人 | 東西60枚120人 | 東西90枚180人 |
1984.1 | 38人 | 東西13枚26人 | 東西60枚120人 | 東西100枚200人 |
1991.1 | 40人 | 東西13枚26人 | 東西60枚120人 | 東西100枚200人 |
2004.1 | 42人 | 東西14枚28人 | 東西60枚120人 | 東西100枚200人 |
2022.5 | 42人 | 東西14枚28人 | 東西60枚120人 | 東西90枚180人 |
地位区分 | 横綱 | 大関 | 関脇 | 小結 | 平幕 (幕内前頭、 一般の「前頭」) | 十両 (十枚目、 《幕下上》) | 幕下二段目 (一般の「幕下」) | 三段目 (《幕下三段目》) | 序二段 (《四段目》、 《上二段目》) | 序ノ口 (《五段目》、 《上ノ口》) | 六段目† | 新序† | 本中† | 相中† (間中) | 前相撲 |
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広義の「大関」 | ○ | ○ | |||||||||||||
☆三役(本来の意味) | ○ | ○ | ○ | ||||||||||||
☆役力士、三役(広義) | ○ | ○ | ○ | ○ | |||||||||||
☆三役(狭義) | ○ | ○ | |||||||||||||
☆幕内(歴史的には「真の関取格」)、上段 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ||||||||||
幕内(江戸相撲の初期の番付) | (○) | ○ | ○ | ○ | ○ | ○* | ○* | ○* | |||||||
☆関取 | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | |||||||||
広義の「前頭」(本来の意味の前頭、番付表上の前頭) | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ○ | ||||||||
番付表の上から二段目 | ○ | ○ | |||||||||||||
本来の意味の「幕下」 | ○ | ○* | ○* | ○* | ○ | ○ | |||||||||
☆力士養成員(取的、褌担ぎ、若い者、若い衆) | ○ | ○ | ○ | ○ | (○) | (○) | (○) | (○) | ○ | ||||||
取的、褌担ぎ(狭義) | ○ | ○ | (○) | (○) | (○) | (○) | ○ | ||||||||
序ノ口待遇 | ○ | ○ | |||||||||||||
☆番付外 | (○) | (○) | (○) | ○ | |||||||||||
中相撲† | ○ | ○ | |||||||||||||
中前相撲 | ○ | ○ | ○ |
毎場所の番付は、協会の定める番付編成要領に従って定められる。
各場所の千秋楽から3日以内に番付編成会議が招集され(番付編成要領第2条)、本場所の成績をもとに翌場所の番付を編成する。会議は審判部長が主宰し、副部長以下審判部員、副理事が出席し(番付編成要領第3条)、発言権はないが書記として行司も同席する(番付編成要領第4条)。
編成された番付はその場では発表されず、翌場所の直前に発表される。従来は初日の8日前の土曜日に発表していたが、1970年(昭和45年)からは、他のスポーツ行事が少ない月曜日なら新聞の扱いが大きくなることを考慮して、番付発表を本場所初日の13日前の月曜日発表に変更した。1月場所の番付発表は、年末年始の繁忙期に配慮して13日前よりも早まる。新番付は発表日まで極秘とされている(番付編成要領第11条)。
