大山康晴: 日本の将棋棋士(1923−1992)

大山 康晴(おおやま やすはる、1923年(大正12年)3月13日 - 1992年(平成4年)7月26日)は、将棋棋士。十五世名人。棋士番号26。木見金治郎九段門下。

 大山康晴 十五世名人
大山康晴: 生涯, 棋風, 盤外戦
第11期名人戦を制して新名人となる
(1952年7月16日)
名前 大山康晴
生年月日 (1923-03-13) 1923年3月13日
没年月日 (1992-07-26) 1992年7月26日(69歳没)
プロ入り年月日 1940年2月25日
引退年月日 1992年7月26日
(現役のまま死去)
棋士番号 26
出身地 岡山県倉敷市
所属 将棋大成会(関西)
日本将棋連盟(関西)
→日本将棋連盟(関東)
師匠 木見金治郎九段
弟子 市川伸、有吉道夫中田功行方尚史
永世称号 十五世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将
段位 九段
棋士DB 大山康晴
戦績
タイトル獲得合計 80期(歴代2位)
一般棋戦優勝回数 44回(歴代2位)
通算成績 1433–781 (.647)
順位戦最高クラス A級(44期)
2023年12月21日現在
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主な記録としては、公式タイトル獲得80期(歴代2位)、一般棋戦優勝44回(歴代2位)、通算1433勝(歴代2位)等がある。永世名人・永世十段・永世王位・永世棋聖・永世王将の5つの永世称号を保持。

順位戦A級に在籍しながら、1976年(昭和51年)12月から1989年(平成元年)5月まで日本将棋連盟会長を務めた。弟子には有吉道夫中田功行方尚史などがいる。1990年(平成2年)には将棋界から初めて文化功労者に選ばれた。正四位勲二等瑞宝章岡山県倉敷市出身で、倉敷市および青森県上北郡おいらせ町名誉市民・名誉町民。

生涯

生い立ち - 戦前期

1923年(大正12年)3月13日、岡山県浅口郡河内町西阿知(現・倉敷市)に生まれる。5歳頃から将棋を覚え始める。

才能を注目されて、1935年(昭和10年)に大阪に出て、同じく岡山県出身の木見金治郎八段(当時)に入門し、内弟子となる。同1935年、創設されたばかりの関西奨励会に6級で参加。順調に昇段し、1937年(昭和12年)には二段になった。

二段時代に、中外商業新報(のちの日本経済新聞)の主催の若手勝ち抜き棋戦において、初の公式戦を体験する。

木見門下の兄弟子に大野源一角田三男、そして終生のライバル升田幸三がいた。内弟子時代、はじめは兄弟子の升田幸三が受け将棋で大山は攻め将棋だったが、二人で数多く対局するうちに、升田は攻めが強くなり、大山は受けが強くなったという。

しかし1938年(昭和13年)には、師匠の弟であり、木見家に居候していた木見栄次郎(中将棋の名手、将棋と囲碁はセミプロの腕前)と、中将棋と囲碁に明け暮れる毎日を送り、この年は二段のままであった。

一方で、この時期に中将棋を学んだことで、駒の連携を重視する、用心深く、粘りのある大山の棋風が生まれたと大山自身が述べている。また、この時期に囲碁を本気で勉強したことは、大山が戦時中に兵役に就いた際に身を助けた(後述)。晩年に至るまで大山は囲碁を趣味としており、1950年代には日本棋院からアマ五段の免状を受けていた。

1940年(昭和15年)2月に四段、1941年(昭和16年)に五段、1943年(昭和18年)に六段(前年の昭和17年に六段への昇段点を満たしたが、早すぎるとして昇段を保留された)。1942年(昭和17年)には、大阪毎日新聞(戦後の毎日新聞大阪本社)の嘱託となり、月額100円の手当を支給されるようになった。本来この嘱託の話は升田に持ち込まれていたが、升田が出征中だったため大山に話が回ってきたとも言われ、後に大山と升田が対立する原因の一つとなったとされる。

戦中 - 終戦

太平洋戦争中の1944年(昭和19年)に召集され、5月1日に、岡山市北部に兵営があった陸軍の「四十八部隊」に入営した。大山は、4月18日に倉敷の自宅で召集令状を受け取った時点で、六段で11勝3敗の成績であり、あと4勝で七段に昇段できる状況であった。大山は直ちに大阪に行き、入営の前に4局指させて欲しい(全て勝って七段になって入営したい)と師匠の木見に願い出た。大山の希望は叶えられ、4月20日から23日の間に、大野源一・八段、高島一岐代六段、松浦卓造四段、星田啓三・四段(段位はいずれも当時)と4局を指したが、松浦四段に1敗を喫し、3勝1敗の成績で昇段はできなかった。

将棋大成会(日本将棋連盟の前身)は、出征すれば生還を望めない状況を鑑み、出征が決まった棋士を無条件に昇段させていた。河口俊彦は、大山も何もしなくても七段に昇段できたはずなのに、あくまでも実力での昇段を望んだのは、真の将棋指しであった大山の人柄を表している、と評している。

