歴史
1932年 (昭和7年) 1933年 (昭和8年)12月5日 - ピー・シー・エル映画製作所設立。 1934年 (昭和9年)12月 - 東宝現像所 が発足。 1936年 (昭和11年) 4月 - 第3ステージ、第4ステージ完成。 7月 - 東宝現像所 に2階が増設される。 1937年 (昭和12年) 8月26日 - 写真化学研究所、ピー・シー・エル映画製作所、東宝映画配給 、J.O.スタヂオ が合併して東宝映画 となる。これに伴い、写真化学研究所、ピー・シー・エル映画製作所が東宝映画東京撮影所 に、J.O.スタヂオが東宝映画京都撮影所 と改称される。同時に研究所が東宝技術研究所 と名称を変更する。 9月10日 - 第5ステージ、第6ステージ、第7ステージを建設。 旧No.5・6ステージ 11月30日 - 第5ステージ、第6ステージ、第7ステージが完成(2002年 に解体)。 1938年 (昭和13年)2月 - 今井映画製作所を東宝映画京都撮影所へ吸収。 1939年 (昭和14年) - 東宝映画第二撮影所 が新設される。 1941年 (昭和16年) 9月19日 - 東宝映画京都撮影所が閉鎖され、東宝映画東京撮影所が砧撮影所 と名称を変更する。 10月24日 - 東京発声映画製作所 と南旺映画 と大宝映画が東宝映画に合併。 1943年 (昭和18年)12月10日 - 東宝映画が東京宝塚劇場と合併して、東宝 となる。 1946年 (昭和21年) 2月17日 - 現業重役制を廃止し新たに経営担当者制を布く為、岡庄五が所長に就任。 3月 - 第1次東宝争議 発生。 10月 - 第2次東宝争議 発生。 1947年 (昭和22年)3月25日 - 東宝映画第二撮影所が新東宝映画製作所 として新たに発足する。 1948年 (昭和23年) 4月15日 - 第3次東宝争議 発生。 4月25日 - 新東宝映画製作所が新東宝 と改名し株式会社化。 1950年 (昭和25年) 1月14日 - 自主製作再開。 5月17日 - 第4次東宝争議 発生。 12月25日 - 企画本部が設置され佐々木茂索 が委員長に就任。 12月29日 - 4年9カ月続いた東宝争議が終わる。 1951年 (昭和26年) 2月26日 - 森岩雄 が最高顧問として復帰し、また所長に森田信義 が就任。これにより砧撮影所は東宝撮影所 と名称を変更する。 7月15日 - 所長の森田が交通事故で死去(享年53歳)。東宝社長の小林富佐雄 が所長代行を務める。 1952年 (昭和27年) 1月25日 - 雨宮恒之 が所長に就任。 5月27日 - 東京映画 が発足する。 8月1日 - 企画本部が廃止され、製作本部となり森岩雄が本部長に就任。 1954年 (昭和29年)9月17日 - 小プールが完成。 1955年 (昭和30年) 3月 - 第8ステージ、第9ステージが完成。 9月20日 - 所長制を廃止し支配人制となる。また藤本真澄 が製作本部長に就任。 1956年 (昭和31年)11月15日 - 製作部に特殊技術課が新設される。 1957年 (昭和32年) 9月12日 - ダビングビル・東宝ダビング が完成。 10月11日 - 新本館ビル完成(世田谷で初のエレベータービル)。 1959年 (昭和34年) 1月26日 - 東宝現像所がキヌタ・ラボラトリー と改名して独立株式会社化。 3月1日 - 所長制復活。 1960年 (昭和35年)2月 - 井上泰幸 設計の広さ3000坪の特撮専用の大プールが完成。 1961年 (昭和36年) 7月15日 - 第11ステージと特技センターの建設が始まる。 8月1日 - 東宝技術研究所が設立。 8月31日 - 新東宝が倒産。 1962年 (昭和37年) 5月 - 特撮専用の第11ステージが完成。 6月14日 - 特殊技術課棟の特技センターが完成。 1969年 (昭和44年)3月25日 - 西野一夫 が支配人に就任。 1970年 (昭和45年) 1月25日 - 特技監督の円谷英二 が死去(享年69歳)。 3月1日 - 職制一部変更、特殊技術課が解散。小プール及び第11ステージも解体。