『駅 STATION』(えき ステーション)は、1981年に公開された降旗康男監督の日本映画。主演は高倉健。
駅 STATION | |
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吉松すず子(烏丸せつこ)が働く増毛駅前の風待食堂 | |
監督 | 降旗康男 |
脚本 | 倉本聰 |
製作 | 田中寿一 |
出演者 | 高倉健 倍賞千恵子 |
音楽 | 宇崎竜童 |
撮影 | 木村大作 |
編集 | 小川信夫 |
製作会社 | 東宝映画 |
配給 | 東宝 |
公開 | 1981年11月7日 |
上映時間 | 132分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
配給収入 | 12億3400万円 |
北海道・増毛町、雄冬岬、札幌市などを舞台に、様々な人間模様を描き出した名作である。劇中に八代亜紀の代表曲「舟唄」が印象的に使用されていることでも知られている。
【1968年1月 直子】
【1976年6月 すず子】
【1979年12月 桐子】
TBSのテレビドラマ『あにき』や東映『冬の華』で高倉と親しくなった倉本聰は、高倉の誕生日プレゼントに『駅舎』というタイトルのシナリオをプレゼントした。高倉は忙しい倉本が自分のためにホンを書いてくれたことに感激し、高倉自ら東宝の松岡功社長にシナリオを持ち込み、松岡はシナリオを読み、映画化を承諾した。なぜ東宝に持ち込んだかといえば、このとき、高倉は東宝から「森谷司郎監督で『海峡』をやらないか」と打診を受けていたためで、倉本から誕生日プレゼントとしてもらった『駅舎』の方を先にやりたいと考えた。
倉本はさらに脚本を詰め、1981年2月末に田中寿一プロデューサーに完成稿を渡した。映画の脚本は通常200頁程度だが、倉本脚本は450頁あった。テレビドラマなら26本作れなくもない量。倉本はホンをいじらせないことで有名だったから、映画なら4時間以上となるため、削除作業が必要となる。『冬の華』で降旗康男が東大の後輩・倉本を抑えたことから、田中プロデューサーの降旗とで倉本脚本を2時間少しの脚色作業を行った(ノンクレジット)。
柳田桐子役は田中プロデューサーは倍賞千恵子を最初からイメージしたが、降旗は『冬の華』で良かった倍賞美津子に脚本を持って行き、出演交渉したら、しばらくして「お姉ちゃんがホンを読んで『わたし、これで賞を獲るから、どうしても代わって』と言ってるの。だからお姉ちゃんにして」と言われた。それで倍賞千恵子に会ったが、艶っぽい倍賞美津子に比べたら、白髪混じりで「大丈夫かな…」と不安を感じた。倍賞千恵子があまりに熱心なので、倍賞美津子に「みっちゃん、本当にお姉さんに譲っていいの?」と確認を取った。しかし松竹の俳優行政の実権を握る梅津松竹専務が「倍賞千恵子は絶対出演させない」と東宝への貸し出しを拒否。この後、倍賞千恵子の出演を決めてから5ヵ月が経過し、倍賞千恵子にこだわっていたら、クランクインの延期も考えられる事態に陥ったが、倍賞千恵子が大谷隆三松竹社長に「『駅 STATION』に出させてくれななら、わたし、松竹を辞めます」と直談判に打って出て、出演がようやく決まった。撮影のテストで初対面以来に倍賞千恵子に会った降旗は、「こんなきれいな人だったのか…」と驚いたという。
また吉松すず子役は、倉本から田中に「大竹しのぶにしてくれ」とリクエストされていた。しかしデビュー当時の大竹ならともかく、当時の大竹は吉松すず子のような田舎人間イメージは無いし、もうちょっと土臭い女優で行きたいと考えた。田中は『四季・奈津子』で奈津子を演じた烏丸せつこがピッタリと直感し、倉本を説得した。
他の出演者の多くが高倉と共演出来るならとオファーを快諾して出演した。根津甚八はセリフがない役でも快諾した。宇崎竜童は本作でバイクに乗るシーンが必要となり、免許を取って以降、バイク付いた。高倉で母役で出演する北林谷栄は、地方ロケがあると必ず内緒で現場近くの老人ホームを慰問することで業界では有名だった。これがスタッフ間で話題となり、高倉が号令を掛け、老人ホームに慰問に行った。高倉は普段はサインをしないが、この日はお年寄りにサインをせがまれて気軽にサインに応じた。ところが翌日、製作担当者が高倉のサイン一枚につき、1,000円お金を徴収していたことが高倉の耳に入ってしまった。夜になって高倉が田中に「タクシーを呼んで下さい」と頼み、高倉は「札幌グランドホテルまで行って下さい」と告げた。