同じく河口俊彦は、当時の大山に勝てる棋士は関西に存在せず(升田幸三・七段は、昭和18年11月に二度目の召集を受けて出征していた)、そもそも、死にに行く出征棋士に勝とうなどと思う棋士がいる訳もなく、大山が1敗を喫したのは不思議である。大山は勝つのが当然と油断しており、その隙を松浦四段に突かれて負けたのだろうと推定している。

負けたとき、大山は自分が仲間に嫌われていること、勝負は油断してはならないことを身にしみて感じたであろう。この事件が後の大山の生き方に大きな影響を与えたのは間違いない。 — 河口俊彦、

入営して二等兵(歩兵)となった大山は、厳しい初年兵訓練を1カ月受けたが、その後に縫工(ミシンを使って裁縫作業をする配置)に回された。同僚の兵は多くが沖縄戦に投入され、生還できなかったが、大山は戦地への動員を免れて岡山に残留した。岡山県出身の上官(氏名は出典に記載なし)が、特殊技能を持つ兵は岡山に残す、と判断した結果のようであった。

私は、小学校時代から将棋の師につき、木見門に入り、永世名人になって百二十四回の優勝をかさねてきた。そのためには自分なりに努力をしたつもりだが、ひとつには運に恵まれていたと感謝する。ことに軍隊では幸運をつかんでいなければ、沖縄戦に参加して、おそらくは生きて帰れなかっただろう。 — 大山康晴、

1945年(昭和20年)4月25日に大山の所属部隊が再編成され、本土決戦に備えて南九州に進出した。そこで所属部隊を離れて上級部隊である第154師団の司令部附となり、宮原健雄大佐(第154師団参謀長、陸士36期・陸大47期)の当番兵となり、終戦を迎えた。

以下は、宮原健雄大佐の戦後の証言による。

終戦の1か月前、昭和20年7月16日付で第154師団長が交代し、二見秋三郎少将(陸士28期・陸大37期)が着任した。二見師団長は囲碁が趣味で、「囲碁の強い兵隊を探せ」と部下に指示した。条件を満たす大山が所属部隊を離れて第154師団司令部附となり、師団長の囲碁の相手をすることになった。しかし、昭和13年に1年かけて囲碁と中将棋を学んだ(前述)大山は囲碁が強すぎ、全く勝てない師団長が閉口して、大山はお役御免となった。大山はここで所属部隊に戻される筈であったが、それは大山が可哀想だと同情され、大山は宮原参謀長の当番兵になった。なお、参謀長は将棋の心得があったが、大山が将棋の専門棋士だとは知らず、大山と将棋を指すことはなかった。(要約)

20代初のタイトルホルダーに

戦後に復員して棋士に戻り、創設された順位戦にB級六段として出場。1947年(昭和22年)に七段昇段。同年、妻・(旧姓・中山)昌子と結婚。1948年(昭和23年)、時の塚田正夫名人への挑戦者は升田幸三八段と見られていたが、大山はB級1位ながら当時の変則運用によりA級棋士を連破して、A級1位の升田にも「高野山の決戦」(第7期名人挑戦者決定三番勝負)で辛勝して初めて名人挑戦者となる。25歳での名人挑戦は、当時の史上最年少記録であった。また、20代での名人戦登場は史上初のことであった。しかし、第7期名人戦は2勝4敗1千日手で敗れる。この年、A級八段に昇段。

1950年(昭和25年)、A級順位戦に優勝し名人挑戦者決定戦も制して、第9期名人戦で木村義雄名人に挑戦するも2勝4敗で敗れる。その後、新設された、第1期九段戦で、優勝して、初タイトルとなる九段を獲得。27歳でのタイトルホルダーは、当時の最年少記録であり、20代でのタイトル獲得も史上初のことであった。

史上最年少名人の誕生

1951年 九段のタイトルを防衛。 1952年(昭和27年)、29歳の大山は第11期名人戦で木村義雄名人に挑戦して4勝1敗で勝利し、当時の史上最年少名人が誕生した。20代での名人獲得は史上初であった。また、九段のタイトルも保持していたため、史上初の二冠達成。ただし、九段位は直後に塚田正夫挑戦者に奪われる。「名人位の箱根越え」は坂田三吉以来の悲願の成就であった(対局後、勝った大山が負けた木村に深々と頭を下げたことは、象徴的な場面として知られる)。以後、5連覇して1956年(昭和31年)には永世名人十五世名人)の資格を得る。1952年 - 1954年には名人・王将の二冠を3年間保持した。1956年以前の九段戦は名人不参加であったため、当時の大山は全冠独占とは扱われないものの、出場しているタイトルは全て獲得していることとなる。

