日本航空123便墜落事故(にほんこうくう123びんついらくじこ)は、1985年(昭和60年)8月12日(月曜日)、日本航空123便(ボーイング747SR-100型機)が操縦不能に陥り、群馬県多野郡上野村の高天原山山中ヘ墜落した航空事故である。日航ジャンボ機墜落事故とも。
事故の概要 | |
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日付 | 1985年8月12日 |
概要 | 整備不良を原因とする圧力隔壁の破損及び垂直尾翼の脱落。油圧系統を全喪失して操縦不能に陥り、山岳地帯に墜落。 |
現場 | 日本 群馬県多野郡上野村高天原山山中(御巣鷹の尾根) 北緯36度00分05秒 東経138度41分38秒 / 北緯36.00139度 東経138.69389度 東経138度41分38秒 / 北緯36.00139度 東経138.69389度 |
乗客数 | 509 |
乗員数 | 15 |
負傷者数 | 4 |
死者数 | 520 |
生存者数 | 4 |
機種 | ボーイング747SR-46 |
運用者 | 日本航空(JAL) |
機体記号 | JA8119 |
出発地 | 東京国際空港 |
目的地 | 大阪国際空港 |
520人の死者を出し、日本の民間航空史上最悪の事故であるとともに、単独機の事故としては世界最悪の航空事故となっている(死者数ではテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故につぎ史上2番目の被害)。また2024年に羽田空港地上衝突事故が発生するまでは、日本航空が起こした最後の機体全損事故であった。
原因は、尾翼部分の修理不良と設計上の欠陥であり、特に機体修理中に使用された接着剤の強度が低かったことが明らかになった。この事故は航空安全性の向上を促し、整備および設計の規制強化を求める動きを引き起こした。現在でも本事故は航空安全対策の重要な教訓とされている。
123便は東京国際空港(羽田空港)発大阪国際空港(伊丹空港)行きの定期旅客便で、事故当日の18時12分に羽田を離陸した。伊豆半島南部の東岸上空に差し掛かる頃の18時24分35.70秒において、約11トンの前向き外力が作用して機体後部の圧力隔壁が破損、垂直尾翼と補助動力装置が脱落し油圧操縦システムを全喪失して操縦不能に陥り、迷走飛行の末に18時56分28秒ごろ群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(標高1,565メートル、通称御巣鷹の尾根)に墜落した。
乗客乗員524名のうち死亡者数は520名、生存者は4名で、2023年時点で単独機の航空事故としては世界最多の死亡者数を出した事故である(2機以上が絡んだ事故では、1977年3月のテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故が死者数583名で最多である)。
夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。特にこの事故を指して『日航機墜落事故』『日航ジャンボ機墜落事故』と呼ばれることもある。
1987年(昭和62年)6月19日、運輸省航空事故調査委員会(以下、事故調)は事故調査報告書を公表した。この事故から7年前の1978年(昭和53年)6月2日に伊丹空港で起こした「しりもち事故」後の、ボーイングによる圧力隔壁の不適切な修理による破損が事故原因と推定されている。
事故原因を巡っては様々な疑問点や異説が提起されていたため、事故調の後身にあたる運輸安全委員会(JTSB)は報告書公表から24年後の2011年(平成23年)7月29日、事故調査報告書の解説書を公表した。
123便に使用されたボーイング747SR-46(機体記号:JA8119、製造番号:20783)は、1974年(昭和49年)1月30日に製造され、1985年(昭和60年)8月19日付登録抹消された。総飛行時間は25,030時間18分で、総飛行回数は18,835回であった。
1978年(昭和53年)6月2日(金曜日)、大阪伊丹空港着陸の際に機体尾部を滑走路面に接触させた事故である。修理後から本事故までの飛行時間は16,195時間59分で、飛行回数は12,319回であった。
事故直前の1985年(昭和60年)2月から本事故までの間、JA8119は客室後部の化粧室ドアの不具合が28件発生し、うち20件はグアム便(伊丹 - グアム線)で発生している。原因は、客室後部のコートルームに客室サービス用品を置いていたためで、コートルーム棚下への搭載禁止徹底により不具合は解消した。しかし事故調は、前述のしりもち事故によって生じた機体の歪みによって不具合が発生した可能性は否定できないとしている。また、123便の前の便に乗っていた者の証言によると(366便福岡→羽田の便)床下から「ギシギシ」・「ガタガタ」のような音がしたという証言が入っている。
通常操縦席は機長が進行方向左席、副操縦士は右席に着席するが、当日は副操縦士の機長昇格訓練を実施していたことから着席位置が逆であった。
運行乗務員3名には、事故後に国際定期航空操縦士協会連合会(IFALPA)からポラリス賞が授与された。
チーフパーサー(波多野純 PRU)は39歳で、1969年(昭和44年)10月18日に入社。総飛行時間は10,225時間33分であった。他に11名の女性客室乗務員が乗務していた。
JAL123便として羽田空港を18時00分に出発、離陸後は南西に進んだのち伊豆大島から西に巡航、和歌山県東牟婁郡串本町上空で北西に旋回、伊丹空港には18時56分に到着する予定であった。
使用された JA8119の当日の運航予定は、
12日朝から5回目のフライト。伊丹到着後に折り返し130便として伊丹発羽田行の最終便を運航する予定であったため、燃料は3時間15分程度の飛行が可能な量を搭載していた。
搭乗にはボーディング・ブリッジを使用せず、地上からタラップで搭乗した。
18時04分、乗客乗員524人を乗せたJA8119はJAL123便として定刻より4分遅れで羽田空港18番スポットを離れ、18時12分に滑走路15L(旧C滑走路)から離陸した。
CVRや生存者の非番女性客室乗務員の証言によれば、客室内は次のような状況だった。
客室では衝撃音が響いた直後、各座席に酸素マスクが下り、プリレコーデッド・アナウンスが流れた。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクとシートベルトの着用と、タバコを消す非常時の対応を行った。
生存者によれば、「『パーン』という音と同時に白い霧のようなものが出たが、酸素マスクを着けて前を見たときには霧は既に無かった。数秒で消えた。爆発音発生直後の機内の乗客はパニックした様子は無く、まだ何とかなるんじゃないか、という雰囲気だった」という。
酸素が切れた頃から、機体の揺れが大きくなり、客室乗務員も立っていられないほどになった。18時47分以降は、緊急着陸(着水)に備え救命胴衣着用が指示された。その後、乗客は不時着時の衝撃に備え、前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる姿勢(不時着時の姿勢)をとった。
客室乗務員は乗客に対し機内アナウンスで、「幼児連れの親に子供の抱き方の指示」「身の回りの確認」「予告無しで着陸する場合もある」「地上と交信できている」等と案内していた。事故現場からは殉職した客室乗務員が書いた「不時着後の乗客への指示を列挙したメモ」も見つかった。
乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機体の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いた。これらの遺書の一部は事故現場から発見された。
また、事故現場からはコンパクトカメラも見つかり、事故発生時の機内の様子を撮影していたことがわかった。現像された写真は警察が刑事事件の証拠資料として保存していたが、公訴時効成立後遺族に返還され、遺族が公開した。
2014年(平成26年)8月12日にフジテレビジョンで放送された特番で紹介された生存女性(夫、長男、長女、次女と搭乗し本人と長女が生還)の手記によると、乗客の幾人かは失神した状態だったという。
事故後回収された操縦室音声記録装置 (CVR) には、18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残されていた。下記はその内マスコミへ流出したカセットテープに記録されたもので、123便と東京航空交通管制部、東京進入管制所、横田基地などとの交信の概要。
カセットテープの最初の音声は、操縦席と客室乗務員とのやり取り。
18時24分35秒頃:伊豆半島南部の東岸上空(静岡県賀茂郡河津町付近)を巡航高度24,000フィート (7,300 m) へ向け上昇中、23,900フィートを通過したところで衝撃音が発生し、客室高度警報音が1秒間に3回鳴動した。続いて機長が「まずい、なんか爆発したぞ」と発言。直後にオートパイロットが解除され機体(エンジン、ランディング・ギア等の表示)の点検が行われ、4つのエンジン、ランディング・ギア等に異常がなかったが、航空機関士が「ハイドロプレッシャー(油圧機器の作動油の圧力)を見ませんか」と提案する。
24分47秒:JAL123便が緊急救難信号「スコーク7700」の無線信号を発信、信号は東京ACCに受信された。
25分:機長は東京航空交通管制部に羽田へ引き返すことを要求した。無線交信の後、機長が副操縦士に対し「バンク(傾き)そんなにとるなマニュアル(手動操縦)だから」「(バンクを)戻せ」と指示。しかし、副操縦士は「戻らない」と返答した。その際、航空機関士が油圧が異常に低下していることに気づいた。この時機体は、垂直尾翼は垂直安定板の下半分のみを残して破壊され、補助動力装置も喪失、油圧操縦システムの4系統全てに損傷が及んだ結果、操縦システムに必要な作動油が全て流出し、油圧を使用したエレベーター(昇降舵)やエルロン(補助翼)の操舵が不能になった。
25分21秒:123便機長がトラブル発生の連絡とともに、羽田空港への帰還と22,000フィート (6,700 m) への降下を無線で要求、東京ACCはこれを了承。JAL123便は伊豆大島へのレーダー誘導を要求した。管制部は、右左どちらへの旋回をするか尋ねると、機長は右旋回を希望した。羽田空港は緊急着陸を迎え入れる準備に入った。
26分54秒:チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示した。
27分:異常発生からわずか3分足らずで航空機関士が「ハイドロプレッシャーオールロス(油圧全て喪失)」と発出(コールアウト)した。
機長らは異常発生直後から墜落まで、操縦不能になった理由を把握できていない模様であった。油圧系統全滅を認識しながらも油圧での操縦を試みていた。同じころ、客室の気圧が減少していることを示す警報音が鳴っているため、とにかく低空へ降下しようとした。しかし、ほとんどコントロールができない機体にはフゴイド運動やダッチロールが生じ、ピッチングとヨーイング、ローリングを繰り返した。DFDRには機首上げ角度20度 - 機首下げ15度、機体の傾き右60度 - 左50度の動きが記録されていた。
