柿谷 曜一朗(かきたに よういちろう、1990年1月3日 - )は、大阪府大阪市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・徳島ヴォルティス所属。ポジションはフォワード、ミッドフィールダー。元日本代表。
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名前 | ||||||
愛称 | 曜一朗、曜さん、ジーニアス、カッキー | |||||
カタカナ | カキタニ ヨウイチロウ | |||||
ラテン文字 | KAKITANI Yoichiro | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1990年1月3日(34歳) | |||||
出身地 | 大阪府大阪市 | |||||
身長 | 176cm | |||||
体重 | 68kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | 徳島ヴォルティス | |||||
ポジション | FW(ST、CF) MF(OH) | |||||
背番号 | 8 | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
2002-2004 | セレッソ大阪U-15 | |||||
2005 | セレッソ大阪U-18 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
2006-2014 | セレッソ大阪 | 130 | (37) | |||
2009-2011 | → 徳島ヴォルティス(loan) | 97 | (14) | |||
2014-2015 | FCバーゼル | 18 | (4) | |||
2016-2020 | セレッソ大阪 | 122 | (19) | |||
2021-2022 | 名古屋グランパス | 57 | (5) | |||
2023- | 徳島ヴォルティス | 37 | (7) | |||
代表歴2 | ||||||
2005-2007 | 日本 U-17 | 9 | (6) | |||
2007-2009 | 日本 U-20 | 8 | (3) | |||
2013-2014 | 日本 | 18 | (5) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2024年1月9日現在。 2. 2014年10月14日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
妻はタレントの丸高愛実 。史上初のJリーグ最優秀ゴール賞複数回受賞者(2013年、2021年)。
4歳からセレッソ大阪の下部組織で育ち、スクールからプロまでセレッソ一筋。追手門学院大手前高等学校在学中の2006年、クラブ史上最年少の16歳でトップチームとプロ契約を結び、C大阪と業務提携しているウィザス高等学校(現 第一学院高等学校)に転校した。同年5月には短期海外研修として、アーセナルやインテルミラノのユースの練習に参加。
2006年9月に開催されたAFC U-17アジア選手権では唯一、プロ選手として大会に出場し優勝に貢献。自身も大会MVPに選出された。11月26日のJ1第33節大宮アルディージャ戦で、Jリーグ初出場を果たす。
2007 FIFA U-17ワールドカップのナイジェリア戦で、出場時間900分に達し、プロA契約を締結。大会中、フランス戦およびハイチ戦にて得点を挙げ、同大会にて最も素晴らしいゴールを挙げた得点者と評された。この活躍を機にレアル・マドリードやバルセロナからセカンドチーム入りの話が舞い込んだ。しかし、これを断った。後に柿谷は「俺らはJリーグを見て育ってるから、『Jリーグで活躍したい』というのはすごくあったし、『Jリーグのチームを強くしたい』って気持ちも強かった。特にセレッソは当時、そんなに強くなかった(当時はJ2に属していた)から『自分が入って優勝させたい』と真剣に思ってた。10代でいきなり海外なんて怖かったし、自分がやっていけるなんて到底、思えなかった。でも今は高校からすぐに欧州へ行く選手もいるよね。福田師王とは名古屋の練習参加の時に一緒にやりましたけど、迷わずボルシアMGのU-19チームに行く決断をした。本当に俺たちの若い頃とは感覚が全く違うよね。」と振り返った。
セレッソでは、同期入団に香川真司がいたが、当時は香川よりも評価は高く、またワールドカップでの活躍によりすでに世界から注目を受けていた。J2第12節ザスパ草津戦で酒本憲幸のクロスから当時のJ2最年少得点記録(17歳3ヶ月25日)となる得点を決めたものの、同期入団の香川真司がレヴィー・クルピ監督に見出されレギュラーとして活躍する中、21試合2得点と目立った成績は残せなかった。