関西在住だったが、1955年(昭和30年)に東京に居を移す。

升田幸三との闘争

「高野山の決戦」に敗れ、名人挑戦・名人獲得と大山の後塵を拝していた升田幸三であったが、「新手一生」「名人に香車を引いて勝つ」 を標榜しながら巻き返しを狙っていた。1955年(昭和30年)度、升田は大山から王将位を奪取、二冠の一角を崩す。このとき、王将戦の規定(指し込み制)で升田は大山を香落ちに指し込んで屈辱を味わわせ、「名人に香車を引いて勝つ」という念願を達成している。この時の心境を大山は『ハラワタがちぎれるほど悔しかった』と言っている。1956年(昭和31年)の第16期名人戦において、第12期・第13期と升田を退けてきた大山は、ついに升田に名人位を奪取され、無冠に転落した。升田は、名人・九段・王将の全冠を独占して、棋界初の三冠王となった。

その後大山は、1957年(昭和32年)度の王将戦、1958年(昭和33年)の九段戦、1959年(昭和34年)の名人戦と、升田から次々とタイトルを奪回して無冠に追い込み、棋界2人目の三冠王(全冠独占)となった。この頃の「助からないと思っても助かっている」という大山の言葉は、扇子揮毫などでよく知られている。以後、升田は、タイトルを一つも獲得できなかった。

五冠王時代

1959年(昭和34年)に三冠王となった大山は、1960年(昭和35年)創設の王位戦で王位を獲得して初の四冠独占をし、そして1962年(昭和37年)創設の棋聖戦で棋聖位を獲得して初の五冠独占(名人・十段・王将・王位・棋聖)を果たした。

1959年 - 1966年(昭和34年 - 昭和41年、36歳 - 43歳)頃はタイトル棋戦でほぼ無敵の極盛期であり、1962年 - 1970年(昭和37年 - 昭和45年)頃も四度、五冠王になった。特に、1963年(昭和38年)から1966年(昭和41年)にかけてはタイトルを19期連続で獲得し、その間、他の棋士達にタイトルを一つも渡さなかった。大山の全盛期は、1950年代後半 - 1960年代の日本の高度経済成長期とほぼ重なっている。

二上達也山田道美加藤一二三内藤國雄といった若い俊才たちが次々に挑みかかったが、大山の正確な受けによる「受け潰し」に阻まれた。また、木村義雄・升田幸三らと同様に、大山もしばしば「盤外戦」を駆使したといわれている。

中原誠ら次世代の台頭、記録への挑戦

しかし、1960年代末期(昭和40年代半ば)になると、山田道美と、その研究グループ「山田教室」で腕を磨いた中原誠が台頭してきた。山田は夭折したが、中原は大山攻略術を編み出した。桂馬を巧く使うことが、大山の堅い囲いを崩すのに有効だったという。あるいは、中原には大山の盤外戦が通じなかったともいわれ、大山は中原だけには非常に相性が悪かった。中原とはタイトル戦で通算20回戦っているが、うち、大山の獲得数は4、中原の獲得数は16である。1968年 - 1972年(昭和43年 - 昭和47年)度にかけて、大山は中原によって次々とタイトルを奪取され、50歳目前の1973年(昭和48年)王将戦で無冠となった。大山が無冠となったのは16年ぶり。中原はこの年に四冠王(後に五冠王)になり、「棋界の太陽」と呼ばれ、「大山時代」が終わって「中原時代」が来たと言われるようになった。

その1973年(昭和48年)、無冠になった大山は特例で現役のまま「永世王将」を名乗ることが認められ、1976年(昭和51年)には同じく現役のまま「十五世名人」を襲位した。これらの永世称号を名乗るのは原則として引退後であるが、大山が既に将棋界の一時代を築いてきた実績を持つ棋士であることを考えると、称号なしの「九段」とは呼べないという連盟側の配慮であった。

しかしながら「中原時代」の大山も、分の悪い対・中原戦を除けば依然として強さを発揮し、50歳代にもかかわらず十段1期・棋聖7期・王将3期の計11期を獲得した(59歳の王将位獲得は、タイトル獲得の最年長記録)。また、谷川浩司によれば、通算成績においても、20歳代の時より50歳代の時の方が多く勝っているとのこと。その他では谷川、羽生善治などにも負け越している。

連盟の運営、将棋の普及、顕彰

大山康晴: 生涯, 棋風, 盤外戦 
倉敷市芸文館に併設されている、倉敷市大山名人記念館

1974年(昭和49年)には「将棋会館建設委員長」となって日本将棋連盟本部である「将棋会館」の建設に、1977年(昭和52年)には「関西将棋会館建設副委員長」として「関西将棋会館」の建設に尽力。1976年12月から1989年5月(昭和51年 - 平成元年)には、第一線のA級棋士で王将を3期連覇しながら日本将棋連盟の会長を務め、プレイングマネージャーとして将棋界総本山の運営にも精力的に従事した。戦後に日本将棋連盟が発足して以来、会長とタイトルホルダーが兼ねていた唯一の事例である。

