鳩山 一郎(はとやま いちろう、1883年〈明治16年〉1月1日 - 1959年〈昭和34年〉3月7日)は、日本の政治家、弁護士。
鳩山 一郎 はとやま いちろう | |
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鳩山 一郎 (1954-1956年の間に撮影) | |
生年月日 | 1883年1月1日 |
出生地 | 日本・東京府東京市牛込区 (現:東京都新宿区) |
没年月日 | 1959年3月7日(76歳没) |
死没地 | 日本・東京都文京区 |
出身校 | 東京帝国大学法科大学英法科卒業 |
前職 | 弁護士 |
所属政党 | (立憲政友会→) (政友本党→) (同交会→) (立憲政友会→) (無所属→) (翼賛政治会→) (大日本政治会→) (日本自由党→) (無所属→) (自由党→) (分党派自由党→) (自由党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 | 正二位 大勲位菊花大綬章 衆議院永年在職議員 法学士(東京帝国大学・1907年) |
配偶者 | 鳩山薫 |
子女 | 鳩山威一郎(長男) 古沢百合子(長女) 鳩山玲子(次女) 鳩山節子(三女) 山中恵子(四女) 渡邉信子(五女) |
親族 | 鳩山和夫(父) 鳩山春子(母) 鳩山秀夫(弟) 鳩山道夫(甥) 鳩山由紀夫(孫) 鳩山邦夫(孫) 鳩山太郎(曾孫) 鳩山二郎(曾孫) 鳩山紀一郎(曾孫) 鳩山玲人(曾孫) |
サイン | |
第52-54代 内閣総理大臣 | |
内閣 | 第1次鳩山一郎内閣 第2次鳩山一郎内閣 第3次鳩山一郎内閣 |
在任期間 | 1954年12月10日 - 1956年12月23日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第40代 文部大臣 | |
内閣 | 犬養内閣 齋藤内閣 |
在任期間 | 1931年12月13日 - 1934年3月3日 |
第28代 内閣書記官長 | |
内閣 | 田中義一内閣 |
在任期間 | 1927年4月20日 - 1929年7月2日 |
選挙区 | (東京市選挙区→) (東京府第10区→) (東京府第2区→) 旧東京1区 |
当選回数 | 15回 |
在任期間 | 1915年3月26日 - 1946年5月7日 1952年10月2日 - 1959年3月7日 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1912年4月2日 - 1915年3月26日 |
その他の職歴 | |
初代 自由民主党総裁 (1956年4月5日 - 1956年12月14日) |
1912年(明治45年)に東京市会議員に当選。1915年(大正4年)に衆議院議員に当選。1954年(昭和29年)-1956年(昭和31年)の首相在任中、保守合同を成し遂げて自由民主党の初代総裁となって55年体制を築き、日本とソビエト連邦の国交回復を実現した。
戦前は主に立憲政友会の議員として活躍した。
ただし、1924年(大正13年)の政友会分裂では政友本党に参加して一時期政友会を離脱していたが、1926年(大正15年)には自身が中心となって合計26名で政友会に復党し、田中義一総裁に気に入られて復党早々に幹事長に登用されて党内の反発を受けた。
1927年(昭和2年)の田中義一内閣でも内閣書記官長に就任するなど、重用された。
1930年(昭和5年)、第58帝国議会のロンドン海軍軍縮条約の批准をめぐる論議では軍縮問題を内閣が云々することは天皇の統帥権の干犯に当たるとして犬養毅総裁とともに濱口内閣を攻撃、濱口首相狙撃事件の遠因となった。
また、この時期の政友会は田中義一及び犬養の後任の鈴木喜三郎両総裁の下でリベラル派が屈服させられて右派・親軍派が主導的になっていったとする見解もあり、この説を採用するならば、義兄・鈴木の入党を田中に仲介したとされている鳩山が結果的にはこうした動きに加担してしまったことになる。
さらに第2次若槻内閣末期には山本悌二郎、森恪らと共に陸軍首脳であった永田鉄山、今村均、東條英機らに倒閣を持ちかけるといった、議会人としては極めて問題のある行動にも及んでいた。