27分2秒:東京ACCが123便に緊急事態を宣言するか確認し、123便から宣言が出された。続いて123便に対してどのような緊急事態かを尋ねたが、応答はなかった。このため、東京ACCはJAL本社に123便が緊急信号を発信していることを知らせる。
28分31秒:東京ACCは123便に真東に向かうよう指示するが、機長は「But Now Uncontrol(現在機体の制御不能)」と応答。東京ACCは、このとき初めて123便が操縦不能に陥っていることを知る。管制室のスピーカーがONにされ、123便とのやり取りが管制室全体に共有される。
31分2秒:東京ACCからの降下が可能かの問いに対し、123便は降下中と回答。東京ACCは羽田空港より近く、旋回の必要も最低限で済む愛知県西春日井郡豊山町の名古屋空港に緊急着陸を提案するが、123便は羽田に戻ることを希望する。航空機と地上との無線交信は英語で行われているが、管制部は123便の機長の負担を考え、母語である日本語の使用を許可。以後123便とは、ほとんど日本語で交信された。
31分40秒:航空機関士に対し客室乗務員から客室の収納スペースが破損したと報告が入る。33分、航空機関士が緊急降下(エマージェンシー・ディセンド)と酸素マスク着用を提案、35分、羽田空港にあるJALのオペレーションセンターとの交信では航空機関士が「R5(機体右側最後部)のドアがブロークン(破損)しました」と連絡している。
33分頃:JALはカンパニーラジオ(社内無線)で123便に交信を求める。
35分33秒:123便からR5のドアが破損したとの連絡があった後、その時点で緊急降下しているので、後ほど呼び出すまで無線を聴取するよう求められ、JALは了承した。
37分:機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1,000m余りの上昇や降下を繰り返すなど、不安定な飛行を続けた。38分頃、これを回避するためにランディング・ギアを降ろそうとするが、油圧喪失のため降ろせなかった。
40分:航空機関士の提案で、バックアップシステムである電気系統を用いてランディング・ギアを降ろした。機体は富士山東麓を北上し、山梨県大月市上空で急な右旋回をしながら、高度22,000フィート (6,700 m) から6,000フィート (1,800 m) へと降下。その後、羽田方面に向かうものの、左旋回して群馬県南西部の山岳地帯へと向かい始める。機体はロール軸の振幅が縮小して多少安定した。
40分44秒:東京ACCが、123便と他機との交信を分けるため専用の無線交信周波数を割り当て、123便に周波数変更を求めたが、応答はなかった。
41分54秒:逆に123便を除く全機に対してその周波数に変更するよう求め、交信は指示があるまで避けるように求めた。だが一部の航空機は通常周波数で交信を続けたため、管制部は交信をする機に個別で指示し続けた。
45分36秒:航空無線を傍受していた横田基地が123便の支援に乗り出し、英語で123便にアメリカ空軍が用意した周波数に変更するよう求めたが、123便からは「Japan Air 123、Uncontrollable(JAL123便、操縦不能)」と応答した。東京ACCが「羽田にコンタクトしますか(東京APCと交信するか)」と123便に尋ねるが、123便は「このままでお願いします」と応答した。
46分:機長が「これはだめかも分からんね」と発言。やがて機体は山岳地帯上空へと迷走していく。47分頃からは彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。右、左との方向転換が繰り返し指示される中で、操縦している副操縦士に対して機長が「山にぶつかるぞ」と叫ぶなど、緊迫した会話が数回記録されている。この時機体は6,000フィート (1,800 m) 前後をさまよっていた。48分頃には航空機関士が、操縦する副操縦士に「がんばれー」と励ますとともに、たびたび副操縦士の補助をしていた様子が記録されている。機長の機首下げの指示に対して副操縦士は「今舵いっぱい」と返答している。
47分10秒:123便は千葉県木更津市のレーダーサイトに誘導するよう求め、東京ACCは真東へ進むよう指示し、「操縦可能か」と尋ねるが、123便は「アンコントローラブル(操縦不能)」と応答した。この時、東京ACCの管制官は123便との交信中に「ああっ」という叫び声を聞いたとされる。
49分:機首が39度に上がり、速度は108ノット (200 km/h) まで落ちて失速警報装置が作動した。このころから機体の安定感が崩れ、何度も機首の上げ下げを繰り返した。この間、機長が「あーダメだ。ストール(失速する)」と発言するまでに追い詰められながらも、諦めることなく「マックパワー(最大出力)、マックパワー、マックパワー」などと指示していた。
49分:JALがカンパニーラジオで3分間呼び出しを行ったが、応答はなかった。
50分:「スピードが出てます スピードが」と困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」と激励の発言。機長の「頭下げろ、がんばれがんばれ」に対して副操縦士は「今コントロールいっぱいです」と叫んでいる。機長が「パワーでピッチはコントロールしないとだめ」と指示。エンジン推力により高度を変化させる操縦を始めたと思われるが、左右の出力差で方向を変えた形跡は見当たらなかった。速度が頻繁に変化し不安定な飛行が続いたため、副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。
51分:依然続くフゴイド運動を抑えるために電動でフラップが出され、53分頃から機体が安定し始めた。
53分30秒:東京ACCが123便に交信を求めるが、123便は「アンコントロール(操縦不能)」と応答。横田管制は「横田基地が緊急着陸の受け入れ準備に入っている」と通知。53分45秒、東京ACCが「周波数119.7に変えてください」と、東京APCの無線周波数へ変更するよう求め、123便は了承した。
54分:クルーは現在地を見失い、航空機関士が羽田に現在地を尋ね、埼玉県 熊谷市から25マイル (40 km) 西の地点であると告げられる。その間、しばらく安定していた機体の機首が再び上がり、速度が180ノット (330 km/h) まで落ちた。出力と操縦桿の操作で機首下げを試みたが機首は下がらなかった。
54分25秒:123便は東京APCに現在地を尋ね、「羽田から55マイル (89 km) 北西で、熊谷市から25マイル (40 km) 西」と知らされた。
55分01秒:機長は副操縦士に「フラップおりるね?」と尋ね、副操縦士は「はいフラップ10(度下がっている)」と返答し、フラップを出し機体を水平に戻そうとした。
55分5秒:東京APCから123便に対し、「日本語にて申し上げます」と前置きし、「こちら(羽田)のほうは、アプローチレディ (approach ready) になっております。尚、横田と調整して横田ランディング (landing) もアベイラブル (available)になっております(羽田・横田共にいつでも緊急着陸可能の意)」と知らせ、航空機関士が「はい了解しました」と応答。これが123便と地上との最後の交信となった。その直後に東京APCが「インテンション (intention) 聞かせてください」と、123便に今後の意向を尋ねたが応答はなかった。その後も東京APCと横田管制が123便に対して呼び出しを行ったが、応答はないままだった。
55分12秒:フラップを下げた途端、南西風にあおられて機体は右にそれながら急降下し始める。55分15秒から機長は機首上げを指示。43秒、機長が「フラップ止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。45秒、「あーっ!」という叫び声が記録されている。50秒頃、機長の「フラップみんなでくっついてちゃ駄目だ」との声に混じって副操縦士が「フラップアップ、フラップアップ」と叫び、すぐさまフラップを引き上げたがさらに降下率が上がった。この頃高度は10,000フィート (3,000 m) を切っていた。
56分00秒頃:機長がパワーとフラップを上げるよう指示するが航空機関士が「上げてます」と返答する。07秒頃には機首は36度も下がり、ロール角も最大80度を超えた。機長は最後まで「あたま上げろー、パワー」と指示し続けた。
56分7秒頃:わずかに機首を上げて上昇し始めた。
56分14秒:対地接近警報装置(GPWS)が作動し、「Sink Rate(降下率が大きい)」という警告音声が流れる。この時点で高度3,000mから1,600mまで降下していた。
56分23秒:23秒の直前にはGPWSの「Whoop Whoop」という警報音と「PULL UP(上昇せよ)」という警告音声が交互に繰り返し流れる中で、機長の「もうダメだ」とも聞き取れる叫び声が記録されていた(報告書では機長の発言は「判読不能」とされていた)。右主翼と機体後部が尾根の樹木と接触し、衝撃で第4エンジンが脱落した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は340ノット (630 km/h) 以上に達していた。接触後、水切りのように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に傾き始め、その角度は70度にも達した。
56分26秒:機体は傾いたまま右主翼の先端が稜線に激突し、衝撃で右主翼の先端とわずかに残る垂直尾翼と水平尾翼、第1・第2・第3エンジンが脱落。この時の衝撃と反動で、右主翼が稜線に引っかかる形で機体は前のめりに反転した。
56分28秒: 稜線に激突した衝撃で電源が落ち、フライトレコーダーとボイスレコーダーの記録はここで途絶える。
56分30秒:動力と尾翼を失った機体は高天原山の群馬県側北東の斜面にある尾根にほぼ裏返しの状態で衝突、墜落した。墜落時の衝撃によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほど破壊され、離断した両主翼とともに炎上した。機体客室後部が分離し、山の稜線を超えて斜面を滑落していった。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しなかった。これらの要因によって、客室後部の座席に座っていた乗客4名は奇跡的に生還できた。
57分:横田管制は123便に「現在貴機は横田の北西35マイル (56 km) 地点におり、横田基地に最優先で着陸可能」と呼びかけ、東京ACCも123便に横田基地に周波数を変更するよう求めたが、この時既に123便は墜落していた。
東京航空局東京空港事務所(羽田)は、123便の緊急事態発生を受けて東京救難調整本部 (Tokyo RCC)を開設し、123便の羽田への緊急着陸体制を整えた。その後、東京管制部のレーダーから消失(18時59分に受領)し、東京救難調整本部は、防衛庁、警察庁、消防庁、海上保安庁などの関係機関に通報(19時03分)し、123便の捜索に当たった。
一方、レーダー消失直後は、まだ同機が低空飛行を続けている可能性も残されていたため、管制や社内無線からの呼びかけも続けられた。