会長に就任した頃から、将棋の普及活動に、ひときわ熱心に取り組むようになった。

少なくとも名人でいる間は、大山は悪役だった。棋士の大半が好感を持っていなかった。しかし、五十歳を過ぎ、会長になってから人間が少し変わった。ファンに誠意を持って接し、サービスの限りを尽くした。晩年はファンからの大山の悪口を聞いたことがない。 — 河口俊彦

大山は、1978年(昭和53年)4月、55歳の時に、将棋普及のために青森県上北郡百石町(現・おいらせ町)を初めて訪れた。それ以来、大山は同町を繰り返し訪問し、「第二の故郷」と呼ぶほどの深い交流を持った。

1989年(平成元年)には百石町名誉町民の称号を贈られ(2005年(平成17年)に「おいらせ町」が発足してからは、おいらせ町名誉町民)、没後の2004年(平成16年)には大山を顕彰する町立の施設「大山将棋記念館」が建てられている。

出身地である倉敷市からは、1953年(昭和28年)に倉敷市文化賞を、1970年(昭和45年)に倉敷市名誉市民の称号を贈られ、没後の1993年(平成5年)には「倉敷市大山名人記念館」が建てられ、同じく1993年に女流棋士タイトル戦として「大山名人杯倉敷藤花戦」(倉敷市ほか主催)が創設されている。

また、参加対象者を中国地方の小学生に限定して1995年(平成7年)より開始した「倉敷王将戦」は、後に参加対象者を西日本地区から全国の小学生にまで拡大、2012年(平成24年)からは「大山名人杯争奪全国小学生倉敷王将戦」の冠大会となっており、優勝経験者や上位入賞経験者からプロ棋士になった方も多数出している。

1990年(平成2年)には、将棋界から初めて文化功労者に選ばれた。

このほかの大山の表彰・顕彰としては、次のようなものがある。

また、現役棋士としても、以下の賞を受賞している。

晩年期の闘い

晩年期の大山は、肝臓がんと闘病しながら何度も復帰してA級順位戦を闘い、さらにはタイトル獲得に挑み続けた。還暦を過ぎた60歳でNHK杯テレビ将棋トーナメントで優勝し、63歳となった1986年(昭和61年)に名人戦で中原名人に挑戦し、平成元年度の1990年(平成2年)には棋王戦で66歳にして南芳一棋王に挑戦した。この棋王挑戦は、タイトル挑戦の最高齢記録である(五番勝負は0-3で奪取ならず)。

この年代になって、順位戦で降級の危機に瀕することはあった。「A級から落ちたら引退する」という大山の決意はファンにも知れ渡っており注目を集めたが、A級の地位を維持した。1987年(昭和62年)度は、生涯最低の3勝6敗の成績ながらも、最終戦を待たずして残留が決定していた。1990年(平成2年)度は、最初に5連敗したが、その後4連勝して降級を免れた。

さらに1991年(平成3年)度(1992年(平成4年)3月まで)の順位戦(第50期)では、がん治療中の身でありながらも名人挑戦権を争い、残り1局の時点で単独トップの谷川浩司四冠王(当時)を最終9回戦で破って、6勝3敗の4人でのプレーオフに持ち込んだ。プレーオフはパラマストーナメントのため、リーグ表で下位の大山は3連勝をする必要があったが、プレーオフ初戦の高橋道雄との対局で敗れ(勝勢になったが決め手を見逃して敗局)、これが大山がフル出場した最期の順位戦となった。

大山は最期まで現役を貫いた。没年となった1992年(平成4年)度の順位戦も休場せず、A級1回戦で田中寅彦との対局(1992年6月11日)に臨んだ。その3日後、1992年6月14日に高松市「高松市民会館」で行われた第13回将棋日本シリーズ1回戦(公開対局)での小林健二との対局において勝利し(147手)、公式戦通算成績を1433勝とした。これが大山の棋士人生最後の勝利となった。

1992年6月25日の棋聖戦二次予選での中村修との対局(146手で中村の勝ち)が大山の生涯最期の公式戦対局となり、53年間余りの公式戦通算成績を1433勝781敗(勝率0.647)として棋士人生を終えた。それから1ヶ月後の7月26日、大山はA級の地位を守ったまま死去した。A級在籍のまま死去した将棋棋士は山田道美に続き史上2人目であり、後に村山聖もA級在籍のまま死去したが、山田と村山は将棋棋士として絶頂期と言える若い年齢(36歳と29歳)で死去したのに対し、大山は69歳という高齢でA級の地位を維持し続けていた点が特筆に値する。大山が残した69歳4ヵ月のA級在籍記録は将棋史上最年長であり、現在も破られていない。

棋風

史上最強の棋士は誰かと聞かれれば、「大山康晴」と私は答えることにしている。実績において大山を破る者があるとすれば羽生善治だろうが、それでもまだ今後の活躍次第と言っていいだろう。 — 米長邦雄(2012年没)の遺稿より、

米長邦雄は、大山の、終盤での強靭な粘り、最善手ではない、敢えて相手の悪手や疑問手を誘うよう手を指す逆転術を「終盤が二度ある」「二枚腰」と評した[要ページ番号]

