クルアーン(アラビア語: اَلْقُرْآنُ, 転写: al-Qurʾān, IPA: 、日本語で多い表記はコーラン)は、イスラム教(イスラーム)の聖典である。意味は「読誦すべきもの」。イスラームの信仰では、クルアーンは最後の預言者であるムハンマド・イブン=アブドゥッラーフに、彼が40歳の頃からおおよそ23年間にわたって、大天使ジブリール(ガブリエル)を通して神(アッラー)から啓示されたものであるとされている。ムハンマドの生前に多くの書記によって記録され、死後にまとめられた現在の形は114章からなる。その宗教的な重要性に加えて、クルアーンはアラビア文学の最高傑作ともみなされており、現在に至るまでアラビア語に多大な影響を与え続けている。
イスラム教においてはクルアーンは単純な黙読よりも音読に重点が置かれ、礼拝において必ず詠唱される。この中でも特に、開端章は頻繁に読まれる。クルアーンを暗記すること(=ハーフィズ)はムスリム(イスラム教徒)の間で重要なこととされており、これを成し遂げた者は大きな名声を得る。
クルアーンの成立経緯は、クルアーン自体とハディース(預言者ムハンマドの言行録)、およびムスリムの伝承によれば、以下の通りである。
アラビア半島ヒジャーズ地方の町マッカ(メッカ)の商人であったムハンマドは、40歳ほどであった西暦610年頃に、迷うところがあってしばしばマッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していた。ある日の瞑想中に突然、大天使ジブリールが彼のところにあらわれ、神から託された第一の啓示を与えた(この最初の啓示時期はラマダーン月のライラトルカドルという説がある)。
ムハンマドは当初これをジン(魔人)に化かされたものかと思い怖れたが、やがて真に神から与えられた啓示と信じて、自ら啓示を受け取って人々に伝える使徒としての役割を務めることを決意した。そうして啓示はムハンマドが死ぬまで何回にも分けて下された。
ムハンマド自身は文盲であったため、彼を通じて伝えられた啓示はムハンマドと信徒たちの暗記によって記憶され、口伝えで伝承され、また書記によって記録され伝承された。また、啓示されたクルアーンの一部は、ムハンマドの生前から彼に直に接した信徒たちによって木の板や棕櫚の葉、石などに文字としてその都度記録されていたことはハディースなどでも伝えられている。しかし後にムハンマドに直に接して啓示を記憶した者たちが虐殺されるようになり、記憶を留めるためにクルアーンを一冊にする作業が始められた。このように書物の形にまとめられたクルアーンをムスハフという。
まとめられる以前は、イスラーム共同体全体としての統一した文字化が行われなかったため、次第に伝承者や地域によって内容の異同や、伝承者による恣意的な内容の変更、伝承過程での混乱が生じ始めており、問題となっていた。
これに対し危機感が抱かれ、初代正統カリフのアブー・バクルの時期(632年 - 634年)に、ムハンマドの秘書を務めたザイド・イブン=サービトによって、初のクルアーンの編纂が行われ、続いて、第3代正統カリフのウスマーンがクルアーンの正典化を命じ、650年頃、再びザイド・イブン=サービトを中心として、クルアーンの編纂が行われて1冊のムスハフにまとめられた。ウスマーンは公定ムスハフを標準クルアーン(ウスマーン版ムスハフ)とし、それ以外のムスハフを焼却させた。このためウスマーン版を除くムスハフは現在までのところ発見されておらず、クルアーンに偽典や外典の類は存在しないとされる。
1972年に発見されたサナア写本には、ウスマーン版以前のものと考えられるクルアーンの断片が含まれており、従来、ウスマーン版以外のクルアーンの内容を伝えるものとして唯一のものとされてきた。しかし、2015年になってイギリス英国バーミンガム大学に保管されてきたバーミンガムコーラン写本に使われている羊皮紙を放射性炭素年代測定法で測定したところ、ムハンマドが生きていた時代に重なる568年 - 645年のものであることが判明し、ウスマーン版以前のものとしては現存する最古の写本であると考えられている。この写本は2ページ現存しており、スーラの第18章から20章の一部が書かれている。
