望月 圭介(もちづき けいすけ、1867年4月1日〈慶応3年2月27日〉 - 1941年〈昭和16年〉1月1日)は日本の政党政治家。広島県出身。
望月 圭介 もちづき けいすけ | |
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1932年(昭和7年) | |
生年月日 | 1867年4月1日(慶応3年2月27日) |
出生地 | 日本 広島県豊田郡東野村 |
没年月日 | 1941年1月1日(73歳没) |
死没地 | 日本 東京府東京市渋谷区原宿 |
出身校 | 共立学校卒業 |
前職 | 廻船操業・鉱山業 |
所属政党 | (自由党→) (憲政党→) (立憲政友会→) (昭和会→) 立憲政友会革新同盟 |
第31代逓信大臣 | |
内閣 | 田中義一内閣 |
在任期間 | 1927年4月20日 - 1928年5月23日 |
第40代内務大臣 | |
内閣 | 田中義一内閣 |
在任期間 | 1928年5月23日 - 1929年7月2日 |
内閣 | 岡田内閣 |
在任期間 | 1935年9月12日 - 1936年3月9日 |
衆議院議員当選13回。自由党から立憲政友会に所属した生粋の政友会党人。政治生命をほぼ党のために尽くし裏方に徹し、特に調停役として手腕を発揮した。原敬総裁により幹事長に抜擢され、高橋是清総裁時代に3度、計4度幹事長を務めた。閣僚は3度、田中義一内閣の逓信大臣のちに内務大臣、岡田内閣の逓信大臣。1928年昭和天皇即位の礼の時の内相(警備最高責任者)であり、1936年二・二六事件の時の閣僚である。
熱心な浄土真宗門徒として知られている。通り名に「人情の人」「人使いの名人」「(清元節の)通人」があり、特に「人情大臣」として著名。最終学歴は明治英学校中退、あるいは共立学校卒業。「学問こそないが人間学の極意を極めている」と称された人物。
瀬戸内海芸予諸島の大崎上島、豊田郡東野村矢弓(現豊田郡大崎上島町矢弓)出身。生家は屋号・御下屋、特に「大望月」と呼ばれた島内最大の廻船問屋で、1867年(慶応3年)父・東之助、母・リツの三男として生まれる。幼名は三郎。
「家名を汚すな」「仏の道に違うな」と母・リツによって厳しく育てられた。望月が安芸門徒となったのは両親の影響である。姥によると風邪一つ引かない丈夫な子どもであったという。腕白で正義感の強い子どもであったという。当初小学校は存在していなかったため、正光坊の寺子屋で学ぶ。のち矢弓に小学校が創立したことによりそちらへ移る。さらに父・東之助は兄・俊吉と望月圭介のために家庭教師もつけていた。成績優秀ではあったが、一番ではなかったという。
1880年(明治13年)13歳の春、遊学のため兄・俊吉と家庭教師とともに上京する。当時望月家は品川台場への石材運搬に絡んでいたため東京の情勢を知っており、父・東之助の意向で遊学することになった。望月はまず近藤真琴の私塾・攻玉社中年部(現攻玉社中学校・高等学校)へ入学する。推測ではあるが、攻玉社が商船学校を付属していたことから測量航海術を学ぶため、また数学を学ぶため、と家業に役立つことから入学したとされている。攻玉社の同窓ではないが同じ寄宿舎には鈴木喜三郎がいたという。そして理由は不明であるが、1881年(明治14年)高橋是清の共立学校(現開成中学校・高等学校)へ転じる。1883年(明治16年)同校卒業、同級生あるいは同年卒に床次竹二郎・石塚英蔵・秋山定輔・谷口留五郎・白仁武・鈴木天眼・一宮鈴太郎・井上辰九郎・服部宇之吉・芳賀矢一・橋本左五郎・大森房吉・岡田竹五郎・有坂鉊蔵・北島多一らがいる。
のち明治英学校で学んだとしているが、確証が得られるソースがないことから現在流通している経歴では触れられていないものもある。また資料によっては大学予備門で学んだとするものもある。
ただ勉学は途中で終わったことから、結局望月は高等教育を修めていないことになる。
1883年(明治16年)あるいは1884年(明治17年)、父・東之助により遊学を止め帰郷せよ、と言われる。望月家はこの頃三菱の高島炭鉱からの石炭の輸送を一手に引受けさらに石炭販売と業務を拡大しており、人出が足りなくなったため呼び戻されたのであった。長崎に出向き、叔父・源九郎の助手として働き始める。そして三菱支店長の紹介で、松島炭鉱(現三井松島産業)での運搬・販売に加え採掘権を得ることになり、兄・俊吉と共に松島での業務に勤めた。望月の仕事を鉱山業としてる資料があるが、それはここから来ている。
1895年(明治28年)、ハルと一度目の結婚をしているが、母・リツと折り合いが悪かったためすぐに別居し、1897年(明治30年)正式に離婚している。
1895年台湾へ旅立つ。この年から台湾の日本統治が始まり、広島県会議員および商工会議所有志らと一緒にその視察および県産物の販路拡大を目指して渡航したものだった。また兄・俊吉が甲申政変直前の朝鮮に渡り鬱陵島の木材を用いて造船の請負販売する契約を金玉均と交わしたことがあり(甲申政変で金が失脚したため執行されず)、望月もこれを見習って台湾で一旗揚げるつもりで渡航したという。ただ、台湾ではマラリアを患い志半ばにして帰国した。このマラリアで生死の境をさまよった経験がその後の生き様に大きく関係することになる。
