広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、英: Hiroshima Toyo Carp)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグ(セ・リーグ)に所属している。通称は「広島」「カープ」「鯉」。
広島東洋カープ | |
---|---|
Hiroshima Toyo Carp | |
会社名 | 株式会社広島東洋カープ |
創設 | 1949年12月15日 |
今シーズン | |
2024年の広島東洋カープ | |
ロゴデザイン | |
所属リーグ | |
セントラル・リーグ | |
歴代チーム名 | |
| |
本拠地 | |
MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場) (広島県広島市南区) | |
収容人員 | 33,000人 (MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島) |
| |
永久欠番 | |
| |
獲得タイトル | |
日本一(3回) | |
リーグ優勝(9回) | |
成績(タイトル以外) | |
日本シリーズ出場(8回) (太字は勝利した年) | |
3勝5敗 | |
クライマックスシリーズ出場(6回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) | |
2勝4敗 | |
球団組織 | |
オーナー | 松田元 (代行:松田一宏) |
運営母体 | 松田家(現・マツダ、旧・東洋工業の創業者一族) |
球団社長 | 松田元 |
監督 | 新井貴浩 |
選手会長 | 堂林翔太 |
種類 | 株式会社 |
---|---|
本社所在地 | 日本 〒732-8501 広島市南区南蟹屋二丁目3番1号 マツダスタジアム内 |
設立 | 1956年1月 |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 3240001009427 |
事業内容 | プロ野球興行事業等 |
代表者 | 松田元(代表取締役社長) |
資本金 | 5,000万円 |
純利益 | 8億6500万円 (2023年12月期) |
総資産 | 156億3400万円 (2023年12月期) |
従業員数 | 120人(2009年12月時点) |
決算期 | 12月31日 |
主要株主 | 松田家関連(42.7%) * 松田元 20.4% * 松田弘 12.2% * 松田勢津子 10.1% マツダ関連(34.2%) * マツダ 34.2% 球団子会社(18.5%) * カルピオ 18.5% (2005年現在) |
主要子会社 | カルピオ(完全子会社) |
関係する人物 | 松田恒次、松田耕平 |
外部リンク | https://www.carp.co.jp/ |
特記事項:1949年6月創業。勢津子は耕平の妻、元は耕平の長男、弘は耕平の次男でアンフィニ広島社長。 |
広島東洋カープ | |
---|---|
YouTube | |
チャンネル | |
活動期間 | 2019年9月8日 - |
ジャンル | 野球 |
登録者数 | 約6.71万人 |
総再生回数 | 約776万回 |
チャンネル登録者数・総再生回数は 2024年1月20日時点。 |
広島県を保護地域とし、広島市南区にあるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。現存するセ・リーグ6球団では唯一、三大都市圏外に本拠地を置く球団である。
特定の親会社を持たない市民球団を源流としており、原爆に打ちひしがれた広島の街に希望の光を与えることを創設目的とするという、他球団と比較して特異な歴史を有する。カープはお好み焼き、マツダ、広島電鉄などと共に広島の戦後復興の象徴として語られることが多い。地域密着型プロスポーツの先駆けである。
地元・広島の自動車メーカーであるマツダが球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であり、球団名の「東洋」もマツダの旧社名「東洋工業」に由来する。ただし、マツダは広島東洋カープを「持分法を適用していない非連結子会社」と位置づけており、経営陣の派遣は行うものの、球団への資金提供(赤字補填など)といった積極的関与は行っていない。むしろ、マツダ創業家である松田家一族の所有株式のみを合計するだけで議決権ベースでは過半数に達する。歴代のオーナーも松田家から出ていることから、実質的には同家による同族経営であるとの見方もある。「市民が直接株式を保有する」という意味での市民球団ではないが「特定の企業に全面依存せずに経営を成り立たせている」という意味では今なお市民球団のイメージを有する。なお、本記事では前身の広島カープ時代についても述べる。
カープでは永久欠番に準ずる制度として、前任者が推薦する選手が出て来るまではその番号を空き番とする「永久預かり」制度を導入している。この制度が適用されたのは以下の通り(カッコ内は空き番だった期間)。
カープで沢村栄治賞を複数回受賞しているのは、北別府学、前田健太の2人である。また、クリス・ジョンソンが外国人投手として史上2人目の受賞を達成している。
カープでの投手三冠王の達成者は1人。
2023年シーズン終了時点で達成者はいない。
2023年シーズン終了時点で複数回受賞の達成者はいない。他球団での受賞も含めると江夏豊がカープ時代に1回、ファイターズ時代に1回で複数回受賞を達成している(投手としては唯一の両リーグでの受賞達成者でもある)。
カープの打者で最優秀選手を複数回受賞しているのは2人。
※太字はリーグ優勝、◎は日本一
世代 | 氏名 | 在任期間 | 備考 |
---|---|---|---|
初代 | 松田恒次 | 1967年12月17日 - 1970年11月15日 | 同時期に東洋工業(現・マツダ)社長を兼任 |
2代目 | 松田耕平 | 1970年11月18日 - 2002年7月10日 | 1977年まで東洋工業(現・マツダ)社長を兼任 恒次の息子 |
3代目 | 松田元 | 2002年7月15日 - | 耕平の長男。 |
氏名 | 在任期間 | 備考 |
---|---|---|
松田耕平 | 1967年12月17日 - 1970年11月17日 | |
松田元 | 1985年 - 2002年7月14日 | |
松田一宏 | 2013年3月25日 - | 松田元の弟・松田弘(広島エフエム放送元社長およびアンフィニ広島元社長)の長男。 |
球場名 | 所在地 | 使用期間 |
---|---|---|
広島総合球場 | 広島市西区観音新町二丁目 | 1950年 - 1957年 |
広島市民球場 | 広島市中区基町 | 1957年7月 - 2009年3月 |
MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島 | 広島市南区南蟹屋二丁目 | 2009年4月 - |
本拠地のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島には、球団の本部のほかに公式グッズを販売する売店なども整備されている。
※復刻版にはホームゲーム時に限りユニフォームの袖やヘルメットに「MAZDA」の広告が張り付けられている。
。以降の限定ユニフォームでは背ネームがオミットされている。背番号の書体は従来のものと異なり、オリジナルのものが採用された。帽子はデニムカラーにマークが赤で入ったものだったが、ヘルメットは通常デザインのものを使用した。