こうした行動は占領期になり、GHQから「軍部の台頭に協力した軍国主義者」として追及され、公職追放の一因となった。
統帥権干犯論は議会の軍に対するコントロールを弱める結果となり、これを根拠として軍部が政府決定や方針を無視して暴走し始め、以後、政府はそれを止める手段を失うことになって行く。
鳩山は犬養内閣から齋藤内閣にかけて文部大臣を務めたが、1932年(昭和7年)に義兄の鈴木が犬養毅の後をうけて政友会総裁となると党内の実力者となった。
1933年(昭和8年)の京都帝国大学の滝川幸辰の学説・思想を非とするいわゆる滝川事件の際には、京大総長に対して滝川教授の免職を要求し、これが拒絶されると文官分限令によって一方的に滝川を休職処分にした。このことは戦後になって批判された。
樺太工業から賄賂を受け取ったと政友会から攻撃された樺太工業問題の際には散々弁明したあげく「明鏡止水の心境で云々」と発言したところ辞職の意思表示だと報道され、嫌気がさして辞職した。
1934年(昭和9年)3月3日岡本一巳代議士のいわゆる五月雨演説の綱紀問題による疑惑のため、鳩山文省疑惑に対し、純真なる教育界に及ぼす影響甚大なるを恐れ辞職。
「明鏡止水」は流行語になった。 この事件は政友会の久原房之助による内閣攻撃の一環であり、枢密院の平沼騏一郎が後ろで糸をひいていたという。
帝人事件では台湾銀行頭取にはたらきかけて11万株の帝人株を払い下げさせたといわれたが、そもそもこの疑獄事件は砂上の楼閣で、ここでも平沼騏一郎の画策があったとされている。
1936年(昭和11年)2月20日の総選挙で総裁の鈴木が落選するという失態を演じると、鳩山は宮中に工作を行って鈴木を貴族院議員に勅選させ、これを根拠に鈴木の総裁居座りを実現させるが、党内から大顰蹙を買う。
鳩山は総裁代理として党を主導しようとしたが、軍部と迎合しようとする多数派とは一線を画し、軍に近い中島知久平・前田米蔵・島田俊雄らと対立した。
1939年(昭和14年)の政友会分裂に対しては中島を総裁に担いだ前田・島田ら親軍派の政友会革新同盟(革新派、中島派)に対し反中島という点で鳩山と一致した久原を担ぎ自由主義的な正統派(久原派)を結成したが、久原は中島・前田・島田ら以上の親軍派だったためやがて鳩山は久原とも対立した。
1940年(昭和15年)に鳩山は民政党総裁の町田忠治と極秘に会談し、政友会の正統派と民政党を合同させて新体制運動に対抗する相談を行っていたが、それを潰すために圧力をかけたのが久原であった。
1942年(昭和17年)の翼賛選挙に際しては翼賛会の非推薦で当選した。
1943年(昭和18年)の第81帝国議会では東條内閣による戦時刑事特別法改正案に反対し翼賛政治会を脱会した。
その後は長野県軽井沢の別荘で隠遁生活を送った。鳩山が主として軽井沢を舞台に交流したのは、近衛文麿、吉田茂、宇垣一成、真崎甚三郎、松野鶴平、芦田均、笹川良一、赤尾敏といった人々であり、隠遁とはいっても軽井沢にいる政治家たちとの情報共有は欠かさず、終戦和平工作にも関与した。また近所には伊沢多喜男、来栖三郎、清沢洌、陸奥イアン陽之助らもおり、彼らはおたがいに訪ねあっては時局を憂いた。
軽井沢に引っ込んだ理由としては、軍部のいうがままに流される議会に失望し、その潮流に巻き込まれたくなかったこと、東條英機の対抗馬になりうるのが近衛文麿や木戸幸一のようなインテリしかおらず、兵隊上がりの東條を退陣させることはとてもではないが無理であると考えたことが挙げられる。
このように、昭和戦前期の鳩山の政治行動には、親軍的な部分と軍に抵抗した部分が混在しており、このことは戦後の政治活動に様々な形で影響していく。
1945年8月15日、鳩山は軽井沢の石橋正二郎の別荘で玉音放送を聞いた。そのとき彼は一瞬涙を流したが、庶民のように茫然自失してはおらず、「これで軍人の時代は終った。こんどは俺たちの時代だ」(鳩山一郎『自叙伝』)と言ったといい、翌16日には早くも、数年に及ぶ山荘生活に一旦終止符を打って、東京へ帰った。
9月15日付の朝日新聞東京版に、原子爆弾の投下は国際法違反の戦争犯罪であるという内容を含む談話を発表、GHQは朝日新聞に48時間の発行停止を命じた。