1897年(明治30年)、チサトと二度目の結婚。そしてこの時期に兄・俊吉が自由党に属し政治活動を始めるようになる。また望月は時期は不明だが、父・東之助に代わって東野村長を務めていたことがあった。
1898年(明治31年)31歳の時に兄・俊吉に続く形で自由党へ入党、第5回衆議院議員総選挙に出馬した。それ以前に県会議員への出馬を進められていたことがあったが断っており、「俺は初めから檜舞台で働くのだ、1回や2回の落選は覚悟の前だ。」と国政へ打って出たのである。また当時は制限選挙で戸籍上は兄・俊吉の養子として出馬している。当然知名度はなく落選した。
1898年第6回衆議院議員総選挙にて自由党から立候補し初当選。ただ、その後は1902年(明治35年)第7回落選(立憲政友会)、1903年(昭和36年)第8回当選(政友会)、1904年(明治37年)第9回落選(中立)、1908年(明治41年)第10回当選(政友会)、と落選当選を繰り返し、1912年(明治45年)第11回は失格者が出たため繰り上げ当選(補欠当選)と、苦戦を強いられていた。明治時代においては確固たる地盤ができていなかったのである。兄・俊吉が常に選挙参謀であり不正を許さなかったため、選挙活動でいわゆる裏工作をするものはおらず逮捕者は出なかったが苦戦を強いられていた。そして1915年(大正4年)第12回以降、順調に当選していった。選挙区は一時期立憲民政党山道襄一と争ったが、堅固となった望月の選挙地盤では負けることはなかった。
また代議士となり東京を拠点に暮らすことになるが、明治末期から大正初期にかけて経済的に困窮していた。この頃になると家業の廻船操業は落ち目になり、さらに兄・俊吉も地元で議員として活動しており望月家は2人分の活動資金がかかったためで、仕送りは減っていた。およそ代議士らしくない姿には、党内外で陰口を叩かれたという。活動資金が必要となり金策に走り回ったことがあるが利己的に強引に集ったりはせず、清貧を貫いていた。こうした望月に支援者が増えていった。
当初所属した自由党のちの憲政党時代の望月は重要な活動はしていないことから、当時のことははっきりとわかっていない。
1900年(明治30年)伊藤博文総裁で立憲政友会結成。望月は移ることになる。初めての役職は1901年(明治34年)第4次伊藤内閣崩壊後、中国・近畿遊説部隊員の一人に選ばれたもの。明治30年代は日清戦争の勝利で急速に成長した日本の資本主義が、帝国主義へ移って行く時期で、藩閥政府と政党との提携がはじまっていく時代であり、その中で望月は政党政治家として党本来の面目を獲得することに尽力し、一度正しいと思ったことには妥協せず貫いた。
この政党はいわゆる寄り合い所帯であり、結成後早くも内紛した。第1次桂内閣予算編成において、政府は日清戦争後対ロシア対策として軍拡に迫られておりその財源として地租(固定資産税)増徴で当てようとした。一方政友会は日清戦争での賠償金で当てるべきとし地租に手を付けるべきではないと主張した。この政府案で妥協する“軟派”と党案を推し進める“硬派”で党内の意見が割れたのである。硬派には特に地租の増徴を避けたい地方選出議員で構成され、望月もこれにまわることになる。結局党は妥協案を受け入れ硬派の中心は除名で決着となったが、この対立構造は火種として残ることになる。
1902年(明治35年)第7回衆議院議員総選挙で政友会は189議席を獲得するものの、望月自身は落選。同年第17回帝国議会でも同じ問題である地租増徴でもめ妥協はならず、同年12月解散。解散後の臨時選挙である第8回衆議院議員総選挙で望月は当選するのである。第8回選挙後、桂と伊藤とで妥協交渉が行われ合意に至ったが、党“硬派”少数議員は反発し党組織改革運動に展開、望月もそのなかの一人となった。1903年(明治36年)第18回帝国議会では妥協案否決、そして望月も名を連ねた硬派により問責決議が提出された。その後、議員総会が行われ伊藤の切り崩しにより政府案賛成が圧倒的となり“問責組”は脱党するしかなくなった。
こうして第18回議会閉会後である1903年6月、広島県選出議員全員とともに望月は脱党した。
脱党後、同じく問責脱党組である尾崎行雄が主催し「純潔健全派」と称した藩閥政府に対峙する20人からなる同志研究会に所属する。1903年(明治36年)第18回帝国議会にて奉答文事件が起こり衆議院解散。1904年(明治37年)日露戦争勃発、同年第9回衆議院議員総選挙では中立(無所属)で出馬したが落選した。1905年(明治38年)3月まで同志研究会で数度会合した後 ハワイで出征軍人家族への援助寄付金集めに奔走した。なお同志研究会は戦争終結頃に解体となり、立憲政友会に復帰することになるが、議員ではないため役員等にはついておらず顕著な活動は行っていない。
1908年(明治41年)第10回衆議院議員総選挙にて再当選。1909年(明治42年)党大会で中国代議士から協議員に選出され、同年第26回帝国議会前に政務調査会第5分科(逓信・農商務)理事に任命された。戦争時の増税の後処理を行っていた時期であり、望月は税制を整理し減税を主張した。立憲政友会は第一党であったが藩閥政府に弱腰で妥協は続いたが、それを党の大多数は支持した。決裂後の衆議院解散を恐れていたためである。それに対して望月は党幹部反対派の姿勢は崩さなかったものの、かつて問責脱党組でそのとき幹部反対派は望月と日向輝武しかいない状況であった。