田中は事前に俊藤浩滋に呼ばれて「健はね、時々、仕事の間に抜けちゃうんだ。気を付けた方がいい」と聞かされていたため、「これかあ」とすぐに直感し、高倉は東京に帰るつもりだと判断した。留萌から札幌まで3時間、すぐにタクシーで高倉を追い、札幌グランドホテルで高倉に会ったがやはり高倉の様子がおかしい。高倉の機嫌はなかなか直らず。結局、高倉の説得に3日かかり、ようやく高倉から「老人ホームの人たちから集めたお金は、すぐに返してください」と言葉を引き出し、田中はすぐに留萌のスタッフに電話し、これを確認した上で、ようやく気持ちも治まり、留萌の撮影現場に戻った。高倉は迷惑をかけたことを皆に謝った。高倉が倍賞にも頭を下げたら、倍賞が「健さんね、東映さんはどうか知らないけど、こういうこと、松竹ではしょっちゅうあるわよ」と言った。すると高倉は「東映ではないですよ」と言うと、倍賞が「松竹ではあるのよ」「いやそれはないでしょ」などと口論になった。数日後の夜、今度は倍賞がいなくなってまたまた大騒ぎになった。高倉も含め、スタッフ総出で真冬の留萌の街を探し回り、冬の留萌では飲み屋も閉めるのが早く、困り果てた。すると高倉が駅の廊下脇に積もった雪の中に出来た小さな空間で寒さを凌いでいた倍賞を見つけた。倍賞はせっかく自分が「気にすることない」と気を遣ってあげたのに、高倉が無下にしたことにハラを立てたもので、可愛げのある高倉への愛情表現だった。この一件を切っ掛けに高倉は倍賞に惹かれていったとされる。このため、高倉と倍賞の仲は盛んに芸能誌やワイドショーに取り上げられ、週刊誌の記者や芸能レポーターがロケ現場に押し掛け、撮影が中断することもあった。高倉は撮影中の会見で、これに答え「自分が決意する前にマスコミに先取りされてしまったことが心外なんです。今後は二人の仲がどういう風に進んでいくのか、わたしにはまったく分かりません。二人は仲のよい友達なんです」と答えた。この後、マスメディアが高倉と倍賞の自宅に連日大勢張り込んだため、二人はほとんど会えなくなり、3年で熱愛は終焉したとされる。以降、高倉はマスメディアに自分に関する恋愛記事が掲載されると相手の女性との連絡をすぐに絶つようになった。
撮影は降旗は仲沢半次郎を推薦したが、田中と高倉が『八甲田山』での木村大作のカメラを高く買い、木村を抜擢した。本作以降、高倉、降旗、木村のコンビが長く続いた。1980年12月24日クランクイン。倉本脚本にはいちいち「クローズアップ」とか「アップ」とか撮影の指示まで書き込んであり、木村が激怒し、「これはどういう意味だ。こんなことを書くなら、俺がいる必要ないじゃないか」と倉本に直接抗議したら、倉本は「これはテレビのカメラマン用に書いた。テレビはいまだに信用できないから」と言った。
1981年1月から2月末まで北海道留萌を拠点に、ロケ隊は当地に宿を取り、撮影は留萌から車で約20分の増毛町で主に行われた。居酒屋「桐子」は通称「四丁目」と呼ばれる留萌の飲み屋街の一角に居酒屋を作り撮影された。高倉と倍賞の出会いで「舟唄」をバックにした長回しのシーンで、倍賞のセリフ「ススキノの女の子たちは、暮れから正月にかけて自殺者が多く出る…」は、倉本がススキノで遊んでいた頃に、女の子から仕入れたネタ。翌日大晦日の夜に「桐子」で二人が飲むシーンは、実際に1980年大晦日の第31回NHK紅白歌合戦をテレビで流しながら、テストなし、セリフは全てアドリブで撮影された。この後二人がに結ばれて、「大きな声…」「樺太まで…」のやり取りは、高倉の映画では珍しく爆笑シーンだが、高倉は倍賞に失礼ではないかと気にして、降旗は説得に10分かかった。結局、「樺太まで…」のセリフは、同録を行わず、アフレコを行った。
1981年7月にも北海道ロケがあった。
『幸福の黄色いハンカチ』で共演以来、高倉と交友関係にある武田鉄矢が1シーン出演しており、吉松五郎(根津)の死刑執行を吉松本人からの手紙で知った三上が、故郷へ戻る車中で、「眠りこんだ三上によりかかられ、迷惑そうな表情をするが、やがて一緒に寝込んでしまう乗客」を演じている。その後、高倉は武田の原作・主演の映画『刑事物語』(1982年、キネマ旬報社)に友情出演(ノンクレジット)。ラスト近くの1シーンのみ登場し、転任が決まった片山刑事(武田)と入れ替わりに配属される刑事役で、役名は「三上英次」。衣装・小道具を含めて、本作のオマージュである。また、第2作目『刑事物語2 りんごの詩』に特別出演している倍賞千恵子の登場シーンも本作のオマージュである。
