風間 杜夫(かざま もりお、本名および旧芸名:住田 知仁〈すみた ともひと〉、1949年4月26日 - )は、日本の俳優。東京都世田谷区三軒茶屋出身。
かざま もりお 風間 杜夫 | |||||||||||
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2023年5月、勲章伝達式にて | |||||||||||
本名 | 住田 知仁 | ||||||||||
生年月日 | 1949年4月26日(75歳) | ||||||||||
出生地 | 日本・東京都世田谷区三軒茶屋 | ||||||||||
身長 | 171 cm | ||||||||||
血液型 | O型 | ||||||||||
職業 | 俳優 | ||||||||||
ジャンル | 映画・テレビドラマ・舞台 | ||||||||||
活動期間 | 1957年 - | ||||||||||
配偶者 | 既婚 | ||||||||||
主な作品 | |||||||||||
テレビドラマ 『沿線地図』 『スチュワーデス物語』 『春の波涛』 『忠臣蔵』 『八百八町夢日記』 『勝海舟』 『甘辛しゃん』 『CHANGE』 『ゲゲゲの女房』 『マッサン』 『先に生まれただけの僕』 『ケイジとケンジ〜所轄と地検の24時〜』 『エール』 映画 『蒲田行進曲』 『陽暉楼』 『人生劇場』 『異人たちとの夏』 | |||||||||||
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父は新東宝で営業を担当していた。1957年、8歳の時に児童劇団『東童』に入団し、翌年に東映児童演劇研修所の一期生となる。すぐに子役としての頭角をあらわすと、マキノ雅弘や加藤泰などの日本映画監督による東映作品に多数出演し、少年雑誌の表紙を飾るほどの売れっ子になる。「小学校5年生の時にはまったく学校にも行けず、1年間京都の撮影所に通い詰めだった」と自身も語っている。
しかし世田谷区立旭小学校を卒業する頃、「俳優を一生の仕事にするなら、子役の仕事をやめた方がいい」との米倉斉加年の言葉に従い、1962年の13歳時に劇団を退団した後、子役としての仕事は減る。四代目江戸屋猫八とは中高の6年間玉川学園の同窓生(クラスが同じになったこともある)で、共に演劇部に在籍した[出典無効]。
早稲田大学第二文学部演劇専修入学(のちに中退)し、演劇活動を始める。
1971年秋、早野寿郎が所長を務める劇団「俳優小劇場」の養成所に通っていたが、幹部間に内紛が発生したために費用を返金してもらい、それを元手として22歳で劇団「表現劇場」を結成する。当時の仲間には後にシティボーイズを結成することとなる斉木しげる、きたろう、大竹まことがおり、共に特撮テレビドラマ『仮面ライダーV3』のアトラクションショーで日本全国を回る(その壇上で風間はV3のスーツアクター、斉木はボス役、きたろうは怪人役、大竹は影の声を担当したほか、ショーの終了後に風間は1千人規模のサイン会もこなしていた)。なお、大竹や斉木とは同居生活を送っていた時期もある。
1972年、日活ロマンポルノの映画『艶説女侠伝 お万乱れ肌』の脇役として、「風間杜夫」の芸名での銀幕デビューを飾る。芸名を決めるにあたり同作の役名が「風間良吉」で、北杜夫のファンだった日活の事務スタッフから「芸名は“風間杜夫”でどう?」と提案されたことで決まった。1974年、『勝海舟』でテレビドラマに初出演し、1976年、『娘たちの四季』(フジテレビ)で初のドラマレギュラーを得る。
1977年2月、劇団「つかこうへい事務所」の『戦争で死ねなかったお父さんのために』に出演し、以降、つかこうへいの演劇作品の主要キャストとなる。
映画では『蒲田行進曲』に出演したことを契機に顔が知られ、テレビドラマでは『スチュワーデス物語』の村沢浩教官役で人気を獲得する。
声優としても幅広く活躍しており、12歳よりアニメ『安寿と厨子王丸』で声優を務め、近年ではドラマ『X-Files』(テレビ朝日放送分)のモルダー役などが知られている。日本テレビの深夜アニメ『闘牌伝説アカギ 〜闇に舞い降りた天才〜』では、関西弁を話すヤクザの代打ち・浦部の声を演じた。
2002年11月、一人芝居『カラオケマン』の北京公演。
2003年には、舞台での演技が評価され、文化庁芸術祭で大賞を受賞した。