大正政変の時代だった。官僚藩閥は衰退し政党が民衆勢力を背景に飛躍する時代であった。望月は正しいと思ったことには妥協せず貫いた。40歳前後の血気盛んなこの時期いわゆる“ヒラ代議士”の身分であったが、地方の経済状態改善のため藩閥政府に対峙し、議会では大暴れしていた。
政友会内での出世は遅い方であった。30歳ぐらいまで全く政治の舞台に立たなかったこと、1912年(明治45年)第11回衆議院議員総選挙では失格者が出たため繰り上げ当選(補欠当選)したことなどこの時代まで選挙地盤が弱かったこと、法制や財政などの専門的分野に特化しなかったせいであり、若い議員の後塵を拝していた。出世の遅かった理由について鵜澤總明は、望月が常に人を先に立てて自分は一歩下がって党のために尽力していたため、と述べている。望月は1912年(明治45年/大正元年)院内幹事就任、1914年(大正3年)から1918年(大正7年)まで毎年幹事を務めた。若手時代の小坂順造は議員としては先輩にあたる望月と一緒に幹事を務めたという。横田千之助が頭角を現した際には「お前は外で働け、俺は中で働く」と横田を前面に出し望月はそのサポートに徹した。1917年(大正6年)次の衆議院議長をめぐって党内で大岡育造と小川平吉が対立した際には、議員として先輩でありかつて同じ問責脱党組であった小川に対し望月は持論を述べ説得し議長候補を辞退させている。すべて愛党精神からの行動であったが、こうした党内調整が徐々に評価されていった。
そして1915年(大正4年)第12回衆議院議員総選挙以降、望月の選挙地盤は確立し順調に当選していった。
1918年(大正7年)衆議院代表シベリア出兵慰問団団長となる。これは当時寺内内閣が米騒動によって倒れる寸前で、次の政権が立憲政友会に回ってくることを見越して議員の多くが役職につこうと根回しするため東京を離れようとしなかったため、望月が「よし誰も行かないのなら俺が行こう」と名乗りを上げたことによる。重要な役職についたことがないヒラ代議士であったが、衆議院の代表として行くことには党の内外問わず誰からも反対されずむしろ最適任者だと歓迎された。慰問先のシベリアでは、形式的なものではなく、精力的に慰問した。随行した記者の青木精一は、列車での行脚であったが夜更けであっても兵士を見かければ止めさせたとえ数人の兵士でも見つけると慰問した、ことを記し、また記者の野依秀市は、慰問を受けた兵士たちが「代議士の中にもこんな気持ちのいい立派な人がいるのか」と感激していた、と記している。同じく記者の鈴木文史朗はこれ以前まで望月は新聞記者の間であまり評価されていなかったと証言しており、この時の望月の名演説で将兵が涙したという話が「人情の人」としての最初の評判になる。
このシベリア慰問の最中、日本初の本格的政党内閣である原内閣が誕生、そして原敬総裁によって望月は幹事長に抜擢されるのである。望月が51歳のときである。就任時に以下のようなことをコメントしている。
従来とかく幹事長の椅子は大臣への登竜門と見做され、出世の段階の如く思われてきたが、自分はただ総裁の指名を受けて就任するのみで、格別これを出世とも栄誉とも思っていない。ただ自分としてはあくまで縁の下の力持ちとして、この重責を全うしたいと思っている。またそのかわりにはあくまで理非曲直を明らかにして、苟も党のために成らざることは、絶対にこれを拒否するから左様ご承知ありたい。 — 望月圭介、
原の手腕によってこの内閣時代は政友会にとって黄金期となった。望月は原に心服しその期待に応え、原も望月を信頼した。望月は裏方に徹しそして強情であった。幹事長はこの時も含めて4回務めることになるが、これは政友会史上で望月だけになる。
1920年(大正9年)7月総務となる。
1921年(大正10年)11月4日、原敬は京都で開かれる政友会近畿大会へ向かう途中の東京駅乗車口で襲撃される(原敬暗殺事件)。この時、望月は原に随行しており、元田肇・中橋徳五郎・小川平吉らと共に原を駅長室に運び込み応急処置をしたが手遅れだった。当時党幹部で在京だったのが、総務の望月と、幹事の河上哲太・一宮房治郎・森恪のみであったため、望月が後処理の陣頭指揮をとった。まず西園寺公望をはじめとする所属両院議員・各府県支部に総裁兇変を通知すると、同日夜に最高幹部会を開催し最善策を協議する。翌5日、協議会を開き望月により総裁薨去の報告、党葬の決議、などが進められ、以降事務処理に追われた。原の地元盛岡で行われた本葬に党本部代表として出席している。
原の後は高橋が引き継ぎ高橋内閣が成立する。その後は加藤友三郎内閣、第2次山本内閣、清浦内閣と短命の非政党内閣が続いた。この間、政友会から政友本党が分裂、政友会は第一党の地位を失っている。この時期の望月はというと、政友会で幹事長あるいは総務を務め、高橋総裁を裏方として支えており表立った活躍はなかった。1923年(大正12年)関東大震災では東京の自宅に長女と2人いたが無事だった。
