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1931年〈昭和6年〉1月28日 - 2011年〈平成23年〉7月26日)は、日本の小説家。本名: (こまつ みのる)。
(こまつ さきょう、小松 左京 (こまつ さきょう) | |
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ペンネーム | |
誕生 | 1931年1月28日 日本・大阪府大阪市西区 |
死没 | 2011年7月26日(80歳没) 日本・大阪府箕面市 |
墓地 | 箕面市瀧安寺 |
職業 | 小説家 SF作家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 文学士(京都大学・1954年) |
最終学歴 | 京都大学大学院文学研究科・文学部 |
活動期間 | 1961年 - 2011年 |
ジャンル | SF 評論、随筆 |
主題 | 生命・人類・未来 未来学 |
代表作 | 『復活の日』(1964年) 『果しなき流れの果に』(1966年) 『日本沈没』(1973年) 『さよならジュピター』(1982年) 『首都消失』(1985年) 『虚無回廊』(1987年) |
主な受賞歴 | 星雲賞日本長編部門(1971年・1974年・1983年) 星雲賞日本短編部門(1973年・1976年・1978年) 日本推理作家協会賞(1974年) 日本SF大賞(1985年) 星雲賞特別賞(2011年) 日本SF大賞特別功労賞(2011年) |
デビュー作 | 「易仙逃里記」(1962年) |
配偶者 | 克美(1958年結婚) |
公式サイト | 株式会社イオ(小松左京事務所) |
ウィキポータル 文学 |
『易仙逃里記』(1962年)でデビューして以降、人類と文明の可能性を模索し続けた、SF小説の大家。作品に『日本アパッチ族』(1964年)、『果しなき流れの果に』(1966年)、『日本沈没』(1975年)など。
星新一・筒井康隆と共に「SF御三家」と呼ばれ、日本SF界を代表するSF作家であり、戦後の日本を代表する小説家でもあった。
1970年の日本万国博覧会でテーマ館サブ・プロデューサー、1990年の国際花と緑の博覧会の総合プロデューサーとしても知られる。宇宙開発の振興を目的とした啓発活動にも力を入れ、宇宙作家クラブの提唱者で顧問も務める。
広範囲で深い教養を備えた知識人であり、その活動範囲は幅広く膨大なジャンルにわたる。
デビューの直後から、通常の作家の枠を超えた八面六臂の活動を始めている。ジャーナリストして国内各地を歩き、メディア出演を精力的にこなし、未来学研究会やメタボリストなど、多くの学者やクリエイターと交流をもった。1970年の大阪万博では30代という若さで主要スタッフに名を連ね、関西財界や財界との密接な交流は晩年まで続いた。その姿は、今「SF作家」という言葉で想像されるものをはるかに超えている。
未来を書くSF作家としてデビューし、しかも好奇心旺盛だった小松は、単なるエンタテインメント作家ではない、未来について語る新世代の知識人として、独特の期待を寄せられる運命にあったといえる。実際彼はその期待に応え、小説執筆の傍らさまざまな言論人・建築家と積極的に交流し、様々な研究会、学会の設立に参加して積極的にコミットし、新しい知識人の一角を急速に占めていった。学者や財界人を相手に文明論を語り、日本論を闘わせる精力的な人物だった。
他方で小松は自ら製作会社を立ち上げて若い作家を集め大型SF映画の制作にも乗り出している。小松が原作、脚本、総監督、製作全てにクレジットされ、公開した映画は興行成績こそ振るわなかったものの、ライトノベル作家やアニメーターなど、次世代のクリエーターの育成に大きな役割を果たした。
また、関西出身の知識人として京阪地域の愛着はとりわけ強く、さまざまな場でブレイン役を勤めた。
ほかにもエッセイや対談、メディア出演は数しれず、阪神大震災の際も活動を行っていた。