球団マスコットは以下の3人。詳細はその項を参照。
球団創立からカープ坊やデビューまでは、丸に鯉のペットマークを使用。当時のジャンパーにワッペンが張りつけられていた。また、1989年には、当時広島県内で開催された「海と島の博覧会」の公式マスコットであるアビ丸を広島市民球場での「ホームランガール」として起用した。
広島は、チームスローガンではなくキャッチフレーズとして発表している。
2010年まで広島市への原子爆弾投下が行われた8月6日に広島の主催試合が編成された場合は、旧広島市民球場(マツダスタジアムも同様)は使用せず、岡山県倉敷スポーツ公園野球場(マスカットスタジアム)、福山市民球場などで行っていた。これは球場を保有している広島市が、8月6日を原爆記念日として休日となっているためであった。また旧市民球場は広島平和記念公園に近いため、当日の記念式典などによる参拝・参列者が多数訪れ、交通機関も混雑することも考慮した上での措置であった。旧市民球場が閉場となる2008年には8月6日に試合を行う方向で検討もされたが、日程上の都合で実現しなかった。
2011年は、53年ぶりに本拠地(マツダスタジアム)で対巨人戦が開催され、以来マツダスタジアムで開催される試合は毎年生協ひろしま等の共催による「ピースナイター」としている。2015年の試合では限定ユニフォームも着用された。
カープは当初、「広島野球倶楽部」として、広島県、広島市、呉市、中国新聞社、日本専売公社(広島市に主力工場があった)、広島電鉄、東洋工業などの広島政財界の出資で設立された。運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは当時同じ中国地方の山口県下関市を本拠地としていた大洋ホエールズとの合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「#8人の侍」参照)。この経験から資金集めを行う後援会が設立され、創成期のカープの運営を支えていくことになる。また「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り、これは1960年代まで続いた。
しかし1955年には「広島野球倶楽部」の負債額は莫大なものとなり、もはや後援会でも手に負えなくなったと判断した広島財界は、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させ、新たに「株式会社広島カープ」を設立、初代社長に広島電鉄の伊藤信之が就任している。
1965年には近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、2代目社長の松田恒次がそれを拒んでいる。それについては当該項の記事を参照。
1967年、東洋工業は株式会社広島カープを全面買収し、松田恒次は球団オーナーとなったが、これは当時、長期低迷するチーム成績に加えて広島市民球場 (初代)フィーバーが落ち着いたことで年間観客動員数が激減(1959年:862,965人 → 1967年:622,100人)していたことを受けて、出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれ、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えた。さらに1970年代後半に住友銀行の管理下となった際に、松田家が球団と地元ディーラーの経営のみの担当となったことから、東洋工業→マツダは実質的にオーナー会社でなくなった。これはマツダがフォード・モーター傘下に入った1980年代以降も変わっていない。ただし、現在でも筆頭株主であることから(下記参照)、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を残している。
現在もマツダは筆頭株主として球団株式の34.2%(22万1616株)を保有しており、運営会社はマツダグループに名を連ねている。またカープ選手のユニフォームの右袖やヘルメット、更にMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島のチケットにマツダの広告が出され、さらに2013年からアテンザを筆頭にマツダ車に採用された新色「ソウルレッドプレミアムメタリック」がヘルメットカラーに採用されるなど両社の関係は深い。
経営状態そのものは、親会社の資金援助なしでは莫大な赤字を出すことが常態である日本のプロ野球球団の中にあって、その親会社が無い独立採算制でありながらも良好であり、1975年度から2013年度まで39期連続で黒字決算となっている。特に2009年度はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島開場初年という背景もあって、当期売上高が117億円余と過去最高を記録した。
ただし、この売上高の内訳については、2004年(65億円)が、放映権料収入(28億円)、入場料収入(20億円)、販売・広告料収入(12億円)で大半が占められていたのに対して、2009年(117億円)は、入場料収入48億円、グッズ販売20億円、飲食収入20億円とその構成比が大きく変わっている点に留意する必要がある。特にグッズ販売に関しては、2010年・2011年が14億円、2012年は16億5,000万円、2013年は19億5,000万円と、2009年以降も好調な売り上げを記録しており、売上高全体の約2割を占めるまでに成長した。これは2004年の球界再編を契機にセ・パ交流戦が実現。その影響で巨人戦を中心とした放映権料収入の激減が予想されたため、強い危機感を抱いた球団は、この時期からグッズ開発の強化、週末試合をナイターからデーゲームへ切り替えるなど、これまでの放映権料収入中心のビジネススタイルからの脱却を図っており、それが2009年以降に大きな成果となって現れている。
2009年に球場内の球団専用施設へ22億円を出資したことに続いて、2010年は一軍寮の建設(2億円)、2012年はクリーニング工場の建設、2014年は二軍選手送迎バスの更新(5,000万円)、マツダスタジアム横の屋内練習場建設(16億円)等、新球場完成後は設備投資も増えている。またドミニカ共和国のカープアカデミーは、2005年から球団の経費削減の一環として運営費が縮小されたため、投手の育成しか行っていなかったが、2013年から野手育成を再開している。
その一方、年俸総額順位はプロ野球12球団中、2007年の10位を除き、近年は11位以下である。
これは、1993年オフに導入されたFA(フリーエージェント)制度、そしてドラフトにおける希望入団枠制度の導入により、カープにおいては、1989年には8億円であった選手年俸総額が1997年には16億円と8年間で2倍に急騰、2002年には17億8,900万円に達したものの、2003年以降はドラフトで獲得した選手の伸び悩み、江藤智、金本知憲、新井貴浩、アンディ・シーツ、グレッグ・ラロッカと相次いだ主力打者の流出もあったため球団成績は低迷、結果として年俸総額が徐々に低下したことによる。ただし、マツダスタジアムが完成した2009年以降は外国人選手を多数獲得してきた影響もあって徐々にではあるが年俸総額が高まっており、2014年度は20億8,585万円となった[要出典]。
このように経営状態は良好であるものの、球団の財務指標は公開されていないため、明確な支出状況は一切不明である。そのため、市民への一般公開を求める意見も存在している。