田中プロデューサーは倉本のタイトル『駅舎』に違和感があった。舞台となる銭函や砂川、増毛に『駅舎』とタイトルに拘ったのも分かるが、全国区の感じが湧かず、「男は黙ってサッポロビール」のキャッチコピーで有名な秋山晶に映画用のタイトルを頼んだ。秋山が『駅 STATION』とタイトルを考案し、木村は『駅舎』の方がいいと思ったが、東宝宣伝部が「『駅舎』というタイトルだと、客は来ない。『駅 STATION』にしよう。これで客の入りが2億、3億円違う」と言われ、田中たちは、もやもやしたものが残ったが、2億、3億円違うと言われたら、それをひっくり返せるような決定的な反論も浮かばず、『駅 STATION』に改題が決定した。1980年9月に降旗は、有楽町東宝本社の松岡社長に挨拶に行ったら、松岡から「6億円入れてくれたらいい。気楽にやって下さい」と言われた。降旗は当時はフリーだったが東映育ちのため、近所にある銀座東映本社の岡田茂社長にも挨拶に行ったら、『仕掛人梅安』の監督を頼まれた。押し問答の末、『駅 STATION』の撮影があるからムリと断ったが、そのままエレベーターで一階に降りていたらよかったが、階段を1階降りて7階の企画部へ顔を出したら、酒盛りをやっていて一緒に1時間ぐらい飲んだ。降旗は東映の監督では「東の降旗、西の山下耕作」と呼ばれた酒豪。するとまた岡田社長に社長室に呼び戻され、岡田から無理やりこの年12月のクリスマスイブにクランクインが決まっていた本作の本来準備に企てなければいけない期間に『仕掛人梅安』の撮影をさせられた。降旗は『駅 STATION』のスタッフとの顔合わせも出来ず、ロケハンにも全く参加出来ず、ロケハンは田中プロデューサーと木村、高倉の3人でやり、撮影準備は木村がほとんどやった。
公開に合わせて、当時の国鉄が10日間で日本一周するイベント列車「駅 STATION号」を1981年8月21日東京発から30日上野着で運行した。
駅STATION号編成 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
← 大阪 東京 → | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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松岡東宝社長は6億円ぐらいでいいと話し、東宝もあまり期待していなかったが、予想の倍にあたる13億円の大ヒット。
本作は第5回日本アカデミー賞でも主要部門の多くを受賞した。宇崎竜童も助演男優賞にノミネートされ(優秀賞)、最優秀音楽賞を受賞した。現役のロックミュージシャンが俳優部門で賞にノミネートされることはそれまでなかったため、当時の映画人にとってはあまり面白いものでなく、丹波哲郎が宇崎を"素人"呼ばわりして物議を醸した。また授賞式でテレビ放映の前に音楽賞の発表があり、宇崎が『遠雷』で音楽賞にノミネートされた井上堯之と並んで座っていたら、プレゼンターが井上堯之の「タカユキ」を読めず。音楽賞の後に最優秀助演男優賞の発表があり、これにもノミネートされていた宇崎が、グルッと一巡して再び席に付こうとしたら、岡田茂日本アカデミー賞実行委員長から、「お前、また出てきたんかい!」と言われたという。宇崎は「いままでの映画界を支えて来た人たちの偉さは認めるが、心が貧しすぎる」などと批判している。
週刊文春「シネマチャート」邦画歴代(1977-2017年)ベストテン第10位。(☆☆☆…満点、批評は公開時のもの)。
発売日 | レーベル | 規格 | 規格品番 | 備考 |
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TOHO VIDEO | VHS | TG-5276S | ||
TOHO VIDEO | LD | TLL-2312 | ||
2005年1月21日 | 東宝 | DVD | TDV-15003D | |
2012年8月22日 | 東宝 | Blu-ray | TBR-22332D | |
2015年2月18日 | 東宝 | DVD | TDV-25099D | 東宝DVD名作セレクション |
映画のエンジニアがマスターテープからリマスタリングを行っている。未使用音源も収録。
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