若山 富三郎(わかやま とみさぶろう、1929年〈昭和4年〉9月1日 - 1992年〈平成4年〉4月2日)は、日本の俳優・歌手・映画監督。別芸名は城 健三朗(じょう けんざぶろう)。映画・テレビ映画・演劇で幅広い役柄を演じ、特に殺陣は当代随一の名手と評された。
わかやま とみさぶろう 若山 富三郎 | |||||||||||||||
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本名 | 奥村 勝 (おくむら まさる) | ||||||||||||||
別名義 | 城 健三朗 (じょう けんざぶろう) | ||||||||||||||
生年月日 | 1929年9月1日 | ||||||||||||||
没年月日 | 1992年4月2日(62歳没) | ||||||||||||||
出生地 | 東京府東京市深川区 | ||||||||||||||
職業 | 俳優・歌手・映画監督 | ||||||||||||||
ジャンル | 映画・テレビ映画・ドラマ・演劇 | ||||||||||||||
活動期間 | 1949年 - 1992年 | ||||||||||||||
配偶者 | 藤原礼子(1963年 - 1965年) | ||||||||||||||
著名な家族 | 杵屋勝東治(父) 勝新太郎(弟) 若山騎一郎(息子) 鴈龍(甥) | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
映画 『人形佐七捕物帖』『博奕打ち 総長賭博』 『極道シリーズ』『賞金稼ぎシリーズ』 『極悪坊主シリーズ』『子連れ狼シリーズ』 『姿三四郎』『エスパイ』 『悪魔の手毬唄』『衝動殺人 息子よ』 『トラック野郎・男一匹桃次郎』 『がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征-』 『魔界転生』『ブラック・レイン』 テレビ映画 『唖侍鬼一法眼』『賞金稼ぎ』 『御金蔵破りシリーズ』 ドラマ 『悪魔のようなあいつ』『さくらの唄』 『事件シリーズ』『飢餓海峡』 演劇 『歌舞伎模様・天保六花撰』 | |||||||||||||||
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本名:奥村 勝(おくむら まさる)。東京府東京市深川区出身。父は長唄三味線の杵屋勝東治、弟は勝新太郎、息子は若山騎一郎、元妻は藤原礼子、甥は俳優の鴈龍。
幼少の頃より弟の勝新太郎とともに長唄の修行を始める。旧制日大三中在学中は1年生を3回落第するほど素行に問題があった。長唄の修行よりも柔道に熱中して師範(伍段)を目指していたといい、「あたしは柔道教師になろうと思ったんです...ええ、講道館の四段で、間もなく五段になるところでした」と語っている。1949年、20歳のときに長唄の和歌山富十郎に弟子入りし、芸名を若山 富三郎とした。1954年に新東宝からスカウト、演技経験のない新人としては破格の高給と、運転手付きの車での送迎を約束させた上で入社を決める。
1955年に『忍術児雷也』でデビュー。『人形佐七捕物帖』シリーズなどの時代劇に主演。1958年には『銭形平次捕物控』に主演。新東宝が経営不振に陥ると1959年に東映へ移籍し、新東宝時代同様に『人形佐七捕物帖』シリーズで主演した他、多くの脇役もこなす。1962年に大映へ移籍、城 健三朗と改名。白黒作品の『打ち鴉』に主演した他は市川雷蔵や弟の勝新太郎の脇役に甘んじ仕事では不遇の日々であった。1964年1月6日に大映所属の女優、藤原礼子と結婚。1964年には『風雲児半次郎 唐芋侍と西郷』に主演。この年に若山騎一郎を儲けるが、1965年に藤原と離婚、その後の1年間干されて役がつかない挫折を味わった。
1966年に出演した大映での最後の作品『処女が見た』で共演した安田道代と恋愛関係となり、長期間交際した。この年、再び東映に移籍し、芸名を若山 富三郎に戻している。脇役からのスタートであったが、鶴田浩二主演の『博奕打ち 総長賭博』の助演で認められ、主演映画も制作され始める。1968年より始まった『緋牡丹博徒シリーズ』、『極道シリーズ』、『前科者』では、従来の義理人情のヤクザ映画に若山のコミカルな演技が加わり、他の任侠路線とは一線を画す人気作となった。その他、『賞金稼ぎシリーズ』、『極悪坊主シリーズ』などに主演した。これ以降は主演ないし大型ゲストとしての仕事が切れ目なく続き、浮き沈みのあった前半生とは一転してスター人生を全うすることになる。