18時28分頃、千葉県愛宕山の航空自衛隊 中部航空警戒管制団第44警戒群(通称「峯岡山レーダーサイト」)でも、123便の緊急事態を表す「スコーク7700」を受信した。ただちに上級部隊である中部航空方面隊に報告され、航空救難で中心的な役割を果たす航空自衛隊の中央救難調整所 (RCC:Rescue Coordination Centre) が活動を開始した。
18時56分、123便が峯岡山レーダーサイトから消えたため当直司令は墜落したと判断。中部航空方面隊司令部に、123便の緊急事態を受信してスクランブル待機中のF-4EJファントムの発進を提案。19時01分、提案を了承した基地司令の指示で、茨城県東茨城郡小川町(現小美玉市)にある百里基地よりRF-4偵察機2機が発進した。
19時15分頃、付近を航行していた米空軍のC-130 輸送機が東京都多摩にある横田基地の指令で付近を捜索、現場付近の山中に大きな火災を発見した。C-130は墜落現場上空を旋回し、横田 TACAN(タカン)方位305度・距離34マイル (55 km) を航空自衛隊中央救難調整所に通報した。
19時21分頃、F-4戦闘機2機も墜落現場の火災を発見し、上空位置の横田TACAN方位300度・距離32マイル (51 km) を通報した。
「横田TACAN」とは、横田基地に設置された極超短波電波標識(超短波全方向式無線標識)などの電波を受信し、航空機が現在の方位と距離を機上搭載の距離測定装置で計測し計器に表示させる航法援助施設である。これらの設備や機器は航空機の航法用として用いられていたが、当時はまだGPS等の衛星測位システムが実用化されておらず、正確な位置の計測は難しかった。
19時54分、茨城県の航空自衛隊 百里基地所属の救難隊が、MU-2S救難捜索機、KV-107ヘリコプターを、災害派遣要請がないまま発進。KV-107ヘリコプターは、20時42分に現場上空に到着した。
事故発生直後、事故現場上空で捜索救難活動を行った航空自衛隊百里救難隊所属の救難ヘリコプターKV-107で救援活動に携わった元自衛官メディック(救急医療従事者)の一人が回想録を記している。
救難隊は、2機のヘリコプターを交代で現場に派遣し、救難活動を行った。21時05分ごろ、第2次出動隊は現場に到着し、隊員を降下させる場所を探すため高高度での偵察を開始した。だが、墜落現場は無数の火柱が合わさって巨大な火炎となり、闇夜の中サーチライトを照射しても、立ち込める黒煙でライトが届かず、地上の様子がわからなかった。22時20分ごろ、中高度まで降下して再度降下地点を探したが、送電線に阻まれ選定できなかった。23時頃、指揮所から「地上で立ち往生している数十台の消防車両を現場まで誘導せよ」と指示が入ったが、消防車と無線交信ができず、誘導は失敗した。
救難隊が現場上空で救助ができない理由を以下のように語っている。
偵察飛行を継続しながら、機上クルー間で他の救助方法での実行可能性について激論を交わした。主内容は、救難員のパラシュート森林降下、ホイストケーブルに救助用ロープを縛着しての高高度ラペリング降下、洋上救難に使用する照明弾の灯りにより視界を確保した上でのアプローチ、近くの村の広場への強行着陸等であったが、当時のパラシュートでは傘操縦性能が悪く、気流により巨大火炎の真っ只中へ着地してしまう恐れがある。また、強行着陸等も障害物の把握がされていない為、2次災害のリスクが大きくどれも実行可能性は難しいとの結論になった。
13日午前1時、埼玉県の入間基地に帰投していたKV-107ヘリコプターが再び現場に到着した。火炎等の状況は2時間前と殆ど変わっておらずアプローチは困難との判断だったが、現場偵察を続け、アプローチが可能になれば即座に進入できる体制は整えていた。しかし、実際には午前5時の夜明けを過ぎても待機場所である入間基地を飛び立たず、午前6時半にようやく入間基地を発進、現場上空から焼損した尾根付近を目視で生存者の捜索を行った。その後のちに生存者が発見された菅の沢付近へと近づきホイスト降下(ホイストで降下し救難者を吊り上げることが可能)しようとした直後、陸上自衛隊第一空挺団がリペリング降下(戦闘員がロープだけで降下する降下方法で吊り上げはできない)するので退去せよとの命令が無線で入り、現場を急遽離脱した。そのため、航空自衛隊救難隊のKV-107は後方支援にまわった。
このときの様子をのちの救難隊救難員の回顧録で以下のように語っている。
上空からの捜索では生存者の発見は困難と判断し救難員2名がホイスト降下することになった。救難員は、山岳進出の準備を完了し機長に対して「救難員降下準備よし!」と報告すると「了解」の応答に間髪入れず、「スタンバイ」「スタンバイ」「待て」と少し上ずったボイスに引き続いて「ブレーク(現場離脱)」「無線モニター」との連絡が入った。何かの緊急事態が発生したのではないかと耳を研ぎ澄ませて聞くと「間もなく、第1空挺団のレンジャー部隊がリペリング降下を実施する。現場にいる航空機は直ちに退去せよ。」とのことであった。
墜落後初めてのヘリコプターからの降下は午前8時30分の長野県警機動隊、2番目の降下が午前9時の陸上自衛隊第一空挺団からとなり、生存者の引き上げも陸上自衛隊のヘリで行っている。
実際の墜落位置:北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒(事故調資料)
時刻 | 発見者・発表者 | 報告、活動 | 計測位置 | 墜落地点からの誤差 |
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18時56分ごろ | 東京救難調整本部 (運輸省航空局) | レーダー消失地点 18時59分、自衛隊、警察、消防へ通報 | 羽田方位308度59マイル 北緯36度02分、東経138度41分 | 北3.7km |
18時56分ごろ | 航空自衛隊 | レーダー(千葉県南房総市愛宕山)消失地点 | 横田TACAN 方位302度36マイル | 東9.4km |
19時15分 | アメリカ空軍 C-130輸送機 | 火災発見 | 横田TACAN 方位305度34マイル | 北東3km |
19時21分 | 航空自衛隊 F-4戦闘機 | 炎を確認 | 横田TACAN 方位300度32マイル | 南東6km |
20時42分 | 航空自衛隊救難隊 KV-107ヘリコプター | 横田TACAN 方位299度35.5マイル | 南西4km | |
21時10分 | 朝日新聞社ヘリコプター 「ちよどり」 | 報道取材で現場上空に到着、炎を確認 | 羽田方位304度60マイル | |
23時35分 | 報道取材、自衛隊が運輸省に通報した御座山付近には墜落の形跡がないことを確認 | 羽田方位304度60マイル | ||
01時00分 | 航空自衛隊救難隊 KV-107ヘリコプター | 地上の捜索隊(警察)を誘導しようとしたが失敗 | 入間TACAN 方位291度36.3マイル | 南南西2km |
04時39分 | 上空から墜落現場確認 | 三国山西約3km 扇平山北約1km | 南西3km | |
05時00分 | 陸上自衛隊 HU-1Bヘリコプター | 日の出とともに上空から墜落現場確認 | 三国山北西約2km | 南南東1km以下 |
05時33分 | 航空自衛隊 KV-107ヘリコプター | 上空から墜落現場確認 | 三国峠方位340度3km | 北北東1km |
05時37分 | 長野県警察 ヘリコプター | 上空から墜落現場確認 | ||
08時30分 | 墜落現場に機動隊員2名ラペリング降下 | |||
09時00分 | 陸上自衛隊 ヘリコプター | 墜落現場に空挺団員降下:陸路で捜索隊到着 |
地上からは、群馬、長野、埼玉の各県警が墜落現場の捜索にあたった。上空から米軍や航空自衛隊が山中の炎を確認していたが、墜落現場一帯は江戸時代は鷹狩のため一般の入山が禁じられていたとされる場所で、1963年(昭和38年)営林署が唐松の植林を行った以外は人の立ち入りの無い原生林であった。それに加え、レーダーやTACANの測位位置の誤差、事故当日は月齢25.1の闇夜であり、地上捜索による墜落現場の特定も困難を極めた。
20時21分、長野県臼田警察署(現・佐久警察署南佐久庁舎)のパトカーが「埼玉県と群馬県境あたりに黒煙が見える」と通報。21時39分、埼玉・長野両県警のパトカーが三国峠の西北西に赤い煙を発見し、長野県警は12日深夜、墜落現場は群馬県側の山中であると発表した。
しかし、氏名不詳の110番通報「長野県北相木村のぶどう峠付近に墜落した」や、日本航空広報が12日22時に発表した「長野県南佐久郡御座山北斜面(墜落現場から北西10 km)」、運輸省はレーダー消失地点の「北緯36度02分、東経138度41分(墜落現場から北3.7 km)」など情報が錯綜し、複数の位置情報で地上の捜索は混乱した。
その結果、消防・警察や災害派遣要請によって出動した航空自衛隊の地上捜索隊、陸上自衛隊の各捜索隊など、地上からの捜索に時間がかかり、21時30分の群馬・長野の陸上自衛隊への派遣要請から11時間30分後の翌朝9時まで現場に到達することはできなかった。
解説書では、TACANの測位は乗務員の土地勘などでも精度が変わると指摘し、12日夜から13日朝までの各航空機の測位結果を表と地図で示した。
海上では、事故当初ドアが壊れたとの情報があり、乗客が機外に吸い出された可能性も考えられたことから、東京救難調整本部の通報を受けた海上保安庁の巡視艇3隻が、駿河湾周辺の捜索を行った。
13日午前4時30分航空自衛隊救難隊 KV-107による墜落現場の再確認、5時10分陸上自衛隊ヘリUH-1Bによる墜落現場の確認、5時37分長野県警ヘリによる確認が墜落現場の上空からそれぞれ行われた。
午前6時30分、航空自衛隊救難隊は入間基地を離陸し遭難現場上空に到着。焼損した尾根付近の現場を捜索した後、のちに生存者が発見されるスゲノ沢に移動しホイスト降下をはじめようとした矢先退去が命じられ、救難隊は現場を離れることになった。
午前8時30分、墜落後初めて長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下。
午前9時に陸上自衛隊第13普通科連隊が陸路で現地に到着するとともに、陸上自衛隊第一空挺団員(指揮官岡部俊哉は後に幕僚長となる)が現場に降下して救難活動を開始。
群馬県上野村長(当時)の黒沢丈夫(元・大日本帝国海軍少佐)は、テレビ報道の映像を見て、現場が村内の「スゲノ沢」であると判断し、土地鑑のある消防団員に捜索隊の道案内をするよう要請した。現場までは熊笹の生い茂る、傾斜角30度の急斜面で、約2kmの道のりに1時間30分もかかる難路だった。上野村消防団、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、多野藤岡広域市町村圏振興整備組合藤岡消防署の救助隊が陸路で現場に到着、ようやく本格的な救難活動が開始された。
消防庁地域防災課長木下英敏によると、上野村消防団が13日午前6時30分に出発、3時間後の10時30分スゲノ沢づたいの墜落現場に到着。10時50分ごろ団員が生存者を発見した。発見の順番は、34歳女性と8歳の女子小学生の母子、12歳の女子中学生、非番の客室乗務員の26歳女性、となっている。