力士の地位やそれに伴う待遇は、原則翌場所の番付発表までは前場所の地位に応じたものとなる。例外として、横綱・大関に昇進する力士については番付編成会議終了後直ちに昇進伝達式を行い、該当力士はこの時点から横綱・大関としての待遇を受けるようになる(番付編成要領第11条)。また、十両昇進力士(新十両・再十両問わず)についても、本人の待遇が幕下以下と大きく変化することや化粧廻しの新調といった準備に配慮して、昇進の事実のみが公式に発表されるが(1971年(昭和46年)7月場所より施行)、これはあくまで「内示」であり、該当力士の扱いは番付発表まで幕下力士のままである。その他の昇進(新入幕・再入幕、新三役・返り三役、幕下以下の各地位の昇進等)は番付発表まで公式発表されず当然前場所の地位の扱いとなり、陥落についても、大関から関脇への陥落や序ノ口から番付外への陥落など事実上確定している場合も含めて番付発表まで前場所の地位としての待遇を受けられる。
新番付は発表日まで極秘とされているものの、朝日新聞相撲記者の抜井規泰はこれを「建前」であると述べており、報道関係者が事前に新番付を把握していることを示唆している。インターネットの普及した現代では発表時刻である午前6時を過ぎた直後から各社のサイト上に番付発表関連の記事が掲載され、特に共同通信社の運営する携帯電話サイト「スポーツアイランド」には全力士の番付が掲載されるなど、実際に「極秘」であるとすれば説明のつかない事態となっていることからもこうした状況がうかがえる。
番付編成要領第6条では、「力士の階級順位の昇降は、その本場所相撲の勝星により協議する。」とのみ定め、勝星数が番付編成に最も重要な要素であることは示されているが、勝星数に応じた具体的な基準は定めていない。実際の番付編成は、編成を所管する審判部の裁量に事実上委ねられている(番付は生き物も参照)。以下の目安はあくまで過去の番付編成の結果から導き出した平成期以降の傾向で、これらの目安に依らない編成が行われた事例も少なからず存在する。
特殊な状況下においては、その当時の傾向から大きく外れた番付編成がなされることもある。昭和以降の実例としては、1932年の春秋園事件で大量の脱退者が出た影響で幕下から直接幕内に昇進した力士(出羽ノ花、瓊ノ浦)がいた例、1967年5月場所の関取の定員削減で前場所十両で勝ち越したにもかかわらず幕下に降下した力士(前田川、嵐山)がいた例、2011年の大相撲八百長問題で大量の引退者が出た影響で幕内下位・十両・幕下上位で負け越したにもかかわらず番付が上昇した力士(垣添など)がいた例などがそれである。
行司・呼出・床山の番付編成については、原則年1回で、毎年9月場所後の番付編成会議の理事会で決定され、翌年1月より適用される。基本的にはほぼ年功序列となっているが、時には優秀な者が上位者を追い抜いたり、技量の劣る者が下位者に追い抜かれるあるいは留め置かれる場合もある(行司#行司の番付編成に関する事項・呼出#呼出の番付編成に関する事項・床山#床山の番付編成に関する事項も参照)。行司に関してはいくつかの成績評価基準が設けられているが、その詳細は行司#採用・昇格・降格を参照のこと。
現行の番付編成では上位から順に該当力士を決定していくが、各階級には定員が設けられているため、上位の階級に昇進するに充分な成績を挙げながら定員に阻まれて昇進できなかった例も、上位の階級の定員を充足できないために成績が不足している力士を繰り上げで昇進させた例も数多く存在する。降格の場合も同様である。該当力士が複数存在する場合にどの力士を上位の階級に昇進させるか、同階級内でもどの力士をより上位に遇するか、番付編成ごとに編成会議出席者は頭を悩ませる。
成績と翌場所の番付の昇進・降格幅は一定ではなく、他力士の成績や昇進・降格幅に大きく左右される。そのため、同地位・同成績でありながら翌場所の番付に大差がつくこともある。こうした番付編成の状況を表す言葉を「番付は生き物」と言い、この言葉は全ての階級で適用されている。力士自身は決定された番付に異を唱えることはできず、結果として力士にとって昇進・降格に際し多少の誤差や運・不運が含まれることはこの言葉で甘受すべきであると認識されている。