2020年は新型コロナウイルス感染拡大により公式戦の入場者数が制限された影響などを受け29億3,487万円の当期損失となり赤字決算となったものの、経営状況は良好で、赤字決算は1974年以来46年ぶりであった。売上高は2年連続の減収かつ前年比83億4,489万円減の85億5,735万円となり、9年ぶりに100億円を下回った。入場料収入は41億3,500万円減の16億6,000万円、グッズ収入は22億8,800万円減の13億5,600万円で、それらとは別に消毒やPCR検査などコロナ対策で約1億円を投じた。同時に、資本金をそれまでの3億2,400万円から5,000万円に減資したことで、税法上では中小企業の扱いとなり、税の優遇措置を受けられるようになった。
広島カープの特徴を挙げるとき、よく評されるのが「巧みなスカウティングと育成能力」である。特に1975年半ばから1980年代半ばの赤ヘル黄金時代には、広島を中心とした中国地方選手の育成・活躍もあり、広島経済の好調さなどの要因が相まって観客動員数を増加させた。つまり、好調な広島経済→地元選手を育成する地域密着→スカウティングによる補強→カープの活躍→観客動員の増加→球団経営の健全化→チーム強化への再投資→連覇という好循環が作用した。1979年~1980年シーズンの連続日本一は、この項環境が築き上げた金字塔といえる。これは広島で黄金時代の基礎となる選手を育てた根本陸夫が、その後チーム作りに関わった西武ライオンズや福岡ソフトバンクホークスでも同様のプロセスで球団の改革を行っている。またホークスが1993年に導入された新ドラフト制度(逆指名制度)やFA制度をフル活用した手法は、地元九州出身選手を獲得していく広島カープで見られた地域密着→チームの活躍→再投資という好循環のメカニズムを新たに発展させたものとする論調もある。またオリックス・ブルーウェーブが1995年の阪神・淡路大震災という負の遺産を背景として、一時的に地域密着効果を生み、観客動員を増加させたのは、広島カープに見られた観客動員数の増加→補強の充実→チームの活躍→再投資というメカニズムが見られたとも論じられる。
1993年に日本プロ野球でもFA制度が導入されたが、導入当初の広島は「FA権の行使後の残留(FA残留)は一切認めない」という方針であった。これは、FA権を行使した選手の年俸および契約金が翌年以降の活躍如何に拘わらず高騰してしまうリスクがあるためであり、資金力に乏しい広島の経営を圧迫する危険性があるからである。また、松田耕平前オーナーの『球団は家族。選手は子供。両天秤にかけて家族を選ぶ子供が居るだろうか』というチーム観が遺訓として残っているという事もある。しかし、選手にとっては他球団の評価を聞くにはFA権の行使が必要であるため、浅井樹(当時選手会長)や金本知憲などのベテラン選手はFA残留を認めるように球団と再三交渉をしてきたが、結局認められず、行使した金本は残留の選択肢がないため阪神へ移籍した。
そんな中、2006年オフにエースの黒田博樹がFA宣言を示唆する発言をした。投手陣が弱体化している球団にとって、唯一安定した成績を残していた黒田の流出はチームの死活問題となりかねなかったため、この時は例外的にFA残留を認める方針を掲げた(結局黒田はこの年は行使せず残留したが、翌2007年オフにロサンゼルス・ドジャーズにFA移籍。その後、2015年より広島に復帰)。この影響で球団もスタンスを変更し、現在ではFA残留を基本的には認めないと、態度を軟化させている。
事実、2007年オフに新井貴浩が、2008年オフに東出輝裕が、2018年オフに丸佳浩がFA権を取得した際、球団はそれぞれの選手のFA残留を認める方針であった事を明らかにしている(新井と丸はFA権を行使しそれぞれ阪神、巨人へ移籍(新井は後に広島に復帰)、東出は行使せず残留)。ただし行使後に残留に至った実例は2020年現在無く、中には2015年オフの木村昇吾のようにFA宣言するも獲得に乗り出す球団が現れず、広島との再契約も認められなかったため、FA選手で初めて他球団の入団テストを受ける事態となった例も存在する(木村はその後入団テストに合格して西武入りが決まったが、手続き上はあくまで「FAの行使による移籍」として扱われている)。
他球団のFA宣言選手の獲得については、2009年に日本ハムからFA宣言した藤井秀悟について調査し(実際には獲得戦線に参入せず)、2010年に横浜からFA宣言した内川聖一の獲得戦線に参戦していた。しかし内川はソフトバンクに入団したため、2022年現在広島はセ・パ12球団の中で唯一のFA選手獲得経験のない球団となっている。
カープ初の地方遠征は、1950年3月16日に福山三菱電機球場で行われた対中日1回戦だった。試合は2-5で敗れたが、四回裏に中日・杉下茂から白石勝巳がレフトスタンドに記念すべき球団第1号ホームランを放っている。また、19歳のルーキー・長谷川良平が先発としてマウンドに上がり、プロとしての第一歩を踏み出した。企業の敷地内にある球場でプロ野球が行われたのは、当球場の他、3ヶ所のみといわれる。
6月7日には、広島県内で初のビジターゲーム・大洋対広島六回戦が現在三次市の十日市町営野球場で行われた。
開催地はこの数日前に草競馬が催された河川敷。馬糞が所々落ちている雑草茂る原っぱである。客席は三塁側が川の堤で傾斜面がスタンド。平坦な一塁側は馬車や荷車を並べて観客席を作った。座布団代わりに一束二十銭で麦の藁束を売り、品切れになると隣の田んぼからいくらでも補充した。両軍ベンチは馬が繋がれていた丸太ん棒に板を打ち付けた即席ベンチ、勿論屋根はない。ベンチ前にはバケツが置かれ、消防団員が手押しポンプのホースを伸ばし、近所の農家の井戸から水を汲み上げバケツに注ぐ。これが選手たちの飲み水である。スコアボードは小学校の黒板。1枚では数字が読みにくいと2枚並べた。外野柵は、所々に青竹を立てて荒縄1本を腰の高さに張り巡らせた。両翼のポールがないことに試合直前に気付き、慌てて田んぼから稲干し用の丸太を引っこ抜いて立てた。
この環境で公式試合がスタート。雑草やデコボコのグラウンドで、5回にしてカープが早々全員安打の15安打、7回には二死から四球1つをはさんで8本の長短打を放ち10点。ゲーム途中で先発全員得点、全員打点、毎回安打、1イニング3本塁打を記録。カープがこの試合で記録した28安打は、2022年終了時点でもセ・リーグ記録である。22得点は球団記録。日本各地に河川敷の野球場はあるが、プロ野球の一軍公式戦が行われたのはこの試合だけといわれる。
この試合を現地で取材したプレスは、朝日新聞、共同通信社、読売新聞の3社のみで、野球担当になって間もない記者はスコアブックの記入に苦戦した。この試合から両チームの打ち合わせで、外野柵の縄張りの上を越せば本塁打、下をくぐれば二塁打と取り決めた。この試合で外野にお客を入れたかは分からないが、その後外野にお客を入れるとファンがカープに有利になるよう縄を動かした。これで問題を起こしたのが後述する「ナワ・ホームラン」である(#疑惑の本塁打)。
カープは、かつては積極的に地方遠征を行っていた時期があり、日本ハムの北海道移転や楽天の球団創設以前は東日本と北陸を中心に、北は北海道から南は鹿児島まで、全国各地で主催試合を行ったことがある。
球団創設当時の1950年代は主に広島県のその他の球場でも開催されたが、その後は上記の倉敷、福山以外にも、尾道しまなみ球場、米子市民球場、松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)など、中国・四国地方の球場で多くの主催試合が開催された。
特に1980年代から1990年代にかけては北海道と東北6県全てで主催試合を行うなど広範囲で地方開催を行ったこともあり、とりわけ東北地方への遠征が多く、5月から7月にかけての週末にはよく東北各地の野球場(福島県営あづま球場、宮城球場、岩手県営野球場、秋田市八橋運動公園硬式野球場など)でデーゲームを開催していた。1980年代半ば〜後半のバブル経済全盛期には二軍の拠点を広島とは別途に、関東や東北に設置する構想もあった。