コンピューター室が新設され、ビデオカセット事業部をビデオカセット部と改称、新たに総務室、美術部、映像事業部、管財部、機材部を新設。 3月31日 - 東宝美術 が発足。 4月4日 - 製作総務室、映画企画部を廃止し企画室を新設。 1971年 (昭和46年) 4月1日 - 映像事業部を廃止し東宝映像 が発足。 11月8日 - 東宝映画 が発足。 11月18日 - 東宝スタジオ と名称を変更し、もっぱら貸しスタジオとなる。製作部、芸能部を廃止し契約管理室を新設。 12月27日 - 東宝企画が発足。 1972年 (昭和47年)3月 - 小プール及び第11ステージ跡地に成城東宝ボウルとその駐車場がオープン。 1973年 (昭和48年)11月16日 - キヌタ・ラボラトリーが光映新社 と名称を変更しラボ作業を取りやめ機材会社となる。 1974年 (昭和49年)5月 - 『ノストラダムスの大予言 』の特撮場面の収録中火災が発生し、第7ステージが全焼。 1975年 (昭和50年) 3月1日 - 成城東宝ボウルの建物が東宝日曜大工センター成城店として再オープン。 5月 - 撮影設備の近代化の一環として、フロント・プロジェクターを導入。 1977年 (昭和52年)2月 - 東宝技術研究所が使命を終了。閉鎖された建物は東京映画の撮影所となる。 1980年 (昭和55年)11月12日 - 東京ディズニーランド建設協力のため、組立作業所開設。 1983年 (昭和58年)8月25日 - 東京映画がさらに規模を縮小して東京映画新社 となり、本社を有楽町に移転。 2002年 (平成14年) - 第7ステージが解体。 2003年 (平成15年) - 総額50億円をかけてスタジオ第1次改造計画 を開始。スタジオ・施設の増改築やポストプロダクション施設の最新化を進める。まず新No.7ステージ建設に着手。 2004年 (平成16年)9月7日 - 『ゴジラ FINAL WARS 』の最後のシーンの撮影が特撮専用の大プールで行われ、老朽化と改造計画の対象の為、取り壊しが決定した大プールでの最後の撮影となった。 2005年 (平成17年) - 特撮専用の大プール跡地に撮影専用の新No.11ステージ、No.12ステージが完成。スタジオの運営を新規設立の子会社「株式会社東宝スタジオサービス」に移管する。 2006年 (平成18年) 第10ステージが解体。 新No.10ステージ及びキャストルーム・カフェテリアの集合棟・アクターズセンターとスタッフルームの集合棟・プロダクションセンターが完成。 2007年 (平成19年)8月9日 - メインゲートとオフィスセンターが完成。ゲート外観の左壁面には「七人の侍」の壁画が描かれ、脇にはゴジラのブロンズ像がある。 2008年 (平成20年) 1月 - 新No.3ステージ、No.4ステージが完成。 6月 - 第1次スタジオ改造計画完了。6つの新ステージと5つの施設が完成。 2009年 (平成21年)1月14日 - 第2次スタジオ改造計画が発表された。新たに2つの新ステージとポストプロダクションセンター、スタッフルーム棟2棟の建設が発表された。 2010年 (平成22年) 2004年から始まったスタジオ改造計画により、第1ステージ、第2ステージ、第5ステージ、第6ステージ解体。最新の東宝ポストプロダクションセンター と新No5ステージ、No.6ステージとスタッフルーム棟が完成した。現在も敷地内を横断する道路やメインゲート周辺の工事が進行中である。 1月31日 - 東宝日曜大工センター成城店が閉店。 7月14日 - 東宝日曜大工センター成城店の建物がくろがねや成城店として再オープン。 9月 - 新No.5ステージ、No.6ステージ、新ポストプロダクションセンターが完成。2003年から始まったスタジオ改造計画が完了し、新たにステージ8棟・スタッフルーム棟2棟・キャストルーム棟・装飾棟・大道具棟などを建設。スタジオの内の建物の90%以上が建て替えられた。計画費は一次段階と合わせた総工費は約100億円。 2011年 (平成23年) 本館ビル及び第1ステージ、第2ステージが解体。 4月 - ポストプロダクションセンター2がリニューアルオープン。 