『八つ墓村』(やつはかむら)は、1977年に公開された、野村芳太郎監督の日本映画。原作は横溝正史の同名小説。
八つ墓村 | |
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Village Of The Eight Tombs | |
監督 | 野村芳太郎 |
脚本 | 橋本忍 |
原作 | 横溝正史 |
製作 | 野村芳太郎 杉崎重美 織田明 |
出演者 | 萩原健一 小川真由美 山﨑努 渥美清 |
音楽 | 芥川也寸志 |
撮影 | 川又昂 |
編集 | 太田和夫 |
配給 | 松竹 |
公開 | 1977年9月23日 |
上映時間 | 151分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
配給収入 | 19億8600万円 (1977年邦画配給収入3位) |
1960年代後半からの横溝ブーム(漫画化・映画化にいたる経緯は「石坂浩二の金田一耕助シリーズ」の項を参照)を受けて、松竹は1975年に『八つ墓村』の制作を決定する。監督の野村芳太郎をはじめ、脚本の橋本忍、撮影は川又昂、音楽に芥川也寸志と『砂の器』を制作した陣営を起用。2年3箇月の製作期間と7億円(現在の15億円分)の制作費をかけた上で東宝作品などと競うように封切られ、目論見通り配収19億8600万円という松竹映画の歴代に残る大ヒット作となった。
探偵・金田一耕助の役には渥美清を配するなど、同時期の東宝配給による石坂浩二のシリーズとは作風が大幅に異なる。また、事件を「祟りに見せかけた犯罪」ではなく「本当の祟り」として描き、主要登場人物を大幅に削減して人物関係を簡略化した。さらに、推理物でありながら金田一による謎解きのくだりが短縮され、終局は背景を鍾乳洞洞窟とした迫力ある恐怖描写に差し替える等、推理劇風のオカルト映画へと改変した異色作となった。
テレビCMで流された濃茶の尼のセリフである「祟りじゃ〜っ」は、キャッチコピーとして流行語にもなり、当時大人気だったザ・ドリフターズがコントに取り入れたことも話題となった。
公開当時、松竹のそばにあった松竹セントラル劇場では連日多くの観客が訪れ、入れ替えの時間になると劇場から地下鉄の東銀座駅まで人が溢れた。公開期間中、同劇場の入り口には八つ墓明神のレプリカを設け、客はそこをくぐって会場に入る仕掛けになっていた。
1979年10月12日、フジテレビ系列にてテレビ初放送され、関東地区では34.2%の高視聴率となった(ビデオリサーチ調べ)。
寺田辰弥は首都圏空港で航空機誘導員をしていたが、ある日の新聞尋ね人欄の記述により大阪北浜の法律事務所を訪ねることになった。体にあった火傷の痕で辰弥は尋ね人本人と認められるが、そこで初めて会った母方の祖父であるという井川丑松はその場で突然、苦しみもがき死んでしまう。辰弥は父方の親戚筋の未亡人である森美也子の案内で生れ故郷の八つ墓村に向かうことになった。辰弥は美也子から腹違いの兄・多治見久弥が病床にあり余命幾ばくもなく子もいないため、辰弥が故郷の豪家の多治見家の後継者であると聞かされる。赤子であった辰弥を連れて村を出た母の鶴子は別の地で結婚した後、辰弥が幼いころに病死しており、辰弥は自分の出自について今まで何も知らずにいたのだった。
美也子に聞かされた多治見家と八つ墓村にまつわる由来は戦国時代にまで遡った。1566年、毛利に敗れた尼子義孝という武将が同胞と共に8人で今の八つ墓村の地に落ち延び、村外れに住みついた。しかし落ち武者たちは毛利からの褒賞に目の眩んだ村人たちの欺し討ちに合って惨殺される。落ち武者たちは「この恨みは末代まで祟ってやる」と呪詛を吐きながら死んでいった。このときの首謀者である村総代の庄左衛門は褒賞として莫大な山林の権利を与えられ、多治見家の財の基礎を築いた。だが、庄左衛門はあるとき突如として発狂、村人7人を斬殺した後、自分の首を斬り飛ばすという壮絶な死に方をする。村人はこのことにより落武者の祟りを恐れ、義孝ら8人の屍骸を改めて丁重に葬り祠をたてたことから村は八つ墓村と呼ばれるようになったというものだった。