元群馬県警察本部長河村一男によると、13日午前10時45分、長野県警察の機動隊員がスゲノ沢第3支流で尾根を300 m滑り落ちた機体後部の残骸の中から生存者を発見した。生存者は4人で、発見の順番に非番の客室乗務員の26歳女性、34歳女性と8歳の女子小学生の母子、12歳の女子中学生と食い違っている。河村一男によると、最初に発見された非番の客室乗務員は、残骸に挟まれて胸から上が左にくの字になり、右手だけを出して手を振っていた。二番目の主婦は、客室乗務員の残骸を取り除いているうちに、数 m上方に空洞があり、そこから見つかった。三番目の女子小学生の娘は、母親のすぐそばで下半身を残骸に挟まれて仰向けになっていた。四番目の女子中学生は、客室乗務員から沢寄り2 mほどの場所から逆立ちしているような状態で見つかった。
救出された4人とも重傷を負っており、垂直差110 m、水平差220 m、平均斜度30度の急坂を、急ごしらえの担架でヘリコプターで引き上げ可能とする尾根の上まで担ぎ上げられた。
11時30分、日本赤十字社の医師、看護師に現場へのヘリ降下が要請され、前橋赤十字病院の医師
饗場らの所見によれば、生存者の脈の状態は、女子中学生は微弱だったが他の3名は比較的良好。非番の客室乗務員は顔面挫創、左上腕前腕骨折、全身打撲。主婦は頭部、顔面挫創、門歯は折れ、肋骨骨折。女子小学生は両下肢骨折、全身打撲顔面挫創。女子中学生は右手首、左下肢挫創、全身打撲だった。
饗場は現地では何もできないのでヘリでの救出を地上の自衛隊に訴えたが、自衛隊ヘリとの連絡がうまく取れず救出が遅れた。13時05分になって初めての女子中学生の収容を開始。自衛隊員が後ろから抱きかかえ太腿で彼女の下肢を挟むようにして、上空でホバリングする自衛隊ヘリへホイストを使って引き上げ収容。続いて女子小学生を収容した。
別のヘリで大人女性二名を収容することになったが、三人目の主婦の収容の際、ヘリからホイストで吊り上げた担架がくるくると回転する場面もあった。四人目の客室乗務員の収容が終わったのは13時28分であった。生存者発見からヘリで全員引き上げるまで2時間43分を要した。
陸上自衛隊のヘリコプターで上野村臨時ヘリポートまで搬送し、4名のうち2名は東京消防庁のヘリに移し換えられて群馬県藤岡市内の病院に運ばれた。
報告書によれば、4名の生存者以外は即死もしくは、それに近い状況だったとしているが、生存者の女子中学生によれば、目が覚めたとき父と妹は生きていたという。また、非番の客室乗務員によれば、「墜落した直後は周囲から『がんばれ』という励ましや『早く助けに来ないのか』などという話し声が聴こえていたが、次第に静かになっていった」と語っており、救出が早ければ、さらに多くの人命が救えたのではないかという意見もある。
尾根に激突した機体前部の乗客乗員は、機体の破壊とともに尾根に投げ出され死亡し、五体あった遺体もあったが、多くの遺体は全身挫滅、全身挫折、内臓破裂による臓器脱出、頭蓋骨骨折、全身の表皮剥脱など激しく損壊していた。また火災により完全に焼損した遺体も多かった。焼損した部分は機首部分と胴体部で、燃料の入った主翼の大半とスゲノ沢へ滑落した機体後部は焼損しなかった。
一方、尾根への激突を免れた機体後部は衝撃も少なく火災にも巻き込まれなかったため、スゲノ沢で発見された遺体は見た目には生存(気絶)しているのか死亡しているのか区別できないほど、ほぼ完全な状態で発見された。ここから4名の生存者が発見された事もあり、谷間に駆け付けた自衛隊員、警察官、消防団員は慎重を期して一人ひとりの体を揺さぶったり脈を取るなどして生死を確認したが、4名の生存者以外はすでに全員が死亡していた。
群馬県警は遺体の収容先を当初予定していた上野村から直線距離で約45km離れた群馬県藤岡市で行うこととした。遺体搬出は陸路では無理と判断され、陸上自衛隊によるヘリポートを造成して14日から搬出作業を開始することとなった。
13日夜、空挺団派遣隊はヘリポート作りに着手した。尾根の南東の急斜面を掘削した。岩山のため作業は難航したものの夜半に目途が経ち、仮眠をとってから朝方作業を再開し、14日午前7時頃までにはUH-1Hが運用できるヘリポートが完成した。スゲノ沢からヘリポートまでの搬出路もつくった。
ただ、空挺団が作ったヘリポートだけでは輸送力が足りず、大型ヘリによる輸送を行える第2ヘリポートを作ることとなった。15日午前7時、第12師団施設大隊が建設を開始した。場所は第1ヘリポートから離れた尾根の先端の切り立った場所が選ばれた。大型ヘリが離着陸するため荷重計算を慎重に行い、資材は切り出した唐松250本を使用して骨組みとし、その上から土のうを積んだ。16日15時、完成した。
遺体の検視兼安置所は旧藤岡市民体育館とし、藤岡市内の小学校・中学校・高校の体育館と校舎を関係者の待機場所とした。藤岡市側のヘリコプター発着場所は、藤岡市立藤岡第一小学校・校庭とし、そこからパトカーや白バイの先導により霊柩車が藤岡市民体育館まで運んだ。
14日午前9時頃から、遺体の搬入が始まった。地元群馬県警察医師会所属の医師のほか、群馬県内外の医師、群馬大学医学部および東京歯科大学の教授陣・法医学者・法歯学者・歯科医師・看護婦、日本赤十字社関係者などが、身元確認作業に従事した。
機体後部の遺体は着衣や所持品も損傷がほとんどなかったため遺体の識別・確認もスムーズに進んだが、激しく損傷した機体前部の遺体は腐敗の進行も早く、当時はDNA型鑑定の技術も確立されていなかったため、身元の特定は困難を極めた。
最終的な身元確認作業の終了までには、約4カ月の時間と膨大な人員を要した。最終的に確認できなかった遺体片は、同年12月に群馬県前橋市の群馬県民会館で執り行われた合同慰霊祭で出棺式が行われ、火葬に付された後に、墜落現場に近い群馬県上野村の「慰霊の園」へ納骨埋葬された。検視に利用された藤岡市市民体育館は、遺体の腐敗臭が抜けず取り壊された。
東京空港事務所長から航空自衛隊への災害派遣要請は、航空自衛隊からの再三の要請督促を受けた後の20時33分に行われた。19時01分の百里基地のF4戦闘機緊急発進や、19時54分の百里救難隊による最初の救難捜索機 MU-2S の出動や救難ヘリ KV-107 の出動はいずれも要請前であった。
航空自衛隊への災害派遣要請が事故機の遭難から約1時間40分後と遅れて出された背景には、運輸省東京航空局東京空港事務所の「位置が確認できないことには、正式な出動要請はできん」という幹部指示や、運輸省から「レーダーから消えた地点を特定せよ」と何度も東京ACC(東京航空交通管制部)に電話が入るなど、所管行政当局である運輸省・航空局隷下組織の地上での位置・地点特定に固執した混乱や錯綜があったとされる。
また、陸上自衛隊も群馬、長野の部隊が19時30分ごろから出動態勢を整え、派遣要請を待っていた。陸上自衛隊への派遣要請が21時30分と遅れた理由は、航空自衛隊への要請が済んでいたため、陸上自衛隊に対する別途要請の必要性を知らなかったためとされる。
12日21時06分までに、米軍輸送機C-130、航空自衛隊戦闘機F4ファントム、航空自衛隊救難ヘリKV-107、朝日新聞社ヘリAS355-F1「ちよどり」が、墜落した123便の上空を旋回しその位置をおおよそ確認しており、20時21分には陸上から長野県警パトカーが墜落現場付近の黒煙を確認している。しかし救難活動のために21時30分に出動した陸上自衛隊が現場に到着したのは翌日の午前9時となり、11時間30分を要した。夜間に火災現場は確認されたものの、黒煙に照明を遮られ、暗闇に包まれた山間部の地形を把握できず、当時はGPSもなかったため日が昇るまで正確な位置を特定できなかった。
時間がかかった原因は、墜落現場から北西に10 km離れた「長野県南佐久郡 御座山北斜面」などの誤った墜落位置情報が流されたためであった。
墜落現場で起こった火災は、結局のところ、特定に至るまで長時間放置されたことによる自然鎮火で終息した。当時は消防ヘリも十分な数が配備されておらず、また消防ヘリの活動時間も日照時間中に限定されていたため、ちょうど間が悪く日没時刻に起こった墜落事故への消火活動もできなかった。
墜落現場も交通網から離れた山間部であったため、消防車でのアクセスも不可能で、その対処は困難を極めた。
事故直後、自衛隊の部隊が非常呼集発令で出動し、高速道路で移動したところ料金所で通行料を請求され、作業服で出動したため財布を携行しておらず、隊員が少しずつお金を出し合って支払った。
事故前から災害派遣時は証明書の発行により無料通行できることとなっていたが省庁間で調整を行い、1986年(昭和61年)9月1日、防衛庁陸上幕僚監部は自衛隊車両は災害派遣時には車両への表示により、無料で通行できる通達を出した。
事故機には、貨物として医療用ラジオアイソトープ(放射性同位体)が92個積載されていた。これらは8月14日から16日の間に64.8%が回収されたという。
また、機体には振動を防ぐバラストとして、一部に劣化ウラン部品も使用されていた。これらの放射性物質が墜落によって現場周辺に飛散し、放射能汚染を引き起こしている可能性があった。このため、捜索に向かっていた陸上自衛隊の部隊は、すぐ現場へ入らずに別命があるまで待機するよう指示された。
元アメリカ空軍 中尉マイケル・アントヌッチの手記が事故から10年後の1995年8月20日付「The Sacramento Bee」に掲載され、8月27日「Pacific Stars and Stripes」に転載された。この手記に基づいて日本メディアは自衛隊が米軍の支援を断ったとして、自衛隊批判を展開した。
手記によれば、C-130の乗員だったアントヌッチは、沖縄から横田基地への帰還途中、横田管制からの要請により日航機のレーダー消失地点に向かった。現場山中で火災を発見し横田管制に報告した。横田管制より厚木基地からアメリカ海兵隊のヘリ (UH-1)が向かっていると聞き、20時50分までにヘリのライトを視認できた。21時05分、海兵隊からC-130に煙と炎がひどくてとても着陸できないと連絡があった。少し移動して乗員2名を降ろす予定だった。海兵隊からC-130に対し司令部に連絡するよう依頼され、アントヌッチが連絡したところ、将校から中止を命じられ帰投を開始した。帰投準備中の21時20分、最初の日本の飛行機が現れた。C-130の乗員は横田に到着後、第861戦術飛行隊の副司令から123便関係のことについて箝口令を
これに対し、元防衛庁 航空幕僚監部広報室長佐藤守は、座間のUH-1が現場に向かったのは事実だが、空自が救助を開始するということになり方向転換したのであって、UH-1の搭乗員がまさに御巣鷹の尾根に降りようとしていたのではない。また、「(米軍からあったのは)現地からけが人を運ぶためのヘリコプターと医療班提供の申し出であって、米軍が当日横田や座間に保有したヘリにはホイスト(吊り上げ機構)や大型サーチライトは装備されておらず、航空機材も空自が保有していないような“特殊なヘリ”ではなかったのである」と反論している。
元航空自衛隊中部航空方面隊司令官松永貞昭は、「米軍の日本側に対する申し出は、『一般的な支援提供が可能な状態にあり、医療班を集合させ、ヘリコプター1機を待機させている』という連絡が、20時30分頃、入間の指揮所にあっただけ。日本側は『まだ探索中であったために、そのまま待機してください』とお願いしました……これが経過の全容です」と応えている。