クルアーンは、神がムハンマドを通じてアラブ人にアラビア語で伝えた神の言葉そのものであるとされ、聖典としての内容、意味も、言葉そのものも全てが神に由来する。
クルアーンが神の言葉そのものであることを信じることはイスラム教の信仰の根幹である。イスラーム神学では、クルアーンは神の言葉そのものである以上、神に由来するもので、神の被造物には含まれない。クルアーンを記した文字や本、クルアーンを人間が読誦したときにあらわれる音は、被造物である人間があらわしているので被造物の一部であるが、その本質である言葉そのものは、本来は被造物の世界に存在しない神の言葉である。従って、神の言葉であるクルアーンが地上に伝えられていることそれ自体がムハンマドに対して神がもたらした奇跡であると主張される。
アラビア語圏では、単に宗教的な解説書ではなく、文学としても第一級品であるといわれる。事実、書かれている(あるいは説かれている)文章の意味をあまり理解できない者でも、そのアラビア語の美しさに引かれて改宗した者も多くいたという。もともと、戦や争議において詩の優劣で勝敗を決めるという手法を方策の一つとして採用していたアラビア人達を説得するだけの優れた内容を持っていたことから、ムスリムの間ではクルアーン自体が普通の人間にはつくることのできないような優れた文学であることが、クルアーンが神の奇蹟であることの証明であると考えられている。
また、口語と文語の開きが大きくなった現在では、文章語の模範テキストであるとされ、出版物などはクルアーンの言葉(フスハー)で書かれることが多い。
クルアーンの各章は一度に下された啓示のまとまりであり、下された時期を基準として、ヒジュラ(イスラーム共同体のマッカからマディーナ(メディナ)への移転)を境とするマッカ啓示とマディーナ啓示に大別される。
マッカ啓示は、ムハンマドが啓示を受け始めた直後に属するものを含む。これらは非常に短いものも多く、内容は唯一神への信仰や終末に対する警告など宗教的情熱を伝える点が特徴的である。その少し後、イスラーム共同体が形成され始めてからは、信者に信仰を促すような啓示が多い。マッカ啓示で信仰的な信条に関する啓示が語り終えられたことから、続くマディーナ啓示では、イスラーム共同体の法規定や、信徒同士の社会生活に関して言及する啓示が多い。
クルアーンで描かれるアッラーフは、バスマラ(「慈悲深く慈愛あまねき神の御名において」という意味の決まり文句)に象徴されるように慈悲深さ、優しさをその性質の基底としていることが強調される。ただし、不義を行う者に関してはしばしば怒りをあらわにし、相応の懲罰を課す場面も見られ、この点では旧約聖書の神の性格とも似る。
ラクダは複数扱い、雌、雄という語彙区分で多く登場する。
ロバは2-259節、16-8節、31-19節、62-5節、74-50節の5か所に登場する。
イヌは7-176節、18-18,22節に言及がある。
蜘蛛は第29章の章題とされている。
ウスマーン版のクルアーンは、全てで114の章(スーラ)からなり、スーラは節(アーヤ)に分かれている。各章はムハンマドに下されたひとつひとつの啓示であるが、長短は非常に大きなばらつきがあり、もっとも短い第108章「潤沢」には3節しかなく、もっとも長い第2章「牝牛」は286節ある。また、章の分け方とは別に、読誦するときに一度に読む目安となる分量ごとに全体を30等に分割したジュズウという巻に分かれており、ラマダーン月などに、1日に1巻ずつ読誦すると1ヶ月で全てを読誦できるようになっている。
章の構成は、第1章「開扉」を例外として、概して長い章から短い章へ向かう方針で編纂されており、時系列はばらばら。しかし、後代のウラマー(イスラームの学者の総称)らの研究によりおおよその推測がなされるようになった。そこでクルアーンの章を時期別に大きく三つに区分することができる。第1期はムハンマドが初めてアッラーフの啓示を受けてからの初期段階、第2期は大衆への伝道を進め、メッカにおける迫害が厳しくなった時期、第3段階はヒジュラ(ムハンマドがメッカの迫害を逃れてメディナへ移ったこと)以降の啓示である。
