川北 紘一(かわきた こういち、(1942年〈昭和17年〉12月5日 - 2014年〈平成26年〉12月5日)は、日本の特技監督。株式会社ドリーム・プラネット・ジャパン代表取締役。東京都日本橋出身。
かわきた こういち 川北 紘一 | |||||||||||
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本名 | 同じ | ||||||||||
生年月日 | 1942年12月5日 | ||||||||||
没年月日 | 2014年12月5日(72歳没) | ||||||||||
出生地 | 日本・東京都中央区日本橋 | ||||||||||
職業 | 特技監督 | ||||||||||
活動期間 | 1960年 - 2014年 | ||||||||||
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日本を代表するSFX監督の1人と評されており、1970年代から1990年代にかけての東宝特撮を支えた。
太平洋戦争中であった幼少期に母方の実家である茨城県の竜ヶ崎に疎開し、小学校高学年まで同地ですごす。
1960年(昭和35年)、中野電波高等学校を卒業。国際短期大学に入学後、映画界への憧れから、東宝の撮影所でアルバイトをする。
1962年(昭和37年)、東宝に入社。入社試験はすでに終了していたが、東宝で助監督を務めていた義理の兄を介して、カメラマンの完倉泰一の紹介により円谷英二が直接面接を行った。特撮現場への配属を希望し、撮影部特殊技術課に入り、円谷のもと有川貞昌に師事。同年、『妖星ゴラス』から、撮影助手として東宝特撮映画の現場に加わる。
1963年(昭和38年)、手薄となった光学撮影部門に移動、光線作画などに従事。以後、光学合成を主に担当する。
1965年(昭和40年)、円谷特技プロダクションのテレビ映画『ウルトラQ』第12話「鳥を見た」で合成を手掛け、これがテレビ番組での初仕事となる。
1966年(昭和41年)、『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』で撮影助手を担当。
1970年(昭和45年)、結婚。
1971年(昭和46年)、円谷死去後の新体制で、東宝内に新設された「映像企画室」に異動。同年に一班体制で制作された『ゴジラ対ヘドラ』では、監督の坂野義光のもとで演出助手を務め、合成シーンなどを演出。
1972年(昭和47年)、『ウルトラマンA』に特撮班助監督で参加、第21話でテレビ特技監督デビュー。同作では数本を担当したが、撮影を一生懸命やった結果、決められた合成カット数を超えたり、5日で撮るところを1週間や10日かけるなどし、外部からは評判が良かったが社内では1番良くなかったと述べている。
1973年(昭和48年)、テレビ番組『流星人間ゾーン』で特撮監督。第4話「来襲! ガロガ大軍団 ―ゴジラ登場―」で、テレビ作品ながらゴジラを初めて演出する。
1976年(昭和51年)、『大空のサムライ』で映画特撮監督デビュー。零戦のミニチュア撮影に、難色を示す会社を押し切ってラジコンを使用し、一定の効果を挙げる。
1989年(平成元年)、中野昭慶の後を継ぎ、『ゴジラvsビオランテ』で特技監督(特撮監督)を担当、以後のゴジラシリーズ6作を担当する。川北が退いた後の『モスラ3 キングギドラ来襲』(1998年)から『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)では特技監督の役職が設けられなかったため、「東宝最後の特技監督」とも称され、自著のキャッチコピーにも用いている。
2002年(平成14年)、東宝を定年退社。
2003年(平成15年)1月、特撮・VFXの制作会社、株式会社ドリーム・プラネット・ジャパンを設立。
2013年(平成25年)、大森一樹の招きで大阪芸術大学映像学科の客員教授に就任。
2014年(平成26年)12月5日、肝不全で死去。72歳没。生没同日であった。2014年8月26日に放送された『SOUL SAPIENS with Ryohei Ebuchi Vol.3』(インターネットテレビ)にゲスト出演し、これが最後の映像出演となった。[要出典]また、同年11月から12月にかけて大森一樹や大阪芸術大学映像学科と共に制作した『装甲巨人ガンボット』がテレビ大阪で放送され、これが遺作となった。