番付表には力士の地位、出身地、四股名が表記される。
最上部には力士の地位が記載される。幕内力士については、そのまま「横綱」「大関」「関脇」「小結」「前頭」と表記されるが、十両以下についても番付表記上は全員「前頭」の扱いとなる。十両力士については一人ずつ「前頭」と明記されるが、幕下以下の力士については数個の「同」表記で済ませる(幕下については文字同士をつなげて「同司司…」と表記され、三段目以下はさらに文字が簡略化される)。
地位の下に書かれる出身地は、地位や四股名よりも小さめの文字で書かれる。江戸時代は藩名(お抱え大名の地域)で書かれることもあったが、明治以降は該当力士の出身地が表記されることになった。当初は律令国別だったが、1934年(昭和9年)5月場所より横綱以下全力士の国別出身地名が表記され、1948年(昭和23年)5月場所より出身地名を含む都道府県名の表記、1956年(昭和31年)3月場所より全て都道府県名で表記されるようになった。幕下以下の場合は、実際の出身地にかかわらず、〈江戸〉(江戸時代)または〈東京〉(明治以降)の表示でまとめられることが昭和初期まで多かった。外国出身力士については国や地域名で表記されており、アメリカ合衆国は「米国」、大韓民国は「韓国」、中華人民共和国は「中国」、台湾は「台湾」、その他の国は日本語発音に基づくカタカナ表記となっている。
出身地として表記される地名・国名に厳密な定義はなく、自己申告に基づき、本人と何らかの縁のある地名を表記している。このため本人の意向により変更されることがある。外国を出身地としていた力士が日本国籍を取得しても出身地が日本国内に変更されることは稀であるほか、当時在日韓国人であることを公表し韓国名を本名としていた金開山や栃乃若なども生まれ育った日本国内を出身地としており、番付上の出身地は必ずしも国籍を表すものではない。また、幕下付出力士の場合は初土俵を踏んだ場所の取組において本籍地がそのまま場内に紹介されてしまうことがあり、上林(番付上の出身地は山形県)は近畿大学の所在地である大阪府、山口(当時の番付上の出身地は東京都、のちに番付上も福岡県に変更)は祖父の出身地である福岡県が出身地としてアナウンスされ、いずれも場所中に訂正された。
下半分に四股名が表記される。その表記について、過去の番付においては「高」の字をはしご高(髙)で書くことがあったり(現在の番付では「高」と「髙」は完全に区別して書かれている)、また番付の字はおおむね極端な長方形でできている。そのためデザイン的な理由から、偏(へん)と旁(つくり)を上下に並び替えることなど自由自在である。バランスをとるために〈木へん〉や〈山へん〉をかんむりのように書く(松→枩、峰→峯、嶋→嶌などのように、同様に「梅」の字も「木」の下に「毎」を書くことがある。また「海」の字の場合は「毎」の下に「水」を書く(𣴴)。平安時代初期の僧空海もこのような字を書いたことがあり、これらは実際に昔からある書き方である)、特に番付下位では略字を使うような、本来の正確な四股名とは異なることがあるので注意が必要である。
改名力士及び年寄名跡に変更がある場合は、改名力士は出身地と新しい四股名の間に小さく「〇〇〇(旧四股名)改」(以前は「〇〇〇改メ」と書かれた)と書かれるが、幕内だけは出身地の右側に小さく書かれる。現役引退して年寄になる場合や、名跡変更の場合は新しい名跡(年寄名)の上に同様に書かれる。下の名のみの改名の場合は記載されない。なお、行司や呼出(番付掲載者)が改名した場合は、改名者の新しい名前の右肩に小さく「〇〇〇(旧名)改」と書かれ、行司の場合は旧名は下の名前のみ書かれる。番付に掲載されている床山が改名した事例は過去にないが、その場合でも恐らく行司や呼出と同様の表記になると考えられる。
現行の番付表は、中軸を上下縦長に貫いた後で、左右をそれぞれ五段に分けた枠構成になっている。横書きで書かれる文字はすべて右から書かれている(例:「司行」、「事理」)。