先祖は阿波(徳島県)の小松から千葉の外房に行った漁師の一族。父親は明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)夜学在学中に東京の老舗の漢方薬屋の娘と婚約しのちに結婚した。父親が薬学を捨て電気機械の商いを志し、大阪で金属加工の町工場を興したため、大阪府大阪市西区で五男一女の次男として生まれた。4歳のとき兵庫県西宮市に転居し、その後は尼崎と西宮で育った。京都大学で冶金工学を専攻し三洋電機の技術者となった兄は、戦争のさなかでも科学書を読み漁り、小松に科学の知識を教えた。またこの兄は、広島に落とされた新型爆弾が原子爆弾であることを教えたという。
少年時代は病弱で、スポーツには興味が湧かず、歌と漫画と映画と読書に熱中した。また、母方の親戚がいる東京で歌舞伎を見たりもした。大阪でも文楽につれていってもらい、古典芸能についての知識も身につけた。小学校5年の1941年の時に、NHK大阪放送局の子供向けニュース番組「子ども放送局」のキャスターに起用された。
1943年、第一神戸中学校入学。小松は、関西でいう「イチビリ」な性格で、笑芸やユーモア歌謡が好きであったため「うかれ」のアダナをつけられ、戦中は教師からにらまれていた。一方で、体が丈夫でなかったのにもかかわらず、柔道部に入った。終戦時は14才だったが、当時は徴兵年齢がどんどん下がっており、「このまま戦争が続いて、自分も死ぬのだろう」と考えていたが、思いもよらず生き残った。そして、沖縄戦で自分と同年齢の中学生の少年たちが、銃を持たされて多数死んでいるのを知り、「生き残ってしまったものの責任」を考え、文学をそして、将来SFを書く契機となったという。
戦後には、兄から教わったバイオリンの腕で、同級生の高島忠夫とバンドを組んでいた。当時読んだ、ダンテの『神曲』の「科学的な知見も組み込んだ壮大なストーリー」に衝撃を受け、後にSFを書く基盤ともなり、また大学ではイタリア文学を専攻することとなる。
1948年に神戸一中を四修し、第三高等学校に入学。あこがれの旧制高校時代は「人生で一番楽しかった年」だったというが、本来「3年間のモラトリアム」のはずが学制変更のため1年で終わる。翌年には京都大学文学部を受験し、イタリア文学科に進学。大学在学中に同人誌『京大作家集団』の活動に参加。高橋和巳や三浦浩と交流を持つ。ほかに福田紀一とも知り合う。当時デビューしたばかりの、安部公房の作品に熱中する。
日本共産党に入党して、山村工作隊など政治活動を行っていたのもこの頃である。だが、原爆を投下したアメリカに対する反感からの「反戦平和」を唱える共産党に共鳴しての入党であり、共産主義思想を真に信奉してのものではなかった。そのため、ソ連の原爆開発にショックを受け、共産党の活動に疑問を抱き、後に共産党を離党する。
また、この時期に「もりみのる」「小松みのる」「モリミノル」名義で『おてんばテコちゃん』、『イワンの馬鹿』、『大地底海』等の漫画作品を雑誌『漫画王』等に発表しており、既にデビューしていた手塚治虫の影響が窺える。当時の小松の漫画を愛読していた、漫画家にして漫画コレクターの松本零士とも後に親交ができ、『銀河鉄道999』の文庫版の解説も小松が記している。
ルイジ・ピランデルロについての卒論を提出して、1954年に大学を卒業。しかし、就職試験をうけたマスコミ各社の試験にすべて不合格。経済誌『アトム』の記者・父親の工場の手伝い・ラジオのニュース漫才の台本執筆等の職を経験する。また、産経新聞に入社していた三浦浩の紹介で、産経新聞にミステリなどのレビューも執筆する。
大学時代から、神戸一中の同級生たちと結成していたアマチュア劇団でも、戯曲執筆・演出・出演を担当していた。この時、オーディションに来た女性に一目ぼれして交際し、1958年に結婚。だが、生活は苦しく、妻の唯一の楽しみであるラジオを修理に出してしまったため、当時大阪に出現していた「アパッチ族」をモデルにした空想小説(カレル・チャペック『山椒魚戦争』にインスパイアされている)を書いて、妻の娯楽にあてた。この作品が、後の長編デビュー作『日本アパッチ族』の原型となった。
三浦浩に知らされて1959年12月に早川書房が創刊した『SFマガジン』創刊号と出会い、ロバート・シェクリイの「危険の報酬」に衝撃を受け、自分もアメリカ流のサイエンス・フィクションを書こうと決意する。1961年、早川書房主催の第1回空想科学小説コンテスト(ハヤカワ・SFコンテストの前身)に、「小松左京」のペンネームで応募した「地には平和を」が努力賞に入選。筆名の「左京」は、姓名判断に凝っていた兄から「五画と八画の文字を使えば大成する」と助言を受け、「左がかっていた京大生だから」ということで「左京」を選んだ。「地には平和を」は『SFマガジン』には掲載されず、入会したSF同人誌『宇宙塵』に掲載された。翌年の第2回SFコンテストで『お茶漬けの味』が第三席となったが、編集長の福島正実からはすでに評価されており、それを待つことなく『SFマガジン』(1962年10月号)に掲載された『易仙逃里記』でデビューし、常連に加わる。