さらに、辰弥の父だという多治見要蔵も28年前に恐ろしい事件を起していた。要蔵は事件当時に多治見家の当主で妻もありながら、若い鶴子を強引に妾にし、多治見家の離れに軟禁していた。しかし、鶴子が生まれたばかりの辰弥を連れて出奔してしまい、その数日後の夜に要蔵は発狂して妻を斬殺、村人32人を日本刀と猟銃で虐殺し、失踪したという。
八つ墓村では辰弥の帰郷と呼応するようにまた連続殺人が起こりはじめ、私立探偵の金田一耕助が事件調査のため村に姿を現わす。
本作では「田治見」でなく「多治見」と表記している。
1975年に映画化の企画が持ち上がった際、角川書店の社長に就任したばかりの角川春樹が本作のプロデュースに名乗りを上げていた。彼はプロデューサーとして映画業界への本格参入を計画し、先に『八つ墓村』の原作権を松竹に売っていたこともあり、共同製作の形で本作に関わろうとしていた。しかし「出資と共にプロデュースもしたい」という角川の提案に、松竹内部では賛否が分かれ、最終的に松竹の会長だった城戸四郎が提携を却下する決定を下して、松竹の自社製作という形になった。一方で角川に対しては、角川書店が連動企画と銘打っていた『横溝正史フェア』を無視したり、間接費という名目で4億円の手数料を要求する等、松竹側の不誠実な対応が重なり、不信感を募らせた角川は本作から手を引くことになる。ただ、企画当初から想定されていた、監督を野村芳太郎にする案は、松竹単独の製作となった後も継承された。
金田一役に渥美清が起用されたのは横溝自身の希望によるものである。小林信彦編『横溝正史読本』(角川書店、1976年、63ページ、角川文庫、2008年改版、89ページ)によると、松竹から本作の映画化の申し込みがあった際、金田一についてはまだ決まってないが二枚目になるだろうと言われ、それに対し「探偵というものは狂言回しでしょう。主人公は別にいるんですヮ。犯人か被害者かどちらかが二枚目になるでしょう、二枚目を二人出されちゃ困る。だから金田一役、やっぱり汚れ役にしてほしい、お宅ならやっぱり渥美清だろう。」と答えたという。また、たまたま野村芳太郎に会った際に「金田一をやりたいんだが、ウチ(松竹)には、金田一を出来そうな役者が居ないんだよ」と話しかけられたのに対して、「そんなことはない。今は石坂浩二の当り役みたいになってるけど、見るからに二枚目だし、いかにも頭が良さそうで、本当のことを言うと、原作の金田一とは割と離れている。原作のイメージで言えば、お宅の渥美清なんかの方が近い。」と答えたとも語っている。
鶴子役を演じた中野によると、山崎努演じる要蔵に寝室で乱暴されるシーンについて以下のように回想している。「山崎さんは普段寡黙で温厚な方なのですが、撮影が始まると完全に要蔵になりきっていました。迫力ある山崎さんに手加減なく蹴飛ばされたため、“体にアザができたかも”と思ったほどです。でもカット後に体を確認するとアザなどはなく、山崎さんは動きを派手に見せつつ、私にダメージがないギリギリの力加減で演じられていて、その表現力に驚かされました」。
映画評論家の樋口尚文は、「萩原さん演じる辰弥が当時のリアルな若者の姿を象徴していた。対して『寅さん』のイメージが強い渥美さん演じる金田一は、観客を虚構の世界に導く役割を担っていました」と語っている。中野は、「本編では事件が起きる度に村人が大騒ぎする姿と、渥美さん演じる金田一耕助の落ち着いた態度の対比が、本作に良いリズムをもたらしている」と評している。
ちなみに中野は、辰弥の少年時代を演じたのが子役時代の吉岡秀隆だったとは、最近(2022年頃)まで気づいていなかった。
脚本の橋本忍は美也子役を成立させることができるのは、吉永小百合、栗原小巻、浅丘ルリ子しかおらず、この3人が使えないのなら、作品はやめたほうがいいと考えていたが、小川真由美に収まった。