同じく米長邦雄は、大山将棋の神髄は受けにあり、守りの要となるの使い方の巧みさでは並ぶ者がない、と評している。

大山が1992年に死去した後、藤井猛が大山の棋譜を徹底的に研究して藤井システムを創案し、それを駆使して1998年度に初タイトルとなる竜王を獲得した際に、藤井の将棋と大山の将棋が酷似していると感じた米長邦雄は、「嫌な者」(大山)が生き返ってきたかのようだ、という趣旨の発言をしたという(河口俊彦による)。

羽生善治は、大山の棋風について「読んでいないのに急所に手が行く」「最善手を追求しない」と評している[要ページ番号]。大山との実戦では「まあこんなところだろう」という感じで手が伸びてくるのがピッタリ当たり、まさに名人芸という指しまわしであったと評している[要ページ番号]

若い頃の大山は、その当時の主流であった矢倉や腰掛銀などの居飛車が多かったが、突如振り飛車党に転向、特に美濃囲いでの四間飛車とツノ銀中飛車を好んで指した。この転向について、勝又清和は「ファンに喜ばれる将棋を指そうと考えたため」と説明しているが、大山の場合は多忙の中、兄弟子の大野源一から序盤がある程度決まっている(序盤の研究を省略できる)振り飛車を勧められたためとも言われている。

しかしその一方で相振り飛車は極端に嫌っていて、相手が飛車を振った場合は必ず居飛車で指していた(大山が公式戦で相振り飛車を指した棋譜は1局しか残っていない)。

鈴木大介は、大山が相振り飛車を嫌っていた理由として、当時の相振り飛車で一般的に使われていた金無双の右銀の使い方に苦心していたためではないかと話している。その根拠として、大山が最後に指した相振り飛車の対局では、大山は二枚金の形にはしたものの右銀は2八に上げずに3九に置いたまま戦い、最終的に終盤で取られてしまうまで3九から動かすことは無かった。

相手の手番のときには、相手が盤上のどこを見て考えているか視線の方向を観察していた。

盤外戦

大山康晴: 生涯, 棋風, 盤外戦 
高島一岐代(右)とともに(1955年)

対局相手に無形の圧力を加えるなど、いわゆる「盤外戦」を駆使した面がしばしば強調される。

例えば有名な高野山の決戦である。A級1位だった升田が塚田正夫への挑戦者で当然だったが、名人戦を当時主催していた毎日新聞社は、自社の嘱託棋士であったB級1位の大山を強引に参画させるため、突然A級上位3名とB級1位のプレーオフで名人戦挑戦者を決める変則を実施した。朝日新聞社の嘱託棋士であった升田には、対局の日程も場所も事前に通知がなく、真冬の高野山に行く升田に同行者を出さないという冷遇をした。しかも、十二指腸の具合がよくなかった升田は温暖な場所での対局を依頼していたが、毎日新聞社は寒冷な高野山を選ぶなど、升田は対局する以前に大山側から強烈な盤外戦を喰らっていたという説もある。

一方、河口俊彦は、毎日新聞社が、朝日新聞社の嘱託棋士であった升田に悪意のある仕打ちをしていたというのは、升田の考えすぎであろう、という趣旨を述べている。

1948年(昭和23年)の「高野山の決戦」の後の1953年(昭和28年)に毎日新聞社に入社し、長く観戦記者を務めた井口昭夫は、下記のように述べている。

  • 「B級1位を参画」という制度変更は、「順位戦の開始前」にされていたはずだ。(升田は知らなかったかもしれないが)順位戦が終わった段階での、制度変更は考えられない。なお「B級1位を参画」は七段時代の升田が、木村名人との五番勝負に勝った結果として「B級の逸材にも挑戦のチャンスを与えよう」という流れである。
  • 井口は、高野山での対局を毎日新聞社で担当した者に話を聞いた。当時は食糧難で対局場所を探すのも困難であり、食糧が十分確保されている高野山が対局場所として適所としてあげられた。なお、「途中は寒くても、寺に入ってしまえば防寒の用意は発達している」と高野山側の説明を受けていた。
  • 毎日側は升田に連絡しようとしたが、升田の所在がわからず困惑していた。朝日新聞側の担当者も、升田に連絡がつかないことを心配していた。

敗戦から3年を経た1948年、未だ日本の食糧事情は厳しく、「高野山の決戦」については、対局の前夜に供されるすき焼きの材料は主催社の毎日新聞社が提供し、高野山滞在中に関係者が食べる白米(出典には「銀飯」とある)は高野山が提供し、左党の升田に欠かせない酒は後援者が提供した。食糧確保のための関係者の努力は多大なものであった。

なお、大山の側も、朝日新聞社が名人戦を主催するようになって以降は相当の盤外の圧力を被っていたという説もある。升田が勝てば役員総出で大宴会になり、大山が勝ったらそのまま全員帰った、大山が升田に敗れればカメラマンが何度も投了の瞬間を再現するよう迫ったという逸話が伝えられている。これで奮起した大山は2期後に名人位を升田から取り戻し13期連続、通算18期名人位を獲得し、その後二度と終生のライバルであった升田にタイトルを譲ることはなかった。