2014年 (平成26年)6月 - ゴジラの巨大壁画完成 2016年 (平成28年)6月 - No.7ステージがリニューアル。 2020年 (令和2年)12月1日 - 東宝映画 が東宝スタジオサービスを吸収合併しTOHOスタジオ 株式会社 となる。当該会社が撮影所管理とプロダクションの両方を行う。 2021年 (令和3年)4月 - Netflix とレンタル契約を結ぶ。No.7ステージとNo.10ステージを専用ステージとし、日本オリジナル実写コンテンツの製作拠点とする。 2023年 (令和5年)12月1日 - 同年11月30日で事業を終了した「東京現像所 」の各種業務を継承する。ポストプロダクションセンター内に後継施設「HIGH-RESOLUTION BASE」を新設。DI・DCPマスターの作成および映像素材のアーカイブサービスを行う。 施設・サービス
約79,000m2 (約24,000坪)の敷地内に撮影用ステージ10棟(8棟の映画・テレビ用ステージと2棟のCM専用ステージ(スチールスタジオ完備)があり、2棟のポストプロダクション スタジオ、大道具関連会社2社と塗装会社、衣装会社(東宝コスチューム)、特殊造形会社(メイクアップディメンションズ)の入る大道具棟、美術小道具会社(東宝映像美術)と以下の施設がある。
No3付近より旧本館方面を望む 「オフィスセンター」東宝関連4社が事務所をもつ(公式ページ参照)。
最新のNo.3.4ステージ 映画用の8番9番ステージの床面積は32×41.4メートル、1,325平方メートル(402坪)。
No.8.9ステージの屋根 「アクターズセンター」は、35部屋のキャストルーム(控え室)、7列1部屋のメイクルーム、5部屋の衣装部屋、フィッティングルーム、リハーサルルーム、約80人収容の会議室(面積138m2 )、130席のカフェテリアを備える。
「プロダクションセンター」は、38部屋のスタッフルーム(事務所用の貸部屋)、14部屋の作品倉庫(貸倉庫)を備える。
2008年完成の大道具棟にはスタッフルーム等の他にシャワールーム、更衣室、ランドリーがあり、スタジオに入る作品のスタッフは自由に利用できる。撮影用の照明機材、特機等も一部だがレンタル可能である。
アクターズセンター・プロダクションセンター・オフィスセンターは、2008年度グッドデザイン賞 受賞。
2009年からの第2次スタジオ改造計画により映画用の1番・2番ステージとその間の技術課棟と5番・6番ステージが解体され、2010年夏に新5番・6番ステージに生まれ変わった。
スタジオの主要施設内は、基本的には個人見学などは受け付けておらず、一般・部外者の立ち入りも原則禁止である。ただし、団体見学については事前に申し込めば行える場合もあるほか、不定期にスタジオを見学できるイベントも実施されている。
過去に存在した施設 大プール 1960年から2004年まで存在した特撮用のプール。映画『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐 』(1961年)での真珠湾セット撮影のため、約1,500万円の建設費を投じて建設された。建設当時は世界最大となる総面積約1万平方メートルであったが、映画業界の不況を受け約4,000平方メートルに縮小された。ホリゾントは長さ84メートル、高さ13メートル。 戦記映画や怪獣映画など数々の特撮作品で使用されたが、近年は海上シーンなどをCG で表現する事が定着し特撮(ミニチュア 撮影)などの需要減少や第1次スタジオ改造計画に伴い2004年に解体された。 『ゴジラvsビオランテ 』(1989年)の撮影では、ゴジラが熱線を吐くシーンの爆破により老朽化で生じていたヒビが広がり、修理が行われるまで数日間水が流出する事態となった。 現在は10番ステージの北側に小プール(10メートル×10メートル・深さ3メートル)がある他、7番ステージ床下に収納式のプールがある。 おもなフィルモグラフィ
戦前 戦後 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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