地理
高野山 雨温図 (説明 ) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 気温(°C ) 総降水量(mm) 出典:日本国気象庁 1981-2010年平年値
インペリアル 換算 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 気温(°F ) 総降水量(in)
高野山 という名称の単独の峰はない。地名としての「高野山」とは、八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)と呼ばれる峰々に囲まれた盆地 状の平地の地域を指す(行政上の字名としての「高野山」(郵便番号は648-0211)もおおよそこれと同じ地域である)。8つの峰々に囲まれているその地形は「蓮 の花が開いたような」と形容されており、仏教 の聖地としては両界曼荼羅 のうちの胎蔵曼荼羅 の「中台八葉院」に擬せられている。転軸山・楊柳山・摩尼山の三山を高野三山 という。
気候 金剛峯寺境内にあるアメダス の観測値で年平均降水量2003.1mm。年平均気温は11.1℃と大阪管区気象台 より6℃低い。一般的に温暖な地域が多い和歌山県としては異例で、冬の寒さが厳しく、1月の平均気温は−0.3℃と氷点下になる。極値は最高33.7℃(2014年7月26日)、最低−13.4℃(1981年2月28日)。
高野山(1991年 - 2020年)の気候 月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年 最高気温記録 °C (°F ) 15.1 (59.2) 17.9 (64.2) 20.2 (68.4) 26.5 (79.7) 29.6 (85.3) 31.1 (88) 33.7 (92.7) 33.2 (91.8) 31.1 (88) 27.2 (81) 22.3 (72.1) 19.7 (67.5) 33.7 (92.7) 平均最高気温 °C (°F ) 3.4 (38.1) 4.8 (40.6) 9.2 (48.6) 15.1 (59.2) 20.1 (68.2) 22.8 (73) 26.6 (79.9) 27.8 (82) 23.7 (74.7) 17.8 (64) 12.2 (54) 6.3 (43.3) 15.8 (60.4) 日平均気温 °C (°F ) −0.3 (31.5) 0.4 (32.7) 4.0 (39.2) 9.4 (48.9) 14.4 (57.9) 18.1 (64.6) 22.1 (71.8) 22.8 (73) 19.1 (66.4) 13.2 (55.8) 7.5 (45.5) 2.2 (36) 11.1 (52) 平均最低気温 °C (°F ) −4.0 (24.8) −3.8 (25.2) −1.0 (30.2) 3.7 (38.7) 8.9 (48) 14.0 (57.2) 18.4 (65.1) 18.8 (65.8) 15.3 (59.5) 9.1 (48.4) 3.0 (37.4) −1.6 (29.1) 6.8 (44.2) 最低気温記録 °C (°F ) −12.8 (9) −13.4 (7.9) −9.4 (15.1) −5.1 (22.8) −1.4 (29.5) 3.4 (38.1) 9.9 (49.8) 11.8 (53.2) 5.0 (41) −1.5 (29.3) −5.0 (23) −10.0 (14) −13.4 (7.9) 降水量 mm (inch) 87.6 (3.449) 97.4 (3.835) 141.7 (5.579) 141.5 (5.571) 166.6 (6.559) 260.3 (10.248) 256.4 (10.094) 192.5 (7.579) 247.5 (9.744) 203.3 (8.004) 108.4 (4.268) 89.3 (3.516) 2,003.1 (78.862) 平均降水日数 (≥1.0 mm) 11.7 11.1 12.6 11.2 10.7 13.7 12.7 10.9 11.7 11.2 8.7 11.4 137.6 平均月間日照時間 82.9 96.7 138.5 176.5 185.5 124.9 146.1 166.8 124.7 130.6 115.6 93.0 1,582.3 出典1:Japan Meteorological Agency 出典2:気象庁
主な施設・寺院
山内は「一山 ( いっさん ) 境内地」として総本山金剛峯寺 の境内となっている。このうち、大門地区、伽藍地区、本山地区、奥院地区、徳川家霊台地区、金剛三昧院地区の6地区が国の史跡に指定され、世界遺産 の構成要素となっている。多数の寺院建築が立ち並ぶが、ここでは主要な一部を紹介する。詳細は金剛峯寺 参照のこと。
壇上伽藍 金堂(総本堂) 一般寺院でいう本堂がある伽藍地区である。国の史跡・世界遺産 。空海 (弘法大師)が曼荼羅 の思想に基づいて創建した密教伽藍の総称であり、奥の院とともに高野山の二大聖地である。金堂 は高野山全体の総本堂 で高野山 での主な宗教行事が執り行なわれる。ほかに大塔、御影堂、不動堂などが立ち並び、不動堂は国宝に指定されている。また、弘法大師伝説 のひとつである飛行三鈷杵がかかっていたとされる「三鈷の松」や、高野四郎(俗称)と呼ばれる大鐘楼も伽藍に存する。金堂と大塔への入堂は有料 。境内 のみは無料 。 奥之院 一般寺院でいう墓域である。奥の院や奥ノ院と表記される場合もあるが、正確な表記は奥之院である。国の史跡・世界遺産。御廟橋の先に灯籠堂、その裏に空海 の御廟がある。参道 には、皇室 、公家 、大名 などの墓が多数並び、その総数は正確には把握できないものの、20万基以上はあると言われている。戦国大名 の6割以上の墓所がある。奥之院の入り口 は2箇所ある。正式な入り口は一の橋からであるが、中の橋の前には無料大駐車場とバス停があるので、参拝者のほとんどがこちらから入る。一の橋 から御廟までは約2km、中の橋 からはその約半分の道のりとなっている。その途上には「弥勒石 」などの七不思議 と呼ばれる場所がある。 金剛峯寺 主殿(本坊・県指定有形文化財) 一般寺院でいう本坊である。国の史跡・世界遺産。主殿等の建物は和歌山県指定有形文化財。高野山真言宗 の総本山で座主の住寺。金剛峯寺は元は高野山全体の称だが、現在金剛峯寺と呼ばれるのは明治 2年(1869年 )に青巌寺 と興山寺 (廃寺) の2つの寺院が合併したもの。旧青巖寺(剃髪寺)は文禄 2年(1593年 )、豊臣秀吉 の建立、文久 3年(1863年 )、再建。歴代天皇の位牌や高野山真言宗管長の位牌をまつっている。大主殿、別殿、新別殿と分かれており、別殿では観光客に湯茶の施しがある。襖に柳鷺図のある柳の間は豊臣秀次 の自刃の間。屋根の上に置かれた防火用の水桶は、かつては高野山全域で見られたが今も置かれているのはここのみ。また、金剛峯寺境内にある「蟠龍庭」(2,340m2 )は日本最大の石庭。境内の建物外及び納経所までは無料。それより先の建物内の拝観は有料。 大師教会 高野山霊宝館 高野山上にある国宝 、重要文化財等の保存・展示が行われており、定期的にテーマを絞った展示会が開催される。なお、現在の日本の国宝の2%は高野山上にある(1083件中、23件)。