それぞれの特色を述べると、第1期は啓示が押し並べて短い。この時期はムハンマド自身がイスラームの境地を見出そうとしているときであり、信奉者もごく少数の身内が主であった。初めてアッラーフの言葉を聞いた当初のものとされるクルアーンの記述を見ると、ムハンマドのアッラーフの言葉へ対する畏怖の念が強く出ているのが興味深い。啓示も神の創造と世界の終末を厳かに語り、アッラーフの権威付けを行っている。そして詩的で力強い。
第2期の特徴としては、約80章もの啓示が下り、分量が多いことと、内容が説話的であるということである。ただし、旧約聖書や新約聖書に比べると、クルアーンはストーリー性を重視していないきらいがあり、かなり端折ったりしている。この頃になると一般大衆の信奉者が増え、危機感を持ったクライシュ族による迫害が始まる。ここで改めてイスラームの正当性を主張し、ムスリムの結束を呼びかけているのである。
第3期の特徴としては、一章あたりの啓示が長いこと。内容としては法制的で、イスラーム社会の規律についてしきりに述べている。クライシュ族の迫害を逃れ、メディナに逃れると、クライシュ族や現地のユダヤ教徒との対抗の必要上、イスラームの共同体であるウンマがここで形成される。そこで信徒の生活に深く介入し、きわめて政治的な啓示が述べられているのである。
ムスリムの信仰箇条である六信の一つには啓典(キターブ)があるが、啓典はクルアーンのみではない。啓典とは、神が預言者を通じて人類の各共同体に下した啓示を記した教典のことで、クルアーンも、クルアーン以前に神がムハンマド以前の預言者たちに下した啓典があったことを明言している。聖書の各テキストはこれらが後の世に伝わった物であるとされ、旧約聖書のムーサー(モーセ)に下された『タウラート』(『モーセ五書』)、ダーウード(ダビデ)に下された『ザブール』(『詩篇』)や新約聖書のイーサー(イエス)に下された『インジール』(『福音書』)はイスラム教ではクルアーンとともに四大啓典に位置付けられている。ただしこれは、タウラート、ザブール、インジールだけを聖典として認め、それ以外の『ヨシュア記』などを聖典として認めないという意味ではない。ダーウード、スライマーン(ソロモン)、アイユーブ(ヨブ)、ユーヌス(ヨナ)などクルアーンに登場する預言者の中にも、『サムエル記』『列王記』『ヨブ記』『ヨナ書』など、タウラート、ザブール、インジール以外の書に主に登場する聖書の登場人物も存在する。あくまでクルアーンの中で言及されているのはタウラート、ザブール、インジールのみであると言う事に過ぎず、その三点以外を否定するような教えは特にイスラームの中には見られない。その一方で、聖典とされている『タウラート』『ザブール』『インジール』も現存するものは元々の形とは異なるとされている。
クルアーンそのものの記述では、啓示された当時の旧約聖書や新約聖書は「真理を照らす光」などと書かれており、元々は同じ神からの啓示であったにもかかわらず、現在の聖書が人間の手によっていかに変えられてしまったか、ということを示唆している。
このようにクルアーンを見る限りにおいて、啓示された当時の聖書が誤っているとの記述は一つもない。啓示された当時の聖書が人の手によって変えられてしまった結果、神はクルアーンを啓示したためで、「クルアーンは聖書の正しさを証明するためにある」と宣言している箇所が数多くある。そればかりではなく、「ユダヤ教徒もキリスト教徒も天国へ行く」との記述もある。現在のイスラム教徒に色濃く見られる「イスラムを他の宗教よりも優位に位置づける」とする思想は、第一聖典のクルアーンには見られない。
しかし現状では、伝統的な解釈においてはクルアーンを除く3つの啓典は神の言葉を歪曲して完全に伝えていないとされ、神の言葉そのものであるクルアーンに比べると不完全なものであるとされている。現在、イスラム圏のいくつかの国では聖書は禁書とされている。啓示された当時の聖書を「クルアーンと並ぶ聖典」として読書も勧めていたが、現在の人の手が「勝手に」入ってしまったため、どれが神の言葉かわからなくなってしまった現在の聖書は「禁書」としている。ハディースでは、クルアーンの聖句と、各地に伝わるムハンマドの言行とが、項目ごとに収録されている。聖書には人の手が入ってしまった以上、「聖書よりもクルアーンが優れている」「ユダヤ人から聖書の話を聞いてはならない」との記述が出てくるようになる。クルアーンでは逆に「聖書について聞きたいことがあればユダヤ教徒かキリスト教徒に聞け」と命じている。