1924年(大正13年)憲政会・政友会・革新倶楽部の護憲三派連立内閣・加藤高明内閣が発足する。1925年(大正14年)農林および商工大臣を兼務していた高橋が引退することになりその後任として望月が商工大臣に推薦されたが、望月は固辞し岡崎邦輔を推薦した。岡崎はもう年だからと望月を推薦しお互い譲り合う状況になったが、望月が岡崎を口説くと結局大臣になることになり、岡崎が農林大臣に移り、野田卯太郎が商工大臣となった。
このように大正時代まではひたすら裏方に徹していたのである。
昭和金融恐慌発生に端を発して第1次若槻内閣が倒れた際に、郷里から選挙区の人たちが東京の望月の家にやってきて、次は立憲政友会内閣になるから今度こそは大臣になってくれ何のために応援しているのかわからん、と頼みこんだ。望月は相変わらずやる気はなかった。ちょうどその時に田中義一から大臣要請の電話があり一考すると答え電話を切ると選挙区の人たちが、ぜひ受けろ望月はいいかもしれないが自分たちが困る、と騒いだ。これに取材に来ていた新聞社も決まったものとして騒いだ。望月は喧騒を離れ自室にこもり「自分自身だけでは生きて行けぬ世の中じゃな」と一考していると、再び田中から電話があり大臣承諾の返事をした。これに喜んだ人たちで望月家は大騒ぎとなった。望月が60歳の時のことである。
1927年(昭和2年)4月20日 付で田中義一内閣での逓信大臣に就任した。望月は逓信官僚に対して「私は何も知らない。君ら、最も良いと確信するところをやってくれ」とほぼまかせていた。一方で閣議決定した郵税(郵便料金)増税などの逓信省担当分の変更は「閣議でこうすると約束したものだからこの通りにしてくれ」と反対する官僚を説き伏せた。人を使うのがうまく要所は押さえていたこと、そして望月も勉強したことからうまく回っていた。実績としてはいくつかあるが特に航空関連のものが出色で、(旧)航空法の施行、国際航路含めた定期航路の保護奨励、国策会社日本航空輸送の設立推進、を行っている。現役国務大臣で初めて飛行機に乗ったのが望月であり、羽田飛行場から約10分間東京の空を飛んだ。
この時期、郵便集配人の騒動があった。1928年(昭和3年)3月本郷郵便局の集配人が小包郵便取扱上の過失で解雇、同局で別の集配人が不穏な行為があったとして罷免、と本郷郵便局長が決断し逓信局長が了承した。これに怒った逓信系労働団体の逓友同志会は従業員大会を開き、2名の件は上司の感情的な不当解雇であるとして復職を要求、更に団体活動の自由を要求し、抗議としてストライキを起こそうとしていた。逓友同志会はこれらを持って本郷郵便局長、逓信局長、そしてその上の逓相の望月を訪れ抗議した。官僚が決定した案件であるが望月は「解雇する程度のものではない、諸君の云うのが合理的だ」と決定を覆し、1人は解雇処分を取り消し元の本郷に、もう1人は他局への異動とし、団体活動にも理解を示した。更に望月はその集配人2人を大臣室に呼びつけ直々に諭したのである。官僚のメンツを潰してまで大臣が直接裁いたこの事件は当時前代未聞のことであった。大臣室にまで呼ばれた2人はあっけにとられ、逓友同志会側も望月の一連の行動に感服し、無産政党も望月には一目置くようになった。
田中内閣において望月逓相は水野錬太郎文相とともに内閣円満運営のための調停役として動いていた。第1回普通選挙では政友会選挙相談役となり、選挙後は政友会と実業同志会との協定に向け動いている。
望月が逓信大臣時代に田中内閣では、日本共産党(いわゆる第二次共産党)一斉取り締まりを行い(三・一五事件)、それでも共産党がコミンテルンの手先として国家転覆を図っていると判明したため、更に1928年(昭和3年)昭和天皇御大典を前に急ぐ必要があったため、緊急勅令をもって治安維持法改正を進めた。当時法相だった原嘉道の証言によると、治安維持法に死刑を導入するという重大な法律改正を緊急勅令で行うことは憲政の破壊であるという囂々たる反対論が政党間にあったが、望月が「これをやるとお互いにやられるかも知れぬぞ」と言うと、原は「この為にやられるならよいじゃないか、日本の国体を破壊する者を適当に取り締まるという事は我々の任務である。この国体破壊者の取締を厳にするという事に骨を折った為にやられるというならお互いの本望じゃないか」と答えると、望月は「いや君がそこまで覚悟していれば結構だ、それで安心した」と述べたという。ただ法案改正担当省庁の一つ内務省の鈴木喜三郎内相が専横的な事務官更迭と第1回普通選挙における選挙干渉が非難され辞任しており、田中内閣は専任内相を急いで置く必要があった。後任の内相は犬養毅が第一候補に挙がったが犬養自身はやる気がなく、その他色々候補が自薦他薦で挙がったが、田中義一首相は“人情の人”望月を選んだ。田中は望月に要請すると、望月は内相には犬養をと答え辞退したが、田中が重ねて頼み込んだため折れて内相になると決めた。
1928年(昭和3年)5月23日付で田中内閣での内務大臣に就任した。当時の新聞報道によると政党政治家叩き上げの人物で内相になったのは望月が初であるという。なお望月の内相就任には党内外ともにも異論が挙がらなかったが、望月の後任となった久原房之助逓相を発端として政争にまでなっている(水野文相優諚問題)。