番付に四股名が書かれるときの文字のサイズは、横綱が一番大きく書かれており、大関は一回り小さく、関脇・小結はもう一回り小さくという風に、地位が下になるほど小さく細くなっていき、序ノ口の力士はもはや肉眼で見ることが困難なことから俗に「虫眼鏡」と呼ばれるほどである。最下段の親方衆も、理事長の名前が最も大きく書かれ、役職が下になるほど字が小さい。行司(立行司から序ノ口格行司まで全員記載、8段階)・呼出し(番付記載者は立呼出・副立呼出・三役呼出・幕内呼出・十両呼出の5段階)・床山(番付記載者は特等床山・一等床山の2段階)も同様に、上の地位の者は大きく、地位が下になるほど小さく書かれている。呼出し・床山については、力士・行司の上位者や親方衆の文字と比べると全体的に小さく細い文字で書かれており、階級は文字の微妙な大きさ以外に文字の高さでも区別される。
1994年(平成6年)5月場所までは、三役の各地位に3人以上いる場合は、3人目以降を左右の余白に枠をぶら下げて記載していた(張出)。横綱については、一人横綱の場合でも張り出して表記し、ほかの力士よりも枠・文字ともに若干大きくした。大関以下の張出および横綱が3人以上いるときの張出横綱は、枠内の力士と同じ大きさで表記する。張出が多い時には二段目の枠外に書かれており、直近の例では1972年(昭和47年)9月場所の東張出小結富士櫻である。1990年代に力士数が急増すると余白を取る余裕がなくなったため、1994年(平成6年)7月場所以降は張出制度が廃止された。
中軸の行司の下及び東西の序ノ口の左側には、年寄や若者頭・世話人・呼出・床山等が載せられるが、これらの部分は歴史的には時代による変遷の多い部分となっている。
若者頭・世話人・呼出に関しては、1960年(昭和35年)1月場所からしばらくは記載されていなかったが1994年(平成6年)7月場所から復活。番付中央の行司の欄の下に若者頭・世話人・呼出の順に記載された(呼出は立呼出・副立呼出・三役呼出・幕内呼出・十両呼出が記載されて幕下呼出以下は記載されない)。これに伴い審判委員を削除して最下段の委員の欄に一括した。
2004年(平成16年)3月場所より審判委員(職階は主任や年寄・参与であっても〈審判委員〉に一括される)を10年ぶりに行司の下に記載し、若者頭・世話人・呼出は最下段の年寄欄の左に記載された。また2008年(平成20年)1月場所からは、床山の最上位である特等床山(床邦、床寿)の名も記載されることになった。ちなみに若者頭・世話人・呼出が1950年代に記載された頃、「木戸部長」、「桟敷部長」(1956年(昭和31年)3月場所の番付より、名称を一括にして「主任」に改称される。それまでは一時「木戸主任」「桟敷主任」と表記されたこともある)という役職も番付に記載されたことがあった。「若者頭」は1910年(明治43年)1月場所に初めて番付に記載され、大坂相撲では1914年(大正3年)5月場所に初めて番付に記載された。「呼出」は1949年(昭和24年)5月場所に初めて番付に16人が掲載されたが、寛政年間(1789~1801年)の番付に「呼出し」の文字が確認されている。
また理事長が停年前に理事長職を辞し、停年退職まで「相談役」として番付に掲載(2000年(平成12年)以降では境川尚、時津風勝男、武蔵川晃偉、放駒輝門)されることもある。1959年(昭和34年)10月に発行された『大相撲』に「定年(停年、以下同)制実施の要綱」の記事に「定年になって種々の関係から残ってもらいたい、というときに相談役とするのであるが、従来による功労による相談役ではなく(中略)、相談役は番付にも掲載されない」とあり、時津風理事長の時代、武藏川(当時、出羽海)らが中心になって停年制実施を改革の一環として行ってきたが、1974年(昭和49年)3月場所の番付に、「相談役 武藏川喜偉」とある。当時新理事長に就任した春日野の要請で、皮肉にも自らが“停年延長”を前例として残すことになり、停年を迎えたにもかかわらず相談役という肩書で番付に年寄名のまま残すこととなった。