近年ムスリムの間で広まる宗教多元主義論者は、「彼らはただ単にムスリムはクルアーンを啓示として尊び、キリスト教やユダヤ教をはじめとする他の宗教はそれぞれの啓示を尊ぶのであって、優劣はない」という折衷策をとり宗教戦争を回避しようとしている。
ユダヤ教徒とムスリムとの関係が悪化した原因として、ユダヤ人がイスラムに改宗せず、それどころかムハンマドを嘲笑したことが歴史で語られる。これは、ムハンマドが無謬の預言者であるにもかかわらず、その預言の内容がユダヤ教徒たちの奉ずる旧約聖書と食い違っていたからである。
以下はその実例である。
ただしムスリム側は、当時(から現代に至るまで)ユダヤ教徒・キリスト教徒の間で使われている聖書は、歪曲・改竄が繰り返されたことで啓示された本来の内容から離れており、それゆえにクルアーンとの食い違いが生じたと解釈する。この解釈に従えば「本来の」聖書の内容は新約・旧約ともにクルアーンとは原理上矛盾しない。故に最後の預言者であるムハンマドに下されたクルアーンが「確証」するべき「聖書」とは、現存するユダヤ教徒・キリスト教徒の聖書ではなく、「本来の」聖書であるとする。
クルアーンには計25人の預言者が登場し、そのうち20人が「聖書」と一致するヘブライ預言者であるという指摘がある。
クルアーンは、アラブ人のムハンマドを通じてアラブ人の共同体に対して与えられた啓典であったので、布教の対象も当初はアラビア語を理解できるアラビア半島の住民に限られており、翻訳をめぐる問題も発生しなかった。
しかしクルアーンは単なるアラブ人に対する啓典ではなく全人類に与えられた最高で最後の啓典と位置付けられていて、それを根幹とするイスラム教の共同体も、アラブ人に留まらず全人類が内包されるべきものと位置付けられていたので、やがてアラビア語を解さない人々に対しても布教が行われるようになった(世界宗教)。のちにイスラム教が東南アジアなどに布教されるようになる段階に至るとクルアーンの翻訳に対して積極的な意見を持つ者もあらわれた。しかしウラマーたちの間では「クルアーンがムハンマドに対してアラビア語で伝えられた」ことが重視され、翻訳されたものは神の言葉そのものであるクルアーンを正しく伝えられないとする解釈がなされるようになった。そのため、アラビア語で書かれたもののみが「クルアーン」であるとみなされるようになり、現在に至っている。
広く誤解されているが、クルアーンを翻訳すること自体は禁じられていない。7世紀頃、ペルシア語に翻訳されたものをはじめとして、現代に至るまでアラビア語を母語としないムスリム向けにクルアーンの翻訳がなされている。しかし、アラビア語以外のクルアーンが、クルアーンとして扱われることはなく、ムスリムは礼拝においてアラビア語でクルアーンを唱えることが義務である。これは日本の仏教において、真言が翻訳されないのと似ている。
かつてトルコ共和国では政府の脱イスラム化の改革の一環として、クルアーンのトルコ語化が図られようとしたが、注釈用として以上の用途にはついに広まらなかった。
中国語への初のクルアーン全訳が出たのは、中華民国16年(1927年)という説がある(漢族の鉄錚という翻訳者による『可蘭経』)。これはアラビア語からではなく、坂本健一が1920年に出した『コーラン経』(ロッドウェルの英訳からの重訳)からの重訳といわれる(つまり三重訳)。その後、民国21年(1932年)に、ムスリムである王静斎によるアラビア語からの本格的全訳『古蘭経訳解』が完成したという。
日本語訳は、古くは前述の坂本健一や大川周明によるものがあるが、現在では井筒俊彦や藤本勝次らによる翻訳、ムスリムである三田了一や中田考による翻訳などがある。
それでは、アラビア語で書かれたクルアーンの章句が他の言語に翻訳されたことが全くなかったかというと、もちろんそうではない。