また、元群馬県警本部長河村一男は、そもそも民間航空機遭難の際、米軍に対して救難要請をするのは救難調整本部 (RCC)が行うと決められており、防衛庁自衛隊は(派遣を要請するのも断るのも)その立場にないこと、アントヌッチの手記ではC-130が現場上空に滞在した2時間、日本の航空機を全く見なかったとしているが、19時21分にF-4、20時42分にはKV-107が、21時06分には朝日新聞社ヘリコプターが現場上空に到着していると指摘している。河村は、米軍のヘリの派遣や撤収の動きがRCCの要請によるものでないため、在日米軍は対外的に明らかにしたくないのではないか、と推測している。
航空事故調査委員会(委員長:東京大学名誉教授工学博士の八田桂三は病気のため途中で退任、後任は航空宇宙技術研究所所長の武田峻)は、事故発生2日後の8月14日に墜落現場に入り、本格的な調査を開始した。調査には事故機の製造国であるアメリカからも米国国家運輸安全委員会(NTSB)からジョージ・サイドレン、ロン・シュリードらが参加した。
8月12日20時過ぎから、事故調事務局は夏休みで直ぐに出られない二人を除く調査官全員に臨時招集をかけた。夜に開かれた第204回航空事故調査委員会で、本事故の調査官16名を指名した。墜落現場が長野か群馬で錯綜する中、防衛庁から出向の調査官の計らいで入間基地からヘリコプターで現地に入れるように手配してもらい、どこに調査官を派遣するか図上演習を行ったが「もっと場所がはっきりしてからの方が良い」との結論になり、結局朝まで東京で待機することとなった。
13日早朝、東京を出発した調査団は8時過ぎ入間基地からヘリコプターで現場上空を確認した後、上野村の上野小学校校庭に着陸し調査活動を開始した。13日15時過ぎ、調査官は収容先の病院で生存者である非番の女性客室乗務員に事情聴取を行った。彼女は「ボーンという音がして急減圧が起き、耳が少し痛くなりました。ドアは飛ばなかったけれど、後ろの天井が落ちました」と供述した。夜に録音を聞いたベテラン調査官の中から圧力隔壁の破損を考え始めた者が出始めたという。13日は昼から山下徳夫運輸大臣が視察に来ることになり準備に追われ、往復5時間かかる事故現場に行くことは断念した。
8月14日5時、調査団は標高1,565 mの御巣鷹の尾根に向けて登山を開始した。4 km近く斜面を登り、2時間以上かけて漸くスゲノ沢第三支流の水平尾翼の残骸に到着した。
この日の事故調査団の最重要課題は、デジタル式飛行記録装置 (DFDR)と、操縦室音声記録装置 (CVR)、所謂ブラックボックスを探し出すことだった。また同時に、水平尾翼の昇降舵を確認する必要があった。昇降舵にウエイトバランスとして劣化ウランが取り付けられているためで、調査官は昇降舵の残骸に装備分の数が揃っているか慎重に確かめたという。
14時09分、残骸の約1 m下からCVRが、20分後ほぼ同じ場所でDFDRも見つかった。DFDRとCVRはその日のうちに山からヘリコプターで下ろされ、パトカーで東京に送られた。
墜落翌日の8月13日18時10分、相模湾で海上公試中だった海上自衛隊のはつゆき型護衛艦「まつゆき」が機体尾部の一部を偶然にも発見し、19時までに回収した。
8月14日に来日した米国調査団は15日、相模湾で回収された破片を視察した。調査団は、リベット孔から油圧作動油が吹き出したような跡や、アルミ合金製の外板が外側に異常なほど膨らんでいたことから、垂直尾翼に高圧の空気が流れ込み、破裂させたと考えた。
尾翼に高圧の空気が流れ込む最も高い可能性は、圧力隔壁の破損による客室内の与圧空気であると考えられた。ただ、この時点では圧力隔壁の修理ミスは見つかっておらず、仮説の域を出ていなかったという。
15日夜、米国調査団は日本側に「BS2200から後ろの部分をきちんと保存し、よく調べて欲しい」「隔壁や後部トイレ付近にコロージョン(腐食)がないか、硝煙反応の有無も調べて欲しい」と伝えた。
8月16日、米国調査団は初めて現場入りしたものの、未だ遺体収容活動が行われている状態で、圧力隔壁の調査はできずに終了した。その後、台風が接近して悪天候が続き、米国調査団が現地入りするのは22日まで延期されることになった。
8月22日、米国調査団は2回目の現地調査を行った。後部圧力隔壁に絞った調査で、実物大の隔壁図面を広げて調べているうちに、修理された隔壁の一部に一列しかリベットが効いていない箇所があることを発見した。米国調査団のひとり、アメリカ連邦航空局 (FAA)技術アドバイザーのトム・スイフトは、修理ミスから金属疲労破壊が発生したと推定した。
8月24日、3回目の調査に入った米国調査団は、隔壁破断面のサンプルを採取した。ワシントンの国家運輸安全委員会(NTSB)本部にサンプルを送って検査したところ、ストライエーションと呼ばれる金属疲労痕が見つかった。
8月29日、スイフトは日本の事故調査委員会の八田桂三委員長に「しりもち事故の修理ミスによって接続強度が大幅に下がり、理論計算上は修理後約1万4千回の飛行で圧力隔壁が破壊する可能性がある。」とレポートを示した。
日本の調査団は9月5、7、10日の3日間、米国調査団とともに修理ミスや金属疲労痕の調査を行った。
9月6日、製造メーカーであるボーイング社による修理ミスがアメリカ側の調査で判明し、それが原因で圧力隔壁が壊れたとニューヨークタイムズが伝えた。この報道は、日本の運輸省事故調査委員会が修理ミスが原因であったと公開することをためらっていたため、米国政府がリークしたものであったという。この報道を受けたボーイングは同日声明を発表し、「1978年の(伊丹空港での)しりもち事故の修理で、隔壁継ぎ目全体の17%に不備があった」ことを認めた。
堀越豊裕がロン・シュリードにインタビュー取材したところ、シュリードがニューヨークタイムズの記者にリークしたことが明らかとなった。1985年8月27日、日本の事故調査委員会による中間報告では修理ミスについて触れられておらず、ボーイング747の構造自体には何ら問題無いことを周知するため、NTSB委員長ジム・バーネットがロン・シュリードにリークするよう指示。シュリードからニューヨークタイムズの記者にリークした。
1985年(昭和60年)9月、群馬県警察は50名態勢の捜査本部を設置し、捜査を開始した。
群馬県警の捜査員は、ボーイングの修理担当者から直接事情を聴くため渡米したが、ボーイング社は修理担当者への事情聴取に応じなかった。
1988年(昭和63年)12月1日、群馬県警はボーイングの修理担当者を特定できないまま、ボーイング4名、JAL12名、運輸省4名の計20名を業務上過失致死傷容疑で前橋地方検察庁に書類送検した。
1989年(平成元年)11月22日、前橋地検は全員を『嫌疑不十分』として不起訴処分とし、捜査本部は解散した。
1989年(平成元年)12月19日、一部の遺族が検察審査会に不起訴不当を申し立てた。1990年(平成2年)4月25日、前橋検察審査会はJAL社員2名とボーイングの作業員2名は不起訴不当とし、他は不起訴相当とした。1990年(平成2年)7月19日、前橋地検は再捜査の結果、再び4名を不起訴処分とした。1990年(平成2年)8月12日、公訴時効が成立した。
2016年(平成28年)8月、アメリカ合衆国司法省はボーイングに対し、日本の検察の捜査に協力するよう促していたことが分かった。当時、主任検事を務めた弁護士のリンダ・キャンドラーがメディアの取材に対し初めて証言し、「アメリカ政府が中核産業のボーイングを擁護したとの見方も根強いが、これを明確に否定した」と共同通信が伝えた。
1985年(昭和60年)11月1日から11月20日まで海上保安庁の測量船「海洋」と、海洋科学技術センターの海中作業実験船「かいよう」による残骸の海底捜索が行われた。捜索にはサイドスキャンソナーと呼ばれる音波探知機と曳航式の深海カメラが使われた。「海洋」が水深200 mよりも浅い海域を、「かいよう」は水深200 mよりも深い海域を捜索した。捜索で17の不自然物体を発見したが残骸は発見できなかった。機体から落ちた垂直尾翼の大半や機体の最後部にある補助動力装置(APU)などが見つからないまま20日間で海底捜索は終了。墜落から1年10か月後には事故調査の全てが終了した。海底の残骸の多くを発見できずに終了したことに対し徹底捜索すべきとの声が多くあがったという。しかし事故調側は、残骸は多く回収できた方が良いのは間違いないが、補助動力装置取り付け場所付近やダクトには焦げた跡や補助動力装置の部品が刺さっているなど爆発の痕跡は無く、費用対効果の面からも再調査の必要性は低いとした。
1985年(昭和60年)12月ごろから、東京都西多摩郡奥多摩町日原など相模湾と墜落現場以外の場所でも機体の破片が発見された。また、奥多摩町で一般人が撮影した写真によって、JAL123便が「垂直尾翼の大部分を失った状態」で飛行していたことが判明した。
事故調は、事故当時のサイドスキャンソナーで探知できる物体の大きさは 5.5 m×6.5 m程度必要であるが、推定される落下物の大きさは全てそれ以下であったため探知できなかったとしている。このことに対して航空会社11社のパイロットで構成されている日本乗員組合連絡会議(日乗連)は、事故調は最初から残骸を見つけるつもりなどなかったと批判している。また、その後もっと高性能なソナーが開発されているのなら、なぜその時点で再捜索をしなかったのか、 事故原因に迫ろうとする姿勢と意欲に疑問を感じるとしている。
2015年(平成27年)7月29日にテレビ朝日 (ANN) が伊豆半島の東、東伊豆町沖2.5 km水深160 mの海底でJAL123便(JA8119)の残骸と見られる物体を発見し、撮影したが、これは現在も引き上げられていない。
圧力隔壁や垂直尾翼の破壊過程を検証するため、コンピュータ解析と模型実験を柱に行うこととした。事故調内部からも「せめて、圧力隔壁だけでも実物大の破壊実験をやらなければ、世間を納得させられないのではないか」という意見もあったが、事故から2年以内に報告書を公表できないこと、費用対効果に見合わないことなどから断念された。
コンピュータ解析は有限要素法により強度計算を行うこととし、「Nastran」を使用した。三菱重工名古屋航空機製作所のコンピュータを借り、詳細な設計データはNTSBを通じてボーイングに提供を要請した。ボーイングは協力的でほとんどのデータを提供し、その数は1万枚にも及んだ。
圧力隔壁の有限要素法による強度計算は、圧力隔壁に格子点をつけ、格子点を囲った区画(メッシュ)ごとに材料特性、強度などのデータを入力していく。客室の空気圧が上昇すると機体がわずかに膨らみ、圧力隔壁もゆがみが発生するため、機体部分も有限要素法にかけて計算を行った。メッシュを細かくすれば精度が上がるが、作業量も増えるため格子点の設定は試行錯誤したという。
コンピュータ解析は、圧力隔壁の他、垂直尾翼、補助動力装置(APU)防火壁付近についても行った。その結果、圧力隔壁から漏れ出た高圧の空気が垂直尾翼に瞬時に充満し、垂直尾翼の背骨にあたる「トルクボックス」の外板が剥がれたのが垂直尾翼の破壊の始まりだったことが判明した。
「トルクボックス」(正しくはアフト・トルクボックス)とは垂直尾翼の構造物で、四角く細長い筒である。尾翼はボックス・ビーム構造 (box beam structure)で作られていて、桁 (spar)、小骨 (rib)、縦通材 (stringer)、外板 (skin)で構成される。尾翼は小骨が積み重なって、縦通材で外板を包み、桁でつなぐトルクボックスを構成することで翼に加わる捩れを分担する。