さらに、他球団のファンが多い地域や、他球団がフランチャイズとしている自治体に程近い地域で主催試合を行うケースも多かった。1989年には群馬県前橋市の群馬県立敷島公園野球場と新潟県新潟市の鳥屋野運動公園野球場で対ヤクルト戦を開催し、1990年から1997年にかけては中日のテリトリーである岐阜市の長良川球場で対中日戦を開催したほか、北陸地方(福井県営球場、石川県立野球場、富山市民球場アルペンスタジアム、ハードオフ・エコスタジアム新潟)で対阪神戦を開催した。これら以外にも、他球団の地方主催試合の対戦相手となることも多かった。
また、2000年代も半ばごろまでは東北地方のほか、長野、金沢・富山・福井の北陸3県でも主催試合を行った。このため、当時の主力選手であった金本知憲は現役時代、のち移籍した阪神タイガース時代も含めてフランチャイズ制導入以降では史上2位タイとなる33球場で本塁打を放ったというエピソードもある。
新規竣工、もしくは大規模改修が完了した地方球場で主催試合を開催するケースも多かった。広島県内では1993年に呉市二河野球場で改修後初のプロ公式戦を開催したほか、2009年には当時竣工したばかりのみよし運動公園野球場(三次きんさいスタジアム)で「球場開き」を飾っている。また、県外の地方主催公式戦でも同様のケースが多く、2003年には秋田県立野球場(こまちスタジアム)で、2009年にはハードオフエコスタジアム新潟で、それぞれ球場開きを飾ったほか、2000年8月21日に長野オリンピックスタジアムではセ・リーグ初の公式戦(対ヤクルト戦)を開催している。
だが、2000年代半ば以降はセ・パ交流戦の影響や新本拠地での観客動員数の大幅増加もあり、地方開催は縮小されていった。地方開催は2003年頃までは概ね年間10 - 13試合程度あったものの、特に本拠地が現在のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島に移転した2009年以降は、中部・北陸にて若干行われた以外は三次や呉といった広島県下の球場での開催にほぼ限られるようになった。2010年では4試合にまで減り、特に黒田博樹が広島に復帰した2015年以降はファンが急増したため本拠地のチケットが入手困難化したこともあり、2016年以降は三次・呉・尾道いずれかの広島県下での1 - 2試合に留められるようになった。2020年は新型コロナウイルス感染症拡大の影響で開幕が6月に延期され試合数も短縮された影響で地方開催は行われず、主催試合は全60試合ともMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島で開催された。2021年以降も同様に地方開催は行っていない。
なお、二軍に関しては、2021年に弘前市運動公園野球場にて二軍交流戦(対東京ヤクルト)2試合を開催予定であったなど僅かに地方開催を続けているが、この2021年の弘前市での試合は新型コロナウイルス感染症拡大への懸念から全て中止となった。一軍では上記の通りマツダスタジアム以外での主管試合は2021年以後行われてないが、二軍ではマツダスタジアムを含む広島県内各地での主管試合が組まれており、2023年は廿日市市HIROHAI佐伯総合スポーツ公園、エブリィ福山市民球場、三次きんさいスタジアムで開催予定である。
1951年開幕前、セ・リーグ内で「広島カープ解散」の案が浮上。広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたカープがセ・リーグの評判を落としかねないこと、が主な理由だった。議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていた。当時下関に本拠地を置いていた大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、広島球団はあらゆる企業に出資の伺いを立てるが実らなかった。
3月13日、NHK広島放送局が「カープ解散」を報じた。解散の報を聞いたカープファン8人が自然発生的に集い、白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記されたバットを手に県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞社へ乗り込みカープへの支援交渉を行った。この8人の名も無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民から援助を受けることとなった。広く援助を呼びかけるために球場前には樽が置かれた。この「樽募金」などに代表される支援で経営は多少の改善を見せ、球団合併・解散危機は回避された。
1953年4月1日、尾道西高校(現・尾道商高)の校庭で開かれた洋松ロビンス三回戦で、4回広島・白石勝巳選手の放った打球が右中間に飛び込む本塁打となったが、このプレーをめぐり洋松・小西得郎監督が異を唱え主審に打ち直しを要求した。先述のように三次での試合から外野柵の縄張りの上を越せば本塁打、下をくぐれば二塁打という取り決めがあり、この試合も校庭のため外野柵がなく、客席とグラウンドはロープだけで仕切られた状態にあった。そのため「広島を勝たせてやりたい、広島の選手に得点を与えたい」といったファンの欲望から「ロープをわざと前に押し出したのではないか」と猛抗議をした。それまでロビンス選手の打球が外野に飛来するとカープファンが縄を高々と差し上げ、カープ選手の打球が外野に飛ぶと縄を下げたりするので、小西監督も腹を据えかねていた。
当時公式戦を開催できる基準の会場が広島県内には少なかったため、学校や企業のグラウンドを会場にした試合は珍しくなかった。福山三菱電機グラウンドや大竹警察学校グラウンドでの開催もある。
そのわずか11日後の4月12日、今度は広島総合球場を舞台にした同じカードで、洋松選手の本塁打をめぐってファンがグラウンドに乱入し、小西監督と審判に暴行を加えるハプニングがあった。この日、第一試合は2-4でカープの負け。第二試合は終盤までカープリードで八回表、洋松の荒川昇治が走者二人を置いて、大田垣喜夫の速球をレフトポールに直撃する逆転スリーランを放ち、カープが逆転負けを食らうと「こんなもんがあるからカープが負けるんじゃ」とファンがその左翼ポールを引き抜いてしまうという珍事も起きた。この騒動には三つの遠因があり、荒川が「やーい、ザマーみろ!!」とスタンドで騒ぐカープファンをからかう仕草をやったこと、三塁の谷口塁審が先にフェアのジェスチャーをし、荒川が二塁を回るころ、改めて本塁打のサインを示し、ファンから見ればジャッジの訂正のように見えたこと、カープの石本秀一監督が騒ぎ出したファンを納得させようとマイクを通じて事情を説明したが、「自分はそうは思わないが、塁審がホームランであるというからー」などと曖昧なことを言うから、興奮したファンに油を注いだことであった。試合終了後、殺気立つファンが雪崩うってグラウンドへ乱入し、谷口塁審、杉村主審らに暴行を働いた。そのうち十数人のファンが長い左翼ポールを引き抜き、審判団の逃げ込んだ道具置場までポールを持って行き「審判、このポールのどこに当たったんじゃ! いえ!!」と叫び、さらにポールで道具置場のドアを突き破ろうとした。朝日新聞記者・塩口喜乙は暴れるカープファンを片っ端から撮りまくり、翌日の朝日新聞は社会面のトップにこの事件を掲げ、『週刊朝日』や『アサヒグラフ』も大きく取り上げた。結局夜まで審判団を缶詰めにし、警官隊が出動する騒ぎになった。