預言者ムハンマドの死後、イスラームの拡大・拡散に伴い、それまで自明とされて来たアラビア語で書かれたクルアーンの意味や啓示された章句の背景についても、新たな世代やアラビア半島以外の非アラブの異邦人たち、さらに新たにムスリムになった人々にも説明し、各々の意味の解釈を提示する必要が生じ始めた。これらクルアーンに関する研究は、最初期にはハディースの集成によって啓示の経緯や意味内容をまとめることにはじまり、やがてアラビア語の文法学的解釈、神学的解釈などが付け加わり、クルアーンの解釈について学問的に体系化されていった。これらクルアーンの解釈に関する学問をタフスィール学 علم التفسير ‘ilm al-tafsīr と称している。イスラームの社会において「クルアーンの章句をアラビア語以外の言語で説明する」伝統は実際に存在したが、これらはこのタフスィール学の範疇として認識されてきた。
預言者ムハンマドの教友には、アラブ人以外の人々も何人か確認されている。その代表的な人物にイスファハーン近郊出身と伝えられるペルシア人ムスリムの祖サルマーン・ファールスィー(Salmān al-Fārsī)がいる。伝承によれば、ムハンマドの側近として活躍していたサルマーンは、ある時イエメン在住のペルシア人ムスリムたちからクルアーン第1章(開扉章)の翻訳を求められた折に、「慈悲深く慈愛遍くアッラーフの御名によりて(bi-smi Allāhi al-Raḥmāni al-Raḥīmi )……」というバスマラの部分を、ペルシア語で「(bi(によって)−nām(名)-i yazdān(神)-i bakhshāyanda(憐れみ深い)……」という風に逐語的に翻訳したといわれており、アラビア語を解さない者のために当初からこのような処置が行われていたようである。
しかしながら、ムスリム側の認識に立った場合、上記のようにクルアーンはそもそも朗誦されることを前提としており(クルアーンの読み方については「クルアーン朗誦学」も発達した)、意味と朗誦の旋律を含めて統語論的体系の異なる他の言語に全てを完全に翻訳することは不可能である。そのため、クルアーンについて外国語訳を行う場合、飽くまでも意味を近似的に説明するだけしかできないことから、「翻訳」(ترجمة tarjama)の名称は避け、「各々の言語によるタフスィール」あるいは「タフスィール的翻訳(ترجمة تفسيرية tarjama tafsīrīya)」と呼びうるものになる。一般的に「クルアーンの英訳」「クルアーンの日本語訳」と呼ばれる物は後者の「タフスィール的翻訳」に分類される。
クルアーン解釈書・注釈書は単にタフスィール تفسير Tafsīr と呼ばれ、クルアーンの個々の章句や節について、諸々のハディースや学説に基づいた注釈、解釈などの解説が附される。アッバース朝時代に入って、アラビア語によって様々なハディース集成書やタフスィールが編纂されたが、アラビア語で書かれたタフスィール書がペルシア語などで翻訳されたりもした。「タフスィールそのものの翻訳」については、例えば10世紀後半、サーマーン朝第8代君主マンスール・ブン・ヌーフ(マンスール1世)の要請によって中央アジアのウラマーたちが行った、タバリーの大タフスィール、『解説集成』(جامع البيان Jāmi‘ al-Bayān)のペルシア語訳が存在する。また、ペルシア語によるタフスィールとしては、12世紀半ばにジャマールッディーン・アブールフトゥーフ・アル=フサイン・アッ=ラーズィーによって著された『愛の歓喜と心の魂』(Rawḥ al-Jinān va Rūḥ al-Janān)がある。これは現在の刊本でも全13巻に渡る大著であり、ペルシア語タフスィールとしては最も優れたものであると評されている。
『愛の歓喜』の場合、まず、章句中の各々のアラビア語文の節の下にペルシア語による訳文が添えられ、その後に各々の単語や文章などについてペルシア語による解説が詳しく述べられる。サーマーン朝のマンスール1世が編纂させたような「大学者が著したアラビア語によるタフスィール」の翻訳以外にも、ラーズィーの『愛の歓喜』のような「各々の言語によるタフスィール」の例もさまざまにあり、ペルシア語以外にもオスマン語やチャガタイ語、マレー語など、その土地その土地の言語によるタフスィール書も史上多数著された。近代以前において、土地ごとの信仰のあり方や宗派毎のクルアーン章句の解釈は様々であったものの、タフスィール学の発達もありアラビア語を母語としない非アラブ系のムスリムでも、クルアーンの内容を把握することは可能であったのである。