1963年、日本SF作家クラブの創設に参加(1980年-1983年に星新一、矢野徹に続いての三代目会長)。盛んに上京し、SF作家仲間たちと交流した。
1963年『オール讀物』に「紙か髪か」が掲載され、中間小説誌デビュー。吉田健一や扇谷正造に絶賛される。同年、短編集『地には平和を』を刊行し、1963年度下半期の直木賞候補となった。1964年、光文社から処女長編『日本アパッチ族』を刊行。
1964年には加藤秀俊、梅棹忠夫らと共に『「万国博」を考える会』を結成し、大阪万博のテーマや理念を検討。1967年にはモントリオールでひらかれていた世界博を視察。加藤、粟津潔、泉眞也らと、万国博の娯楽施設のプランも作った。
また、このメンバーらで未来学も話題となり、1968年の「日本未来学会」の創設に、梅棹忠夫、加藤秀俊、林雄二郎、川添登と参加する。他に小松、加藤、川添、川喜田二郎の4名で「KKKK団」と名乗り、1966年に雑誌『文藝』に連続対談を5回連載した。1967年には「KKKK団」の4名の共著の著書として『シンポジウム未来計画』(講談社、小松左京編著)を刊行した。
1964年から始まった近畿ローカルのラジオ番組「題名のない番組」(ラジオ大阪)や「ゴールデンリクエスト」(近畿放送(現:京都放送))で桂米朝らと知的で快活なトークを交わしたが、そこにあった常連リスナーからの投稿からアイデアを得て「蜘蛛の糸」「海底油田」「四次元ラッキョウ」などの多くの掌編をなした。彼の掌編はこの時期に集中している。
1965年にはベ平連創立時の「呼びかけ人」になった。1966年には、東京12チャンネルに勤務していたばばこういちが主宰で、「ベトナム戦争についてのティーチ・イン」を行った際、小松は小田実や開高健らとともに参加し、ベトナム戦争反対論を論じた。このイベントは、あまりに反戦論者が多かったため放送されず、ばばは、東京12チャンネルを退社した。
1970年には「国際SFシンポジウム」を主宰。米・英・ソ等のSF作家を日本に招き、アーサー・C・クラーク、ジュディス・メリル、フレデリック・ポール、ブライアン・オールディスらが参加した。また、同年の日本万国博覧会ではサブ・テーマ委員、テーマ館サブ・プロデューサー(チーフ・プロデューサーは岡本太郎)を務めた。「太陽の塔」内の展示を、岡本太郎と考え、DNAの巨大な模型を作り、生物の進化を現すようにした。また、地下スペースに、石毛直道らが収集した世界中の神像や仮面を展示。そのコレクションが、1977年オープンの国立民族学博物館の元となった。
1980年には、日本SF作家クラブ会長として、徳間書店をスポンサーとした「日本SF大賞」の創設に尽力。1981年1月発表の第1回受賞作には、科学を主題にした、本格的なハードSF短編集である堀晃の『太陽風交点』(早川書房、1979年)を強く推して、受賞させた。
1980年前後、東宝からのオリジナルSF映画の企画依頼に応じ、多数のSF作家を招いてブレーンストーミングを重ねたのち、小説を先行させて『さよならジュピター』を発表。映画化に際しては新会社を設立して自ら総監督兼脚本を務め、名目上だけではなく完全な陣頭指揮を取った。必ずしも好評価にはつながらなかったが多くのSF作家を育てた。
1986年、自身を投影した老科学者が宇宙へ飛び出し果てしない旅を続ける『虚無回廊』を執筆。この作品は結局未完となる。
1990年の国際花と緑の博覧会では博覧会の総合プロデューサー(泉眞也、磯崎新と共同)として活躍。また、5回にわたり「大阪咲かそ」シンポジウムのプロデュースを担当するなど執筆以外の活動も多岐にわたっている。これらのプロジェクトの経験は、のちに、著書『巨大プロジェクト動く』にまとめている。
2000年より角川春樹事務所が主宰で小松左京賞が設立され、選考委員を務めている(2009年の第10回をもって休止)。
2001年より同人誌『小松左京マガジン』を主宰。毎号巻頭には編集長インタビューとして小松と著名人との対談が掲載されていた。