プロ3年目の2008年、早稲田大学人間科学部eスクール(通信教育課程)に合格。背番号を「11」へ変更して臨んだシーズンだったが、横浜F・マリノスから途中加入した乾貴士の台頭もあり、終盤にはベンチ外となるなど、出場機会は減少。無得点のままシーズンを終えた。また、この年のAFC U-19選手権でもベスト8で敗退し、FIFA U-20ワールドカップへの出場権を逃してしまった。
2009年には素行に問題が出始めて練習への遅刻を繰り返すようになり、第3節栃木SC戦終了後、クルピ監督から名指しでプロ意識の欠如を指摘されたが、同時にクルピは香川と比較する形で「シンジとヨウイチロウ、非常に対照的なところがあり、シンジの場合はプロフェッショナルとして責任感が強いが故に、ミスを恐れてしまうところがある。逆にヨウイチロウは責任感がないが、故に、時として非常に勇気のあるプレーができる。好対照なふたりだが、お互いそういったところを変えていけば、間違いなく日本を代表する選手になると思う」と、期待を込めたメッセージを送った。しかし、2得点を決める活躍を見せた第20節ファジアーノ岡山戦の翌日、練習に遅刻した柿谷に対し、クルピは「彼の行為はすべてのサポーターやクラブに対しての裏切りだ」と激怒。約1週間後の6月18日、徳島ヴォルティスへの期限付き移籍が発表された。アカデミーから育ったチームを追放されてしまった。
徳島加入後は出場機会が増え、当時のキャプテンであった倉貫一毅の高いプロ意識に感化されたことや、徳島監督美濃部直彦が柿谷との対話を繰り返した。また、セレッソ大阪下部組織出身の濱田武が辛抱強く生活面のフォローを行った。 練習の日は濱田が車で柿谷の自宅へ迎えに行っていたが、いつも寝ていて出てこなかったという。 濱田曰く「基本ナメてます」。
しかし人間性としても変化の兆しがあり、柿谷の素行問題も徐々に改善されていった。。
2011年はチームの副キャプテンに任命され、第1節ガイナーレ鳥取戦では、ベンチスタートの倉貫に代わってキャプテンマークを巻いて試合に臨み、決勝点を挙げた。その後もほとんどの試合でフル出場を続けたが、チームは4位に終わり、J1昇格は達成できなかった。
2012年1月6日、レンタル移籍期間満了により、C大阪への復帰が発表された。
翌年ヴォルティスがJ1昇格プレーオフ準決勝に進出した際には、西澤明訓と共に応援に駆けつけ、メインスタンドで観客と共に観戦していた。
3年ぶりにC大阪復帰となった2012年シーズンは、開幕当初こそ控えに甘んじたものの、主に2トップの一角としてレギュラーに定着し、キム・ボギョンや清武弘嗣の移籍、ロンドン五輪U-23サッカー日本代表に選出された扇原貴宏、山口蛍の離脱の影響もあり低迷するチームの中でゴールを量産。第21節横浜FM戦の前には、トレードマークの長髪を切り落とし、頭を丸める気合を見せた。同年8月には、セルジオ・ソアレスに代わりC大阪の監督へ再々就任したクルピとの邂逅を果たし、クルピ監督復帰初戦となった第24節アルビレックス新潟戦では、決勝点を挙げた。試合後クルピは、かつて袂を分った教え子に対し「特別な思いがある。ゴールの瞬間、思いがよぎった。彼がプロ2年目のときに私が監督に就任した。かわいい息子だ。 それがゆえに、過ちを犯したときには正しい道に導いた。今日は一皮むけて成長したプレーをみせてくれた。 技術だけでなく、戦術面も理解してピッチで表現してくれた。再び彼と同じチームで働くチャンスがきてうれしく思う」と、惜しみない賞賛を送った。クルピ体制移行後は主にトップ下のポジションでプレー。チームは最終節まで残留争いに巻き込まれ、シーズン終盤は自身も左足かかとの故障に悩まされたが、リーグ戦30試合に出場しチームトップの11得点(カップ戦を含めると40試合17得点)を挙げ、Jリーグ優秀選手賞を受賞した。2012年には、クルピと、遠征先のホテルで通訳を交え3人で会話する機会を設け、かつての過ちを謝罪した。
この活躍によりドイツ1部・ニュルンベルクから移籍オファーを受け、本人曰く「98%くらい(ドイツへ)行く気やった」というが、シーズン終了後に森島寛晃の自宅に招かれ、直々に背番号「8」の継承を要請されたことに感激し、「迷わず、セレッソで8番をつける方を取った」と残留を決意。4年越しの想いを実らせ、森島、香川、清武と受け継がれてきたC大阪のエースナンバーを身につけた2013年は、第1節新潟戦からフォワードとして起用され、自らの決勝点により、クラブ14年ぶりのJ1開幕戦勝利をもたらした。その後もハイペースで得点を重ね、5月にはJリーグ月間MVPを受賞。7月、東アジアカップ2013に出場する日本代表に初選出された。同年はリーグ戦全34試合に出場し、森島が保持していたクラブ日本人J1シーズン最多得点記録(18得点)を更新する21得点をマーク。Jリーグベストイレブンに選出されたほか、第33節鹿島アントラーズ戦前半38分の得点(右サイドからのクロスボールをコントロールした後、リフティングでディフェンダーをかわしてアウトサイドボレーでゴールへ蹴りこんだもの)が、同年新設された最優秀ゴール賞に選出された。オフにはボルシア・ドルトムント、バイエル・レバークーゼン、フィオレンティーナといった欧州の強豪クラブのオファーを断りチームに残った。理由はチームに移籍金を残すため。。