イスラム法学では、クルアーンは神の言葉そのものであるという性質上、イスラム法(シャリーア)の最も重要な法源であり、イスラーム法体系における憲法にあたる。
しかしクルアーンは宗教の信仰に関して語る部分も多く、ムハンマドの死後、最後の啓示が下されてから何十年も経つと、拡大したイスラーム共同体の現状に対して十分に対処できない面が大きくなった。そこで、生前のムハンマドに直に接していた教友たちから口伝えによって伝承されてきたムハンマドの言行をハディースとしてまとめ、クルアーンに欠けた部分を補ったり、クルアーンを解釈する助けとすることが始められた。ムスリムにとって、ムハンマドは神の意志をもっとも完全に体現し、語り実行していた存在であるとみなされるので、ハディースに伝えられるムハンマドの言葉や行動は、人間であるムハンマドに由来する神の被造物の一つであるけれども、神そのものに由来する内実の意味を含んでいたとされる。そこで、ハディースを用いることで法源としてクルアーンを補うことができる。
スンナ派における法源学では、第一のクルアーン、第二のハディースに第三のイジュマー(合意)、第四のキヤース(類推)を加えて四大法源とする。イスラム法学では、上位の法源では解決できない問題に限って下位の法源をあたることが許されるため、クルアーンに反する法規定が存在することは原則としてありえない。これは、法源にイマームの見解を重視するシーア派でも同じである。
しかし近代には、西洋のキリスト教社会から押し寄せた近代化の波が、クルアーンに基づくイスラム法と近代社会の間の齟齬を一気に拡大させることになった。これに対してムスリムたちは、サウジアラビアのように厳格なイスラム法学派(ワッハーブ派)を適用してイスラーム法に基づく社会の再構築を図ることもあったが、多くのイスラム法学者は四大法源に基づきつつもイスラム法を柔軟に解釈して現代社会に適合させていき、また多くの国の政府はイスラム法に加えて政府や議会が制定する西洋的な近代法をイスラーム法に付加させて対応した。イスラム法のいっさいを廃止しヨーロッパから持ち込んだ近代法一本に改めたトルコはその極端な例である(世俗主義)。こうした西洋文明の衝撃に対して行われてきたイスラーム法の変容に対する異議申し立てがイスラム主義(いわゆるイスラム原理主義)であり、彼らの多くは政治的にはクルアーンなどを法源とする伝統的なイスラーム法(シャリーア)によるイスラム国家の建設を主張している。
クルアーンはムスリムにとって信仰の根幹にあたるため、その読誦法や、章句の意味解釈はウラマー(学者)の修めるイスラム諸学の一つとしてクルアーン学を発展させることになった。また、ヨーロッパのキリスト教徒の学者たちも、十字軍の遠征などによってイスラム世界との接触が深まると、敵であるムスリムの信仰を知るためにクルアーンの研究を始めるようになった。十字軍が始まって50年後の1143年にはチェスターのロバートによってラテン語の注解がなされている。
クルアーンの研究においては、クルアーンにみられる、神の自称が「我ら」であったり「彼」であったりという統一感のなさや、宿命論と行為の自己責任の問題などで見られる、しばしば矛盾する記述は大きな問題となり、議論の対象となった。ムスリムの学者たちはハディースを用いたりして、この問題を解決して解釈しようとしてきた。前近代においてムスリムがクルアーンの矛盾に対するときの根本的態度には、彼らの信仰の基礎であるクルアーンの啓示全てが神の言葉であるという確信にあった。
これに対して、非イスラム教徒のキリスト教徒の学者たちは、特に古い時代において、聖書のみが神の言葉であるという宗教的信条からクルアーンが神に由来するとはみなさず、ムハンマドの著作物であるとみなした。しかし近代に入り、ヨーロッパで聖書の文献批判的研究が始まると、聖書がこれまでキリスト教徒が考えていたように神の言葉そのものではなく、複数の編者がまとめた教典が編集されてできたものであるという認識が共有されるようになった。