一番にやらなければならなかった治安維持法改正について、当初内務省官僚ほぼすべてが反対意見を表明していた。御大典は4ヶ月後に迫っていた。そこで望月は反対する内務省官僚全員を大臣室に集めると、意気軒昂に全員を睨みつつ、閣議で決まったことだからやれ文句があるなら儂と対峙しろ、と啖呵を切った。これで官僚たちは意気消沈し反対できなくなった。野党側の違憲論に対して、政府は「憲法第八条に基づく当然の挙措にして断じて違憲にあらず。又憲法の精神に背反することなし」と応酬して、野党の反対も押し切り、改正案が成立すると、望月は御大典における警備最高責任者として各警察・保安・特高に指導激励して回った。御大典で万一のことがあったら自決して詫びるため白無垢を作らせている。御大典は滞りなく無事終わり、これにより国民の信頼を更に得た。
これ以降も天皇地方行幸には必ず白無垢と白鞘の短刀を持ち歩いていた。望月はそのことを一切口にせず秘密にしていたが、ある旅館で女中に見つかってそこから世間に漏れてしまい、感動話として広まった。
田中内閣のもう一つの重要法案が地方制度改正のための整備案であった。特に1931年(昭和6年)をめどに国税の地租を地方税に委譲、国税の営業収益税を府県営業税に統合し廃止するいわゆる両税委譲案が目玉であった。第56回帝国議会にて地租條例廃止法律案ほか合計17案を提出、内相の望月は三土忠造蔵相とともに議会で説明している。この法案も衆議院では与党の議席数で押し切り通ったが、貴族院では地租の部分が国民思想に悪影響であるとして結局は握りつぶされた。この流れで地方制度改正の話の中で婦人参政権問題が党内では挙がったが、望月は時期尚早として大反対している。
内相の時も、持ち前の人使いのうまさで官僚にまかせつつ要所を抑える方針は続いた。前任者の鈴木が専横的に人事介入したのに対し、望月は地方長官の更迭は一切行わなかった。内相という立場から利権に絡んだ誘いもあったが、金や地位に執着しない望月にとっては関係ない話で、一切聞く耳を持たなかった。望月の次に内相になる安達謙蔵の証言によると、安達が内務省に入ると望月の指導が行き届き皆和気あいあいとして正しく仕事をしていたという。“人情大臣”と呼ばれるようになったのはこの内相時代のことになる。
田中内閣は、水野文相優諚問題、幣原外交の破棄、張作霖爆殺事件での対応、など数々の問題で批判され内閣を維持できなくなったことから、1929年(昭和4年)7月2日に総辞職している。望月は、これを最後に裏方に専念し大臣にならないと決めた。
大臣退任後は立憲政友会総務に復帰、ひたすら党務に専念した。岡崎邦輔とともに長老として党内調整役を進んで買って出た。
1929年(昭和4年)田中義一総裁が死去した後、次の総裁をめぐって党内で鈴木喜三郎派・床次竹二郎派・久原房之助派・旧政友会派に分かれた。望月は党内分裂を避けるため彼らより政治家として格上であり当時引退していた犬養毅を推した。望月は総裁選定の長老会議に出席すると、鈴木や岡崎など一人づつ廊下に呼び出し「犬養を推薦しようと思うがどうだ」と言うと、彼らは犬養の名を出されたため何も言えなくなり賛成に回った。そして望月は長老会議に戻り犬養推薦を提案すると、全員一致で賛成の意を表した。軽井沢で隠居していた犬養には森恪が向かい受諾を取り付けたことにより、犬養の政友会総裁がきまった。そして憲政の常道によって政友会が政権を握る事になり1931年(昭和6年)犬養内閣が発足した。
1932年(昭和7年)犬養が海軍の青年将校により殺害された(五・一五事件)後、次の総裁には鈴木派と床次派が争い鈴木にきまった。望月は岡崎・三土忠造らとともに順番的には床次が妥当と考えていたが、鈴木派の鳩山一郎や森の工作により党内は鈴木が多数となったことから、無用な争いを避けるため望月と岡崎が床次を説得し辞退させている。望月は党内では鈴木の先輩にあたるが愛党精神から鈴木を立てようとした。三土によると、望月としては間接的ではあるが鈴木の総裁就任を後押ししたこともあり党の長老として鈴木に色々相談して欲しかったが、鈴木は総裁には鳩山と森のおかげでなったと考え望月を味方と思っておらず相手にしなかった。このすれ違いがのちに対立に発展していった。
同年の選挙で絶対安定多数を獲得していた政友会としては犬養内閣の次は鈴木内閣となるべきであったが、情勢、特に陸軍が政党単独内閣を許さす強硬で、結局政党・官僚から広く閣僚を採用する挙国一致内閣に決まり齋藤内閣が成立した(五・一五事件#後継首相の選定)。それに対し鈴木総裁以下政友会幹部会は、第64回帝国議会終了後に危機的な状況は終わったとして政党単独内閣を目指し斎藤内閣と対峙する姿勢を示した。この単独内閣を目指す強情派と今は挙国一致するべきとする自重派で党内は分裂し、望月や山本条太郎の仲介で一旦収まったものの、そこから鈴木派と久原派の対立となってしまった。望月や岡崎などが何度も仲介したが対立は深まるばかりであった。
1933年(昭和8年)第65回帝国議会を前に、中島久万吉商相と鈴木派の中心人物である鳩山文相の尽力で政民が連携することになり、これに床次派・久原派・旧政友会派が支持した。望月もこれで党が一致団結すると支持した。ただ3派がその大同団結運動に加わろうとすると、鈴木派は急にこの運動に反対した。報復として同議会で久原派の岡本一巳が鳩山文相の収賄を暴露し、党内の派閥争いがとうとう議会にまで波及した。岡本のほか久原派の津雲国利と西方利馬が加勢したとして、岡本は党査問会で除名処分に決定、津雲と西方の処分は望月以下総務会に一任された。望月は同情し穏便に済ませようと鈴木総裁を説得したが失敗に終わり、2人とも除名処分となった。