1993年に小林隆男によって発見されていた小惑星 (6983) が、2002年に「Komatsusakyo」と命名された。
2006年7月からは『小松左京全集完全版』(城西国際大学出版会刊)の刊行も始まった。この全集はハードカバーとしては日本で初めてオンデマンド印刷で作られることでも注目されている。2000年1月にはすでにオンラインで注文した作品を組み合わせてオンデマンドで印刷する『オンデマンド版・小松左京全集』(BookPark) が開始されている。
2007年に日本で開催されたワールドコン 第65回ワールドコン/第46回日本SF大会Nippon 2007にはデイヴィッド・ブリンと共に作家ゲスト・オブ・オナーとして招待された。
2008年には、『小松左京自伝 実存を求めて』が刊行された。
2011年7月26日午後4時36分、肺炎のため大阪府箕面市の病院で死去。80歳没。 没後、『復活の日』に登場するアメリカのアマチュア局のコールサイン「WA5PS」が誰にも割り当てられておらず空いていることが判明、小松左京事務所に許可を求めた上で「小松左京記念局」として免許された。
2019年10月12日より12月22日まで、世田谷文学館にて、展覧会『小松左京展―D計画―』が開催された。D計画とは『日本沈没』の作中で遂行されるプロジェクト名から来ている。
民族学者の梅棹忠夫は1963年、「情報産業論」を発表。センセーションを巻き起こした。小松は共に『放送朝日』に執筆していたのが縁で梅棹と知り合い、1963年の終わり頃、梅棹を中心にできた私的研究会に、小松も喜んで加わった。メンバーは、林雄二郎、川添登、加藤秀俊それに小松で、林は当時経済企画庁の経済研究所所長、川添は建築評論家、加藤は京都大学教育学部の助教授だった。このメンバーを主体に若手研究会による私的研究会「万国博を考える会」が結成される。小松は当初、知的好奇心によるプライベートな集まりの研究を目的としており、国家プロジェクトとしての万博に関わるつもりはなかった。
1995年1月に発生し、小松自らも被災した阪神・淡路大震災の際にはテレビ局のインタビューに答えて、視聴者のリクエストとヘリコプターなどの現場取材を連携させたライブによる安否情報の発信を提案した。いくつかのテレビ局が実際に試みたが、被害範囲が広すぎたことと、リクエストの信憑性を検証できないという指摘を受け、あまり成果を挙げないまま中止された。
ある高名な学者に、高速道路がなぜ倒れたかを共同で検証したいと申し入れたが、学者は「地震が予測をはるかに超えていただけ。私たちに責任はない」と言われ信じられない思いを受けた。
小松は『小松左京の大震災'95』を1996年6月に刊行し、震災の教訓として防災情報の共有化や、温かみのある復興の大切さを書いた。その後は、もう何もする気力がなくなり、鬱病をわずらったという。2000年ごろようやく回復。その後も小松自身は震災からの復旧活動に積極的に関与していた。
2011年3月11日に発生した東日本大震災では「唯一の被爆国の国民として、SF作家になった人間として、事実の検証と想像力をフルに稼働させて、次の世代に新たなメッセージを与えたい」との言葉を残した。復興を願い、「これから日本がどうなるのんか、もうちょっと長生きして、見てみたいいう気にいまなっとんのや」と記していた。また、『3・11の未来 日本・SF・創造力』の序文を寄せている。
最大のベストセラーになったのは1973年に光文社から刊行された『日本沈没』で、社会現象とまでなった。刊行前は「長すぎて売れない」と出版社側からは言われていたが、3月に発売すると驚くほどの売れ行きを示し、その年末までに上下巻累計で340万部が刊行された。福田赳夫や当時首相だった田中角栄も、この本を読んだという。
最初はタイトルは『日本滅亡』にするつもりだったが編集者が『沈没』を提案した。
1964年に世に現れた電卓であるが、小松はこれをすぐに導入し「使いまくって」、『日本沈没』を書いた、という。2011年7月29日の毎日新聞「余録」には13万円の電卓、とあり、同年11月24日のNHK『クローズアップ現代』では、小松の電卓としてキヤノンのキヤノーラ1200(12万6千円)が紹介された。別モデルと思われる話もあり、安田寿明によれば、37万円ほどの標準品を買い「目の玉が飛び出るほど高かったが、あれを使いまくったおかげで『日本沈没』が書けた」と小松は語ったという。また、1979年に発売された初の国産ワープロである東芝のJW-10(630万円)も、いち早く一号機を小松左京事務所で使用していたが、その後、携帯できないことなどを理由に手書きに戻っている。