非イスラム教徒やリベラル・ムスリムの学者たちは、クルアーンの各章を年代的に分けて内容を分析した。例えば最初期の啓示は、意味的には内容が非イスラム教徒には支離滅裂とも感じられるものが多く、啓示を受け始めた直後のムハンマドの混乱した精神状態を反映しているという解釈がなされた。また、マッカ啓示とマディーナ啓示を比較すると前者は終末論的な色彩が強く、後者は法規定に関する言及が多いのは、イスラム教の信徒たちがヒジュラを境に、マッカにおける先鋭的な新興教団から、マディーナを支配する一種の国家に変化したためとみなされた。また、キリスト教やユダヤ教の扱いに関して、初期の啓示ではこれらに友好的な態度を見せているのに、マディーナにおける後期の啓示では強い敵対心を示しているのは、一神教の先輩であるユダヤ教がムハンマドのイスラム教団と直接に接触する中で、イスラムを異端視したり、イスラーム共同体と政治的に衝突したりしたことが原因であるとした。そして、マディーナ啓示において旧約聖書に由来する預言者の物語が増えるのは、彼がマディーナに住むユダヤ教徒から旧約聖書の内容を学んだためだ、と考えられた。クルアーンの伝承がしばしば旧約聖書や新約聖書と食い違うのは、ムハンマドの得た情報が不完全だったとか、あるいは無学な彼が勘違いをおかしたためだと断定された。
このように非イスラム教徒やリベラル・ムスリムが行ってきた議論はクルアーンを合理的に解釈して説明したが、しかしこれはクルアーンを神に直接に由来する奇蹟だとする教条的・保守的イスラムの信仰との対立を生んでいる。また、売り上げ的には世界のベストセラーの一つであるが作者が誰かという問題がある。歴史的にみればムハンマドであるが、イスラム教徒の間では現在でもアッラーフであるという意見が主流である。
クルアーンの編纂(書物としての成立)についての研究が対立を生む場合がある。1993年、カイロ大学アラビア語科助教授ナスル・アブゼイド(en:Nasr Abu Zayd)が発表した「口頭で伝承されたクルアーンのうち、何を含めるか、どの口語で書くべきなのかが正統カリフ時代に激しい論議を生んだ」という研究が「無神論的」であると批判された。その内容が問題視され、原理主義的な教授陣の反対によりナセルは教授就任を拒否された。ムスリム同胞団員の弁護士は彼をカーフィル(背教者)とし、よってムスリム女性と婚姻を続けることはできず、夫人と離婚しなければならないと訴え出た。1994年、裁判所は訴えた弁護士が婚姻関係については第三者であるという理由で一度は退けたものの、第二審で逆転。イスラム教徒なら誰にでも宗教を擁護し、訴え出る権利があるとした。ナセルは背教者であり離婚すべきとの判決が下された。その後、過激派の指導者がナセルへの制裁を認める発言をするなど危険な状況となり、彼はイブテハル・ユーニス夫人とともにオランダに亡命することになった。
イスラム教徒にとって神のロゴスであるクルアーンは、アッラーフ自身の一部とも言うべき位置を占めており、したがってそれへの批判はアッラーフ(およびそれを奉ずるイスラームという宗教自体)への冒涜に等しいとする解釈が主流である。なぜなら、クルアーンの謎の言葉には、神の正体などが書かれているとされるからである。謎の言葉とは、意味が不明の言葉で、神のみが意味を知っている言葉である。そのため、イスラームは他の宗教よりも絶対的に優越している完全な教えという信念ともあいまって、クルアーンに対してそのような見解を持たない非ムスリムがクルアーンの批判を行うことや、クルアーンをムスリムほど丁重に扱わない、あるいは意図的な侮辱・損壊に対して、憎悪を抱いて抗議、制裁、報復するイスラム教徒や、法的な刑罰を科す国家も存在している。
パキスタン・イスラム共和国では2020年9月、預言者ムハンマドを侮辱するテキストメッセージを送ったキリスト教徒の男性が死刑判決を受けた。
イスラム教徒が少数派の国においても、クルアーンの焚書が外交問題化した例もある(2023年スウェーデン反トルコデモ)。同じ北欧であるデンマークでも同様な事件があり、同国議会は2023年12月7日、クルアーンに火をつけることを禁じ、違反した場合は罰金や最大2年の禁錮刑で処罰する法案を可決した。
ウマル三田了一訳のクルアーンは宗教法人日本ムスリム協会に問い合わせることで印刷版(送料+3000円)を入手できる。
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