尾道の事件後、連盟から「内外野の柵は縄を使用してはならない。なんらかのフェンスを設置すること」という指示が出て、大竹市の自衛隊演習場で開催された4月16日の巨人二回戦は、急遽、鉄筋コンクリートの建物を作る際にセメントを流し込む囲い板でフェンスが作られた。
2015年9月12日、阪神甲子園球場で行われた阪神タイガース戦で、12回表、1死ランナーなしから広島・田中広輔の打球が左中間フェンスのスタンド側に張られたワイヤーで大きく跳ね返り外野を転々としていた。田中は三塁で止まったものの広島側のベンチはホームランをアピールした。審判団はビデオ判定による協議でフェンスのグラウンド側で跳ねたボールインプレーと判定し三塁打とした。後続打者は凡退し2-2の引き分けに終わった。
試合後、カープはNPBとセリーグ両事務局に抗議文を送り、NPBは一度フェンスを越えていたと誤審を認めたものの記録や成績の訂正は一切行わないとした。広島はシーズンを69勝71敗3分で終え、3位阪神とは0.5ゲーム差で4位となりクライマックスシリーズを逃した。この試合に勝っていれば広島は70勝71敗2分(勝率.496)、阪神は70勝72敗1分(勝率.493)で広島が3位になっていたので非常に大きな誤審になった。
なお、2015年はBクラスで終わったため本来は2017年の開幕権はなかったが、3位の阪神が返上したため、2017年はマツダスタジアムで開幕戦を迎えることとなった。(詳細:阪神タイガース#主催ゲームの開幕戦)
市民球団として誕生したという生い立ちからファンの応援は他球団に比べ、より熱狂的といわれ、カープ可愛さの余り、時に暴走を繰り返し、全国に汚名を晒した。最も有名なのは初優勝へ驀進する1975年9月10日の対中日戦で、ファンがグラウンドに乱入して中日の主力選手に怪我を負わせた事件であるが、1964年6月30日に市民球場で行われた阪神との試合では、審判を責め立てて、審判の誤審という不祥事によるプロ野球史上初の中止試合を起こしている。これは「広島事件」とも呼ばれる。カープ攻撃中の2回裏無死一(走者:興津立雄)、二塁(走者:藤井弘)の場面。カープの阿南準郎のバントフライを阪神の石川緑が地面スレスレで捕球した。しかし稲田茂主審が「土煙が上がった」とショートバウンドと判断しフェアの判定。このジャッジにより、走者は次の塁へ向けて走ったが、阪神は直接捕球を前提に、ボールを投手から一、二塁と転送し、三重殺をアピールした。ここから試合が中断し、VTRを見ても分からないぐらいの微妙なプレーだったが、協議の末、稲田主審ら審判団は石川投手が捕球していたと誤審を認めた。その上でカープ側に試合続行を求めた。当然カープはこれに応じず、カープ側はフライなら走者は進塁しないから三重殺は成立しない、フェアと一度宣告したのだから、「一死一、三塁」で試合を再開するのが当然と、ここから審判団に対して2時間半の猛抗議を行う。困った審判団は今日では有り得ないが、何と折衷案として阪神側に「一死一、二塁」からの試合再開を頼み込んだ。しかし阪神側もこの提案を拒否。2時間半の間、「解決に努力しているから少しお待ちください」と二度、場内アナウンスがあったが、何故揉めているかの説明が全くなく、ファンのフラストレーションを膨らませた。結局、試合中止が決定。観客席及び、フェンスが破壊され、試合中止を告げるアナウンスが流される頃には、約1,000人のカープファンが破壊したフェンスからグラウンドに雪崩れ込み、球場の窓ガラスを次々に破壊し、放送室も破壊、球場の施設のあちらこちらを叩き壊した。警官、機動隊100人が出動し、ファンの鎮圧に当たり、試合の続行は不可能な状況に陥った。阿南は「あの夜は球場を出るのが恐ろしかった。今では考えられないことだが、そういう時代だった」と話した。翌7月1日と7月2日の阪神戦も中止が決定。審判の誤審という不祥事によるプロ野球史上初の中止試合だった。主審の稲田茂は責任を取ってこの年限りで審判を引退した。二出川延明はこの稲田のミスについて「こういう場合は野手の動きをよく見るのがいい。ワンバウンドなら三塁に投げるのが常道だ」と話し、阪神の石川投手がすぐに一塁に投げたことから直接捕球だったのだろうと解説した。
1964年入団の安仁屋宗八は、当時アメリカの占領下にあった沖縄県出身で沖縄高校(現、沖縄尚学高校)、琉球煙草を経てカープに入団、沖縄県初のプロ野球選手となった。その年は3勝しか上げられなかったが、その後入団する外木場義郎とともにカープを代表するエース投手として活躍し、通算119勝124敗の成績を残した。1975年に阪神タイガースに移籍したため、カープのチーム初優勝は敵チームとして見守る形となったが、1980年に復帰し、チーム初の連覇・日本一連覇のメンバーとなった。2005年には投手コーチとして復帰、白い顎髭をたくわえたサンタクロースのような風貌に加え、チームのユニフォームカラーが赤と白だったので「安仁屋サンタ」とも呼ばれて注目が集まった。厳しい走り込み、投げ込みを欠かさない、などの「安仁屋流」を確立するも投手王国復活はならず、その年限りで退団となった。
1966年に東京都に在住する広島県人の著名人有志が「カープを優勝させる会」という団体を発足させた。1957年に広島県出身者の阿川弘之、藤原弘達、木村功、桂芳久、杉村春子で「7の会」を結成(または毎年故郷の銘酒「賀茂鶴」を呑む「カモツル会」)。また成瀬数富と相談し、1965年に大宅壮一と梶山が発起人代表となって「広島カープを優勝させる会」を結成し(中心になって動いたのは前出の佐々木久子。発起人は東京で趣味の雑誌「酒」を編集・発行していた広島県出身の作家佐々木久子だった。この発足に梶山季之、石本美由起、新藤兼人、藤原弘達、木村功、杉村春子、森下洋子ら広島出身者と広島やカープ選手にゆかりのある灰田勝彦や富永一朗、その他、アンチ巨人で有名だった大宅壮一や梶山の飲み友達だった田辺茂一らが参加した。佐々木によると東京は巨人のファンだらけでうんざりしていて、しかも当時の広島も最下位か5位が当たり前、よくてBクラスの勝ち越しと予想されるほど弱かったため、「西から太陽が昇ることがあってもカープが優勝するどころかAクラスに入ることなんか絶対にねぇっ!!」と馬鹿にされていた。他球団のファンから見れば、永遠に優勝することは有り得ないという前提の元に成り立つジョークと考えていた。「このままでは東京コンプレックスがひどくなる。それを跳ね除けるには郷土の花たるカープを優勝させるべく応援しようではないか!」と立ち上げたのだそうである。一行12名で1967年の日南キャンプを激励に訪れたことを伝える『週刊文春』1967年3月6日号には「文化人のキャンプ地往来が盛んだが、ナント遠路はるばる宮崎県日南市の広島カープのキャンプ地まで激励にでかけた『クレイジー』な一行がある」と書いている。いずれおとらぬ毒舌家の集まりで、富永「ここの選手はクソマジメすぎ。サラリーマンみたいな選手じゃダメだ」佐々木「30歳を越えると急にジジくさくなるけど、プロ選手は早婚すぎる。家庭的パパなんてとんでもない話」などと苦言をぶった。何かとエロに結びつける梶山は「広島中のホステス嬢を女スパイに仕立てて、翌日の試合で活躍しそうな選手をマークしてピンク攻撃で骨抜きにすれば効果満点。当然、長嶋係、王係は常設する」などとぶった。梶山は「優勝したらカープの選手に芸者の総揚げサービス」と悪ノリ。しかし発足させたのはいいが2年後(1968年)に初のAクラス(3位)に浮上したのが精一杯で、佐々木の「カープが優勝、巨人は最下位」という叫びは痛々しく聞こえていた。しかし1975年チームが初のセントラル・リーグ優勝、しかも巨人初の最下位も実現するというおまけつきで、そればかりか優勝が決定したのは巨人の本拠地・後楽園だった。芸者サービスを確約した梶山はその5ヵ月前に急逝していた。