大正 10年(1921年 )、開設。紫雲殿、玄関・北廊・中廊 、南廊及西廊、放光閣 、宝蔵が国の登録有形文化財。 女人堂 不動坂口にあり、女人禁制 の時代は女性はここまでしか入れなかった。古くは高野山の街道の七つの入口にそれぞれあったが、今は1つしか残っていない。大日如来、弁財天、神変大菩薩を祀る。 金輪公園 一心院谷にあり、今は公園になっていて、国宝不動堂が元はここにあった。明算検校が12世紀に創建し、1834年に再建された金輪塔がある。山側の影向明神には、丹生・高野明神を祀った二つの社が並ぶ、また、鬼子母神を祀る祠もある。 お助け地蔵尊 大門前の三差路から100m南、一つだけ願いを叶えてくれる。 女人堂
金輪公園 金輪塔
金輪公園 影向明神
お助け地蔵尊
清高稲荷社
子院群 金剛峯寺の修行僧が居住のために作った草庵を起こりとする寺院群。近畿三十六不動尊霊場 である明王院 ・南院 、新西国三十三箇所 観音霊場である宝亀院 、西国愛染十七霊場 である増福院・福智院・金剛三昧院 など117か寺を数え(総本山金剛峯寺 と大本山宝寿院 はこれに含まれない)、その約半数が宿坊 を兼ねている。以下の子院は宿坊を備えていて、金剛三昧院は有料だが境内を散策でき、他の子院は誰でも無料で自由に参拝できる堂がある。これ以外の宿坊のある子院にも、宿泊することにより本堂に入堂したり、庭園を臨んだり、護摩祈祷、阿字観や写経体験をできるところがある。 金剛三昧院 金剛三昧院 多宝塔(国宝) 苅萱堂 ( かるかやどう ) 摩尼宝塔 成福院が管理している釈迦堂。刈萱堂の前にある。ビルマ戦没者供養のため、ミャンマー から贈られた釈迦如来像を本尊として建立された。地下には戒壇巡りがある。 以下は無料で自由に参拝できる子院の堂宇 密厳院 刈萱堂
成福院 摩尼宝塔
恵光院 毘沙門堂
常喜院 赤地蔵
登録有形文化財 橋本警察署高野幹部交番 1921年(大正10年)建築で国の登録有形文化財。木造2階建、屋根は切妻造、銅板葺で正面に千鳥破風があり、また舟肘木・間斗束・蟇股や妻の豕扠首などの社寺院風建築技法を取り入れ、高野山の歴史的景観に配慮した外観である。 南海電気鉄道鋼索線高野山駅駅舎 1928年(昭和3年)建築で国の登録有形文化財。木造2階建、鋼板葺のモルタル塗の駅舎。丸窓や2階外壁に廻した水平帯などがある昭和初期の洋風建築だが、宝形屋根の頂部に宝珠を載せ高野山の地を意識した建築物である。 歴史
816年 弘仁 7年 7月8日 空海、高野山下賜を上奏し、この年勅許が下る。 892年 寛平 4年 5月19日 九度山の慈尊院「弥勒仏坐像」(国宝)が造立される。後補裳先墨書銘:「寛平四年歳次壬子五月十九日造仏事己了」。 994年 正暦 5年 7月6日 高野山大火。大塔に落雷、伽藍御影堂を残して全焼し、寺院にも類焼。 1086年 応徳 3年 4月7日 金剛峯寺「仏涅槃図」(国宝)が描かれる。墨書銘:「応徳三年丙寅四月七日甲午奉写畢」。 1117年 永久 5年~天治 3年 4月15日 金剛峯寺「金銀字一切経」(国宝)が奥州藤原清衡 の発願により書写される。 1145年 久安 1年 10月23日 金剛峯寺「善女龍王像」(国宝)が定智によって描かれ、開眼供養される。 1149年 久安 5年 5月12日 高野山大火。大塔に落雷、伽藍全焼。多くの仏像、仏画類が焼失。 1156年 保元 1年 4月29日 金剛峯寺「両界曼荼羅図(血曼荼羅)」(重文)が絵師常明法印によって描かれる。平清盛 の頭血を採り絵の具に和して描かせた。 1223年 貞応 2年 金剛三昧院「多宝塔」(国宝)を建立。北条政子 が源頼朝 、源実朝 の菩提のために、安達景盛 に命じて建立。 