不毛な派閥争いの中で鈴木総裁に不満を持った望月は、名目上は会期に3人も除名者をだした責任をとるという形で衆議院に議員辞表を提出した。この行動は鈴木派を非難し久原派を擁護する行動に写ったことから、久原派は活気だち、党幹部会は次第に困惑した。幹部会は望月に辞表を撤回するよう説得、鈴木総裁も望月に直に会い説得している。頑なに意思を曲げようとしない望月に鈴木総裁が折れ、大同団結、何より党が団結するよう働きかけたことから、望月は辞表を撤回した。
1934年(昭和9年)帝人事件によって齋藤内閣が倒れ、次も挙国一致内閣である岡田内閣が成立した。岡田啓介首相は各党に協力を求め、立憲政友会鈴木喜三郎総裁と初めて会談した際に、逓相に床次竹二郎、農林相に望月の入閣を要請した。望月と岡田は共に田中義一内閣での閣僚で旧知の仲であり、岡田は望月と直接会って説得しようとしていたが、望月はその前に即座に否定し望月の下で政務次官を務めたことがある秋田清の入閣を推薦した。逆に床次は了承し政友会入閣人事を進めていた。ただ大部分の政友会党員は岡田内閣を否定し、政友会は鈴木派の主導で政党単独内閣を目指し野党として対立姿勢を取ることになった。よって岡田内閣に入閣した床次・山崎達之輔・内田信也とこれに同調する議員は政友会幹部会によって除名処分となった。望月はこの時点では政友会に属していたが先の議員辞職騒動で鈴木総裁と対立しており、望月の推薦で入閣を夢見たが否定されたことで党に不満に持った秋田とともに、鈴木派から危険分子と見られるようになった。
そこへ政友会を揺るがす2つの事件があった。1つが党の重鎮である高橋是清がのちに岡田内閣に入閣したため除名処分したこと(党は"別離"宣言したとも)、もう1つが同年第66回帝国議会予算総会において鈴木派の不手際で政府案に屈服してしまったことである。これで派閥抗争が活発となり離党するものもでて、鈴木総裁を弾劾するものもでた。秋田が離党したのもこの時である。
1935年(昭和10年)岡田内閣は内閣とは別に、重要国策を挙国一致で取り組むため各界の有力者で構成した諮問組織"内閣審議会"を設置する。最大野党である政友会は派閥抗争で揺らぐ中で、党幹部会は岡田内閣に対立姿勢は取りながらも審議会設置は了承するという曖昧な立場を取った。そこで岡田内閣は政友会幹部会に反発する政友会勢力からまず秋田と水野錬太郎を審議会に引き入れた。秋田はこの時点では離党、水野は貴族院所属であるため政友会体勢にほとんど影響ないため、3人目の候補として、鈴木総裁に反発し審議会に引き抜くことで政友会を揺るがすほどの大きな影響力を持ちそして岡田とは旧知の仲である、望月の審査会入りを画策した。腹を決めた望月は新聞に以下のことを語っている。
この望月が四十年来の同志と別れての今後の行動は、決して一身の栄達利欲のためではない。真に国家のため是なりと信ずるに至ったのと、如何なる場合においても議会政治即ち政党政治に引き戻さねばならぬと考えたので、自ら進んで審議会に入り、憲政復帰のため最後の御奉公に一身を捧げる決心をしたのである。 — 望月圭介、中外商業新報1935年5月13日付
水野は脱党届を提出したが、望月は「わざと自分から脱党はせん。除名するなら仕方ない。」と1935年5月10日政友会所属のまま審議会に入った。同日、政友会幹部会は望月・水野共に除名処分を下した。
先に立憲政友会を離れた床次竹二郎・山崎達之輔・内田信也は新党結成を画策した。1936年(昭和11年)春に総選挙が迫っていたため急がなければならなかった。ただ政友会からの引き抜きはうまく行かなかった。そこへ中心人物である床次が急死、新党結成は計画の段階で自然消滅し、そして岡田内閣にとっては床次の後任の逓相を選定する必要に迫られた。挙国一致内閣であった岡田内閣の閣僚は各党・官僚の微妙な勢力バランスで成り立っており、新しい逓相には各勢力の利害関係が一致する人物にするしかなかった。立憲民政党の人物はこれ以上勢力を拡大させたくない官僚勢が反対、国民同盟(民政党から分裂した党)の人物は民政党が反対し、最大野党である政友会から引き抜こうとしたがうまく行かなかったため、様々な条件に合致するとして政友会を離れたばかりの望月が入閣するしかなくなったのである。
1935年9月12日付で岡田内閣での逓信大臣に就任した。望月にとっては2度目の逓相となる。翌9月13日高橋是清・望月・山崎・内田の4閣僚が新党結成に向けて協議し、同年12月23日4閣僚と14人の政友会脱党議員からなる新政党“昭和会”を結成した。
この2次逓相時代の一番の実績は、同盟通信社の設立である(同盟通信社#誕生までの経緯参照)。設立には岩永裕吉が小泉又次郎・床次・望月の歴代3逓相を説得したことで動き出すが、一方で電通や各地方新聞社がこれを反対した。実は望月は逓相となる以前から両者の斡旋に動いている。それは電通が政友会と関係が深く、その創始者光永星郎は望月とは旧知の仲であったためであり、反対する光永を説得したのである。光永は「人情家と云われる貴方が、多年の友人たる自分が窮境に陥ってるのに救ってくれないのみか、反対側に立って私を攻めるとは何事だ」と憤慨したという。望月が逓相に就任すると岩永とともに反対勢力との融和を図ったが、反対側にも便宜をはかろうとした望月の真意が分かると今度は岩永が望月に反発した。“人情家”望月はこれらの融和を図ったのである。そして一応の見通しがたったとして同年11月7日社団法人設立の認可をだした。