1970年代の『子連れ狼シリーズ』では拝一刀に扮し、凄みのあるダイナミックな殺陣と寡黙な演技は「一刀の若山か、若山の一刀か」と評されるほどの代表作になり、海外にも輸出された。同じ頃、個人事務所「若山企画」を立ち上げ、『唖侍鬼一法眼』(1973年)、『賞金稼ぎ』(1975年)などのテレビ時代劇に主演。前者では2話、後者では3話を監督した。
白塗りの二枚目から三枚目、悪役、豪放なアクション・殺陣と、幅広いタイプの役柄を演じているが、1974年には睦五朗に招かれ、『エスパイ』に出演し、敵役のリーダー「逆エスパイ・ウルロフ」を演じた。特徴的な髪型は若山の考案で、クランクインの際には一つのセリフを様々な抑揚・表情でサンプルのように演じ分けてみせ、監督に選んでもらった。1977年の『悪魔の手毬唄』の磯川警部と、1978年から放送された『事件』の菊池弁護士は、優しい人間味と哀愁を湛えた等身大の中年像であり、抑えた演技はそれまでのイメージを一新した。『悪魔の手毬唄』と『姿三四郎』の村井半助で、第20回ブルーリボン助演男優賞を受賞。1979年の『衝動殺人 息子よ』で、キネマ旬報主演男優賞・ブルーリボン賞・毎日映画コンクールの主演男優賞、第3回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞を受賞した。1978年の『がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征-』では少年野球日本代表チームの監督役としてトニー・カーティスと共演。「黒田節」を歌い、バック転を披露している。演劇では1977年の『三文オペラ』や1978年の『アニー』で、長唄で鍛えた美声を披露。また同年の『歌舞伎模様・天保六花撰』では河内山宗俊に扮して、第33回芸術祭大賞を受賞した。
1981年、千葉真一主演の『魔界転生』で柳生宗矩に扮し、紅蓮の炎の中で行われた千葉演ずる柳生十兵衛との決闘では、華麗ながらも凄みのある戦いを演じ、劇中最大のクライマックスとなっている。魔界衆がまばたきをしないのは、歌舞伎でのお化けの演技からヒントを得た若山の発案である。本作は観客動員数200万人、配給収入10億5千万円となった。千葉は本作後も再び若山との殺陣を望み、『影の軍団III』第1話「二つの顔の男」では千葉が直接、若山へ出演依頼をして共演を実現させた。ほかには『御金蔵破りシリーズ』でも、殺陣と復讐に燃える忍者からコミカルな役まで幅広い演技を見せる。
『影武者』では黒澤明が、信玄役を若山富三郎、影武者役を勝新太郎という実の兄弟でキャスティングする意向だった。しかし、若山は勝と黒澤のトラブルを予期し、それに巻き込まれることを嫌って出演依頼を断った。なお若山は「何、黒澤明? そんなうるせえ監督に出られねえよ、俺は」と、その本音を述懐している。1989年の『ブラック・レイン』では、凄みを効かせたヤクザの親分を演じ、その存在感を示した。
喘息でありながらショートホープを愛煙するチェーンスモーカーで、糖尿病でありながら平気で大福や羊羹1本を平らげるなど、持病を抱えながらも不節制、不養生を続ける生活習慣が祟り、1984年には心筋梗塞で入院。その後ハワイで血管5本に及ぶバイパス手術を受ける。手術は無事に成功し、復帰を果たした。この間医師の忠告を無視し生活習慣を改めることはなかった。糖尿病悪化の影響もあり、1990年になって心臓の状態は再び悪化。同年12月には腎機能障害を併発し入院を余儀なくされ、医師から「(このままの生活を続ければ)来年の夏までもたない」と余命宣告を受けている。その後は京大病院に転院。一時小康状態となり、週3回の人工透析を受けながら、1991年10月に映画『王手』で復帰を果たすが、病の影響で、やつれた印象は隠しようがなかった。1992年2月にはペースメーカー埋め込み手術を受けている。
1992年3月27日、勝に対して懲役2年6月、執行猶予4年の判決が下され、実刑も予想される中での執行猶予付き判決に涙を流して喜び、4月2日、京都の自宅に勝夫妻と清川虹子を招き食事会を催す。食事の後、いつものようにマネージャーに麻雀卓の用意をさせているさなか、隣に座っていた清川に顔面蒼白で倒れこみ、この時には既に心停止の状態だった。搬送先の京大病院で電気ショックや降圧剤投与などの処置を受けるが、午後6時25分、急性心不全のため死去。62歳没。兄想いだった勝はカメラの前でその遺骨を食べ、涙を流しながらその死を悼んだ。墓所は港区蓮乗寺。