本作のシナリオは当初ある脚本家が書いていたが、野村がその内容に満足できず半年後にしびれを切らし、脚本は橋本忍に変更となった。出来上がった映画では石坂以上にコミカルな面は排除され、謹厳な学者のように事件を解説する金田一となった。なお、渥美清にとっては『男はつらいよ』の「寅さん」以外のキャラクターでは、本作が唯一ヒットを飛ばした作品となった[要出典]。
1976年8月13日に銀座東急ホテルで製作発表会見があり、主要キャスト・スタッフ、関係者が出席。8月16日に大阪でクランクイン、撮影期間は1年1ヵ月の長期にわたり、1977年9月末に封切を予定している。全体の3分の1の舞台が鍾乳洞となり、松竹で初のパナビジョン方式を採用、高性能レンズを使用し、ロウソク程度の明るさでも撮影が可能である、などの説明があった。主役に抜擢された萩原健一は「何かすごく責任重大でどこまでやれるのかちょっと心配です。それに長い年月をかけて撮影するのは初めて。共演の相手が渥美さんとは願ってもないです。頑張ります」と意欲を見せた。
時代設定は、原作の戦後間もない昭和20年代から映画制作当時(1970年代)へと移している(この作品よりも後に製作された東宝のシリーズは原作の通りの時代設定)。また、日本航空と提携した上で辰弥の職業を空港職員に設定し、ジェット機が離着陸する近代的な場面を冒頭とラストシーンに見せる事で、失われつつある農村風景や前近代的因習の守旧性を強調している。他にも、角川と東宝の『金田一シリーズ』が小説に比較的忠実なのに対し、本作は映画オリジナルの部分が多い(詳しくは、後述「原作との主な差異」)。
作中でのロケ地探しに1年半を費やした。特に苦労したのが物語で重要な場面となる洞窟で、スタッフは日本中の鍾乳洞を回ってロケ地を探した。事前に野村は独自の演出ノートに洞窟のイメージを描き、それに合う場所を探した。下記ロケ地の欄にはないが、野村芳樹によると「父(・野村芳太郎)の演出ノートによると、洞窟のシーンは沖縄で撮影したものが一番多く使われている」と証言している。
野村は本作に、1976年公開のデ・パルマ監督の映画『キャリー』のような、アートっぽいモダン・ホラーの要素を取り入れたとされる。本作は150分以上もあるため、野村はシーンによって演出に強弱のメリハリを付けることで観客を飽きさせない工夫をした。
作中の“村人32人殺し”のシーンでは、村人の悲鳴が聞こえる中、要蔵は淡々と殺しを遂行していく。野村はこのシーンで要蔵に一言も言葉を喋らせないことで、より一層彼の凄みや殺人シーンに恐怖感を持たせた。
終盤の小川真由美が般若面の形相になるシーンの撮影時、野村はメイクを過激にしすぎると観客が白ける可能性を不安視した。“おどろおどろしい”と“白ける”の境目を判断するため、小川に異なるメイクを施して何パターンも撮影した。撮影後、近くにある女子大生たちに小川のシーンの動画または写真を見せ、感想を聞いて本編で使う映像を決めた。
原作の重要な要素のうち、下記は省かれている。
その他の原作からの変更点のうち、既述の時代設定以外で特に重要なものとして下記を挙げることができる。
発売日 | レーベル | 規格 | 規格品番 | 備考 |
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松竹ホームビデオ | VHS | SE-0150 | ||
松竹ホームビデオ | VHS | SE-9864 | ||
1989年8月25日 | パイオニアLDC | LD | SF057-1629 | |
2002年4月21日 | 松竹 | DVD | DA-5150 | |
2012年3月28日 | 松竹 | DVD | DA-5150 | |
2014年10月3日 | 松竹 | Blu-ray | SHBR-0257 | 「あの頃映画 the BEST 松竹ブルーレイ・コレクション」 |
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