第二次世界大戦終結後、1946年(昭和21年)の総選挙で日本自由党が第一党になり、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりとなったが、就任を目前にして戦前の統帥権干犯問題を発生させたことなどをGHQが問題視し、同年5月7日(GHQの処分決定は同年5月3日)公職追放の処分を受けた(軍国主義台頭に協力したとの理由の他に戦前政友会の総裁の時にナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーの行政政策を成功と言った事と戦後のアメリカを批判したことが各新聞の記事に載ったとの理由 ─ 統帥権や滝川事件を参照のこと)。公職追放に際し、鳩山は吉田茂を後継総裁に指名し、同年5月22日に第1次吉田内閣が発足した。追放中の1948年(昭和23年)、政治資金に関する問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された。
日本の独立回復を目前にした1951年(昭和26年)6月11日、自邸での自由党への復帰を巡る議論の最中に脳溢血で倒れる。鳩山の追放は同年8月6日に解除された。首相の座を目前にした追放や追放解除を目前にしての健康問題と、不運な状態が続いた鳩山は、世間の同情を集めることとなった。
翌年の第25回衆議院議員総選挙で自由党代議士に復帰した。しかし、吉田首相が「鳩山復帰後は総裁を譲る」という約束を事実上反故にしたことで、対立が表面化。バカヤロー解散での造反と吉田自由党への再合流を経て、1954年(昭和29年)11月24日に再び自由党を離脱して改進党と合流し、日本民主党を結党した。
貴族主義的でワンマンと呼ばれた吉田茂は不人気で政権を降り、鳩山は同年12月10日に首相となった。首相としては初の地方議会議員経験者であった。1955年(昭和30年)11月15日、盟友で寝業師と言われた三木武吉の尽力により日本民主党・自由党の保守合同を成し遂げ、自由民主党(自民党)を結成した。これにより保守勢力と革新勢力(この時点では社会主義)を軸とした55年体制が確立された。1956年(昭和31年)4月5日に自民党初代総裁に就任し、7月8日の第4回参議院議員通常選挙では、「友愛精神」の政治理念と日ソ国交回復・独立体制の整備・経済自立の達成などの政策目標を訴え、鳩山ブームを起こした。吉田前首相のアメリカ中心の外交から転換し、日ソ共同宣言を同年批准し、公約通り日ソ国交回復を成し遂げた。
鳩山内閣においては、日本の独立確保という視点から再軍備を唱え、改憲を公約にしたが、与党で改憲に必要な3分の2議席には達しなかった。また、改憲を試みるために小選挙区制中心の選挙制度の導入を図ったが、野党からはもちろん、与党内からも選挙区割りが旧民主党系寄りという反対があり、「ゲリマンダーならぬハトマンダー」と批判され、実現には至らなかった。またエネルギー政策での功績では、原子力基本法を提出、成立させ、のちの原子力発電時代の礎を築いた。
鳩山は日ソ共同宣言に署名して帰国した直後に総理・総裁引退の声明を発表。ソ連との国交回復を花道に内閣総辞職し政界の第一線を退いた。その後、友愛青年同志会を育成するほかは、療養生活を送り、長男・鳩山威一郎の末っ子鳩山邦夫が学習院初等科4年から5年に進級直前、1959年(昭和34年)3月7日に衆議院議員在職のまま没した。享年77歳(満76歳没)。
なお、鳩山内閣期の1955年(昭和30年)に、在日米軍の駐留を認める旧日米安保に代わる条約として、在日米軍を撤退させ日本の集団的自衛権を認める「日米相互防衛条約」を検討し、重光葵外相がアメリカに打診したが、国務長官だったジョン・フォスター・ダレスは日本の軍備の不十分さなどから非現実的とこれを一蹴した。同席していた岸信介(党幹事長)はこのダレスの対応に大きなショックを受け、安保条約の改正のためには自主防衛努力の姿勢や西側陣営に属することを明確化する必要性があることを痛感、自らの政権でそれを実現していくことになる。
鳩山一郎の提唱する「友愛」は、1938年に出版されたリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの著書『The Totalitalian State against Man』(直訳: 全体主義国家対人間)を原点としている。