政友会の提出した内閣不信任決議が可決されたことを受けて、1936年(昭和11年)1月21日衆議院解散、同年2月20日に行われた第19回総選挙の結果、政友会は大敗、民政党が第一党となり昭和会と国民同盟の議席を合わせ与党は安定多数を獲得した。この6日後に二・二六事件が起こり、岡田内閣は崩壊するのである。
1936年2月26日、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが下士官兵を率いてクーデターを起こし、結局は未遂に終わる。岡田内閣では首相の岡田と蔵相の高橋が襲撃され、事件発覚当初は岡田・高橋ともに殺害されたと伝わる(後に岡田は義弟と間違えられたことにより助かったとわかる)。望月は二・二六事件の朝、原宿の自宅にいた。事件発覚後、原宿警察署長が望月の家の 警備に入り望月に避難勧告をした。望月は「こういう時にいつ宮中からお召しがあるも知れない、その時に望月圭介が家に居たとあっては一大の恥だ」とこの勧告を受け入れず、天機奉伺に宮中に参内すると自動車に乗って皇居へ向かった。ただ賊軍が取り囲み通そうとしなかったため一旦家に帰ったが、参内したい気持ちを抑えられず再び皇居へ向かうと竹橋門前で賊軍に阻止された。そこで望月は「自分は国務大臣として天機奉伺のため参内するのだ、通せ」と毅然とした態度で抗議した。これに負けた賊軍は通すに至った。この時参内した閣僚で閣議が行われ、後藤文夫内相の総理大臣臨時代理を決定、即座に上奏裁可、同日午後6時に発表した。同時に岡田内閣総辞職も決定、同日深夜に後藤首相臨時代理は全閣僚の辞表を奉呈する。翌2月27日内閣は高橋蔵相薨去と町田忠治商相の蔵相兼任を発表する。後に岡田首相が生きていたとわかり後藤臨時代理の退任、と当時に岡田首相と町田兼任蔵相は辞表を奉呈し、3月9日内閣総辞職となった。また望月はこの期間逓信大臣として放送および電信電話を掌握、戒厳司令部と連携して臨機応変に措置している。
高橋死去後、昭和会は望月と内田が牛耳っていた。廣田内閣、林内閣と昭和会は与党であったが、政友会は野党、林内閣では民政党も野党に回り、未だ政争が繰り広げられていた。少数与党の林内閣はこの二大政党を相手に苦戦し、懲罰的な意味で衆議院解散したものの、第20回衆議院議員総選挙では与党議席を減らすこととなり、結果林内閣は短命での総辞職となった。
第20回総選挙後の昭和会集会にて望月は、激動する国際および国内情勢に対して政治は一致団結して取り組まなければならない状況となったため、既存の政党は一度解散して一つにまとまるべきで、その先陣として昭和会を解党するべき、と演説した。名川侃市は、この時の望月の主張は松岡洋右の思想とよく似ており、秋田清を通じて両者が何らかの接触があったのでは、と述べている。望月は林内閣瓦解の1週間前に林銑十郎首相と会い昭和会解散の旨を伝えており、この行動は不安定な林内閣に不穏な行動をしたとして批判されている。そして昭和会は1937年(昭和12年)5月21日自主解散となった。つまり、昭和会解散は望月が主導したことになる。
1937年(昭和12年)6月、第1次近衛内閣が成立する。望月も近衛文麿に首相への出馬を求めた一人である。この1ヶ月後に盧溝橋事件が起こり、日中戦争に突入した。
昭和会解散後、無所属となった望月に立憲政友会側から接触してくる。当時政友会は中島知久平を総裁とした"革新派"(革新同盟)と久原房之助を総裁とした"正統派"に分裂しており、鳩山一郎・前田米蔵・島田俊雄・堀切善兵衛ら政友会重鎮が所属する中島派(革新派)は元々政友会重鎮であった旧昭和会勢を勢力に入れようと画策していた。望月は最初はいい返事をしなかったが結局は折れて、1939年(昭和14年)政友会中島派に復帰した。長年いて愛着のあった政友会に復帰した望月だが、昭和会解散の時の考えと変わらず既存政党を解党し総結集する考え(=大政翼賛会)は変わらなかった。革新派側に復帰したのも、政友会の古い体質を打破するためであった。日本の各政党が相次いで解散し大政翼賛会に合流するのは1940年(昭和15年)夏のころになる。
1940年2月、米内内閣内閣参議に就任する。内閣参議は第1次近衛内閣時代に設置され後の内閣でも採用されたものだが、米内光政が首相となった時に既存の参議1人が入閣し更に参議3人が意見対立から辞任したため、広田弘毅・大井成元・中村良三とともに望月は就任した。当時の新聞には「断りきれなくて引き受けた」と答えている。
1940年12月、望月は体調を崩していた。12月27日第76回帝国議会開院日となり議会に向かおうとしたが家族に止められ休んでいた。12月29日状態は急変し、1941年(昭和16年)1月1日、急性肝炎のため原宿の自宅で没した。臨終には岡田啓介、中島、内田信也、秋田清らが立ち会っている。
死去後、従二位、瑞宝章、勅使(徳川義寛)御差遣を賜う。戒名は「大乗院殿釋桂崖明徳大居士」。告別式は1月7日築地本願寺で行われ、広島県葬は遺族が辞退し2月4日大崎上島・下島両島の島葬が行われた。墓所は多磨霊園にある。望月の死去後、太平洋戦争が勃発することになる。
