旧制中学校(きゅうせいちゅうがっこう)とは、太平洋戦争後の学制改革より前の日本における、高等教育機関(旧制高等学校など)への進学を望む男子が、尋常小学校(6年制)を経て進学する学校(5年制)。ただし、同時代の呼称はあくまで「中学校」である。
女子に対する同じ位置付けの学校は高等女学校(4年制)である。旧制中学校と高等女学校は、戦後に普通科の高等学校に移行した例が多い。
なお、名称が似ている旧制中等学校(きゅうせいちゅうとうがっこう)は、旧制中学校、高等女学校、実業学校(現在の商業高等学校などに相当)などを包括する概念である。
旧制中学校は、中学校令(明治19年勅令第15号および明治32年勅令第28号)に基づき、各道府県に少なくとも一校以上の規定で設立された。第二次世界大戦後の学制改革までの期間存在し、高等普通教育(現在でいう後期中等教育、新制高等学校・中等教育学校後期課程の段階に相当する)を行っていた。
入学資格は尋常小学校(後に国民学校初等科に移行)を卒業していることであり、修業年限は5年間であったが、1943年(昭和18年)に制定された中等学校令(昭和18年勅令第36号)によって4年間に短縮され、戦後再び5年間に戻された。
開始時(修了時)の年齢 → | 12歳(13歳) | 13歳(14歳) | 14歳(15歳) | 15歳(16歳) | 16歳(17歳) | |
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旧制 | 国民学校 | 高等科1年 | 高等科2年 | 特修科 | ||
中学校 | 1年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | |
高等女学校 | 1年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | |
実業学校 | 1年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | |
青年学校 | 普通科1年 | 普通科2年 | 本科1年 | 本科2年 | 本科3年 | |
高等学校 | 尋常科1年 | 尋常科2年 | 尋常科3年 | 尋常科4年 | 高等科1年 | |
師範学校 | 予科1年 | 予科2年 | 予科3年 | |||
大学 | 予科1年 | |||||
新制 | 中学校 | 1年 | 2年 | 3年 | ||
義務教育学校 | 7年 | 8年 | 9年 | |||
高等学校 | 1年 | 2年 |
1918年(大正7年)の高等学校令改正以降、戦後の学制改革に至るまで、旧制中学校(5年制)の4年生は、卒業を待たずに(1年の飛び級をして)、上級学校たる高等教育機関(高等学校、大学予科、高等師範学校、専門学校、陸軍士官学校、海軍兵学校、高等商船学校など)に進学できた(四修)。第一高等学校、第三高等学校、陸軍士官学校、海軍兵学校、東京商科大学予科などの難関校(「一高三高陸士海兵」などと列挙した)に四修で進学するのは秀才の誉れであった。全国の高等学校(最終的に38校)の全入学者に占める四修の比率は2割弱で推移した。
旧制中学校(5年制)2年修了で師範学校に進学できた。
1947年(昭和22年)4月の学制改革によって、現在の中学校制度ができると県立・市立の旧制中学校は募集を停止し、私立校の大半や国立校の大半で現行制度の中学校が設置された。また新制度移行のための暫定的な措置として県立・市立の旧制中学校にも新制中学校が併設され(以下・併設中学校)、1947年(昭和22年)3月時点で旧制中学校1年・2年の生徒が収容され、併設中学校の2・3年生となった。
1948年(昭和23年)3月末をもって旧制中学校は廃止され、4月に新制高等学校(現在の高等学校)が発足した。併設中学校は新制高等学校に継承され、併設中学校卒業者は高校1年生となり、3月時点で旧制中学4年生は高校2年生に、旧制中学卒業者のうち希望者は高校3年生へ編入した。この併設中学校は旧制中学校最後の入学生の卒業とともに1949年(昭和24年)3月31日をもって廃止された。
1946年度 (昭和21年度) | 1947年度 (昭和22年度) | 1948年度 (昭和23年度) | 1949年度 (昭和24年度) | 1950年度 (昭和25年度) | 1951年度 (昭和26年度) | |