こうして「カープを優勝させる会」は1975年に解散したが、とたんに低迷。これではいけないと佐々木は「再びカープを優勝させる会」を1978年に発足。するとチームは1979年に初の日本一、翌1980年には巨人以外ではセ・リーグ初となる2年連続日本一を達成した。
2016年2月11日、NHK-FMラジオ『今日は一日○○三昧』が、第162回「今日は一日“セパ対抗!プロ野球ソング”三昧2016」で、プロ野球に関連した歌を10時間に渡り流す企画を放送した。各球団の応援歌やプロ野球選手自身が歌う曲などが続々と流されたが、ひと際話題となったのが、1975年のカープ初優勝時にリリースされたこの年の優勝メンバーが歌い上げる「カープ選手かぞえ唄」だった。打順に沿って一番・大下剛史以下、自身のセールスポイントを生歌で披露する。戦時中に江田島の海軍兵学校で兵士たちに歌われた「兵学校数え歌」の替え歌であるが、サビは「そぃつぁ豪気だねぇ~♪ そぃつぁ豪気だねぇ~♪」と歌われる。1975年の初優勝から1980年代にかけての古葉監督時代のカープ選手やコーチは、強面が多く、それに纏わる数々の豪気エピソードが今日でも伝説的に語られる。2023年も営業を続ける広島市中区の「ヘアーサロン十日市」で山本浩二らが球界で初めて導入したとされるパンチパーマが一時、プロ野球選手のヘアスタイルを席巻した。また球団から支給された移動用のスーツが、白の上下に白のテカテカ光るエナメルシューズ、紫の開襟シャツで、パンチ頭にグラサン、金のブレスレットやネックレスをこれに合わせる者もおり、それは迫力のある出で立ちで、新大阪駅や名古屋駅に降りると、その筋の人たちが道をあけ、丁寧にお辞儀をしたといわれる。また当時の選手は酒豪が多く、新幹線に食堂車があった時代に食堂車の酒が全部無くなったというエピソードが、芸能人の豪気エピソードとして語られるが、この元祖もカープである。カープが初優勝を決めた日にビールかけをやった後、帰広する新幹線の中でも飲み続け、新幹線のアルコールが全部無くなったという話を聞いた釜本邦茂は「我々もやったろう」と遠征帰りにヤンマーのチームメイトとそれに挑戦し、「新幹線の飲み比べでいうと、70年代のカープかヤンマーかという時代だった」と述べている。
カープは過去に1979年、1980年、1984年の3回、日本シリーズに優勝している。通常は日本シリーズの最優秀選手にはトヨタ自動車から自動車が贈呈されるが、この3回はそれぞれ最優秀選手になった高橋慶彦、ライトル、長嶋清幸の各選手には球団のスポンサー企業であるマツダからの自動車が贈呈された。
ただし、カープが敗れた1975年、1986年、1991年のMVP選手(1975年:阪急 1986年・1991年:西武)には通常と同じくトヨタ自動車製の車がプレゼントされている。
なお、マツダはその後NPBオフィシャルスポンサーとなったが、2007年以降日本シリーズ最優秀選手に対する自動車の贈呈は中止された。
MLBでは、各チームが将来有望な選手を育成するための研修組織としてドミニカ共和国とベネズエラにアカデミーを開設しており、毎年夏期にはそれらの対抗戦「サマーリーグ」が開催されているほど野球熱が高い。(マイナーリーグ・その他の項参照)
日本ではそれまで下部組織は国内の二軍だけだったが、チームがMLBなどで活躍する一線級の選手を獲得することでの予算の問題、また純国産打線での戦力低下などによる数々の難点を危惧したことを受けて、上記MLBのアカデミー制度に注目。1990年に日本球界史上初のアカデミー、カープアカデミーをドミニカ共和国に開設し、「開設5年後をメドに日本に送り出す」ことを目標とした。その結果1995年にチェコ投手がアカデミー出身選手初の現役選手登録を果たした。その後もペレス、ソリアーノ、ペルドモらが同アカデミーから来日し公式戦でプレーした。この他、公式戦出場はなかったものの、1992年に同アカデミー出身の選手が支配下登録されている。
1983年、長嶋清幸が背番号0で公式戦に出場した。背番号0は戦後初期の頃に公式戦に出場しないブルペン捕手等がそれをつけた事例があったが、公式戦出場者では日本プロ野球史上初のことだった。この長嶋が全試合出場を果たし、一躍レギュラーとなったことから背番号0は他球団にも広まっていった。
1990年5月12日の対巨人7回戦(広島市民球場)。6回表の巨人の攻撃が始まろうとした19時20分、黄色の風呂敷で頭と顔を包み、黄色の忍者のような服装、背中にリュックサック、足に黒色の地下足袋を履いた男が出現。一塁側ダグアウト付近からまるでクモのような動きでバックネットの頂上までよじ登り、リュックサックから垂れ幕を取り出しネットに掛けて広げた。向かって右から「巨人ハ永遠ニ不ケツデス!」「ファンヲアザムクナ!」「天誅!悪ハ必ヅ滅ビル!」。この他にもう1本、「カープハ永久ニ不滅デス」と書いてあったと言われるものがあったが、リュックから取り出す際にグラウンドに落としたため掲げられなかった。垂れ幕をネットに掛け終えると、三塁側巨人ダグアウトに顔を向け何事かを怒鳴った。さらにネット上で3本の発煙筒をたき、煙玉とオモチャの手裏剣を投げた。
約9分後に男は降りて来たが、飛び降りた際に足を骨折、そのまま待ち構えていた警察官によって威力業務妨害の現行犯で逮捕された。男は東広島市に住む39歳の農業経営者であった。男は後日威力業務妨害罪で略式起訴され、罰金20万円の刑事処分をうけた。
この事件については当日、NHKが試合を生中継していたため、中継内でも一部始終が放送された。
事件の顛末について、2018年3月2日に放送された『爆報! THE フライデー』(TBS系)にて、男が匿名を条件にVTR出演した。男が事件を起こした背景に、当時世間で問題になっていた巨人選手(特に桑田真澄)の裏金問題があり、それに対する不満があったという。当然、巨人ファンからバッシングされることとなり、男の家族も警察の要注意人物となり、バッシングが及んだという。番組では、当時試合に出場していた川口和久が男の元を訪れ対面。川口は、この事件でペースが狂いチームが試合に敗れ、自身の成績にも影響が及んだことを話すと、男は深々と謝罪した。
ファンサービスの一環として2005年3月12日に広島市民球場で行われたソフトバンクとのオープン戦で、日本球界初の試みとして審判にボールを渡す役目であるボールボーイならぬボールドッグを雄のゴールデン・レトリバーのミッキーが務めた。3回裏と5回裏終了後にボールが3個入ったカゴを口にくわえて登場したが、ボールを3つ全て渡さずに1個残したまま持ち帰ったり、ボールを審判ではなく捕手に渡そうとするハプニングもあった。ミッキーの8歳の誕生日でもある4月10日のヤクルト戦で公式戦デビューを果たし、5月21日の楽天戦では球団が特注で用意した背番号111のユニフォーム姿で登場している。その後カルビー社発行のベースボールカード(プロ野球チップスに内包、数量限定)に採用されるなど、人気は全国区のものとなった。9月2日の巨人戦では5回裏終了後にミッキーを加え広島県下の101匹の犬が広島市民球場のグラウンドを行進するというイベントも開催された。
あまりの人気によりミッキーの自宅にまで押しかけるファンが現れたことや高齢(犬の8歳は人間年齢では50 - 60歳にあたる)などによって一時は引退騒動も起きたが、ファンからの続投要請の声を受け2005年シーズン終了まで登板した。結果この年のチームの成績自体は最下位と芳しくなかったもののミッキーの登板は観客動員に大きく貢献した。なお2006年シーズンも4月4日(阪神戦)、4月25日(巨人戦)、5月16日(西武戦)に登場した。