2014年(平成26年)1月27日、内閣府が相撲協会を1月28日付で公益財団法人として認定したのに伴い、同年3月場所の番付より「日本相撲協会」の右上に「公益財団法人」と記載されるようになった。また公益法人となったため、役員の規定が変更され評議員として、当時の評議員のうち年寄でもあった南忠晃(湊川)、平野兼司(山響)、佐藤忠博(大嶽)の3名が、番付の左側(西方)最下段の序ノ口の左隣に「評議員」と書かれ本名で記載された。また、これまでの「日本相撲協會」の「會」(旧字体)が「会」(新字体)に改められた。なお、力士出身の評議員は、現役年寄以外の者が就任した場合には番付には記載されない。
江戸時代中期の元禄年間(1688-1703年)には、歌舞伎、寄席、相撲の看板はいずれも御家流(青蓮院流、尊円流ともいい尊円法親王の書法を伝えたもの)の文字で肉太に記されていた。1757年(宝暦7年)の江戸最初の番付もそれで書かれているが、寛政年間(1789-1800年)には現在の番付の原型にほぼ落ち着いている。以降、幕末から明治にかけて横棒(横画)の運筆が太くなるなど、歌舞伎(勘亭流)や寄席(寄席文字)の番付とは一線を画するようになった。その名を番付の版元根岸家(江戸時代の三河屋)にちなみ「根岸流」と呼ばれ、現在では主に「相撲字」と呼ばれる独特な書体で書かれる。
行司が書く番付表(原版)を「元書き」といい、ケント紙(縦109cm、横79cm)を鯨尺で測って線引き(枠書き)をした上で毛筆により手書きで書き込んでいく。どこからどのような順序で書き込んでいくかは歴代の各代の番付書き手の行司の裁量に委ねられている(3代木村容堂は幕下から、2代木村要之助は序二段から着手するなど)。また番付の作成の際には、大きさや太さの異なる文字を表現するために、複数の種類の筆が用いられる(これも具体的に何種類の筆を用いるかは各行司の裁量に委ねられており、例えば序ノ口などの小さな文字には、毛が抜けて穂先だけになった筆が用いられることがあったという)。
原版の「元書き」は、写真製版の上、愛媛県産の川之江和紙(縦58cm、横44cm)に、縦横それぞれ約半分、面積にして約4分の1の大きさに縮小印刷され、毎場所約60万部ほど発行される。「元書き」は開催場所の会場(国技館など)に掲出される。
江戸の中期から後期には紙番付があったが発行はせいぜい場所ごとに数百枚程度であったとされ、番付自体も厳密な序列表ではなく、地位の変動を知らせるというより力士を宣伝する媒体であった。同じ理由で、当時対戦表と共に有料で販売されていたと推測される勝負付と呼ばれる勝負結果表も一般の相撲ファンが欲しがるものというよりマニア層向けのアイテムであった。
享保年間より番付は木版刷だったが、1917年(大正6年)からは幕内のみ木版刷として、十両以下を凸版印刷に変更。間もなくすべて凸版印刷に移行し、1948年(昭和23年)からはオフセット印刷に改められた。また幕末から明治にかけて、絵師による絵番付(版画で描かれている[2])や明治以降には写真番付も製作された。
現存する絵番付としては、1860年(万延元年)2月に回向院境内で興行されたとき、絵師の一恵斎芳幾によって描かれた絵番付がある。写真番付は相撲版画がすたれ、写真が世に出回るようになった明治後期に出現し、戦後柏鵬時代まで約60年、好角家の目を楽しませた。1978年(昭和53年)11月場所、久し振りにカラーの写真番付が販売されたが、その後現在に至るまで発行されていない。
明治時代からは、大相撲の世界で番付は絶対的な上下関係であったことから序列表としての役割を持つようになり、番付上の地位の区別がより明確になった時期は1888年(明治21年)1月場所、十両(十枚目)がやや肉太に書かれ幕下との区別を明確にし、翌1889年(明治22年)5月場所には十両を個別に「前頭」と頭書きしてなお肉太に書き、関取格を判然と明示するようになった。