その他の棋類

日本の古典将棋である中将棋の権威でもあり、さらにはチェスでも日本チャンピオンになり、日中国交正常化の翌年1973年に日中象棋協会(後に日本シャンチー協会に改名)を設立して会長職を務めてシャンチー(中国象棋)の普及にも努め、日中協会の役員 にもなって日本将棋の中国への普及にも努めた。

昇段履歴、永世称号襲名・襲位

主な成績

タイトル・永世称号

登場・連覇の 太字 は歴代最多記録。

詳細は大山康晴の戦績を参照。他の棋士との比較は、タイトル獲得記録将棋のタイトル在位者一覧を参照

タイトル 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 永世称号(備考)
竜王 0
名人 1952 - 1956、1959 - 1971 25回 18期
(歴代1位)
13連覇
(歴代1位)
十五世名人
1976年11月17日襲位
王位 1960 - 1971 15回 12期
(歴代2位)
12連覇
(歴代1位)
永世王位
王座 0 一般棋戦時代の優勝9回
棋王 02回
王将 1952 - 1954、1957 - 1961、
1963 - 1971、1979 - 1981
26回 20期
(歴代1位)
9連覇
(歴代1位)
永世王将
1973年10月31日襲位
棋聖 1962後 - 1965後、1966後、
1970前、1974前 - 1977前
22回 16期
(歴代1位タイ)
7連覇
(2度、歴代2位)
永世棋聖
1965年付け
旧タイトル 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 永世称号(備考)
九段 1950 - 1951、1958 - 1961 08回 6期
(歴代1位)
4連覇
(歴代1位タイ)
十段 1962 - 1967、1969、1973 14回 8期
(歴代2位)
6連覇
(歴代1位タイ)
永世十段
1988年付け
登場回数 合計112回、獲得合計80期歴代2位
将棋タイトル獲得記録
01位 099期 (138回)
2位 80期 (112回)
3位 64期 (091回)
4位 31期 (044回)
5位 27期 (057回)
6位 21期 (021回)
7位 019期 (048回)
8位 13期 (037回)
9位 12期 (025回)
10位 08期 (024回)

(番勝負実施分のみ)
08期
(05期)
(011回)
(008回)
太字*は現役棋士、(括弧の数字)はタイトル戦登場回数
(記録は第49期棋王戦終了まで、番勝負終了前を除く)

一般棋戦優勝

合計44回(歴代2位)

この他、東西対抗勝継戦5勝以上 1回(1955(第4回))がある。本棋戦は本来は名人の参加しない一般棋戦だが、この年は「特別模範勝抜戦」と題して名人の大山が特別に参加した。この優勝相当成績は日本将棋連盟の公式の一般棋戦優勝回数には含まれていない。

将棋大賞

  • 第1回(1973年度) 最優秀棋士賞・最多勝利賞
  • 第2回(1974年度) 特別賞・最多勝利賞・最多対局賞
  • 第3回(1975年度) 特別賞・最多勝利賞・最多対局賞
  • 第4回(1976年度) 連勝賞
  • 第7回(1979年度) 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞(いずれも最年長記録、56歳)
  • 第13回(1985年度) 特別賞
  • 第19回(1991年度) 特別賞
  • 第20回(1992年度) 東京将棋記者会賞

主な記録

生涯成績 1433勝781敗 勝率0.647

主な対戦相手との勝敗

対戦相手 対局 タイトル戦
土居市太郎 002 002 000
木村義雄 027 016 011 獲得01 敗退01
塚田正夫 075 045 030 獲得02 敗退02
升田幸三 167 096 070 獲得15 敗退05
花村元司 052 043 009 獲得02 敗退00
丸田祐三 069 045 024 獲得03 敗退00
二上達也 162 116 045 獲得18 敗退02
加藤一二三 125 078 047 獲得07 敗退01
有吉道夫 069 040 029 獲得04 敗退00
内藤國雄 068 050 018 獲得03 敗退01
米長邦雄 104 058 046 獲得04 敗退02
中原誠 162 055 107 獲得04 敗退16
谷川浩司 022 006 016
羽生善治 009 003 006
佐藤康光 002 001 001
森内俊之 002 001 001