1986年(昭和61年)6月25日、航空宇宙技術研究所調布飛行場分室において、コンピュータ解析結果の検証のため、トルクボックスを対象とした破壊実験を行った。破壊実験には事故調の調査官の他、立会人としてアメリカ連邦航空局 (FAA)の駐在官らも参加した。
実験は、トルクボックスを最上端と真ん中からやや下に当たる部分の二つを用意し、3台のコンプレッサーで空気を送り込むことにより行われた。最初にリベットが飛び始めたのは最上部のトルクボックスで、内圧を3.88 psiまで上げた時だった。4.5 psiまで上げるとコンプレッサーで空気を送れなくなるほど破壊された。下部のトルクボックスは内圧が5.5 psiになるまで破壊が始まらないことが実験で確認された。
一方、コンピュータ解析でAPU防火壁付近は2.2 psi程度で破壊が始まることがわかったが、するとAPUの脱落した部分から空気が出て、垂直尾翼を破壊する4.5 psi以上の内圧が残されていたのかとの疑問が出てくる。この問題は、空気力学の専門家が機体全体の空気の流れを解析することにより検証することとした。機体を8つに区分けし、圧力隔壁の破壊の開口部により、空気の流れがどのように変化するかを計算した。計算の結果、圧力隔壁の開口部の大きさにより、圧力隔壁破壊後0.04~0.09秒後でAPU防火壁が壊れ始め、垂直尾翼が壊れ始めるのはその0.2秒後であることが分かった。そして事故機は圧力隔壁が壊れてからわずか0.3秒ほどで、APU、垂直尾翼が次々と破壊されるとした。
この計算結果は、デジタルフライトデータレコーダー(DFDR)では異常発生時、機体が11トンの力で前方に押し出された後、下に押し下げられているが、計算により導き出された破壊順序と極めてよく一致した。
事故直後から123便が右ではなく左旋回を選択して海へ着水していれば生還者をもっと増やすことが出来たのではないか、という議論があった。事故機は羽田に戻る意向を示しながら墜落してしまったが、生還することは可能であったかどうか全日空が所有するシミュレータを使って、1986年(昭和61年)3月4日から8回に渡って検証した。
シミュレータには123便の事故のような異常事態はプログラムされておらず、ボーイングから空力関係のデータを取り寄せ、全日空や三菱重工などの技術者の助けを借り、プログラムを変更した。操縦は全日空と運輸省航空局から、いずれも経験豊富な教官クラスの機長、副操縦士、航空機関士を4チーム選抜した。
本試験の前に予備試験として、機体に起きた異常をどのくらいの時間で気付くかを確認した。クルーには異常の内容を知らせず、突然操縦舵のいずれかを操作不能にして何が起きたかを答えさせた。エレベータ(昇降舵)については、どのチームも1分以内に異常に気づいたが、エルロン(補助翼)では遅いチームで4分以上、ラダー(方向舵)になると何が起きたか分からないチームもあった。
実際の生還可能性の試験は、自動操縦装置とエンジン出力自動制御装置の故障という一番軽いものから、事故機で起こった全操縦舵故障という一番過酷なものまで5種類用意した。故障の内容を一切知らせず試験させたところ、いずれのチームも利かない操縦桿を必死に操作し続け、墜落させていった。
その後、最適な機体制御方法を学んだ後にシミュレーションを繰り返した1チームは、対気速度200ノット (370 km/h) 以下で着水させるところまで機体を制御できるようになった。ダッチロールはエンジン出力調整で緩和し、高度1,100フィート (340 m) に下がるころにフラップを操作する。フゴイド運動は内側エンジンの出力操作やウィングギア(翼脚)を下げることによって抑えた。
■最適操作の手順— 事故調査報告書に基づき杉江弘が作成
- 直ちに全エンジンをアイドルに絞る
- 対気速度はほぼ一定のまま降下を開始
- 必要ならば内側エンジンのみを用いてフゴイドを抑制
- なるべく左右のエンジンの出力に差が生じないようにする
- フゴイド減衰を強めるため、ウィングギアのみ下げる
- 遅くとも1,000フィート (300 m) までに着水形態を作り上げるため、早めにオルタネートでFLP(フラップ)操作
- 低高度では頭上げモーメントを作るため外側 FLPを10ユニット、内側 FLPを20~25ユニットに
- クルーはスロットル、FLPの操作のみに全力をそそぐ
報告書では、「接水時の対気速度を200ノット (370 km/h) 以下に下げることは不可能と考えられる。沈下率・姿勢等も大きくばらつくため、生還可能性はほとんど期待できない」と結論づけ、建議で「異常な事態における乗組員の対応能力を高めるための方策を検討すること」と示した。
1986年(昭和61年)4月25日、運輸省大会議室で事故調査委員会設置法に基づく聴聞会が開かれた。3月19日の第242回事故調査委員会で議決された「事実調査に関する報告書の案」を元に公述人10名から意見を聞いた。
JALのボーイング747副操縦士で日航乗員組合副委員長の安藤真之は、事故機の乗組員が異常事態発生後も酸素マスクを着けた形跡が無くクルーが意識を失った様子も無い事から「ゆるやかな減圧は起きたかも知れないが、圧力隔壁の破壊による様な急減圧は発生しなかったのではないか」と主張した。他のパイロットの組合関係者公述人3名も同様の主張をし、第一現場は相模湾上空だったことを理由に徹底的な海底捜索を求めた。
大阪工業大学学長佐藤次彦は、パイロットの操縦について「発動機の出力の調整及び主翼の補助翼、フラップなどを利用したある程度のコントロールは可能だったのではないか」と指摘した上で、「羽田に戻るのではなく、できるだけ早い時期に着水することを主目的に、主として海上を西南方向に飛行することが正しい判断ではなかっただろうか。ある程度の着水操作は可能であり、事故による死亡者を大幅に減少できる確率があったのではないか」と主張した。
ボーイング747を運航している全日空専務の舟津良行は、圧力隔壁のフェイルセーフ設計の確保に貢献するような調査とすること、乗務員が受けている訓練内容を超える異常事態が発生したことを指摘し、そのような事態への対処を考慮するよう求めた。
国立大学名誉教授[誰?]は、「左旋回して海に出ていたら、被害は軽微だったはずだ。危機管理のマニュアルが山岳国家日本向けにできていなかった」とし、「墜落ではなく、山への衝突だった」「山が殺した」と主張した。傍聴していた遺族が「山が殺した」の発言に憤激して発言中に退席し、聴聞会終了後、名誉教授に詰め寄る一幕もあった。
しりもち事故の修理ミスによる圧力隔壁の疲労亀裂破壊が事故原因であることが明らかとなったが、事故機は修理後「C整備」を7度受けていた。C整備には後部胴体内から圧力隔壁を目視点検する項目が含まれており、事故の直近では1984年(昭和59年)11月20日から12月5日まで行われていた。そこで、整備員がどの程度の確率で疲労亀裂を発見出来るかを算出した。
ボーイング747の整備方式は「コンディション・モニタリング方式」と呼ばれるもので、運行されている同一機種の故障データを監視しながら対策をとるものであった。この整備方式を設計面での土台となったものが、「フェイルセーフ設計」であり、不具合が発生しても多重防護により他の部分に不具合が及ばない設計がなされていた。圧力隔壁も複数の区画で破壊が及ばないように設計されていたが、本事故は「マルチサイトクラック」と呼ばれる複数の区画で破壊が起こっており、設計思想にも及ぶ重大な問題となっていた。
亀裂の発見確率こそ整備方式を決める前提となるものであるが、ボーイング747のどの機種も単一の亀裂しか想定しておらず、マルチサイトクラックを想定していなかった。そこで事故調査では単一亀裂の発見確率から、マルチサイトクラックの発見確率を導くこととした。
目視点検による一つの疲労亀裂の発見確率 は、次の式による三母数ワイブル分布関数で算出された。
- : 可視亀裂長さ。
- : 最小発見可能亀裂長さ
- , : 係数。
一番激しかった亀裂は三か所でリベット孔を繋ぐまで進行していたと推定され、その長さは1センチメートル程度、発見確率は米空軍の技術資料などから10パーセントと計算された。
また、多数の疲労亀裂のうちの一つを発見する確率 は、次の式により算出された。
- : 多くの の乗算
計算の結果、亀裂の発見確率は「14~60パーセント」と幅の大きい玉虫色の結論となった。ただ、この研究により目視点検で亀裂を発見するデータが無いことが判明し、建議で「目視点検による亀裂の発見に関し検討すること」を示した。
1987年(昭和62年)6月15日、第286回事故調査委員会で事故調査報告書の最終報告書案、勧告案、建議案は議決され、本事故の原因は次のように結論された。
本事故は、事故機の後部圧力隔壁が損壊し、引き続いて尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の破壊が生じ、飛行性の低下と主操縦機能の喪失をきたしたために生じたものと推定される。飛行中に後部圧力隔壁が損壊したのは、同隔壁ウエブ接続部で進展していた疲労亀裂によって同隔壁の強度が低下し、飛行中の客室与圧に耐えられなくなったことによるものと推定される。
疲労亀裂の発生、進展は、昭和53年に行われた同隔壁の不適切な修理に起因しており、それが同隔壁の損壊に至るまでに進展したことは同亀裂が点検整備で発見されなかったことも関与しているものと推定される。
1987年(昭和62年)6月19日、事故調査委員会は事故調査報告書の公表とともに、橋本龍太郎運輸大臣に対し本事故における次の勧告および建議を行った。
- 航空事故による損傷の復旧修理等において、航空機の主要構造部材の変更等大規模な修理が当該航空機の製造工場以外の場所で実施される場合には、修理を行う者に対して、修理作業の計画及び作業管理を、状況に応じ特に慎重に行うよう、指導の徹底を図ること。
- 航空事故による損傷の復旧修理等において、航空機の主要構造部材の変更等大規模な修理が行われた場合には、航空機の使用者に対して、必要に応じ、その部位について特別の点検項目を設け継続監視するよう、指導の徹底を図ること。
- 今回の事故では、後部圧力隔壁の損壊により流出した与圧空気によって、尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の損壊が連鎖的に発生したが、このような事態の再発防止を図るため、大型機の後部圧力隔壁等の与圧構造部位の損壊後における周辺構造・機能システム等のフェール・セーフ性に関する規定を、耐空性基準に追加することについて検討すること。
- 緊急又は異常な事態における乗組員の対応能力を高めるための方策を検討すること。
特殊な緊急又は異常な事態あるいは同時に複数の緊急又は異常な事態が生じる場合においては、今回のJA8119の事故におけるように、乗組員が事態の内容を十分には把握できず、また、どのように対応するかの判断を下すのが困難なことが考えられる。
このような場合における乗組員の対応能力を高めるための方策について、検討する必要がある。- 航空機の整備技術の向上に資するため、目視点検による亀裂の発見に関し検討すること。
航空機の構造に生じた亀裂の発見は、目視点検により行われる場合が多いが、目視点検によってどの程度の亀裂を発見できるかについては、現在十分な資料がない状況である。
我が国で運航している輸送機について、目視点検による亀裂の発見に関する資料の収集・分析を行い、航空機の整備技術の向上に資する必要がある。