元々、同書はクーデンホーフ=カレルギーのアメリカ亡命を手助けした日本人外交官・米澤菊二に贈呈したものである。米沢の帰国後、本は早稲田大学教授・市村今朝蔵の手を経て鳩山に渡され、彼の手で邦訳されたのである。(他の多数のクーデンホーフ=カレルギー本は、クーデンホーフ=カレルギーの依頼で1920年代後期に『パン・ヨーロッパ』を翻訳・出版した元外交官の自民党議員鹿島守之助(鹿島建設)により戦後、翻訳・出版された。)
鳩山は「Fraternity」(フラタニティ。元のドイツ語はBrüderlichkeit ブリューダーリッヒカイト)を「友愛」と訳出、『自由と人生』の邦題で1952年(昭和27年)に洋々社から出版した。
パン・ヨーロッパ論者・クーデンホーフ=カレルギー伯爵はナチス・ドイツにとって不都合な人物であった。伯爵はナチスに暗殺されるおそれすらあり、国から国へとヨーロッパ中を逃亡し、1940年、リスボンから米国へ亡命することになった。亡命の査証手続きに四苦八苦するクーデンホーフ=カレルギー伯爵を何かと手伝ったのがポルトガル公使館長・米沢菊二である。伯爵が亡命に成功する1940年8月、それはナチス・ドイツが日本、イタリアと日独伊三国同盟を9月に締結する前月の出来事である。クーデンホーフ=カレルギー伯爵は、伯爵を追うナチスと手を組んだ国家の大使でありながら伯爵の世話をした米澤との別れに際し、この『The Totalitarian State against Man』を贈った。米澤は帰国後、国際ジャーナリスト松本重治に同書を貸し、松本は軽井沢で政治学者・市村今朝蔵(日本女子大・早大)に貸した。市村は軽井沢の学者村「友達の村」の発起人であり、松本も参加していた。鳩山は軽井沢で市村から同書を受け取って翻訳したのである。出版を強く勧めたのは政治評論家岩淵辰雄である。
鳩山は友愛の普及に努め、彼の孫の代に引き継がれるに至っている。財団法人日本友愛青年協会は、鳩山一郎の「友愛」を、文字通りの友愛(Yuai)と紹介している。友愛は『自由と人生』で述べられる「友愛思想」「友愛革命」「友愛社会」に即した思想である。日本友愛青年協会の見解としては、友愛は体系化された理論ではなく、今後、人々が研究を深めることで完成されるという。
クーデンホーフ=カレルギーの思想に則った「友愛」が目指すのは、母性愛による優しい世界づくりである。各論は、相互尊重、相互理解、相互扶助、人道主義、人格主義、協力主義、騎士道、武士道、淑女紳士としての人間関係構築、などである 。友愛運動の理念であるところの、人格の尊厳に基づく相互尊重、相互理解、相互扶助(または相互協力)を、友愛3原則という。
1953年(昭和28年)、友愛を標榜する友愛青年同志会が結成され、鳩山一郎が会長に就任した。一郎は10万人の会員を率いる会長として政財界で指導力を発揮した。1959年(昭和34年)、友愛を更に広めるべく財団法人日本友愛青年協会が設立された(一郎の妻、薫が理事長就任)。1973年(昭和48年)、友愛青年同志会は友愛青年連盟に名称を変更。1998年(平成10年)、友愛青年連盟は財団法人日本友愛青年協会と合併し、2011年から一般財団法人日本友愛協会となった。関連団体に友愛婦人会(1958年結成)、友愛クラブ(1967年発会)がある。また、各地に友愛山荘が設立されている。
クーデンホーフ=カレルギーは鳩山の友愛青年同志会名誉会長を務めた。
フリーメイソンリーは友愛の団体である。日本のフリーメイソンリーに取材をしたジャーナリスト赤間剛の著書『フリーメーソンの秘密 世界最大の結社の真実』(1983年)によると、赤間がフリーメーソン・ライブラリーのカードを閲覧したところ、鳩山一郎は「1951年3月29日入会」「(ロッジ番号)No.2」とあった。入会場所は「東京ロッジ No.125」。
鳩山は河井彌八とともにフリーメイソン第二階級、第三階級に昇進した(1955年3月26日)。
鳩山は「友愛精神」という言葉の他、「兄弟愛」という言葉を用いて昇進の挨拶をした(1956年6月5日)。