1401年 応永 8年 正月19日 伽藍西塔炎上、新御塔、文殊楼、本経蔵、正智院一切経蔵に類焼。多くの聖教類が悉く焼失。 1464年 寛正 5年 7月3日 高野山大火。高野山衆徒、堂衆と西院、谷上、南谷で合戦し、谷中で11か寺を残して悉く焼失。 1486年 文明 18年 4月8日 金剛峯寺「諸尊仏龕」(国宝)付属「銅製厨子」が製作される。 1521年 永正 18年(大永 1年) 2月12日 高野山大火。寺院より出火、大塔、金堂以下伽藍300余宇・塔婆19基、僧坊など3900余宇を焼失し、全山壊滅状態となる。 1594年 文禄 3年 豊臣秀吉 が高野山を参詣し、生母大政所 の三回忌追善法要を行う。そのおり、連歌や能の会を催す。 1599年 慶長 4年 3月21日 奥の院「経蔵」(重文)を石田三成 が母の菩提の為に建立し、金剛峯寺「高麗版一切経」(重文)を同経蔵に奉納。 1599年 慶長4年 6月 正智院「高麗陣敵味方戦死者供養碑」(県指定)が薩摩藩 主島津義弘 、島津忠恒 親子に依って建立される。朝鮮役における敵味方の戦死者を供養。 1599年 慶長4年 10月15日 清浄心院「佐竹義重 霊屋」(重文)が佐竹為義重逆修の霊屋として造立される。 1604年 慶長9年・12年 蓮花院松平秀康 及び同母霊屋(付属宝篋印塔7基)」(重文)が造立される。秀康の亡母(家康の側室)を祀るため、慶長九年に造立。また、慶長十二年四月八日には松平忠直 によって、松平秀康(家康の子)の霊屋として、その隣に造立される。 1622年 元和 8年 天徳院「天徳院庭園」(国の名勝)が小堀遠州 によって造園される。 1630年 寛永 7年 10月7日 高野山大火。大塔に落雷。暫くして塔腰部より猛火が起こり炎上焼失。伽藍諸堂をはじめ多くの寺院が類焼。 1690年 元禄 3年 落雷により大門炎上。 1691年 元禄 4年 千手院萬精院より出火、安養院まで延焼し89か寺が全焼。 1792年 寛政 4年 2月16日 夜八ツ時、奥之院護摩堂より出火、焼失する。 1809年 文化 6年 南谷から出火し、中門、勧学院一帯が類焼す。 1843年 天保 14年 9月1日 高野山大火。壇上宝蔵の軒先から出火し、大塔をはじめ諸堂14棟が悉く焼失。 1863年 文久 3年 現在の金剛峯寺「青厳寺本殿」(県指定)が再建される。万延元年(1860年)に焼失したことによる再建。 1869年 明治 2年 3月29日 青厳寺・興山寺を合併して金剛峯寺と号する。 11月3日 高野山に神仏分離の通達が下る。 1870年 明治3年 西院如意輪寺をはじめ、南谷南院が焼失。 1872年 明治5年 興山寺全焼。 1879年 明治12年 千手院寂静院、普賢院、金剛頂院などが焼失。 1882年 明治15年 自性院他2か寺、谷上蓮金院等が全焼。 1884年 明治17年 高野山とその周辺の13か字が合併して高野村となる。この年、谷上の蓮金院焼失。2月 西院と恵光院から出火。50か寺、130戸に類焼する大火になった。 1888年 明治21年 3月23日 午前12時30分頃、一心院谷の南院裏山より出火、同院へ火移り、直ちに高祖院、東室院へと移り、続いて正塔院、六町院、幸福院、康徳院、福智院、蓮花院、宝積院、正覚院、金剛院、興山寺、◆覚院、定光院、西生院、無量光院、本王院、普門院、一乗院、光輪院、如意輪寺、金蔵院、愛染院、安楽院、安養院、巴陵院、三室院、普賢院、報恩院、明泉院、乗蔵院、圓満院、弥勒院、常住院、医王院、覚證院へと類焼。さらに五ノ室、千手院、小田原地区の上之段(現、高野山大学)の町家へも類焼し、午後5時頃鎮火。