NTSBは事故発生の4か月後の1985年(昭和60年)12月5日、FAAに対し8項目の改善勧告を行った。
NTSBの勧告に対し、FAAはB747の垂直尾翼に与圧空気が入らないように覆いを取り付けることを義務化した。一方、尾部が破損しても油圧系統が喪失しないように第4油圧系統配管に作動油流出防止装置(hydraulic fuse)が取り付けられ、新造機は油圧系統を分散するよう設計変更が行われた。
後部圧力隔壁についても設計の見直しが行われ、ボーイングは、2本のティア・ストラップと下部ダブラーを追加した強化型隔壁を開発し、後継のボーイング747-400に強化型隔壁を導入した。
1987年(昭和62年)6月の航空事故調査報告書の示す事故原因を巡って、航空関係者や大学の航空専門家、遺族などから疑問や異説が示されてきた。
事故から25年目の2010年(平成22年)10月、この報告書に対して8・12連絡会(遺族会)が遺族の疑問点をまとめ、国土交通省の外局である運輸安全委員会に再調査要望書提出した。運輸安全委員会は日本ヒューマンファクター研究所の本江彰(元日本航空インターナショナル機長)及び元日本航空小林忍の協力で、その疑問点を解消するための解説書を作ることになった。8・12連絡会は遺族の意見をまとめるなどし、運輸安全委員会とやり取りを重ねたが、その内容は当初より事故調査委員会が説明していた事故原因に変更はなく、2011年(平成23年)7月にその内容が公表された。2011年11月2日、航空会社11社のパイロットで構成されている日本乗員組合連絡会議(日乗連)は、この解説書について「最初に報告書が公表されて以降の新しい事実については全く検討されることなく、24年前に出された事故調査報告書の内容がいかに正しいかを解説するにとどまっている」と批判している。
事故調査報告書では、圧力隔壁の損壊部分から与圧された客室内の空気が一気に吹き出したことで、機内には相当な減圧が発生したと推定している。事故調査委員会はこの減圧についての計算を行い、異常発生の8秒後には機内の与圧はすべて失われ、気温もマイナス40度にまで低下したことを示唆している。
事故発生時、高度は23,900フィート(7,285 m)で、気圧や酸素濃度は地上の半分以下。もし急減圧があったなら、耳の鼓膜が破れるか痛くて一時的に何も聞こえなくなり、酸素濃度が低いため意識がもうろうとする危険な状態になるが、ボイスレコーダーの音声からは操縦室で3名とも最期まで酸素マスクを使用した形跡がなく、特に身体的な異常も訴えていない。日本のパイロットのマニュアルであるAIM-j (Aeronautical Information Manual Japan)(国土交通省航空局監修)によると、「20,000フィートでは 5~12分間で修正操作と回避操作を行う能力が失われてしまい、間もなく失神する。」と記述されており、急減圧の際コックピットではすぐさま酸素マスクを装着し緊急降下することが義務付けられているが、事故機は事故発生から18分間高度20,000フィート(6,100 m)以上を維持している。生存者も室温の低下や強風も感じなかったと証言していることから、事故機に急減圧はなく圧力隔壁の損壊により客室内部の空気圧が垂直尾翼を破壊したとする事故調の結論は破綻しているとの主張がある。
運輸安全委員会の2011年(平成23年)の解説書は、2009年(平成21年)7月13日に急減圧事故を起こしたアメリカのサウスウエスト航空2294便の事例を示し、搭乗していた非番の機長2名の証言を紹介している。
私は、すぐに急減圧を知覚したが、耳の苦痛がほとんどないのに驚いた。……ハリウッド映画と違い、何も飛ばされず、誰も穴に吸い込まれることはなかった。座席に置かれた書類もそのままだった。客室がやや冷え、薄い霧を見たが5秒ほどで消滅した。
(但し、このサウスウエスト航空2294便の事故は、後部胴体に空いた0.135m²の穴からの急減圧で、日航123便の圧力隔壁の穴の15分の1しかない)
急減圧が発生した際の123便機内の状況は、
よって、急減圧を感じなかったのではないか、としている。
運航乗務員が酸素マスクを使用しなかったのは、事故機に生じた程度の減圧に対処するよりも操縦操作を優先したと考えられる、としている。
さらに、
これらの証拠が急減圧と圧力隔壁破壊があったことを証明している、とした。
事故調査報告書の「圧力隔壁破壊が垂直尾翼の破壊をもたらした」とする結論に対して、「機体構造の不良によるフラッター(異常振動)による垂直尾翼の損壊等が事故の原因ではないか」という主張 や、「自衛隊が所有する標的機が衝突して墜落した」という主張 がある。
これらの主張に対し報告書や解説書では、フラッター現象は機体強度が弱い場合に発生するが、ボーイング747は構造・機能が正常な場合はもとより、油圧が低下した場合も発生しないことが開発時に実施された試験で確認されている、としている。
また、自衛隊の標的機が衝突したという主張に対しては、根拠になった尾翼の残骸付近の赤い物体は、主翼の一部であることが確認されており、機体残骸に火薬や爆発物等の残留物は検出されず、垂直尾翼の破壊が内部から外部に向かっていること、油圧作動油が垂直尾翼から噴き出している現象を説明できないのではないか、としている。
元日本航空機長の杉江弘は、報告書の緊急事態発生時(18時24分31秒~51秒)のデジタルフライトデータレコーダー (DFDR)のデータを基に、次のように指摘している。
フラッター現象の特徴は、初めに微振動が発生し次第に振幅が大きくなっていくものだが、DFDRの記録では先ず前後方向加速度 (LNGG)が働き、次に横方向加速度 (LATG)が働いたことが検出されている。横方向加速度の検出のタイミングと大きさ (0.08G)からみて、フラッターが主要因とする説は説明がつかない。
自衛隊の標的機が垂直尾翼に衝突したとすれば、機首は標的機の飛んできた方向に振れるはずである。しかし、機首方位 (HDG)は約5秒間微動だにせず、10秒後もほぼ250度を維持していた。横方向加速度 (LATG)は最大でも0.1Gにも達しておらず、垂直尾翼に横から力が加わったとは到底考えられないと、横方向からの衝突可能性を否定した。そして、前後方向加速度 (LNGG)が検出されているのは、補助動力装置 (APU)が破壊され噴出した空気の反作用と考えるのが自然であるとしている。
2000年(平成12年)7月ごろには、事故機のコックピットボイスレコーダー (CVR:Cockpit Voice Recorder、操縦室音声記録装置)を再録したカセットテープがマスメディアに流出した。8月8日のTBS(JNN)系列の夕方のニュース番組『ニュースの森』で放送されたのを皮切りに、テレビ各局で相次いで放送され、墜落事故から15年を経て一般人が墜落直前のコックピットの様子を初めて知ることとなった。
CVRは30分間のエンドレステープ4チャンネルからなり、管制交信・乗員の会話・乗客に対するアナウンス・マーカー音など、4通りとなっている。流出したカセットテープの音声はこれらが繋ぎ合わされた32分間のもので、無録音部分も多い。
2000年(平成12年)8月、事故調査委員会は翌年4月1日に控えた行政機関の保有する情報の公開に関する法律(情報公開法)の施行を前に、事故調査報告書作成のために使用した一部の資料を、マイクロフィルム化など別の手段で保存した上で廃棄していたことが毎日新聞の取材により分かった。再調査を求める一部の遺族らは「再調査への道を閉ざす行為」と批判した。
2021年(令和3年)3月26日、遺族の吉備素子と佐々木祐副操縦士の実姉がJALに対しボイスレコーダー・フライトレコーダーの生データの開示を求め東京地裁へ提訴した。2000年に流出したボイスレコーダーは4チャンネルを編集したもので生データは現在も非公開のまま。2018年と2020年にボイスレコーダーとフライトレコーダーの生データの開示をJALに求めたが、JALは「公的な調査目的以外の使用は禁じられている」などの理由で応じていなかった。事故から現在まで、国やJALは調査資料の開示に応じていない。原告は、開示は遺族の当然の権利としている。
2022年(令和4年)10月、東京地裁は1991年までに和解が成立しているとして原告の要求を棄却した。しかし吉備は、当時JALの発表に疑問がつのり、JAL社長高木養根や、旧運輸省、群馬県警本部長の河村一男、上野村村長の黒澤丈夫に面会したが明快な答えは示されなかったため集団提訴に加わったとし、過去にJALらと交わした和解について、JALから修理ミスによる後部圧力隔壁の破壊が事故の原因と説明され「生活に困っている人がいると言われ、慰謝料の部分だけ和解した」としている。
原告は控訴し、控訴審の第2回口頭弁論が2023年(令和5年)4月11日に東京高等裁判所808号法廷(土田昭彦裁判長)で開かれた。
この訴訟は、1. 日本国憲法第13条に基づく人格権(プライバシー権)及び個人情報の保護に関する法律(個人情報保護法)第28条1項に基づく個人情報開示請求権、2. 同社国内旅客運送約款に基づく安全配慮義務にともなう信義則上の情報提供義務履行請求権、の2つの請求権に基づきボイスレコーダーとフライトレコーダーの開示を求めるもの。
原告側は吉備のほか6名の代理人弁護士、被告側は3名の代理人弁護士が出廷し、約40名が傍聴した。
当時の和解について、吉備は「慰謝料を出すので和解しろと言われ、瞬時に嫌だと思った。そのような説明では納得できないから。しかし、弁護士から『生活に困っている人がいるから』と言われ、その部分だけ和解したつもり」としている。
一審の第1回口頭弁論までいたもう一名の原告(佐々木祐・副操縦士の実姉)は第2回期日の直前に訴訟を取り下げた。
吉備は「ほかの遺族は傷つけられるので、闘うのを怖がっている。それで私は、遺族会を抜けた。これ以上、他の人を誘うことはできない。副操縦士の姉も傷ついたのでしょう。市原さんを気の毒に思う」とした。
控訴審は2023年(令和5年)6月1日に判決が言い渡されたが棄却された。
この訴訟の最大の争点は、和解の効力を裁判所がどう判断するか。和解条項には「原告らは本件事故に関し、今後、いかなる事情が生じても、被告(ボーイング社)および利害関係人(JAL)に対し、一切の異議を述べず、また何らの請求をしないものとする」と記述がある。
原告側は、「真っ赤な飛行機」を見たと記された群馬県上野村の中学生の作文集や、非番の自衛隊員による「ファントム2機を目撃した」と記された手記を載せた群馬県警発行の『上毛警友』、相模湾に垂直尾翼の残骸があった報道など、新証言・証拠を積み上げた。
裁判後、三宅弘弁護士は和解の効力について「被告は和解が成立しているから無効だと主張するが、吉備さんは『お金のところだけ和解した』と言っている。この問題は審理されていない」としている。
遺族との和解の経緯についても、「被告はボーイング社だったところに、最後にJALが出てきて和解しているから、信義則に反する」と指摘。新証言・証拠を挙げて「真実の一端が示せているのだから、従前の和解の範囲外」、裁判所は生データの開示を命じるのが当然であると主張した。
国籍 | 乗客 | 乗員 | 計 |
---|---|---|---|
日本 | 487 | 15 | 502 |
アメリカ合衆国 | 6 | 0 | 6 |
イギリス領香港 | 4 | 0 | 4 |
インド | 3 | 0 | 3 |
韓国 | 3 | 0 | 3 |