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学制改革 旧制中学校の募集を停止 新制中学校が発足 新制中学校を併設 | 学制改革 旧制中学校を廃止 新制高等学校が発足 年度末で併設中学校廃止 | |||||
1943年(昭和18年)入学生 | 旧制中学4年 | 旧制中学5年 | 新制高校3年 | |||
1944年(昭和19年)入学生 | 旧制中学3年 | 旧制中学4年 | 新制高校2年 | 新制高校3年 | ||
1945年(昭和20年)入学生 | 旧制中学2年 | 併設(新制)中学3年 | 新制高校1年 | 新制高校2年 | 新制高校3年 | |
1946年(昭和21年)入学生 | 旧制中学1年 | 併設(新制)中学2年 | 併設(新制)中学3年 | 新制高校1年 | 新制高校2年 | 新制高校3年 |
旧制中学校は第二次世界大戦終結後の占領統治下における民主化政策に従って定められた学校教育法の下で新制の高等学校へ転換され、公立校の多くは共学化された。しかし、一部地域(北関東・東北など)では共学化は必ずしも徹底されたわけではなく、さらに、私学の大半は男子校や女子校のまま新制中学校・高等学校へと移行している。また、新制高等学校へ転換時に近接する旧制中学校・女学校と統合された学校や、生徒・教員の相互交流(入れ替え)を行ったところなどもある。なお、東北地区の公立男女別学校は21世紀に入り共学化している。
1947年(昭和22年)の学制改革後、旧制中学校の後身となった高等学校は現在も地域の中核校・伝統校として難関・進学校としての地位にある場合が多い。しかし、長い時間を経て交通環境や、新設校の整備等の環境の変化のほか、伝統の否定ないし、伝統の継承を難しくする制度改革が行われたことによって、その地位を低下させた学校も少なくない。実際、総合選抜制度や学校群制度の導入された地域では、対象となった公立高校の多くでは、高い実力を持つ生徒が当該校の受験を回避した結果として、名門公立高校の進学実績が低迷すると同時に、私立高校や近隣の新設校の進学実績が著しく伸びるといった事例が見られた。このように、必ずしも旧制中学校を前身とする伝統校が、現在においても進学実績で上位にあるというわけではない。
もっとも、そのように地位を低下させた場合であっても、新設校と比べて一定の優位性を持っていることも少なくない。例えば、東京都の場合は2001年以降、石原慎太郎東京都知事(当時。2012年に任期途中で退任)のもと「都立復権」をスローガンとした都立高改革が実施されたが、都立ナンバースクールで東大進学実績の上位を占めていた1950年代から60年代ほどではないものの、日比谷高校や西高校などの伝統校が難関・進学校として地位を向上させている(都立高等学校参照)。他にも愛知県では、1989年の学校群制度廃止後、複合選抜制とよばれる、一定の学校の組み合わせであれば、生徒が自由に志望順位をつけた上で2校受験できる制度が導入されたが、これによって伝統校の復活がみられた。この時、伝統校の明和高校と高度成長期に新設された千種高校はその2校受験が可能な組み合わせであるが、学校群制度期には圧倒的に千種高校の方が明和高校よりも高い進学実績を持っていたにもかかわらず、複合選抜制度2期生が大学受験した1993年には、既に進学実績で明和高校が千種高校を東大京大ともに凌駕し、その後一度も逆転されていない。また、学校群制度導入以前に絶対的であった旭丘高校は学校群制度導入によってやや地位を低下させ、一時的に千種高校に実績で抜かれたこともあったものの、今日に至るまで愛知県のトップ進学校の一角である。これらは、受験生の受験校選択の価値観や政策等の背景事情等を総合的に勘案した優位性が伝統校にあることを示しているものとされている。
1931年までは、1-3年は、国語、漢文、外国語(英語、ドイツ語、フランス語)で全時間の過半を占め、他に、歴史、地理、数学、博物(動植鉱物)、修身、図画、唱歌、体操があり、4・5年で、物理、化学、法制、経済が加わり、図画・唱歌の代わりに数学の比重が高かった。
父兄の職業 | 人数 (5学年の合計) |
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文官 | 51 |