2014年シーズンは、現役ウルグアイ代表のディエゴ・フォルランがC大阪に加入した事もありチームの躍進が期待されたが、期待通りの結果は出ず、柿谷も第11節の名古屋戦でシーズン初ゴールを決めるなど低調なスタートとなる。6月に行われたW杯日本代表に選出。そのW杯で経験した悔しさなどから海外移籍決意。
2014年7月7日、同年7月16日付でスイス・スーパーリーグのフースバル・クラブ・バーゼル1893(以下FCバーゼル)へ完全移籍することが発表された。契約期間は2018年6月30日迄で、背番号は14番を着用することになった。
8月2日に行われた第3節FCトゥーン戦に出場し、スイス・スーパーリーグ公式戦デビューを飾った。8月9日の第4節FCチューリッヒでは後半から投入され、移籍後初得点を含む1得点1アシストの活躍を見せた。9月16日の欧州チャンピオンズリーグ第1節レアル・マドリード戦で、途中出場して欧州チャンピオンズリーグデビューを果たした。その後、なかなか出場機会を掴めずにいたが、2015年3月5日のスイス・カップ準々決勝FCミュンジンゲン戦で公式戦10戦ぶりに先発出場すると、3点を決めプロ初のハットトリックを達成。チームの6-1の勝利に貢献した。第35節のFCトゥーン戦で19試合ぶりに先発し、シーズン3点目を挙げた。
2015-16年シーズンは、開幕戦のFCファドゥーツ戦で右MFとして先発して今シーズン初得点をあげたが負傷。一ヶ月後に復帰するが以前と比べて大幅にパフォーマンスが落ち、国内カップ戦では出場した全試合スタメン出場するも得点を挙げる事が出来ずウルス・フィッシャー監督の構想外となる。その後は出場機会に恵まれずリーグ戦4試合1得点で2015年を終えた。
2016年よりC大阪に完全移籍により加入した。なお、バーゼルとは昨夏から4年契約を結んでいたが、1年でのJ1昇格に失敗したC大阪側が復帰を要請した事と柿谷が出場機会を求めていた事でクラブ間交渉が成立したと思われる。背番号は移籍前につけていた「8」となる。3月6日、第2節の水戸ホーリーホック戦でキム・ジンヒョンのロングフィードから復帰後初得点を決めた。また、ホーム復帰戦となった第3節のザスパクサツ群馬戦でも得点を決めた。ゲームキャプテンとしてプレーしていた が、6月9日に行われた第17節のV・ファーレン長崎戦で右足関節じん帯を損傷し、長期離脱となってしまった。11月27日、プレーオフの京都サンガF.C.戦では先制点を決め、チームは1-1で引き分けたが年間順位が上位のため決勝に進出、決勝ではフル出場し、チームのJ1昇格に貢献した。
2017年シーズンは、リーグ戦全34試合に出場。ルヴァン杯では4試合に出場し、チームの初タイトルに貢献した。12月23日、天皇杯準決勝のヴィッセル神戸戦では延長戦で勝ち越しゴールを決めて決勝進出を果たすと、翌年1月1日に行われた天皇杯決勝戦の横浜FMでもスタメンで出場し、チームの優勝に貢献した。
2018年シーズンは、開幕戦から得点を決めるなどシーズン前半だけで4ゴールを挙げた。しかし、7月に右内転筋を負傷した影響で戦列離脱を繰り返し、リーグ戦21試合4得点でシーズンを終えた。後のインタビューでこの年の11月頃には「しんどくなっていた」などと話した。
2019年シーズンは、開幕から8試合連続でスタメン出場するが、第9節の大分戦以降はベンチスタートが増える。6月9日にはトップチームではないJ3リーグで活動するC大阪U-23としてJ3の試合に出場するなど厳しい立場が続いたが、9月1日に行われた第25節の川崎戦以降はスタメンに復帰し、第29節の札幌戦では得点を決め、その得点が10月のJ1リーグ月間ベストゴールに選出された。11月30日、藤本康太の現役ラストマッチとなった第33節清水エスパルス戦では、1点ビハインドで迎えたハーフタイムに藤本に対して「大丈夫、俺に任せておけ」と言い、その言葉通り後半79分にバイシクルシュートでゴールを決めて逆転勝ちに貢献した。またこれに対して藤本は「そのあたりはさすがだなとあいつが点を取ったときに泣いたから最後のスピーチのときは涙が残っていなかった。本当に嬉しかった」などとコメントした。
