吉田 健一(よしだ けんいち、1912年(明治45年)4月1日 - 1977年(昭和52年)8月3日)は、日本の文芸評論家、英文学翻訳家、小説家。父は吉田茂、母・雪子は牧野伸顕(内大臣)の娘で、大久保利通の曾孫にあたる。
「英国の文学」(1951年創元文庫版)における著者近影 | |
誕生 | 1912年3月27日 東京市渋谷区千駄ヶ谷 |
死没 | 1977年8月3日(65歳没) 東京都新宿区払方町34 |
墓地 | 横浜市・久保山墓地 |
職業 | イギリス文学者 |
言語 | 日本語・英語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | ケンブリッジ大学・キングズカレッジ中退 |
活動期間 | 1935年 - 1977年 |
ジャンル | 文芸評論、翻訳、エッセイ |
代表作 | 『瓦礫の中』(1970年) 『ヨオロッパの世紀末』(1970年) 『日本に就いて』(1974年) 『時間』(1976年) 『定本落日抄』(1976年) |
デビュー作 | 『英国の文学』(1949年) |
配偶者 | 信子(旧姓 大島) |
子供 | 吉田健介(長男、物理学者) 吉田暁子(長女、翻訳家) |
親族 | 吉田茂(父) 吉田雪子(母) 牧野伸顕(母方の祖父) 吉田健三(戸籍上の父方の祖父) 竹内綱(血縁上の父方の祖父) 吉田桜子(姉) 麻生和子(妹) 正男(弟) 麻生太賀吉(義弟、和子の夫) 麻生太郎、麻生泰(甥) 相馬雪子、荒船旦子、寬仁親王妃信子(姪) |
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誕生日については、戸籍上は4月1日だが、吉田家では3月27日に祝っていた。ケンブリッジ大学中退。英文学、フランス文学を軸とするヨーロッパ文学の素養をもとに評論や小説を著した。イギリス文学の翻訳を多数行っている。父と親交の深かった長谷川如是閑の肝いりで、中央大学文学部教授(英文学)を一時期務めた。
1912年(明治45年)、東京千駄ヶ谷宮内省官舎に生まれた。父の茂は当時外交官としてヨーロッパにおり、母雪子も出産後茂の元へ向かったため、健一は6歳まで母方の祖父でもある牧野伸顕に預けられた。1918年(大正7年)、4月、学習院初等科に入学したが、父に随い青島へ行き、その後、1919年パリ、1920年ロンドンに赴く。ストレタム・ヒルの小学校に通う。1922年天津に移り、イギリス人小学校に通う。1923年(大正12年)、夏休みの一時帰国時に箱根に滞在。大震災の影響を免れる。1926年(大正15年)、天津の学校より暁星中学へ2年次編入、1930年(昭和5年)3月に同校を卒業し、10月、ケンブリッジ大学キングズ・カレッジに入学した。同カレッジのフェロウであるG・ロウェス・ディッキンソン、F・L・ルカスらに師事。また同カレッジの学生監ジョージ・ライランズのジョン・ダン講義などに出席。ケンブリッジ時代に、それまでもあった濫読癖が刺戟され、ウィリアム・シェイクスピアやシャルル・ボードレール、ジュール・ラフォルグなどに熱中した。しかし、自分は「日本に帰ってから文士になる積り」だが、十代の終わりの時期を「英国で文学の勉強をして過ごすことがどの程度に役に立つものが疑問に」なり、冬のある日に日本に戻ることをディッキンソンに告げた。ディッキンソンは即座に了承し、「或る種の仕事をするには自分の国の土が必要だ」と語った。そこで1931年(昭和6年)3月に中退し、帰国途中ローマに赴任していた父親を訪ねて経過を報告。その後ロシアからシベリア鉄道で日本に着いた。同年、親戚の病気見舞に行き、河上徹太郎と識り、以後河上に師事した。しばらくしてアテネ・フランセへ入り、フランス語、ギリシャ語、ラテン語を習得した。