『日本沈没』は「第一部完」として発売され、第二部は「世界に流浪した日本人たちの運命」を描く予定であったが、「日本人」としての固有性を守るべきか、「国土を失った民族としてコスモポリタニズムに貢献」すべきか小松に迷いが生じ、執筆されなかった。後に高齢を理由に小松自身による執筆は放棄され、2003年11月から続編を作成するプロジェクト・チームが作られた。執筆は谷甲州が担当し、2006年7月に『日本沈没 第二部』が刊行された。
SFマガジンでのデビュー以来、様々なジャンルにわたる多数の長短編作品やショートショートを世に送り出し、日本のSFを牽引した。その作風は人類の運命を描くハードコアSF(本格SF)から、ポリティカル・フィクション、タイムトラベル物、歴史改変小説やパラレルワールド物、スラップスティック、アクション物、SFミステリ、ホラー、エロティックな作品、寓話的な作品やファンタジーに至るまで幅広い。
あまりの多面さに作風を一面的に断じる事は出来ないが、当時先端の科学や政治経済の知識を駆使し、プロットの練られた『日本沈没』『首都消失』のような作品から、下町を背景に描いた『コップ一杯の戦争』、日本を始めとする各種神話に取材した作品まで、非SFである歴史小説、中間小説(奇妙な女たちを描く短編「女シリーズ」や、古典芸能の知識が結実した「芸道小説」シリーズなどがある)も含めサイバーパンク以前のほぼ全てのジャンルに手を付けたといっても過言ではない。また、非SFでも、あくまで「SF作家としての視点」から作品が構想されていることが、『小松左京自伝』に収録されている「自作解説」から分かる。
小松作品では純粋で正義感の強い青年が主人公を務めることが多い。これは、しばしば並び称される星新一、筒井康隆らには全くといっていいほど見られない特徴で、時おり人情、情緒、官能などをたっぷりと描く傾向も同様である。この辺りが小松作品に独特の熱っぽさと艶を与えている。
ソ連のSF作家イワン・エフレーモフの社会主義的SF論に対抗して書いた「拝啓イワン・エフレーモフ様」(巽孝之編『日本SF論争史』勁草書房に収録)をはじめとした、数々のSF論で「科学技術が、人間社会や人間の存在自体を変えてしまう時代の、『本流文学』としてのSF」を一貫して主張し続けている。ただし、この小松が理想とするSFは、小松ほどの博覧強記な作家でしか、書き得ないともいえる。
その他にも、日本各地や世界各地を旅しての文明論や、日本文化論、科学エッセイなどの、ノンフィクションも多数執筆しているが、これらについても「SF作家としての視点」からの壮大な視点から書かれている。
精力的な執筆で知られたが、健康問題もあり50代後半以降の創作はきわめて少ない。54歳から執筆開始された最後の単独執筆長編『虚無回廊』も未完に終わった。
筒井康隆は「小松左京論」において、一般の作家は個別のアイデアを元に作品を個体発生させていくのに対し、小松はテーマを先に決め膨大な知識でアイデアを系統発生させて作品を仕上げていくテーマ敷衍型の作家であると評している。筒井はそれを、知識のたくさん詰まった長持をがらがっちゃがっちゃとぶちまける、といった風に表現している。。
広範な領域での業績と旺盛な活動力を岡田斗司夫、唐沢俊一らは「荒俣宏と立花隆と宮崎駿を足して3で割らない」と評している。
批評家の東浩紀は「小松は、戦後日本を代表する娯楽作家だっただけではない。また日本SFの創設者だっただけでもない。小松はそれよりもなりよりも、まずは知識人であり教養人であり、その溢れる知性に文学というかたちを与えるとき、SFという表現形式を見出したひとりの思索者だったのだ」と考える。
代表作には、時間と空間をまたにかけた壮大な長編『果しなき流れの果に』(1966年)が挙げられる。この作品は1997年の『SFマガジン』500号記念号で発表された、「日本SFオールタイムベスト」において長編部門1位を獲得した。さらに短編部門では同じく小松作品の「ゴルディアスの結び目」が1位になった。
初期長編では、娯楽色と思索性を高いレベルで両立させたSFミステリ『継ぐのは誰か』の人気も高い。山田正紀がこの作品を青春小説として評価している。
中国のベストセラー小説『三体』の著者・劉慈欣は小松左京作品を愛読しているという。