2020年シーズン、第25節ヴィッセル神戸戦では前半33分に味方がレッドカードで退場したためシステムが4-2-2-2から5-3-1に変更された事でサイドハーフからワントップで起用された。相手のパスコースを最初に限定する役割を担い続けながら、後半62分にヘディングシュートで決勝点を決めて勝利に貢献した。ロティーナ監督のトータル・ゾーン戦術に適応をみせ、高いボールコントロール力と瞬発力で緩急をつけたドリブルに加えて、守備でも貢献したが、リーグ戦24試合出場1得点(先発出場は6試合)でリーグ後半戦ではベンチ外になる事が増え、立場は変わらなかった。シーズン終了後には契約延長のオファーを受けるも、2年連続でオファーを受けた名古屋への移籍を決意した。
2021年シーズンより、名古屋グランパスへ完全移籍。4月11日、第9節の大分トリニータ戦で移籍後初ゴールを決めた。トップ下で起用され、シーズンを通して攻守に渡る戦術眼・試合観・ハードワークで絶大な存在感を発揮し、清武弘嗣からは「もう名古屋と言えば曜一朗のチームだと、僕は思っています。曜一朗が常に起点になっているので、名古屋に勝つには、そこに仕事をさせないことが一番。」とコメントされた。ルヴァンカップ決勝・セレッソ大阪戦で先発出場、チームの先制点をアシストするなどクラブ史上初のリーグカップタイトルに貢献した。11月27日、第37節セレッソ大阪戦では、足元にこぼれたボールを、右足つま先で浮かせ、オーバーヘッドシュートで先制点を決めた。セレッソ大阪の小菊昭雄監督は、対戦相手だったが「試合の中で怖い選手であり続けました。ゴールシーンは彼の技術やセンス、すべてが表現されたスーパーゴールでした。」と賛辞を贈った。このゴールは年間最優秀ゴール賞に選ばれ史上初の2度目の同賞受賞者となった。またこの試合はセレッソ大阪の先輩であり、現役引退を表明していた大久保嘉人も先発出場しており、「僕に嘉人さんが乗り移ったようなゴールだったと思う。僕が憧れた選手であり、その想いをこのピッチで表現できた。本当に素晴らしいピッチ、素晴らしいスタジアムでゴールできたことはうれしい。僕自身、小さい頃に大久保選手の素晴らしいゴールを見てきた結果、そういう選手になれた。少しでも子どもたちの記憶に残れたらいいと思う。」などと話している。名古屋グランパス加入以降、SNSを含めて周りの評価を一切、シャットアウトしている。「とにかく今はマッシモ(監督)に信頼してもらうべく、走り切れる選手になることを意識してやってます」と話した。
2022年、マッシモ・フィッカデンティ監督が退任、自身は怪我で長期離脱。
2023年1月6日、J2の徳島ヴォルティスに完全移籍で加入することが発表された。12シーズンぶりの復帰となる。
東アジアカップ2013にてザッケローニ監督率いる日本代表に初招集されると、その第1戦中国戦で代表戦初出場を果たし、後半14分にデビュー戦初得点を記録した。第3戦韓国戦では2得点の活躍で、日本代表の東アジアカップ初優勝に貢献し、自身も大会得点王を獲得した。
この活躍が評価され、以降代表に定着。新エースとして期待されスタメンで起用され続けたが、なかなか得点に絡めず、W杯ブラジル大会の日本代表メンバーに選出された ものの、スタメンを外れ途中出場2試合の僅かなプレー時間に留まった。W杯後、ハビエル・アギーレ体制下でも招集され試合出場も果たしたが、ポジションは慣れない左ウイングで結果が出せず、監督がヴァヒド・ハリルホジッチに変わってからもバックアップメンバーに選出される事はあったが招集される事はなかった。
2013年に攻撃的な選手として全国区になったが、2021年以降は守備力と引き出しの多さで監督に起用されるようになった。徳島ヴォルティスで、ベニャート・ラバイン監督は「『柿谷曜一朗はプレスをしない』とか『守備が得意ではない』という人がいるかもしれないが、自分の印象は真逆。先週の試合も一番いい守備をしてくれたし、今日の試合もチームのプレスのスイッチを入れるよ動きをしてくれていた。攻撃では[4-3-3]のシステムで、ボールを彼につけていく狙いがあった。ボールを持ったときに違いを生み出せる選手なので、そこ(左インサイドハーフ)で起用した。」と話した。
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2006 | C大阪 | 30 | J1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 |
2007 | 18 | J2 | 21 | 2 | - | 1 | 0 | 22 | 2 | ||
2008 | 11 | 24 | 0 | - | 0 | 0 | 24 | 0 | |||
2009 | 6 | 2 | - | - | 6 | 2 | |||||
徳島 | 13 | 27 | 4 | - | 1 | 0 | 28 | 4 | |||
2010 | 34 | 4 | - | 2 | 0 | 36 | 4 | ||||