東京相撲で「横綱」の文字が初めて番付上に記載された時期は1890年(明治23年)5月場所であるが、大坂相撲ではそれ以前の1868年(明治元年)7月場所のことで、陣幕久五郎(12代横綱)が東方欄外に「薩州 陣幕久五郎 横綱土俵入仕候」と記載された。本場所で「横綱」の文字を表した時期は大坂でこの頃が初めてである。これ以降、大坂相撲では「横綱土俵入仕候」の文字が番付上に記載されるようになり、不知火諾右衛門(光右衛門改め、11代横綱、1870年(明治3年)3月~1872年(明治5年)7月)、八陣信藏(1872年(明治5年)7月~1874年(明治7年)6月)、高越山谷五郎(1873年(明治6年)7月~1874年(明治7年)6月)の3例が挙げられる。「横綱土俵入仕候」の文字は江戸相撲の巡業番付には見られ、阿武松緑之助(6代横綱)、秀ノ山雷五郎(9代横綱)のものが確認されている。
これ以前の番付で特筆されるものとして、弘化・嘉永年間(1845-1854年)、江戸相撲を引退した稲妻雷五郎(7代横綱)がお抱えの関係で雲州藩内で巡業を行ったとき、番付で「横綱」と明記されたものがある(東張出)。この番付表では「大関」はなく、代わりに「中関」となっていて、メンバー的には大相撲ならぬ「小相撲」の感が強い。
番付の版元としての権利は、相撲司家のひとつである根岸家が、年寄名跡「根岸」とともに受け継いでいたが、戦後、相撲界の合理化、民主化をはかるため、根岸家が自らこれらを相撲協会に返上した(相撲字が苦手で年寄名跡を返上したともされる)。相撲協会ではこの英断をたたえるため、「根岸」の名跡を「止め名」、廃家とした。これは年寄名跡が(一代年寄や準年寄は別にして)現在の数(105名跡)に定まった時でもある。
1917年(大正6年)1月の大坂相撲の番付には右側余白のところに「謹賀新年」の文字がある。これはスタンプではなく番付そのものに刷り込まれたもので、大坂相撲では番付は部外者が印刷、発行していたが、1913年(大正2年)1月より「大坂相撲協會番附部」の発行となった。つまりこの「謹賀新年」は協会公認のものである。当時、1月の番付は正月明けに発行され、年賀の代役を果たしていた。
番付表は相撲の本場所の会場で、1枚50円で販売されている。会場では1枚単位のほか、2枚セットで売られていたり、また過去の番付が異なる値段で売られていることもある。
番付編成後から発表までの間に、通常の引退以外の事情で力士が力士でなくなった場合(現役力士の解雇・死亡など)は番付を再編成せず、その力士がいた地位を空位にすることとなっている。
ただし、1971年(昭和46年)10月に急死した横綱玉の海の場合は、本来ならば翌11月場所の番付は西横綱に掲載される予定であったが、結果11月場所の新番付では玉の海の四股名ごと外されることとなり、又西横綱の番付も空位としなかった。これにより、北の富士ただ一人が東横綱の地位で番付に掲載され、この1971年11月場所から北の富士が名実共に、史上4例目の一人横綱として扱われることとなった。結果的に形式上は不自然な番付にはならず、このケースは一般的には空位の事例として考えられていない。
玉の海とは全く逆のケースとして、1990年(平成2年)1月場所で新入幕を果たし、西前頭10枚目で9勝6敗と勝ち越しながら、同年2月に急死した龍興山の場合は、翌3月場所の新番付は自己最高位の東前頭5枚目に載っていた。これは現役力士が場所後死亡しながらも空位にせず、番付に四股名が掲載されるという珍しい出来事である。この理由には、3月場所は龍興山の出身地である地元大阪で大相撲が開催されるため、「四股名だけでも故郷に錦を飾らせたい」という相撲協会の配慮により、異例ながらも番付に龍興山の四股名がそのまま残された。