武官 | 22 |
学校教師 | 92 |
弁護士 | 10 |
医師 | 33 |
銀行会社員 | 68 |
農業 | 7 |
工業 | 3 |
商業 | 40 |
その他 | 65 |
合計 | 391 |
右の表は旧制東京高師附属中学校(現・筑波大附属中・高)における、1925年5月1日当時の親の職業別人数表である。
旧制中学校は明治32年勅令第28号中学校令改正で「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以テ目的トス」と位置づけられたエリートの登龍門としての役割があり進学率は非常に低かった。理由として、男子は、農業・工業などの産業従事や、兵役といった事態に際しての即戦力になる者が多く求められていて、旧制中学進学というエリートコースを制限する必要があったからである。
明治時代、中学や高等教育機関に進学する者は華族、身分が高めの上位士族、地主、豪商やそして、新しく生まれてきたブルジョアとプチブル階層の出身者にほとんど限定されていた。例えば、旧制唐津中学校(現・県立唐津東中・高)ボート部の唐津湾東部、志摩船越沖での遭難事故の記事(1905年4月30日 (日) 発生、『佐賀新聞』1905年5月3日朝刊2頁)によると、「死者8人、生存者1人のうち、士族が5人、3人が平民、不詳が1人」となっていた。
大正デモクラシーの時代になると中学進学が一般市民の間にも広がってきた。第一次世界大戦後、都市住民子弟の、中学校・高等女学校・実業学校といった旧制中等教育学校への進学熱は急速に高まってきたが、それでも一般大衆にはまだまだ「高嶺の花」だった。
当時のインテリ層の中核である小学校教員の月収が1929年の段階で46円ほどなのに、市立東京一中(現・区立九段中等学校)など東京の市立中学の入学年次における学費は直接経費だけでも146円19銭もあった。このため、せっかく入学できても中途退学を余儀なくされる者は入学者の1/3にも達した。
この状況を当時の文部省は次のように考えていた。
「半途退学者の中にはその他の事由によるというのが約3分の1近くを占めている。この中には落第して原級に留まっている者も多少含まれているが、然しこの大多数は一定の方針もなく只漫然と入学した者で、父兄にその責任がある。もし世の父兄の考えがもっと着実になって、出鱈目な入学に目覚め、半途退学者の数を減らすことが出来たなら、今日の試験地獄は著しく緩和されるであろう」 — 『読売新聞』1929年12月10日
また、高等師範学校(現・筑波大学)及びその附属学校(現・筑波大附属小や筑波大附属中・高)の校長と、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)校長を務めた山川浩は、1887年、高等師範学校の附属学校について次のように述べている。
「附属校園は全国学校の模範たるべきものである。然るに規律なく乱雑では仕方ないから、之を改革するために努力せよ。その為には全生徒に退学を命ずるもよし、或いは授業料を三倍にし、従来の生徒の此の校に居るのをひかせるのもよい」
(当時の授業料は五十銭であり、その頃生徒は六百数十名であったが、授業料の値上げをしても殆ど全部の者が在学を望む有様であったから、資金が沢山出来たので良い教師を招聘して大いに校風を振起した) — 『桐陰会創立二十周年記念号』1910年(明治43年)12月
つまり、所得の低い一般人の子弟は中学に行くなと考えていたのである。
皮肉なことに、日中戦争による戦時景気で一般の人々でも中学に進学できるようになった。それでも、旧制中等教育学校への進学率は13%前後に過ぎず、特に、中学入学者についてみると進学率は8%くらいだった。農村からの進学者は地主の子弟が主で、村で1人か2人くらいしかいなかった。農村の二男三男は小学校6年卒あるいは高等小学校2年卒で町工場へ出稼ぎに出るのが当たり前だった。
反面、旧制中学校に比べ高等女学校の設置数は多く、女子の方が普通中等教育を受けるだけの門戸は広かった。社会進出が制限されていた女子の進学をわざわざ制限する必要性がない上に、いわゆる「良妻賢母」教育は社会の要望に合致していたからだと思われる。
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