2015年(平成27年)2月7日、東宝スタジオ第6ステージにて「川北紘一監督お別れの会」が催された。発起人は東宝社長の島谷能成とバンダイ社長の上野和典が務めた。
子供のころから、近所の東映の映画館で番落ちの白黒時代劇映画に親しんだ。親戚に映画関係者が多く、封切りの東宝映画はチケットを回してもらって観ていたという。そんな折に観た総天然色の『地球防衛軍』の華麗な特撮に強い感銘を受け、特撮に興味を持ったと語っている。
撮影技師志望だったが、入社後は主に合成を担当したほか、飯塚定雄のもとで怪獣や超兵器の出す光線アニメーションの作画を担当し、『怪獣大戦争』(1965年)のAサイクル光線車やX星円盤、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』(1966年)のメーサー車の光線などを手掛けた。光学合成時代について川北は、光学撮影は合成を含めたクリエイティブな仕事であることを理解し、その重要性を発見したと述懐している。合成から助監督へ移った理由については、オプチカル作業により目を悪くしたためと述べている。
映画の現場に携わっていた人間として、当初はテレビをバカにしていたこともあったが、助監督を務めた『帰ってきたウルトラマン』(1971年)で「テレビでもこんなことができる」と感心し、特殊効果を活かせる作品があることが嬉しかったという。
チーフ助監督を務めた『ゴジラ対メカゴジラ』(1974年)では、ロボット怪獣メカゴジラの武器である「フィンガーミサイル」や、頭を回転させて発生させる「ネオ・ディフェンス・バリアー」などの名称アイディアを発案した。同作品では、合成を手掛けた『ウルトラマンA』(1972年)で培った光線表現も応用している。フォース助監督であった浅田英一によれば、川北は合成に神経を使っており、合成担当の宮西武史にダメ出しを行うこともあったほか、宮西も川北は出来上がりに満足できないと自ら手を出そうとしてくるのでプレッシャーであったと述べている。
思い出深い作品として、最初にゴジラシリーズの特技監督を務めた『ゴジラvsビオランテ』(1989年)と同シリーズで最後に手掛けた作品となった『ゴジラvsデストロイア』(1995年)を挙げている。
ゴジラシリーズを担当してきたが、「平成ガメラシリーズ」なども高く評価している。ただし、カメのキャラクターは好きではないらしい。
自身の手掛けた平成期の特撮シリーズについては、ゴジラやモスラばかりでなく過去の東宝特撮のようにバラエティ豊かな作品を作らなければならなかったと述懐している。
ゴジラシリーズでは、キャラクター展開にも積極的に携わっており、タイアップCMの撮影を精力的に行っていたほか、出版社や玩具メーカーにも協力的で、自ら商品データを制作してバンダイへ持ち込んだこともあった。
古物・骨董の収集が趣味で、スタッフ間でも広く知られていた。『ゴジラvsデストロイア』のロケで香港へ赴いた際には、骨董品店を覗いていた川北が動こうとしなかったため、ロケバスが発車してしまっていたこともあった。
独特な手法から、「特撮の鬼」の異名で呼ばれることもある。ゴジラ映画や超星神シリーズなどでは、スタジオ内にスモーク(白煙)を張った上で怪獣を逆光で撮影し、怪獣のシルエットを浮かび上がらせるという手法を多く用いている。「金粉」のきらめきを画面効果として好み、『ゴジラvsビオランテ』や『ゴジラvsデストロイア』などで、ゴジラや怪獣が消滅するといった描写で多用している。東宝プロデューサーの富山省吾は、『vsデストロイア』でのゴジラが死ぬシーンは、これら川北のテクニックをすべて投入していたと評している。
「怪獣はプロレスごっこのような肉弾戦をしないだろう」という考えから、怪獣同士が取っ組み合うような格闘演出を排除し、目や口、触覚などからの光線技の応酬を多用するため、「川北特撮=光線の打ち合い」などと揶揄する声もある。擬人化した動きは意図的に排除している。円谷英二の意向に則り流血表現は避けつつ、上記金粉やビオランテでの樹液など代替表現を行うことも多い。怪獣が建物を破壊する場面でも、手で壊すような描写は好まないという。こうした効果について、川北は放射能などの目に見えないものを表現するのにわかりやすいとしており、残虐な描写を用いないことで観客に想像の余地を残していると述べている。