2011 | 36 | 6 | - | 1 | 0 | 37 | 6 | ||||
2012 | C大阪 | J1 | 30 | 11 | 7 | 5 | 3 | 1 | 40 | 17 | |
2013 | 8 | 34 | 21 | 8 | 3 | 0 | 0 | 42 | 24 | ||
2014 | 14 | 1 | - | 0 | 0 | 14 | 1 | ||||
スイス | リーグ戦 | スイス杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
2014-15 | バーゼル | 14 | スーパーリーグ | 14 | 3 | 3 | 4 | - | 17 | 7 | |
2015-16 | 4 | 1 | 5 | 0 | - | 9 | 1 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2016 | C大阪 | 8 | J2 | 20 | 5 | - | 0 | 0 | 20 | 5 | |
2017 | J1 | 34 | 6 | 5 | 1 | 3 | 1 | 42 | 8 | ||
2018 | 21 | 4 | 2 | 0 | 2 | 0 | 25 | 4 | |||
2019 | 23 | 3 | 4 | 0 | 3 | 1 | 30 | 4 | |||
2020 | 24 | 1 | 4 | 1 | - | 28 | 2 | ||||
2021 | 名古屋 | 36 | 5 | 5 | 2 | 4 | 0 | 45 | 7 | ||
2022 | 21 | 0 | 6 | 1 | 2 | 0 | 28 | 1 | |||
2023 | 徳島 | J2 | 37 | 7 | - | 0 | 0 | 37 | 7 | ||
2024 | |||||||||||
通算 | 日本 | J1 | 238 | 52 | 41 | 13 | 15 | 3 | 294 | 68 | |
日本 | J2 | 205 | 30 | - | 5 | 0 | 210 | 30 | |||
スイス | スイスリーグ | 18 | 4 | 8 | 4 | - | 26 | 8 | |||
総通算 | 461 | 86 | 49 | 17 | 20 | 3 | 530 | 106 |
その他公式戦
国内大会個人成績 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | 期間通算 | ||||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||||||
日本 | リーグ戦 | 期間通算 | |||||||||
2019 | C大23 | 8 | J3 | 1 | 0 | 1 | 0 | ||||
通算 | 日本 | J3 | 1 | 0 | 1 | 0 | |||||
総通算 | 1 | 0 | 1 | 0 |
国際大会個人成績 | ||||
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年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
AFC | ACL | |||
2014 | C大阪 | 8 | 8 | 4 |
UEFA | UEFA CL | |||
2014-15 | バーゼル | 14 | 3 | 0 |
AFC | ACL | |||
2018 | C大阪 | 8 | 3 | 1 |
2021 | 名古屋 | 7 | 2 | |
通算 | AFC | 18 | 7 | |
通算 | UEFA | 3 | 0 |
日本代表 | 国際Aマッチ | |
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
2013 | 9 | 4 |
2014 | 9 | 1 |
通算 | 18 | 5 |
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦国 | 勝敗 | 試合概要 |
---|---|---|---|---|---|
1. | 2013年7月21日 | 韓国、ソウル | 中国 | △3-3 | 東アジアカップ2013 |
2. | 2013年7月28日 | 韓国 | ○2-1 | ||
3. | |||||
4. | 2013年11月19日 | ベルギー、ブリュッセル | ベルギー | ○3-2 | 国際親善試合 |
5. | 2014年6月2日 | アメリカ、タンパ | コスタリカ | ○3-1 | 国際親善試合 |
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