『日本沈没』、『復活の日』、『エスパイ』、『首都消失』などが映画化されており、特に1984年公開の『さよならジュピター』は単に原作提供にとどまらず、新たに「株式会社イオ」を設立して映画製作に出資。小松自身も総監督として現場の指揮を執り、最新のCGを駆使して特撮場面をとるほどの、力の入れようだった。テレビにも映像化作品は多く、中にはテレビオリジナル作品もある。2006年には、『日本沈没』が、現代にあわせてリメイクされ、映画として公開された。
一方、文壇からの正当な評価、評論は特になく、『小松左京自伝』においては、「開高健や北杜夫ぐらいにしか、自分の文学を評価してもらえなかった。せめて、(非SFである)『芸道小説』ものでは、直木賞をくれないかなと思った。」「現在でも、社会や文壇が、SFを十分に認知しないことへの、いらだちがある」と、無念さを吐露している。また同書には、「一貫して、宇宙における文学の意味、宇宙における人類の意味を考えてきた」という発言があり、他のSF作家とは連帯しきれない、小松なりの孤独な問題意識が書かれている。この小松ならではの文学的な問題意識が共有できたのは、SF作家仲間よりもむしろ開高健、高橋和巳であったとも書かれている(ただし、開高は後年小松作品を「もたれる」と評し、筒井康隆から人格批判にまで至る激烈な反駁を受けている)。また、角川文庫版『牙の時代』解説で、中井英夫は端正に彫琢され面白い物語に徹した最初期短編を至上とし、政治的、文明批評的な饒舌が溢れる作風に転じたことを強く批判(同書収録作もそれらに含まれるため異例の解説である)。親交のあった三島由紀夫が「日本アパッチ族なんて、あんなもの書きやがって」と、同意を示していたことを記している。ただ、小松が広範な人気を獲得していったのは『日本アパッチ族』以降であることも事実である。
尋常でない好奇心を持っていた。ある日舗道を歩いていると「なんなんだ、中身は」と言いながら道路を横切り、小さな洋食屋の「ランチはじめました」の紙に書かれたメニューの中身を確かめに飛んで行ったのである。小松の知識と情報量を支えているのはこの原子力発電所や量子力学、プレートテクトニクスから街の洋食屋のランチにいたるまで完全に同等な好奇心であった。
小松は「SF」というジャンルに誇りを抱いていた。SFならばあらゆる表現が可能になる。むしろ、これからはあらゆる表現がSFになるというのが彼の信条だった。
速筆でマージャンで1人余って抜けてる間に原稿用紙に手書きで1時間ほどで20枚程度書き、また雀卓に戻っていった。
関西の官僚や財界人たちともブレイン役として交際し、「湾岸道路の建設」「関西新空港の整備(現:関西国際空港)」「研究学園都市の創設(現:けいはんな学研都市)」などを提案した。また、彼らとの交流で、祇園などの花街を体験し、「芸道小説」シリーズなどに結実している。ユーモラスな一面もあり、『SF作家オモロ大放談』では、自分の精液をフライパンで焼いて食べたことがあると語っている。1970年頃はよく太っていて、ラジオなどでも自称メガネ豚と言っていた。
生まれ育った関西に愛着を持ち、関西を盛り上げるためのさまざまな活動を行った。1977年から1982年には大阪フィルハーモニー交響楽団のイベント「大フィルまつり」の企画・構成を担当。1978年には、「関西で歌舞伎を育てる会」(現:関西・歌舞伎を愛する会)の代表世話人になり、20年以上つとめた。また、かんべむさし、堀晃などの関西出身の後輩SF作家たちにも、目をかけた。また、『大阪タイムマシン紀行』 『わたしの大阪』 『こちら関西』 『こちら関西・戦後編』など、関西をテーマにした著書も多数ある。
マージャンの腕はかつて業界記者をやってたころ修羅場のようなシビアなマージャンを経験したおかげでとにかく強かった。
ヘビースモーカーであったため、紙巻きタバコを手にした写真が多数残されている。
角川書店の編集局長時代に交流があった角川春樹は、「頭の回転が速く教養も深かったが、後年はその面影がすっかり薄れましたね」「最大の原因は大量の酒です。昼間からウィスキーグラスを手にするほどの酒豪で、酒で作家生命を縮めたことが残念でしたね」と証言している。
※新潮文庫などのオリジナル文庫本には再収録傑作選が多数含まれる。
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