はら たいら(本名:原 平〈読み同じ〉、1943年3月8日 - 2006年11月10日)は、日本の男性漫画家、随筆家、タレントである。血液型はB型。高知県香美郡土佐山田町(現:香美市)出身で、晩年は東京都文京区小石川に居住した。
はら たいら | |
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本名 | 原 平(はら たいら) |
生誕 | 1943年3月8日 高知県香美郡土佐山田町 (現:香美市) |
死没 | 2006年11月10日(63歳没) 埼玉県富士見市 |
国籍 | 日本 |
職業 | 漫画家、随筆家、タレント |
ジャンル | 4コマ漫画 |
代表作 | モンローちゃん ゴシップちゃん 他多数 |
父の太郎と母の小夜子の長男として高知県香美郡土佐山田町(現:香美市)に生まれる。姉の美和は元バスガイドで、父はたいらが生まれる前に結核で亡くなった。たいらには餓鬼大将の逸話があり、のちに『最後のガキ大将』で書籍となり『ガキ大将がやってきた』でドラマ化された。
中学生の頃から漫画雑誌への投稿を開始して高知市内の漫画研修会である高知漫画クラブに参加し、当時からナンセンス漫画の才能を発揮した。
高校3年生の頃、はらの漫画を見て後に妻となる高校の1級後輩の森本ちず子が感銘を受けた。しかし、はらは高校生の頃から破天荒で高校時代から飲み歩いており、高校にまで飲み屋からの請求が来ていた。
1961年に高知県立山田高等学校普通科を卒業後に上京し、木賃宿を根城として作品を出版社に持ち込んでは断られる生活が続く。生活苦から、ちず子に生活費の援助を受け「俺はおまえのヒモだ」と自嘲していた。
1963年に『週刊漫画TIMES』の連載『新宿B・B(ベベ)』でデビューし、1964年にちず子と結婚した。はらはちず子を恋愛対象として見ていなかったが、しっかり者であったため結婚した。一方、ちず子が結婚を決めたのははらの漫画の才能に惚れていたためであった。1972年に『週刊漫画ゴラク』の連載『モンローちゃん』がヒットする。
漫画家デビューからしばらくは極貧生活を余儀なくされ、血液銀行に売血して当座を凌いでいた。はらの金の無心がちず子の職場にも及んだため、それが理由でちず子が務めていた会社を解雇されたこともあった。ちず子は仕事を2つ掛け持ちしながら極貧の結婚生活を送っていたため、一時期結婚前より体重が16kgも減っていた。
1980年 サンケイ新聞の『ルートさん』、1988年 北海道新聞や中日新聞・西日本新聞の各夕刊連載の『セロりん』、1981年 - 1983年・1989年 - 1990年 日本経済新聞連載の『ゲンペーくん』、沖縄タイムスの『グルくん』、公明新聞の『ポッコちゃん』、京都新聞の『パトロールのパトさん』、日刊ゲンダイの『ゴシップちゃん』、朝日小学生新聞の『日記ちゃん』など数多くの新聞漫画を手がける。
はらは頭角を現し「漫画界のアラン・ドロン」と評されるようになった。夫婦喧嘩をするとそれを引きずり漫画が描けなくなってしまうので、ちず子は常に夫を気遣っていた。そのため、はらは自然と亭主関白になっていった。
『クイズダービー』の1976年8月7日放送分にゲスト解答者の一人として出演し、翌年1月22日放送分から黒鉄ヒロシに替わって3枠にレギュラーを務め、番組が終了するまで約15年間活躍した。番組出演記録は竹下景子に次いで第2位の記録である。しかしクイズ番組以外でトークを求められることが多く、これが原因でうつ病を発症してしまい公演中に倒れてしまう。うつ病と診断された後は仕事を2割程減らした。2000年と2004年の復活版放送には出演している。はら没後はやくみつるが代役で出演した。
正答率は約75パーセントでかなり高く、はらのオッズは原則として2・3倍程度、高くて4倍と低く設定されていた。風刺漫画家という職業柄、はらは多くの新聞や雑誌を購読していたが、番組では「はらは正解で当然」という期待があったため、番組用にも特別にスクラップブックを作っていた。収録前のはらは緊張のためにいつも口数が少なかった。
はらに高いポイントが掛けられることが多く「はらたいらさんに3000点」という言葉が「相手の予想に同意する」ことの代名詞となった。最後の問題では「はらたいらさんに全部」と言う出場者が非常に多く見受けられた。
最多連勝(連続正解)は27連勝(2度達成)で、同番組では歴代1位の連勝記録だった。
1992年秋から、更年期障害による眩暈や集中力低下を訴え連載を減らし、闘病生活に。その時の一連の経過は、著書「はらたいらのジタバタ男の更年期」・「男も『更年期』がわかると楽になる」などに詳しい。また経験を生かし晩年は男性更年期障害の講演も行った。
ほぼ同時期にちず子が乳がんを患ったが、はらはちず子がいないと何も出来ないことを熟知していたため、早期に退院できる方法として検査期間の短い乳房を残さない全摘出手術を選ぶ。手術後にちず子のもとを訪れたはらは、チューブ類が繋がれたちず子の様子を見て、卒倒して意識を失ってしまいちず子と共に入院する。
退院後は2人で旅行をするなどして楽しんでいたものの、それも長くは続かずに高校生時代から患っていた肝硬変を悪化させるが、飲酒量が多かったことなどもあり既に手遅れの状態だった。病院ではナースコールすら押せないほど気弱な一面を見せ、2時間おきにちず子へ電話をしていた。このためにちず子も不眠の日々が続き、時にはこっそり病院に泊まりこむ日もあった。「生まれ変わってもお前と夫婦でいたい」が最初で最後の夫婦らしい会話であったという。
2006年11月10日、肝臓癌により、埼玉県富士見市の病院で死去。63歳没。当初の死因は肝不全と伝えられたが、2006年9月に検査入院した際に、元々肝硬変であった上に末期癌であったことが判明したという。はらは生前大の酒好きで知られていたため、訃報に接した大橋巨泉は「酒を飲み過ぎたのかな」と語った。
戒名は曼照院智徳道晃居士。葬儀後にちず子が語ったところによると、はら本人は死の直前、医師の忠告を無視して酒を飲み続けた末の63歳の死について「不服はない。本望だよ」と語っていたという。
故郷に程近い高知県南国市の「はらたいらと世界のオルゴールの館」では、原画を含めはらの作品を鑑賞することが出来た。2004年12月30日閉館している。
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