数多い時代劇俳優の中にあって殺陣が最もすぐれた俳優と評され、千葉真一は峰打ちの殺陣を若山から教わるなど、「若山先生から殺陣を本格的に教わり、ある意味、僕の師匠」「尊敬している」と語っている。若山は千葉が1970年に設立したジャパンアクションクラブ(JAC)の結成式にも駆けつけ、その門出を祝っている。弟の勝新太郎も「殺陣はお兄ちゃんにかなわない」と証言している。勝の代表作である『座頭市シリーズ』でも『続・座頭市物語』(1962年)、『座頭市千両首』(1964年)の2作品に出演している。『続』では過去の因縁から市(笠間の市太)と反目する実兄・渚の与四郎役、『千両首』では剣客・仙場十四郎役で、どちらも勝と迫力ある殺陣を演じている。
嵐寛寿郎は竹中労のインタビューで「若手で巧かったのは一に萬屋錦之介、二に若山(と勝)で以下は無い」としているが、テレビドラマ『賞金稼ぎ』の殺陣を担当した上野隆三(東映)は「殺陣が特に巧い人は誰かというなら、若山富三郎さんだ。あの人は何を持たせても巧い。武芸百般というけれども、刀・槍・薙刀・棒術などいろんなのがあるが、若山さんは何をやってもできる人だったね」と評している。
代表作である『子連れ狼シリーズ』では刀・長巻を駆使した殺陣を披露し、トンボ切り(前方宙返り)も得意とした。トンボ切りは他にも映画『極悪坊主 念仏人斬り旅』『賞金稼ぎシリーズ』『魔界転生』や『賞金稼ぎ』『御金蔵破りシリーズ』『影の軍団III』『暴力中学シリーズ』などで披露している。
親分肌で、気に入った役者やスタッフらを取り巻きとして公私に関わらず引き連れていたため、いつしか「若山組」と呼ばれるようになった。面倒見のいい反面、非礼な態度や意にそぐわない相手には手を上げることもよくあり、自分より格下と思われる相手からは「若山さん」ではなく「若山先生」と呼ばれない限り、返事もしなかった。大部屋俳優等、弱い立場の人に対してだけでなく、撮影スタッフや監督、大映時代には会社幹部にまで暴力をふるうことがあったため恐れられていたが、子役に対しては優しかった。1989年のこと、新東宝時代からの友人である丹波哲郎は若山に、自身が企画・製作・脚本・総監督を務めた映画『丹波哲郎の大霊界 死んだらどうなる』への出演を依頼。若山は既に心臓疾患を患い、体調に不安を抱えつつもこれを引き受ける。丹波は若山の体調を気遣いながら撮影を進めたが「おまえはすぐ人を殴る。体調が悪くなったのはそのバチが当たったんだ」と苦言を呈している。
若山組には大木実・潮健児・関山耕司・山城新伍・安岡力也・高岡健二・丹古母鬼馬二らのメンバーがいたが、若山より6歳年上の大木とはお互いに「きょうだい」と呼び合う仲だった。若山組への加入は「固めの杯」を任侠の世界と同様に行っていたが、下戸で自他共に認める名うての甘党だった若山の「固めの杯」は「羊羹を煮溶かし、食パンの上に塗ったものを食べるというものであった」と山城は語っている。後輩を壁際に立たせて、若山得意の手裏剣を投げつけるという荒っぽい「入組試験」もあった。
「借金が得意」「親分肌で取り巻きを大勢連れ回したがる」など、その言動が勝新太郎と酷似していたため、大映時代には「二人も勝新太郎は要らない」、「愚兄賢弟」などと揶揄されていた。しかし天才肌の反面、大酒飲みで遅刻が多く台本をあまり読んでこない勝と違い、若山は2時間ほど前には楽屋入りし、撮影前の台本チェックなど事前の準備を怠らなかった。後年東映でスターダムにのし上がり、映画賞・演劇賞を数々受賞するに至ってからは名優としての評価を高めたのに対し、勝は不祥事が相次ぐようになり、その評価は逆転した。事実、勝は「演出やプロデュースでは自分が上だが、演技力はお兄ちゃんに敵わない」と最高の賛辞を送っている。兄弟仲は非常に良く、勝が大麻所持で逮捕された際、マスコミの前では勝を批判しながらも、執行猶予付きの判決が出たときは若山は「よかった、よかった」と涙を流して喜んだ。また、勝がある役者の演技を叱ろうとしたとき、その役者が「若山先生の言われた通りにしたんですけど…」と答えると、「あぁそう、お兄ちゃんがそう言ったの」と一転して機嫌がよくなり、叱るのをやめたという。
1984年に行なわれたインタビューの中で、「これまで4回ほど、ドン底があった」として、「一時は、東京の山谷か大阪の釜ヶ崎に住もうかと本気で考えたし、共産圏の国に逃げちゃおうかなんて思ったこともあった。」と話している。
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