この人気は他球団に波及し、2006年からは千葉マリンスタジアムでもテレビ東京の番組『ペット大集合!ポチたま』とのコラボレーションでラブラドール・レトリバーのエルフをベースボールドッグとして採用。2006年6月4日(ロッテ戦)にミッキーと共演を果たした。また、オリックス・バファローズは、2006年にベースボールドッグに対抗した「ベースボール・モンキー」としてボールのかごを持った猿の「ゴウ(背番号555)」を起用。しかし、エルフもゴウも、大観衆・大声援を前にしたストレスから体調を崩してしまい、ミッキーほど長期間にわたる活動は出来ずに終わっている。
2006年7月21日に神宮球場で開催されたオールスターゲームでは、球宴という大舞台でありながら完璧に仕事をこなした。ミッキーが広島市民球場以外でボールドッグを務めたのはこれが初である。
2007年以降は高齢のためベースボールドッグを引退し、広島県北広島町に住む飼い主の元で余生を過ごした。2009年4月8日、老衰のため11歳(ヒト換算で80歳)で死亡。同4月14日の本拠地の試合では球団旗を半旗にし、哀悼の意を示した。
広島は、プロ野球の応援スタイルに繋がる数々の応援方法を生み出したことでも知られている。豊田泰光は、「今のプロ野球の応援スタイルの起源は1975年の、あの“赤ヘルブーム”にある。熱狂的な広島ファンが、初優勝に向けてあの応援スタイルを作り出した」と述べている。ベースボール・マガジン社も、「日本のプロ野球の応援スタイルは、多くがカープの応援団がそのスタイルを確立したものと言って過言でない」と論じている。また、永井良和・橋爪紳也の共著『南海ホークスがあったころ』では、「広島の応援団は、日本のプロ野球界の共有財産となるような応援スタイルを生み出していった。その方向性は1975年の広島からもたらされたといっていい。広島カープのファンは、プロ野球の応援に関するかぎりイノベーターの称号を与えられるにふさわしい」と論じている。
数ある日本のプロスポーツチームの中で、もっとも企画力に富んだグッズを生み出し続けているのはカープであると言われている。TV放映権が下落傾向にある中、新スタジアムの建設問題に併せて、これも他球団に先駆けて、新たな収益源として、カープが考え出したのがグッズ戦略であった。かつては「文鎮にしか使えない物ばかり」と揶揄された時期もあったが、これまで数多くのシャレの効いたグッズを販売してきた実績がある。2006年には当時のマーティ・ブラウン監督のおなじみのパフォーマンスをモチーフにした「ベース投げTシャツ」を、2007年には山﨑浩司内野手が対戦相手を隠し球でアウトにしたことをネタにした「隠し球Tシャツ」まで販売した。その後もパンツやギターに台車、壁掛時計など、プロ野球チームのグッズとしては物珍しい商品を次々と販売している。
この他にも、ブライアン・バリントン愛用の爪磨きや、キラ・カアイフエなどの顔がデザインされたアロハシャツといったユニークな商品に加え、iPhoneケース、バッグなどもデザインが豊富で、すぐに売り切れになってしまう商品も多い。また、初勝利を収めた新人投手や、劇的なサヨナラ本塁打を打った選手の枚数限定Tシャツを即座に販売することもよく知られている。この限定Tシャツの人気は高く、特に2014年に発売したTシャツの売れ行きは絶好調であり、九里亜蓮や大瀬良大地の初勝利を記念した限定Tシャツは販売当日に完売している。さらに、2014年4月2日の対ヤクルト戦、堂林翔太のシーズン初本塁打によるサヨナラ勝利を記念した400枚のTシャツを、4月4日12時からインターネット限定で発売したが、わずか5分で完売した。
広島カープ愛にあふれる街のイメージは全国でも広く定着している。丸佳浩が「千葉から広島に来て、カープという球団が広島の人にとってすごい身近な存在だということに驚いた。どこもかしこもカープで、コンビニでは普通にグッズが置いてある。広島ってこういうところなんだと新鮮なカルチャーショックでした。僕の出身の千葉はロッテのお膝元ですけど、ありえないです」と話したことがあり、地元民にとって「コンビニにカープグッズ」は当たり前である。
カープの影響力の強さから広島の色と言えば「赤」を思い浮かべる人が多い。「赤」は伝統的に色彩マーケティングでも購買色や興奮色と言われるカラーであり、応援グッズがカワイイことも、カープ女子増加の要因の1つという見方がある。球界でも一番商品開発をして、最も物販の規模が大きいのもカープである。球団によってはグッズを売ってもロイヤルティーしか入らないところもあるが、カープは製作から販売まで自前。自主製作であることから、製品のアイデア出し、作成までのリードタイムが短い。サヨナラホームランが出た夜に企画会議をやって2日後にホームラン記念Tシャツを販売したこともある。球団の収入に直結し、2009年にマツダスタジアムに本拠地を移して以来、3億~4億円だった売り上げは、2014年に20億円以上を売り上げ、球団収入の20%を稼ぎ出し、十数年で15倍に伸ばした。25年ぶりにリーグ優勝した2016年には記念商品などで収益を押し上げ、グッズ収入は前年比17億3千万円増となる過去最高の53億円となり、球団の全売上高の30%近くを占めるまでに成長した。他球団で、このような高い比率を持つところはない。また、地元企業を大切にしており、丸天産業とタイアップした選手の顔が入ったマスキングテープや、田中食品の「カープふりかけ」など、地元産業と提携して数々の実績を上げている。
2016年に25年ぶりのリーグ優勝を決めた東京ドームでの巨人戦でのNHK総合テレビ広島地区の視聴率は、平均で60.3%、瞬間最高は71.0%を記録したように、「地元での愛され方が他球団と違う」と豪語されるほど、広島県内におけるカープの人気は絶大なものであり、県内の至る所でその影響を受けたものが散見される。
広島県外のカープファンは、元々その多くが広島県出身者ないしその近親者であるが、特に北海道にある北広島市は広島県人が開拓した街でもあるので、その流れで旧来からカープファンが多く見られる(ただ、現在は地元球団である日本ハムを応援する人も増えている)。他にも、広島とは縁はなくとも同期のTBSアナウンサー・林美雄に影響されてカープファンとなった久米宏などの例や、「好きだった西鉄ライオンズが身売りしたので最も西の球団を選んだ」という理由でカープファンになった筑紫哲也などもいた。筑紫はカープファンの妙味は「ファンも勝敗だけに拘泥せず、"物語"を大事にするところ」などと話していたが、久米は「筑紫さんは戦争の歴史を刻んだ沖縄と広島に心を寄せ、地方球団、市民球団のカープを愛していました。筑紫さんは、"反中央""反権力"という自分の性格をカープに重ねたのではないか」と述べている。
広島出身者でないカープファンのアナウンサーとしては桝太一や、親族の影響でカープファンになった堀井美香、弘中綾香、NHK広島勤務時代にファンになった井上あさひらがいる。他に育った地域では周りはみんな巨人ファンで、カープは育てた選手がFAでみんな出ていって可哀そう、自分だけでもカープを応援する、無理やり連れて行かれた球場で「#宮島さん」やスクワットなどの応援にハマったなど、様々な理由でカープファンになった人が増え、2021年では人気は全国区となっているとされる。
1993年に球界はフリーエージェント、ドラフトでの逆指名の両制度を導入し、選手が所属先を選べるようになったことで、資金力に欠ける広島は主力の流出や有力新人の獲得で苦しみ、長期低迷したが、2013年には16年ぶりにAクラス入りしたことで、風向きが変わった。巨人や阪神、ソフトバンクのように補強に頼らず、若い生え抜き選手を地道に育成してクライマックスシリーズに初進出したことが世間の共感を呼んだ。松田元オーナーは「若い選手を育て、強いチームに勝つという球団の考えに賛同してくれているのでは」と分析した。