一方、ゴジラとベビーゴジラ(リトルゴジラ、ゴジラジュニア)の親子愛や、モスラとバトラやゴジラとラドンの命のやり取りなど、擬人化せずとも描ける生物共通の愛情や命のあり方を描くことも重視している。
今までとは違うゴジラを描こうという姿勢から、『vsビオランテ』以降のゴジラの歯を2列にしたり、白目を無くしたり、透明素材の背びれにフラッシュを仕込んで光らせたりと、さまざまな新案を持ち込んでいる。従来のゴジラの人間臭さを排して動物的な原点に戻すことを意図した一方、単なるリアル志向にはならず、ファンタジー要素も重視したことも語っている。
怪獣は夜間に禍々しく動くものという考えから、ゴジラシリーズではナイトシーンをクライマックスとしている。一方、モスラシリーズはイメージが異なると述べている。『ゴジラvsキングギドラ』(1991年)は監督の大森一樹からの要望で昼間の戦闘が中心となった。
撮影では、NGが出たカットでは次にまったく異なるアングルで撮影するなど、映像素材を多く得ることを重視していた。これに対応するため、ミニチュアセットも固定されたものではなく、移動や組み換えが可能なものとなっていた。川北は、一見使いようがないカットでも編集や合成で味付けを行うことで観客に美しく見せることが必要だと考えており、自身でも思いがけない効果をあげることもあるという。業界内では「ねばりの川北」とも称されていた。
照明技師の斉藤薫は、円谷英二がカメラポジションを据えたら横移動かクレーンでの上下移動のみであったのに対し、川北はカメラ自体が迫っていく縦移動が多かったといい、カメラマンの江口憲一も川北は主観カットが多いと述べている。カメラを複数台で撮ることも多く、カメラ同士が向かい合うようなポジションになるため、Bカメラは頭に草をつけたりビルの中に入るなどしていた。
「あるものは何でも使えばいい」と雑誌『宇宙船』のインタビューで発言しており[要文献特定詳細情報]、『ゴジラvsメカゴジラ』(1993年)の第2特報では『ガンヘッド』(1989年)の特撮シーンを流用したほか、『超星神グランセイザー』(2003年)では東宝の倉庫に保管されていたゴラス、「ゴジラシリーズ」などの小道具を流用した。また、『幻星神ジャスティライザー』(2004年)でもメカゴジラの模型を流用した。それらに先駆け、『さよならジュピター』(1984年)ではオガワモデリングが所有していた緻密なミニチュアを正式に譲ってもらっており、前述の「超星神シリーズ」の宇宙戦のシーンに流用している。
編集でも、過去の映像素材を効果的に挿入することも得意としている。神谷によれば、川北はフィルム倉庫のストック・フッテージを把握していたといい、その倉庫は「川北ライブラリー」と称されていた。
現場での撮影を第1の演出とするならば、編集は第2の演出であり、おろそかにすることができない一番大事な作業であると語っている。編集時点では、特撮カットに音がついていないため、編集にあたっては音を感じられるよう画作りを意識していた。また、説明的な引きのカットは尺を短くし、寄りのカットでは尺を長くして周囲を映さずに芝居を見せることで感情を表現している。リアルに見せることよりもリアルに感じさせることが重要であり、照明などの整合性は気にせず、画面の流れや迫力を優先している。
特撮美術の大澤哲三は、川北は円谷英二時代の伝統的な特撮技法を大事にしており、技術的に新しい技法が使える場面でもあえて古い手法を用いることもあり、先駆者への畏敬の念の現れであると同時にそこへ自身の新しい要素を加えていくという意志を感じたことを語っている。川北自身も、合成技術ではハリウッドに敵わなくても、ミニチュアワークでは勝っていると自負していた。
川北組で助監督を務めた鈴木健二は、川北の編集は割り切りがいいと評しており、複数台で撮影したカットの場合はメインポジションではなく寄りの画を使うこともあった一方、絵コンテについてはスケジュールの都合から取り切れず、削ることも多かったという。大澤も、メインポジションが1回で終わることもあるためセット作りが難しかったと述べている。