※升田と二上の対局数は、タイトル戦での持将棋各1局ずつ含む。

※有吉、米長、谷川、羽生の対局数と敗数は、大山の死去に伴う不戦敗扱いを各1局ずつ含む。

在籍クラス

順位戦・竜王戦の在籍クラスの年別一覧
開始
年度
(出典)順位戦 (出典)竜王戦
名人 A級 B級 C級 0 竜王 1組 2組 3組 4組 5組 6組 決勝
T
1組 2組 1組 2組
1946 1 六・七段戦2位
1947 2  B級3位 
1948 3 A 03
1949 4  A02 
1950 5 A 01
1951 6  A02 
1952 7 名人 --
1953 8 名人 --
1954 9 名人 --
1955 10 名人 --
1956 11 名人 --
1957 12  A01 
1958 13  A01 
1959 14 名人 --
1960 15 名人 --
1961 16 名人 --
1962 17 名人 --
1963 18 名人 --
1964 19 名人 --
1965 20 名人 --
1966 21 名人 --
1967 22 名人 --
1968 23 名人 --
1969 24 名人 --
1970 25 名人 --
1971 26 名人 --
1972 27 A 01
1973 28  A02 
1974 29 A 01
1975 30 A 02
第30期の翌期は第36期/31-35期は回次省略
1976 36 A 02
1978 37 A 04
1979 38 A 03
1980 39 A 02
1981 40 A 04
1982 41 A 05
1983 42 A 05
1984 43 A 03
1985 44  A11 
1986 45 A 01 棋戦創設前
1987 46 A 04 1 1組 --
1988 47 A 08 2 1組 --
1989 48 A 04 3 1組 --
1990 49 A 05 4 2組 --
1991 50 A 07 5 1組 --
1992 51 A 04 1992年7月26日死去
第51期 1回戦の実施後に死去
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。
順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 )
順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。
竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。

人物

  • 大の麻雀好き。タイトル戦を戦っている最中にも控室に顔を出し、その場にいる棋士や観戦記者達に「早く仕事(=麻雀)をしなさい」と場を立てさせようとするほどで、2日制のタイトル戦では毎夜雀卓を囲むことが珍しくなかった。そのため立会人を務める棋士についても「麻雀を打てる人にして欲しい」とリクエストしていたほどで、時には封じ手の時間を「みなし長考」扱いにして繰り上げてまで麻雀を打ったこともあるという。田丸昇はこれらの行動について「対局場を仕切って自分のペースにするのも戦略だと思っていた。麻雀はその小道具だった。ひとつの盤外戦術といえる」と分析している。
  • ゴルフを初めてやった大山は、「こんな面白いものが将棋に悪くないはずがない」と言ってきっぱりやめてしまった」と伝えられることも多いが、実際はゴルフもある程度、熱心にたしなんだ後に、「将棋によくない」ときっぱりやめた とされる。しかし河口俊彦『大山康晴の晩節』によると、晩年の大山は「健康のためのゴルフ」を熱心に行っていた。
  • 大山は健啖家だったが、酒は好きではなかった。大山の盟友であった丸田祐三も酒を嗜まなかった。
  • 持っていたタイトルを全部失って途方に暮れていたとき、無性に横溝正史に会いたくなり、一升ビンを持って正月早々に横溝家に押しかけたことがある。社交性がなく、仕事以外で他人と酒を酌み交わした覚えがないと自認する大山は、「この様な事は、横溝正史先生以外の人にした事がない」と記している。
  • 妻・(旧姓:中山)昌子の実家がある吉備郡岡田村(現・倉敷市真備町岡田)に疎開していた横溝正史は、たまたま昌子との見合いに来ていた大山を見かけ、東京に戻ってから「まあちゃんのお婿さん」というエッセイを時事新報に載せたところ、それを読んだ大山夫妻が横溝家を訪ねてきて以来、両家の親交が続くこととなった。
  • 食べ物では「嫌いなものは特にない」一方で「辛いものが好き」。カレーライスでは30倍カレーを普通に平らげるほど辛さに強く、同じく激辛好きの林葉直子と意気投合することが多かった。
  • NHK杯テレビ将棋トーナメントテレビ将棋対局では、非常にわかりやすい解説に定評があった。
  • 自宅最寄り駅の荻窪駅から自宅へ帰る途中や将棋会館最寄り駅の千駄ケ谷駅から将棋会館へ歩いて向かう途中、人に追い越されると悔しくて抜き返したという。
  • 升田とは兄弟弟子でありながら、お互いにトップ棋士となった頃には、上記の通り盤外戦でも嫌がらせの応酬に終始したと伝えられる。1970年代には関係が修復され、1974年には将棋会館建設を巡り日本将棋連盟執行部の退陣を求め共闘したほか、同年の日本棋院主催の囲碁団体戦では共に「日本将棋連盟チーム」の一員として参加するなど一時蜜月関係となるが、1976年の名人戦の主催者移行(朝日→毎日)を巡り再び対立し関係が悪化するなど、その仲は二転三転した。ただ升田が逝去したときには真っ先に駆け付け、「面会謝絶」と留められるのを振り切って死に顔に面会した。