その時、金剛峯寺の屋根へも飛火して、一時は類焼するかと思われたが、かろうじて消し止めることができた。この火災によって、大寺21か寺、中小寺院30か寺、民家70余戸が焼失した。3月24日午前12時30分頃、蓮花谷の恵光院前、増福院より出火。直ちに大明王院、光明院、尭住院、常慶院、千蔵院、五大院、誠願院、持宝院、丹生院、岩本院、東根院、萬福院、蓮花三昧院へと類焼し悉く焼失。この時、蓮花谷民家も残らず焼失。東谷の奥之坊を除いて悉く皆焼亡し、午後5時頃漸く鎮火。両日の火災で、堂宇、仏像画像書跡什宝悉く焼失。この火災によって五大力菩薩像5幅のうち2幅を焼失(焼失をまぬがれた3幅は国宝)。什宝物焼失御届(有志八幡講)によると、勅額(後陽成帝宸筆「八幡大菩薩」、熊手八幡宮縁起、三社神号などが大明王院に預けられていたところ同寺類焼した際に焼失。両日の火災等にて明治初期に680余か寺あった寺院は明治28年になると130か寺まで減少し、廃絶した堂社は40軒を数え、現存するのは30軒に満たないほどとなった。 1906年 明治39年 高野山開創1100年記念大法会にむけて、実質的に公式に女人禁制 が解除された。 1910年 明治43年 持明院 全焼。 1911年 明治44年 龍泉院、泰雲院、徳善院全焼。 1915年 大正 4年 3月1日 高野登山鉄道 が大阪の汐見橋 から橋本 まで開通する。 1919年 大正8年 4月15日 高野登山自動車株式会社により、高野口駅より椎出 までの間を乗合自動車の運行が始まる 1923年 大正12年 3月26日 夜八時頃、金剛峯寺木屋炎上す。 4月2日 正智院全焼。多くの宝物が焼失した。脇士文殊普賢木像二躯、舎利弗阿難木像二躯、四社明神木像一躯、不動明王木像一躯、阿弥陀如来木像一躯、脇侍観音勢至木像二躯、弁財天木像一躯、大黒天木像一躯、三宝荒神木像一躯、達磨図一幅、釈迦十六羅漢像(牧渓筆)三幅、八祖大師像一幅、両界曼荼羅図二幅、五字文殊像一幅、唐金四面器、八面器、仏具、真鍮仏具、護摩器、灯籠等仏具類多数、大般若経六百巻、弘法大師弟子譜、紀伊名所図絵七巻の39点焼失4月16日 午前10時頃、宝善院焼失。放火事件によるものと記録されている。檜皮がトタン葺きに改められるのをねらった、ブリキ職の犯行という。 1925年 大正14年 7月30日 大阪高野鉄道 が橋本 から椎出 まで延長。 九度山 から紀伊神谷 にかけて、高野登山自動車会社が登山バスの運行を開始。 1926年 昭和 元年 12月26日 午前6時30分、伽藍金堂が炎上。堂内本尊秘仏をはじめ旧国宝(重要文化財)の金剛薩た坐像、不動明王坐像、普賢延命菩薩坐像、虚空蔵菩薩坐像、降三世明王立像、金剛王菩薩坐像の諸尊が焼失。六角経蔵、孔雀堂、納経所類焼し午後二時鎮火。両明神御神体、快慶作孔雀明王像、金字一切経(荒川経)24箱は難を逃れ、霊宝館に移安。 1928年 昭和3年 6月18日 高野鉄道、高野下~神谷(紀伊神谷)間を70ヶ所以上の急カーブと23ヶ所のトンネルを掘って開通。 1929年 昭和4年 高野鉄道、神谷(紀伊神谷)~極楽橋間開通 1930年 昭和5年 6月29日 高野鉄道、極楽橋より山上までケーブルカーが開通する。 1932年 昭和7年 4月28日 電車が大阪より高野山まで直通となる。 5月23日 一乗院全焼。四時半火災。一乗院全焼漸く門を残すのみとなる。 1938年 昭和13年 6月23日 午後11時30分、正智院より出火。庫裡全焼。本堂及び会下半焼して零時30分鎮火。7月4日 降雨のため、明王院裏山崩壊、本堂及び位牌堂大破。 1940年 昭和15年 5月23日 午後3時、五坊寂静院出火。全焼。 1977年 昭和52年 4月18日 第28回全国植樹祭 のために来県した天皇、皇后が行幸。 女人高野 高野山は明治初年まで女人禁制 であったため、これに対応して生じた女人禁制エリア外の寺院は「女人高野 (にょにんこうや)」と呼ばれている。その別名があるのは、慈尊院、室生寺、河内金剛寺 などである。