クーデンホーフ=カレルギーもフリーメイソンであったが、伯爵のパン・ヨーロッパ連合がフリーメイソンと関係があると批判されていたので伯爵は1926年にウィーンのフリーメイソン・ロッジ「Humanitas」を辞めた。伯爵がこのロッジに所属していた事実はナチスが暴露した他あらゆる文献で確認できるが、他のロッジで再びフリーメイソンリーに参加したという話は出ていない(伯爵は生涯パン・ヨーロッパ連合を継続した)。
井上多門 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
和子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
石橋正二郎 | 安子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
幸 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鈴木喜三郎 | 紀一郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
由紀夫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カヅ | 威一郎 | 太郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
鳩山十右衛門博房 | 和夫 | 邦夫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一郎 | 華子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
春子 | エミリー | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信子(五女) | 二郎 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渡邉康雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
寺田栄 | 薫 | 渡邉曉雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
渡邉規久雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
玲子(次女) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
秀夫 | 明 | 玲人 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
道夫 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
菊池大麓 | 千代子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
箕作麟祥と鳩山威一郎の項にも関連系図。
公職 | ||
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先代 吉田茂 | 内閣総理大臣 第52・53・54代:1954年 - 1956年 | 次代 石橋湛山 |
先代 田中隆三 | 文部大臣 第40代:1931年 - 1934年 | 次代 齋藤實(兼任) |
先代 塚本清治 | 内閣書記官長 第28代:1927年 - 1929年 | 次代 鈴木富士彌 |
議会 | ||
先代 則元由庸 | 衆議院懲罰委員長 | 次代 島田俊雄 |
党職 | ||
先代 結成 | 自由民主党総裁 初代 : 1956年 | 次代 石橋湛山 |
先代 結成 | 日本民主党総裁 初代 : 1954年 - 1955年 | 次代 自由民主党へ |
先代 結成 | 日本自由党総裁 初代 : 1945年 - 1946年 | 次代 吉田茂 |
先代 鈴木喜三郎(総裁) | 立憲政友会総裁代行委員 1937年 - 1939年 | 次代 革新同盟と正統派に分裂 |
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