その他

  • 1968年にビクターレコードよりリリースされた三沢あけみの楽曲「勝負」を作詞した。
  • 河口俊彦が大山の人物像を描いた「大山康晴の晩節」は、第15回(2002年度)将棋ペンクラブ大賞を受賞している。
  • 河口俊彦によると、大山に禁煙を勧められた河口が「(やめた方がいいのは)わかってはいるんですけどねえ」と答えると、「わかっているのに実行しないとは信じられない」というような目で見られたという。
  • 藤井猛九段は『大山康晴全集』の全棋譜を並べるほど熱心に大山将棋を学んだという。このため、藤井の指し手には大山将棋の影響が表れていると言われる。
  • 坂口安吾の小説『九段』には、若き大山九段のウヌボレ屋な一面と、坂口安吾との偶然の縁が描かれている。
  • バトルロイヤル風間の将棋4コマ漫画にも初期にはよく登場し、将棋と全然関係ないシーンで大山が「ワシにまかせろ!」なる怒号と共に出てきて、強引に片付けてしまうのが定番のギャグだった。風間によると「ネタに詰まるとすぐ大山」だったとの事で、これが縁で大山と風間の対談も実現している。対談は漫画にされ将棋マガジンに掲載された。風間は「大山は将棋しか考えない鉄人だった」と語っている。この時、国会議員に立候補しないのかと風間が聞いたところ、大山は「たとえなっても歩にすぎないので馬鹿馬鹿しい。王将にだったらなるが」という意味の返答をした。
  • 55年組の強豪の南芳一九段は、かつて「リトル大山」の異名を取った。
  • 渡辺明は、その風貌、終盤の強さや逆転術などから、四段時代より「大山の再来」といわれてきた。
  • コンピュータ将棋については、まだ本将棋を指せず、詰将棋プログラムが先行して研究されていた頃から反対していた。「人間が負けるに決まってるじゃないか」 というのがその理由である。また、「コンピュータに将棋なんか教えちゃいけないよ。ろくなことにならないから」が口癖だった。大山の生前はコンピュータ将棋はプロの棋力には遠かったが、2013年第2回将棋電王戦で、初めて公にプロ棋士がコンピュータに敗れた。
  • コンピュータ将棋『早指し 二段森田将棋』の題字は大山の筆である。発売されたのは、大山の死後である1993年6月18日だった。

主な出演

CM

    (※当時、同時期のCMで俳優長門勇の「『御前酒』(加茂五葉同様、岡山県の地酒)飲まにゃあ、ええ酒じゃ」が流れていたので、それに対抗して大山名人曰く「酒は断然!『加茂五葉』ですね」が決まり文句だった)

主な著書

弟子

棋士

名前 四段昇段日 段位、主な活躍
市川伸 1954年 五段
有吉道夫 1955年5月15日 九段、棋聖1期、一般棋戦優勝9回、A級在籍21期
中田功 1986年4月30日 八段
行方尚史 1993年10月1日 九段、タイトル挑戦2回、一般棋戦優勝2回、A級在籍6期

(2019年11月14日現在)

  • 市川は1967年に将棋連盟を退会。
  • 有吉は大山とのタイトル戦で4度の「師弟対決」。大山・有吉以外で、タイトル戦の師弟対決は起きていない。
  • 中田の弟子・大山の孫弟子に当たる佐藤天彦が実力制第十三代の名人となり、3期在位。名人の孫弟子が名人になったのは初めて。
  • 行方は大山死去後の1993年にプロ四段昇段。名人戦挑戦1回。
  • 有吉の門下として、坪内利幸(1970年プロデビュー)、有森浩三(1983年プロデビュー)がいる。この2人は大山の孫弟子にあたるが、いずれも大山が現役中にプロ入りを果たしているため、大山は「自身が現役中に孫弟子がプロデビュー」という珍しい快挙を達成したことになる。

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 井口昭夫『名人の譜-大山康晴』日本将棋連盟、1992年。 
  • 大山康晴『棋風堂々-将棋と歩んだ六十九年間の軌跡』PHP研究所、1992年。 
  • 河口俊彦『大山康晴の晩節』飛鳥新社、2003年。 新潮文庫、ちくま文庫で再刊
  • 河口俊彦『最後の握手-昭和を創った15人のプロ棋士』マイナビ、2013年。 
  • 週刊将棋, ed. (2004), 役に立つ将棋の格言99, 毎日コミュニケーションズ 
  • 内藤國雄加藤一二三谷川浩司羽生善治森内俊之佐藤康光渡辺明 (監修) (2013), NHK出版, ed., NHK杯伝説の名勝負 次の一手, NHK将棋シリーズ, NHK出版 
  • 中山典之『完本-実録囲碁講談』岩波現代文庫、2003年。 
  • 『平凡は妙手にまさる―大山康晴名言集』(永井英明著、1993年2月、佼成出版社ISBN 4-333-01627-4
  • 秦郁彦 編著『日本陸海軍総合事典』(第2)東京大学出版会、2005年。 
  • 羽生善治『決断力』角川書店(角川oneテーマ21新書)、2005年。 
  • 『現代に生きる大山振り飛車』(藤井猛鈴木宏彦著、2006年12月、日本将棋連盟、ISBN 978-4-8197-0232-4
  • 升田幸三『名人に香車を引いた男 升田幸三自伝』中公文庫、2003年。 
  • 米長邦雄『将棋の天才たち』講談社、2013年。 

関連項目

外部リンク

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