「女人禁制」文化のロマン化 2020年6月に「女人高野」が、「女性とともに今に息づく女人高野 ― 時を超え、時に合わせて見守り続ける癒しの聖地」というスローガンで、文化庁の「日本遺産 」に認定された。宗教学・文化人類学者の小林奈央子は、女人禁制 は穢れや戒律 の問題等から生じ、男性中心主義的な宗教思想の中で強化・定着したものであり、このようなスローガンは、女性を聖地から排除してきた歴史を肯定するかのような表現で、「女人禁制下、参詣が認められた寺や女人堂で祈りを捧げるしかなかった女性たちの歴史がロマン化され、観光客誘致、地域活性化のために利用されている。」と厳しい批判を行っている。
主な名物、みやげ
自然
高野山には、周辺では見られない生物もいくつか見られる。基本的には照葉樹林上部から落葉樹林帯にわたる生物相であるが、ツノハシバミ、マンサクなどはさらに北部に見られるもので、和歌山県では他に知られていない。
高野山の名を持つ生物もいくつかあり、以下のような例はその代表である。
これらはこの地域に特産であることから。あるいはここで発見されたことから。 高野六木 高野山では古くからヒノキ ・スギ ・モミ ・ツガ ・アカマツ ・コウヤマキ の六種の樹木を「高野六木 (こうやりくぼく)」と呼んで重視した。伐採を行った跡地にはこの六種を植えたという。これは森林を人為的に利用しつつ、その森林の自然林的様子や多様性を維持する効果があったとも考えられている。
高野七口
高野参詣道 として、高野山への入口は七つあるとされ、高野山内への入口およびそこに通じる道を総称して高野七口 と呼んだ。
☆は世界文化遺産に登録。
高野七口に建てられた女人堂 を巡る道を女人道 ☆と呼んだ。
周辺の関連寺社 交通アクセス 高野山内の通り(撮影当時は国道371号 ) 高野山内の通り(撮影当時は国道480号 ) 鉄道・バス 自家用車 奥之院英霊殿前の売店 唱歌における高野山 明治 33年(1900年 )に大和田建樹 が作詞発表した「鉄道唱歌 第五集 関西・参宮・南海篇」では、高野山は3番を割いて歌われている。吉野山 などと共に、建樹の歴史好みが強く影響しているものと見られている。なお、当時は現在の南海高野線が開業しておらず、高野山へは橋本駅 から約12kmの山道を歩いて向かう必要があった。
43.瞬くひまに橋本と 叫ぶ駅夫に道とへば 紀の川わたり九度山を すぎて三里ぞ高野まで 44.弘法大師この山を ひらきしよりは千余年 蜩(ひぐらし)ひびく骨堂の あたりは夏も風さむし 45.木陰をぐらき不動坂 夕露しげき女人堂 みれば心もおのづから 塵の浮世を離れけり
高野にちなむ名称 「西の高野山」の異名で知られている大宝寺 (五島市) 、「西の高野」と云われる太龍寺 、「四国高野」と云われる雲辺寺 、「九州高野山」と云われる滝光徳寺 、「関東高野山」と云われる浄因寺などがある。 備考 脚注 参考文献 関連項目 外部リンク ウィキメディア・コモンズには、
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東経135度35分11秒 / 北緯34.21250度 東経135.58639度 / 34.21250; 135.58639 (高野山 )
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