1935年(昭和10年)6月アテネ・フランセを卒業。同年、ポーの『覚書』の訳を刊行、その後『文學界』への寄稿を始め、当初はフランス文学の翻訳やフランスの時事文化の流行紹介を行う。1937年(昭和12年)夏、中村光夫と識る。1939年(昭和14年)1月、最初の評論「ラフォルグ論」を文學界に掲載。同年7月より祖父・牧野伸顕の談話記録を「松濤閑談」の題で文藝春秋に連載。同年8月、中村光夫、山本健吉、伊藤信吉らと文芸同人誌『批評』を創刊。1941年(昭和16年)5月、野上豊一郎・彌生子夫妻の媒酌で大島信子と結婚。同年12月より『批評』にヴァレリーの「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法論序説」翻訳を連載。1944年(昭和19年)5月の発行で『批評』を表向き廃刊とする。1945年(昭和20年)5月に、海軍横須賀海兵団に二等主計兵として一度召集されるも、そのまま敗戦復員し福島に住む。同年10月上京。1946年(昭和20年)5月に鎌倉市に転居。7月より牧野伸顕の談話記録『回顧録』を、中村光夫と協力し文藝春秋に掲載(文藝春秋新社で出版。年譜作成は従叔父の大久保利謙。後年に中公文庫で再刊)。
1948年(昭和23年)に中村光夫、福田恆存と3人で始めた各界の専門家を客人として招いた集いが「鉢の木会」に発展する。
主な交友関係には戦前からは河上や中村光夫・横光利一の他に、石川淳・大岡昇平・小林秀雄・白洲正子・福原麟太郎・神西清・福田恆存、戦後は三島由紀夫・ドナルド・キーン・篠田一士・丸谷才一らがいる。
1949年(昭和24年)4月、折口信夫による招請もあり、國學院大學非常勤講師となる。同年5月より日英交流のための団体、あるびよん・くらぶに参加。1951年(昭和26年)5月、チャタレイ裁判の弁護側証人として法廷に立つ。1953年(昭和28年)1月、東京都新宿区に転居。同年8月に福原麟太郎・河上徹太郎・池島信平と戦後初の渡英旅行。1958年(昭和33年)10月、同人雑誌『聲』発刊に参加。1960年(昭和35年)2月、河上徹太郎と金沢へ。以後吉田死去の年までの年中行事となる。同年12月、亀井勝一郎編集『新しいモラルの確立』に「信仰への懐疑と否定」を掲載。1963年(昭和38年)4月から1970年(昭和45年)3月まで中央大学文学部教授。1969年(昭和44年)7月号で創刊した『ユリイカ 詩と批評』で「ヨオロツパの世紀末」を連載開始。
同年から毎年多くの著作を刊行し続けていたが、1977年(昭和52年)にヨーロッパ旅行中に体調を崩し帰国即入院 、回復退院したが、8月3日に新宿区の自宅で亡くなった。戒名は文瑛院涼誉健雅信楽居士。同年8月5日、葬儀は近親者・友人のみで密葬が執り行われ、友人代表として挨拶した河上徹太郎はラフォルグの詩『簡単な臨終』の一節を誦んだ。
墓は神奈川県横浜市の久保山墓地にある。以前は父母とは同じ墓に入らず養祖父である吉田健三の墓に眠っていたが、1998年(平成10年)に娘の暁子によって改葬され、墓石の文字は中村光夫によって書かれた。新宿の邸宅は、健一の死後、2016年に売却されるまで娘の暁子(主にフランス語書籍の翻訳に携わる)が居住していた。
2016年には遺族から資料約5700点が神奈川近代文学館に寄贈され「吉田健一文庫」として保存されている。
2022年4月2日から5月22日、神奈川近代文学館にて特別展「生誕110年 吉田健一展 文學の樂み」が開催された。編集委員は富士川義之。初めての大規模回顧展で、ケンブリッジ大学で指導を受けたルカスあての書簡や、展覧会の準備中に発見された吉田満『戦艦大和ノ最期』の異稿が初公開されたほか、鉢の木会の様子がわかる写真や書簡などが展示された。
ピチカート・ファイブのメンバー小西康陽がエッセイ「長崎」の一節をしばしば引用し、トリビュート・アルバムのタイトル(『戦争に反対する唯一の手段は。-ピチカート・ファイヴのうたとことば-』)にも使われている。
「戰爭に反對する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでもこだはつて見た所で、誰も救はれるものではない。長崎の町は、さう語っつてゐる感じがするのである。」