カープ私設応援団「緋鯉会」によると、関東地方のカープファンが増え始めたのは2003年頃からという。2013年時でファンクラブ会員1万5千人のうち、約2割が関東在住者だったといわれ、ファン向けフリーペーパーは、都内の飲食店に配布されるとすぐに無くなるといわれた。全国的にファンが増えたのは突然ではなく、大都市圏を中心にカープファンが増加したことで、東京ドームでの巨人戦は勿論のこと、2011年頃からの神宮球場でのヤクルト戦を中心に、関東のカープファンの作る列は少しずつ長くなっていった。『中国新聞』2012年8月19日付に「関東の『コイ党』沸騰 入場者数 昨年比1試合2700人増 チーム好成績 若手活躍期待」という記事が載る。ヤクルト球団によると「神宮球場の広島戦の観客動員数はこの(2014年までの)5年で三塁側を中心に倍近くまでふくれあがった」という。また、同球団営業部の黒石誠治課長は、広島戦が巨人戦、阪神戦に代わるドル箱になったとした上で「赤いユニホームばかりで(神宮球場が広島の)本拠地みたいな雰囲気になる」と驚いている。2014年頃は首都圏で行われる対カープ戦のビジター席は3-4割が女性だった。
2012年10月から12月まで放送された木村拓哉主演のフジテレビの「月9」ドラマ『PRICELESS〜あるわけねぇだろ、んなもん!〜』では、話のモチーフとして北別府学のサインボールが取り入れられた。また2013年1月~3月期の木10『最高の離婚』第一話では、開始20分過ぎに営業部社員濱崎光生役の瑛太が取引先と草野球をやってぎっくり腰になり、元カノでアロマテラピーのお店を経営する上原灯里(真木よう子)と再会。マッサージを受けた後、野球に無知な瑛太に真木が「あ、前に知り合いの人が言ってましたよ。野球好きの人には広島ファンと言っとけばいいって。通ぶれるらしいです」とアドバイスし、瑛太が「へ~広島?」と答えるシーンがある。当時は唐突に聞こえたが、本作の脚本、坂元裕二がシナハン中に都内にカープファンが増えていることを知り、セリフに組み入れたものと考えられる。
2013年、阪神とのクライマックスシリーズにおいては甲子園球場のレフトスタンドから三塁アルプス席のほとんどが赤で埋め尽くされた。多くの阪神ファンが「こんな甲子園は見たことがない」と語った。本拠地・マツダスタジアムの平均観客数が増え始めたのは2014年のため、広島県外から先にカープファンが増えたと考えられる。カープファンの増加は2009年のアメリカのボールパークを意識したマツダスタジアムの開場や、2014年黒田博樹の復帰なども要因として挙げられる。地方球場においてもカープファンの盛況はめざましい。2015年6月23日の長野オリンピックスタジアムでの阪神戦では、延長になっても大勢のファンが残り、試合終了の午後11時47分まで必死な声援を送った(試合結果は6-6の同点)。2016年7月6日の石川県立野球場での中日戦(黒田博樹が日米通算200勝まであと1勝を懸けて登板)でも、球場の半分を赤く染めた。
このように、広島とは縁もゆかりも無いカープファンが、地域、世代を超えてカープを応援するようになったことで、近年においては年々注目度を増している。
2013年頃からマスメディアに盛んに取り上げられ、スポーツに於ける女性ファンブームの火付け役になった。
カープ女子の増加とともにカープ関連の本が多数出版された。「カープ本」は2005年ころから人気が出始めたが、カープ女子の拡大に貢献した『球場ラヴァーズ』の連載が始まった2010年10月頃はまだ「カープの漫画なんて隙間産業では、と笑われた」と作者の石田敦子は話している。しかしその後増え続け、2014年は過去最多の32点が出版され年末には『カープ本100冊。全部読んでみた』(広島野球ブックフェア実行委員会編)と題する本まで出た。"カープ本"という言葉も定着し、広島県立図書館では時折、カープ本特集の展示がある。1950年の球団創立から1975年の初優勝までの25年間に出た「カープ本」は1960年、カープ東京後援会の会長だった池田勇人が内閣総理大臣に就任直後に出版された『カープ風雪十一年』(河口豪著・ベースボールマガジン社)1冊のみといわれる。同書には巻頭に池田の写真と推薦文が載る。著者の河口豪はカープの元球団代表。1975年の初優勝で事情が一変、優勝から一週間後に『やったぞ! カープ』(山中善和著・たくみ出版)が出版され以降、『耐えて勝つ』(古葉竹識著・ベースボールマガジン社)など次々発行された。1980年代からはスター選手を取り上げた本が増え、2015年1月現在で「カープ本」は290点を越える。
得点が入った際に「宮島さんの神主が おみくじ引いて申すには 今日もカープは 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち〜」と歌われる通称「宮島さん」は、1901年(明治34年)の唱歌「花咲爺」の替え歌で、明治時代に宮島の対岸である当時の地御前村(現在の廿日市市地御前)の野球大会で歌われ始めたものが元祖。「花咲爺」の替え歌は全国にあるというが「宮島さん」は最も有名な替え歌といわれ、替え歌としても100年以上の歴史がある。地御前の出身者が広島県立広島商業高等学校に入学し、応援歌として歌い出したのが広島県内で広まったきっかけ。広商野球部百年史には、1916年(大正5年)にはすでに歌われていたと記載されており、広商の生徒手帳にも歌詞の記載があり、同校に入学すると校歌とともに必ず覚えなくてはならない。広島ではその後、広島高等師範学校や、広商を始め広島代表が甲子園に出場すると宮島名産のしゃもじを「カチカチ(=勝ち勝ち)と打ち鳴らして「いつも広商 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち〜」などと応援したが、甲子園で広島代表と対戦した各県代表校の応援団が「これはいい」と、各地にこの応援歌を持ち返り、「宮島さん」の部分を各地の神社や山の名 前などに置き換えて(一部歌詞を変えて)歌うようになったという説もある。近年では甲子園での広島代表だけでなく、歌詞を一部変更して他県の代表校の応援歌としてもよく使われる。1988年夏の甲子園での広島商業6度目の全国制覇にあやかり、同年、山本浩二監督就任で、大下剛史、三村敏之がコーチとして入閣、広島出身の首脳陣を盛り立てようと、カープ応援団がカープの応援歌として「宮島さん」を取り入れた。「宮島さん」は、2017年2月22日発売の加納ひろしのアルバム『燃える赤ヘル僕らのカープ』に収録されている。
This article uses material from the Wikipedia 日本語 article 広島東洋カープ, which is released under the Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 license ("CC BY-SA 3.0"); additional terms may apply (view authors). コンテンツは、特に記載されていない限り、CC BY-SA 4.0のもとで利用可能です。 Images, videos and audio are available under their respective licenses.
®Wikipedia is a registered trademark of the Wiki Foundation, Inc. Wiki 日本語 (DUHOCTRUNGQUOC.VN) is an independent company and has no affiliation with Wiki Foundation.