同じく助監督を務めた神谷誠は、川北の性質を「やんちゃ」と評しており、彼のやんちゃさは役員職に就く前の『vsビオランテ』のころがピークであったという。川北は、脚本にないことをその場のひらめきで言い出すことも多かったが、神谷はその状況に大変さよりも面白さを感じていたと述懐している。スタジオOXの杉田篤彦によれば、川北は雑談の中からアイデアを拾うこともあったといい、若手の意見でもすぐに現場に導入する行動力であったと証言している。一方、本編監督の大河原孝夫は、先行していた川北の撮影内容が事前の打ち合わせと異なるものであったため、本編とつながらないこともあったと証言している。
準備期間の都合から、脚本の決定稿が完成する前に特撮の準備・撮影に入ることが多く、東宝プロデューサーの富山省吾は、平成ゴジラVSシリーズでは本編班と川北のアイデアをすり合わせることが製作として重要な作業であったと述べている。
造型担当の若狭新一は、平成ゴジラVSシリーズは川北がやりたいことをやりたいようにやった作品だと評しており、彼の情熱があったからこそ現場の士気も上がり、観客にもその情熱が伝わったことが作品の人気にもつながったと語っている。
怪獣やメカなどのデザインは、デザイナーによる画稿の通りに造るのではなく、複数のデザイン案をまとめて造形で最終的なデザインを決定するという手法をとっていた。ゴジラシリーズなどにデザイナーとして参加した西川伸司は、川北について同年代では珍しいマニア気質の人物だが原理主義者ではなく、過去のキャラクターを登場させる時は懐古趣味にならず、その時代の子供たちに受け入れられるよう、必ずリニューアルしていたと証言している。一方、川北の監督時代は彼がすべてを取り仕切っていたため、デザインや造形も川北の意向に沿ったものとなっており、彼が退任した『モスラ3 キングギドラ来襲』(1998年)以降はデザイナーや造形家の独自色が出ていると述べている。同じくデザイナーとして参加した青井邦夫も、メインのデザイナーは川北であったと述べている。同じくデザイナーの吉田穣は、提出した怪獣デザイン画のコピーを川北が切り貼りしてまったく新しい怪獣を作り上げたこともあったという。VFXスーパーバイザーの大屋哲男は、新しいメカが登場すると、穴の開いている部分はすべて光線を出すよう指示されたと述べている。
実現しなかったが、『地球防衛軍』(1957年)のリメイク企画を1990年代に東宝に立案していた。
『キングコングの逆襲』(1967年)のメカニコングを気に入っており、平成ゴジラシリーズに何度かメカニコングを再登場させようとしたが、権利の関係もあって実現できなかった。川北はこれらの企画の雪辱を期し、『幻星神ジャスティライザー』および『劇場版 超星艦隊セイザーX 戦え!星の戦士たち』(2005年)でメカニコングをオマージュしたメカ巨獣ブルガリオを登場させている。
円谷英二に招かれて円谷プロダクションのウルトラシリーズにも参加し、特撮監督デビューもウルトラシリーズの『ウルトラマンA』(1972年)であった。『ウルトラQ』(1966年)や『ウルトラマン』(1966年)では合成撮影を受け持っており、『帰ってきたウルトラマン』(1971年)からは特撮班助監督として参加した。「変身した直後のウルトラマンが赤い光の中から拳を突き上げて迫ってくる」という画の合成も手掛けた。なお、破李拳竜によれば、助監督時代の川北はきくち英一の不在中にウルトラマンジャックのスーツアクターも担当していたという。
特殊効果の関山和昭は、中野昭慶が紅蓮の炎や黒煙のディテールなどにこだわっていたのに対し、川北は派手な火薬の使い方を好んでいたと証言している。
平成ゴジラシリーズで監督や脚本を務めた大森一樹は、『vsビオランテ』のころは本編と特撮の割合は1:4程度で川北も「これぐらいのバランスが美しい」と語っていたが、その後は特撮パートが長くなっていったといい、自身が手掛けた脚本から大幅に変更していた『vsデストロイア』は「川北の暴走」と評している。これについて大森は、製作の田中友幸が現場に出なくなったことで川北を抑えられる人物がいなくなったといい、東宝側も特撮が多い方が面白いという考えであったと述べている。
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