また、後期の谷崎潤一郎の作風に大きな影響を受け、吉田健一の後期の文章に見受けられる句読点が極端に少なく息の長い官能的な文章には、谷崎へのリスペクトの影響がある。
生涯犬を愛し、もる、さぶ、彦七、三匹の雑種を飼った。全て牝犬だったが、「音が可愛いから」という理由で命名した。散歩や餌やりなど、自ら面倒をみた。『埋もれ木』が単行本になった時に献辞を「彦七に」とした。新宿区払方町の家の寝室のクローゼットの上に、彦七の小さな骨壺を大切に置いていた。年齢を理由に、三代目の彦七の死後、犬は飼おうとしなかった。
戦後復興の時期に首相だった父・吉田茂の実像を最もよく知る人物であるが、父の思い出を語ることは多くなかった。一説には、1941年10月の母・雪子の死後、父が長年関係があった新橋の芸者「こりん」こと坂本喜代(のち喜代子と称する)を、事実上の後妻として迎えたことに健一が反発していたからだと言われている。『佐藤栄作日記 第三巻』(朝日新聞社)によると、1967年秋の吉田茂没後は妹麻生和子(父の私設秘書として常に傍らにいた。元首相麻生太郎の母)とは、余り折り合いは良くなかったようである。
復員後、酔って水兵服姿で父の官邸を訪れ、警備の警察官に追い払われたことがある。
父の影響もあってシェリー酒が大好きで『饗宴』の中には現存する銘柄も多く挙げられている。またその手軽さから遠方への移動にもシェリー酒を持参。「汽車旅の酒」には、その好きな様子が描かれている。
父の国葬については頑なに反対し続けるが、周囲の説得に押され、家族の中で最後に承諾。1967年10月31日に挙行された際には、喪主をつとめた。喪服を好まず、中村光夫から喪服を借りた。
1970年には高額所得番付で作家部門5位にランクされたが、これは父親の遺産が計上されたもの。借金を返して無くなったとのコメントが残されている。戦争直後、父親に反発するように担ぎ屋や乞食を経験(のちに『乞食王子』に上梓)した吉田であるが、自宅の茶の間には父親のトレードマークとも呼べるキューバ産の葉巻があったことが新聞記者により目撃されている。
吉田健一が1972年にユリイカに連載した「交遊録」には、祖父牧野伸顕に続き恩師ディッキンソンとルカスがあげられていて、ケンブリッジ留学時の二人との交遊が詳しく綴られている。また吉田は英国留学から帰国後も、二人の師共に手紙をやりとりしていた。ディッキンソンは1932年に没したが、ルカスとは戦後1953年と1963年の2回、吉田の渡英時に再会している。吉田がルカスへ送った書簡は、ルカスが1967年に没した後にルカス夫人から吉田の娘暁子に譲られ、前述のとおり2022年に神奈川県立近代文学館で開催された「吉田健一展」で展示された。
1954年2月、雑誌「あまカラ」の編集長、水野多津子の案内で灘の菊正宗酒造の工場を見学した。以降、毎年2月の新酒の時期に灘を訪れた。菊正宗酒造の技師長だった木暮保五郎との交流については「交遊録」で紹介されている。
金沢・福光屋の日本酒の銘柄「黒帯」の命名者である。「有段者のための酒」という意味が込められている。
テレビドラマ
三島由紀夫とは、1960年代前半に仲違いしている。一説によると、三島が新居に移った時、部屋に置いてある家具の値段を吉田が大声で次々と値踏みしたのがきっかけだったともいう。またジョン・ネイスン『三島由紀夫-ある評伝』(新潮社)によると、「鉢の木会」の月例会の席上、三島の書き下ろし長編『鏡子の家』(1959年9月刊)を、10月7日付けの北海道新聞の書評では「戦後小説に終止符を打つ」と高評価しておきながら、三島の面前で「こんなものしか書けないんだったら、会からは出てもらわなくちゃな」と酷評した事も大きいとされる。最終的に三島が「鉢の木会」を離脱する主因になったのは、1960年11月刊の三島の長編『宴のあと』に関し、翌年に三島が有田八郎(登場人物のモデル)と揉めて裁判になった際、有田と旧知の間柄(有田は父・茂と元同僚)だった吉田が有田側に立った発言をしたため、それが決定打になったとも言われている。
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