2018年4月には、大竹しのぶ主演の『リトル・ナイト・ミュージック』(東京・日生劇場)でミュージカルに初出演。それまで恩師の1人である劇作家のつかこうへいから「日本で最も踊ってはいけない役者」と言われたことが何度かあり、ミュージカル出演の依頼はすべて断っていた。
1971年に劇団「表現劇場」を立ち上げて宣材写真を色々な所に配っていた所、翌1972年に日活ロマンポルノ『艶説女侠伝 お万乱れ肌』の脇役での出演を依頼された。次に出演した映画『昼下がりの情事 古都曼荼羅』で初めて濡れ場を体験すると次々とオファーされて、結局1979年までに計16本出演することとなる。
当時のロマンポルノの濡れ場は基本的にアフレコで、撮影時は監督の指示に従って動いていた。本人は「完成して映画になると濡れ場ですけど、撮影現場では体操をやっている感覚だった」としている。
映画監督の田中登が監督した3作品(『昼下がり情事 変身』、『真夜中の妖精』、『女教師 私生活』)について風間は後年、以下のように語っている。生前田中監督から「風間の代表作は深作欣二さんの撮った『蒲田行進曲』ではなく、僕が監督したロマンポルノの3作品だ」と告げられた。
3作品の風間の役柄はどれも内面に鬱屈した感情を秘めたナイーブな若者で、本人によると「全共闘が挫折した後の若者の心情を反映していた」とのこと。後年「田中さんが撮った3部作は、僕にとって青春映画なんです」と回想している。
『女教師 私生活』では、撮影を前に田中が役者全員に「この作品では沖縄と本土の関係を描く」と意気込みを語ったという。完成後ポルノファンの反応が気になった風間がこっそり映画館に観に行くと、観念的な映像が続いた時に複数の客による舌打ちの音が聞こえた。しかし風間は、「それでも田中さんの作品は耽美的で、インテリや学生には高く評価されていました」と述べている。
ポルノ出演に関して風間の父は、当時新東宝でピンク映画のブッキングの仕事もしていたが、「ロマンポルノなんてやめろ」と反対された。一方母からは「やるなら一生懸命やりなさい」と応援してくれた。風間の妻は、公開前にスポーツ紙でポルノ出演の告知記事を偶然目にして「あなたの名前も出ている!」と純粋に映画出演をすごく喜んでくれたという。また、舞台仲間からは「お前、芝居が上手だな。ホントにヤッてるみたいだ」と褒められたという。
1973年に9本もの作品に出演したこともあり、そろそろロマンポルノを卒業することを考えた。その頃のNHKには、ディレクターなどにロマンポルノ好きが多くいたことから風間の存在が知られており、これが翌年の大河ドラマ『勝海舟』への出演に繋がった。また、つかこうへいとの出会いもロマンポルノが始まりである。つかの知人が、ロマンポルノに出演した風間の本業が舞台俳優であることを知り、彼から誘われたことで風間のつか作品への起用が決まった。
風間は後年、「ロマンポルノでは僕は良質の作品に恵まれた。大河もつかさんもロマンポルノが引き寄せてくれた。ロマンポルノは僕の人生に欠かせないものです」と語っている。
ポルノ出演した20代当時の風間はとても内向的で人と話すのが苦手だった。撮影期間は気後れして共演女優たちに話しかけることができず、昼休みは控室に籠もることが多かったという。
ギャラは風間の場合(当時の金額)、1本目の『艶説女侠伝 お万乱れ肌』が5万円、2本目以降は20万円だった。
風間が人づてに聞いた話として、ドラマ『スチュワーデス物語』の教官役で人気になった頃、池袋の文芸坐が「風間杜夫主演3部作」と銘打って先述の田中登監督の3作品を一挙上映すると、風間のファンの女子高生たちが殺到したとのこと。
舞台で落語家役を演じたのをきっかけに、落語に取り組みはじめ、1997年にはテレビで観客を前に一席演じた。立川文志の落語会に出演、2003年には春風亭小朝の企画で新宿末廣亭での寄席出演を果たす。2006年には明治座にて『風間杜夫と六人の会』を公演する。その後も大銀座落語会に出演したほか、定期的に横浜にぎわい座に自分の落語会で年2回程度の割合で高座に上がり、全国各地の公共ホールで落語会を開催している。プロの落語家がゲストとして助演することも多い。
出囃子は「蒲田行進曲」。持ちネタは「火焔太鼓」「化物使い」「元犬」「居残り佐平次」「夢の酒」など。
風間は落語の際、演劇と同様に客席の照明を落として演じることが多い。
※は「住田知仁」名義
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