イタリア | 2 | 0 | 2 |
中国 | 1 | 0 | 1 |
西ドイツ | 1 | 0 | 1 |
イギリス | 1 | 0 | 1 |
ほか | 1 | 0 | 1 |
合計 | 509 | 15 | 524 |
事故が発生した日は月曜日の「お盆の入り」の前日で、夕方の混雑時間帯の便であったためビジネス客や帰省客が多かった。また、夏休み中ということもあり東京ディズニーランドや当時開催されていたつくば科学万博の観光客なども多く、ほぼ満席の状態だった。休暇中の全日空社員数名も自社便が利用できず、当便に搭乗していた。
外国人の犠牲者は22名で、商用で乗り合わせた者が大半だった。
墜落現場には「昇魂之碑」(慰霊碑)が建立されている。また、身元不明の遺骨は現場より北東へ10 km離れた国道沿いの「慰霊の園」に埋葬されている。
本事故の犠牲者の遺族は、1985年(昭和60年)12月に遺族会「8・12連絡会」を結成した。連絡会は、事故原因の究明や航空安全の推進について、JALやボーイングなどの事故関係者や、社会全般に訴えることを活動目的の一つとしており、会の内部に原因究明部会や技術部会など部会を置いて、原因の究明や航空安全に関する独自の研究活動を行った。
技術部会は後に「航空安全国際ラリー組織委員会」として独立し、航空安全シンポジウムの開催や、墜落時の衝撃を和らげる座席の開発提言などの活動を続け、2009年(平成21年)3月には、国際的な航空安全に貢献したとして、全米航空惨事被災者同盟 (NADA)の最高賞「航空安全賞」を受賞した。
本事故が起きた1985年度には、国内線旅客は前年度の対前年度比9%増から一転して同2.1%減となり、各航空会社とも経営が悪化した。これに対し新幹線旅客は、輸送人員で前年度の対前年度比1.5%増から飛躍的に増加し、同9.8%増となった。
羽田 - 伊丹線往路「JAL123便 (JL123)」という便名は、1985年(昭和60年)9月1日のダイヤ以降に欠番となった。しかし、2020年8月に成田空港で整備中の777-346ER「JA740J」において、架空の便名としてJL123を使用していたことをFlightrader24の利用者に指摘されて謝罪をしている。
747SRは、JALがローンチカスタマーであったが、事故を受けて同型機は-300SR・-400Dなどの後継機材の導入に合わせ、1988年から1994年にかけて全て売却された。
事故機JA8119と同時期に導入されたJA8117は、アメリカ航空宇宙局 (NASA)がスペースシャトル「チャレンジャー」の爆発事故を受けて、シャトル輸送機の改造ベースとして購入。N911NAとして1990年から2012年2月8日まで活躍した。退役後2014年9月より、カリフォルニア州Joe Davies Heritage Airparkで屋外展示されている。NASAは受領の際、機体の整備技術に敬意を表し、JALの整備部に表彰状を贈った。
JA8118は、ボーイングが金属疲労試験機として買い戻した。現在、2階建部分の胴体の一部を輪切りにし、ブリティッシュ・エアウェイズ塗装に塗り直され、ロンドンの英国国立科学産業博物館で展示されている。
2006年(平成18年)4月24日、東京国際空港整備地区に『日本航空安全啓発センター』が開設された。
事故機の残骸は、警察や検察庁の事故検証のあと、同社の新東京国際空港にある格納庫内に保存されていた。破棄が検討されたこともあったが、8・12連絡会がJALに請願した結果、保存されることとなった。
事故前のJAL社内を知らない社員が9割以上になったことを受け、2012年(平成24年)以降は風化防止のため、JALグループの全社員35,000人に対し、同センターの見学を義務化した。新入社員研修においては同センターの見学に加えて、御巣鷹山の慰霊登山と、事故関係者による安全講和を実施している。2013年(平成25年)9月30日に一旦閉館後、同年12月10日に新整備地区にあるJALメインテナンスセンター1内へ移転し、リニューアルオープンした。JAL社員・関連会社向けの研修施設であるが、一般にも公開されており、事前に申し込みをすれば見学することができる。
事故をきっかけとしてJALが協賛して賞品のハワイ旅行を提供していたテレビ番組『アップダウンクイズ』(毎日放送制作、ロート製薬提供)にて協賛のクレジットを自粛。事故の前までは、番組開始前のカウキャッチャーとして19時の時報とともにJALグループのCM(ジャルパックなど)が流れ、その後にロート製薬のオープニングキャッチに入っていたが、事故後には時報直後にロートのオープニングが流れるようになった。『アップダウンクイズ』は1985年10月6日に最終回を迎え、翌週『クイズ!!ひらめきパスワード』が放送開始。『ひらめきパスワード』も最初の半年間はJALが協賛していたが、当初はアップダウンクイズ末期と同様に協賛のクレジットを自粛した。
これとは別に毎日放送では、1985年7月下旬から平日帯の17時台に、JALが舞台かつ撮影の全面協力・スポンサーだったテレビドラマ『スチュワーデス物語』(大映テレビ制作)の再放送が行われていたが、再放送途中に当事故が発生したため、事故翌日(8月13日)に放送予定だった最終回を残して放送打ち切りとなった。
また、JALの記念行事も自粛され、1985年11月のボーイング767の初就航における記念行事は一切自粛され、またANAと11月に同時導入の予定であったスーパーシートも事故の影響で翌年の導入となった。
本事故以降、JALが関係した事故でJAL機の搭乗者が国際民間航空条約に基づいて死亡と認定された(事故後30日以内に死亡した)事故は発生していないが、1997年の日本航空MD11乱高下事故では事故による受傷が原因で客室乗務員1名が20ヶ月後に死亡しているほか、2024年に発生した羽田空港地上衝突事故ではJAL機と衝突した海上保安庁機に搭乗していた5名が死亡している。
多くの取材陣が事故現場や遺体検視所、生存者が収容された病院、遺族宅などに殺到し、様々な問題行動を起こした。
JAL123便墜落の主原因とされる「圧力隔壁の損壊・急減圧・油圧配管の破断・垂直尾翼(方向舵)の損傷」に関する類似事故事件。
事故年 | 機種 | 原因 | 結果 | |
---|---|---|---|---|
パンアメリカン航空845便離陸衝突事故 | 1971年 | ボーイング747-100 | 離陸時に主脚を進入灯に接触させ、4本の油圧系統のうち床下を走る3本を破断。 | 緊急着陸に成功 |
英国欧州航空706便墜落事故 | 1971年 | ビッカース ヴァンガード | 圧力隔壁が腐食により破壊され急減圧が発生。風圧によって外壁が吹き飛ばされ水平尾翼も崩壊。 | 空中分解し、地上に墜落 |
アメリカン航空96便貨物ドア破損事故 | 1972年 | マクドネル・ダグラス DC-10 | 貨物ドアの欠陥による急減圧が原因で、方向舵、昇降舵、第2エンジンがほぼ操作不能になった。補助翼とエンジン出力の操作で機体制御。 | 緊急着陸に成功 |
ナショナル航空27便エンジン破損事故 | 1973年 | マクドネル・ダグラス DC-10-10 | 第3エンジンが破損、破片の一つが客室の窓を破壊し急減圧が起こる。 | 乗客1名が吸い出されたが、緊急着陸は成功 |
トルコ航空DC-10パリ墜落事故 | 1974年 | マクドネル・ダグラス DC-10 | 上昇中に貨物室ドアが脱落し急減圧が発生。全油圧系統を損失し操縦不能に。 | 操縦不能に陥り墜落 |
サウディア162便機体破損事故 | 1980年 | ロッキードL-1011トライスター | 部品の劣化により車輪が破裂。機体下部の隔壁に穴が開き急減圧が発生。 | 乗客2名が吸い出されたが、緊急着陸は成功 |
遠東航空103便墜落事故 | 1981年 | ボーイング737 | 圧力隔壁の腐食によって貨物室が客室の与圧に耐えられなくなり外板が破壊。 | 空中分解し、山中に墜落 |
タイ航空機爆発事件 | 1986年 | エアバスA300-600 | 乗客が持ち込んだ手榴弾が機体後部で爆発、圧力隔壁が破損し急減圧が発生。油圧3系統のうち2系統を損失。 | 緊急着陸に成功 |
アロハ航空243便事故 | 1988年 | ボーイング737-200 | 胴体に無数の疲労亀裂があり、飛行中に胴体前方上部が分離、急減圧が発生。 | CA1名が吸い出されたが、緊急着陸は成功 |
ユナイテッド航空811便貨物ドア脱落事故 | 1989年 | ボーイング747-122 | 機体の右前部貨物ドアのロックがひとりでに解除。ドアが開き脱落、急減圧が発生。 | 乗客9名が吸い出されたが、緊急着陸は成功 |
ユナイテッド航空232便不時着事故 | 1989年 | マクドネル・ダグラス DC-10 | 尾部エンジンの欠陥により破壊。全油圧系統損失。 | 緊急着陸時に大破・炎上 |
ブリティッシュ・エアウェイズ5390便不時着事故 | 1990年 | BAC 1-11・528FL | 不適切に装着された操縦席の窓ガラスが吹き飛び急減圧が発生。 | 機長の体のほとんどが吸い出されたが緊急着陸に成功 |
フィリピン航空434便爆破事件 | 1994年 | ボーイング747-200B | テロリストの爆弾で床に穴が開き方向舵の操作が困難になった。左右エンジン出力の操作で機体制御。 | 緊急着陸に成功 |
アメリカン航空587便墜落事故 | 2001年 | エアバスA300-600R | 離陸直後、方向舵の過剰操作により垂直尾翼が脱落し、操縦不能に。 | 操縦不能に陥り墜落 |
ノースウエスト航空85便緊急着陸事故 | 2002年 | ボーイング747-400 (-400初号機) | 下部方向舵が動かなくなり機体制御が困難に陥る。操縦桿と左右エンジン出力の操作で機体制御。 | 緊急着陸に成功 |
DHL貨物便撃墜事件 | 2003年 | エアバスA300 | テロリストが貨物機を狙撃したことで全油圧系統損失。左右エンジン出力の操作で機体制御。 | 緊急着陸に成功 |
ヘリオス航空522便墜落事故 | 2005年 | ボーイング737-300 | 与圧システムの異常による急減圧で操縦士が死亡。 | 燃料切れにより墜落 |
ナショナル・エアラインズ102便墜落事故 | 2013年 | ボーイング747-400BCF 改造貨物機 | 積荷の軍用車が荷崩れを起こし圧力隔壁・油圧系統の一部と昇降舵の油圧ジャッキを破壊。 | 操縦不能に陥り墜落 |
サウスウエスト航空1380便エンジン爆発事故 | 2018年 | ボーイング737-700 | 左エンジンが破損し断片が客室窓ガラスを破壊。急減圧が発生。 | 乗客1名の上半身が吸い出され死亡したが、緊急着陸は成功 |
四川航空8633便不時着事故 | 2018年 | エアバスA319-100 | フロントガラスのシールが湿気によって損傷し破裂、急減圧が発生。 | 副操縦士の上半身が吸い出されたが、緊急着陸は成功 |
アラスカ航空1282便緊急着陸事故 | 2024年 | ボーイング737MAX-9 | 離陸後、上昇中に側面非常ドアが突如飛散し、急減圧が発生。 | 緊急着陸に成功 |
原因別の航空事故を参照
事故調査報告書
事故調査報告書 別添
事故調査報告書 (付録)
事故調査報告書についての解説
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