1976年(昭和51年)10月に朝日山部屋の相続をめぐっての騒動でトンガ王国出身の幕下以下の力士が廃業に追い込まれた際、11月場所の番付表では幕下以下のそれぞれの部分が空位とされた。
2007年(平成19年)11月場所では、場所前に時津海が引退して年寄・時津風を襲名、番付表では時津風として表記されたため、重複を避けるため西前頭11枚目を空位とした(1人分のスペースが空白となった)。これは幕内では1873年(明治6年)11月場所に、高砂浦五郎とそのグループ(改正組)を除名した際以来134年ぶりの措置であった(この時は、該当者が黒で塗りつぶされていた)。
2008年(平成20年)9月場所では、若ノ鵬が大麻所持で逮捕、8月21日付で解雇され、東前頭8枚目を空位とした(1人分のスペースが空白となった)。番付発表後に露鵬・白露山の2力士が同じく大麻関連で解雇されたが、9月14日付の番付表では同じく空白となっている。2009年(平成21年)3月場所の番付表では若麒麟が2月2日付で解雇されたため、西十両筆頭が空位となった。
2008年(平成20年)1月場所、時津風部屋力士暴行死事件に関連して心労を理由に休場した時津風部屋の3力士の番付は3月場所において据え置かれた。戦後公傷を除き全休力士の番付が据え置かれたことはない。この異例の判断は理事長の北の湖によると「3力士とも捜査に協力しているため、社会通念上決めた」ということだった。
2010年(平成22年)1月場所後、西横綱朝青龍が同場所中の不祥事により引退。形式上は自らの意思による通常の引退であり、番付編成会議後の引退であったが、番付発表まで約3週間の余裕があったために、敢えて四股名ごと削除することとなった。これに伴い、本来なら西横綱に載るはずだった白鵬の地位は、1月場所と同じく3月場所も東横綱に掲載され、番付編成会議後の引退届提出により番付が変動するという極めて異例の措置となり、この場所では幕内全体の人数も定員の42人より1人少ない41人となった。
2011年(平成23年)3月場所は大相撲八百長問題の影響により開催が中止されたことにより番付の発表も行われなかった。番付の編成そのものは完了しており、3月場所で十両への昇進が決定していた力士を初めとする全力士はこの番付に基づいて遇されることになった。これによって決定された地位は2月28日に番付の代わりとなる「順席」として十両以上のみを掲載したものが各相撲部屋に配布され、5月6日に5月技量審査場所用の新地位表が、解雇された蒼国来(後に復帰)、星風の名前を削除して幕下以下も含めて発表された。
2020年(令和2年)5月場所は、番付発表直後に新型コロナウイルス感染症の流行による緊急事態宣言延長を理由に開催が中止。同年7月場所の番付は新規に作成・発表されず、基本的に5月場所のものがそのまま有効(据え置き)となったが、5月場所番付編成会議後に引退・年寄を襲名した幕下の蒼国来と豊ノ島、5月13日に新型コロナウイルス感染症により亡くなった三段目の勝武士に相当する地位は事実上の空位となった。
2021年(令和3年)9月場所では、貴源治の大麻使用(7月20日判明)により7月30日付けで懲戒解雇となったことに伴い、2008~2009年の大相撲力士大麻問題の場合と同様、貴源治の名前が掲載されるはずだった西十両9枚目が空位となった。
不祥事による引退ではないが、2021年(令和3年)11月場所の番付では、白鵬の正式な引退発表が番付編成会議後であったため、本来なら同場所の番付に白鵬の四股名が残るところ、その四股名が外されたため、同場所の番付では幕内力士が定員より1人少ない41人となり、番付編成上は不祥事により引退した朝青龍と同様のケースとなった。
1909年(明治42年)6月場所、旧両国国技館開館とともに始まった優勝制度および東西制によって大正時代には変則番付が多くみられる。
「番付」は相撲以外のその他さまざまなものの順位付けの意味でも用いられる。
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