政治家望月の性格形成に大きく関係するのは、幼い頃から「仏の道に違うな」と躾けられ、20代にマラリヤで生死をさまよったことで、熱心な真宗門徒となったことである。善行に努め、背徳を恐れ、金や地位といった欲を遠ざけた。
極度に贅沢を諌めた。清貧を貫き、政治家人生でお金に関して非難を受けたことがないという。会社の重役を兼務したことはなく、ひたすら政党政治家として活動した。こうした望月に日本中どころかハワイにも支援者が居た。
また望月の大きな特徴として癇癪持ちであることが挙げられ、数々の武勇伝を残している。
望月の伝記をまとめた望月圭介伝刊行会は、一言でいうと「激情の人」と表現している。ある新聞は「熱情野人」、ある雑誌は「下町長屋的人情家」(いわゆる江戸っ子気質)と表現した。小原直は「自分の信念に忠実な人であったが、その反面くそ真面目なキザさがあった」と語る。理義人情より先に感情的な行動を取った風に見えるときもあり、その時は批判されている。
望月が政界で調停役としてあまりにも有名になったが、湯沢三千男によると妥協とか合流とかいうものではなかったという。私欲野心がなく赤心で正面からぶつかっていったかと思えば、わがままに見えるほど強引に押し通して、数々解決してきたのである。曰く「椅子に未練がないからなんでも言いたいことが言える、ものにこだわるから苦しくなるのだ」。
尊敬する人物は豊臣秀吉。理由は望月いわく、織田信長傘下の武将の中で秀吉だけが不平を言わずに忠節に励んだため。『太閤記』を愛読していたことが有名であった。また『大宝積経』を初めとする仏教書物を教科書とした。曰く「自分の親分は仏と秀吉」であったという。
「遊び人」として知られていた。当時政治と花柳界は密接な関係であったこと、そしておおらかな時代であったためこれらのことは政治家として問題にはならなかった。趣好する分野それぞれに贔屓がおり、清元節の三世清元梅吉(清元寿兵衛)、歌舞伎の中村吉右衛門、囲碁の瀬越憲作、相撲の安藝ノ海を特にかわいがった。
人の好き嫌いがはっきりしており誰でも好意を持つということはなかった。同郷の政友会議員でも仲が良くないものもいれば、政敵であった党の中に仲良くしていたものもいた。
主要人物以外は省略している。
善三郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
東之助 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
智恵 | 俊吉 | 龍 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
リツ | ふじ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
望月圭介 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
委子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
チサト | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
チエ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
三重 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
乙也 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
源九郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
チヨ | 忠吉 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この望月家は特に大望月と呼ばれている。大崎上島で望月姓を名乗るものは、鎌倉時代末期に島に渡ってきた望月筑後守常閑という武士を祖先とし、その宗家が大望月であると言われている。江戸時代後期の望月善三郎が大望月の中興の祖と言われ、この島屈指の廻船問屋となり造船・石灰販売で知られるようになる。一家の信仰を禅宗から浄土真宗に改宗したのは善三郎である。
明治初期に廻船操業は下火となったが、望月東之助が石炭運搬で持ち直した。上記の通り炭鉱採掘も行っていたが採算が取れなかったため短期間でやめ、もっぱら運搬に特化した。東之助は、豊田郡長代理・戸長・東野村長・広島県会議員・郵便局長など歴任した。第一回県会の時の県議で、一期のみで再出馬しなかった。東之助は4男4女をもうけ、長子が俊吉、次男は夭折、5番目が圭介、末子が乙也になる。
次は兄・望月俊吉が大望月の当主となった。俊吉も圭介と同じく自由党から立憲政友会に属した議員で、広島県会議員や広島市会副議長など歴任している。国政に打って出なかったのは、出ようとした頃に家業が不振だったことと、圭介の方に力を入れていたため。岡本柳之助や井上角五郎・三浦梧楼と交流があった。子どもは1男7女、兄・俊吉が死去した後は圭介が全員の面倒を見た。1人息子望月龍は満鉄に勤め、圭介の次女・チエと結婚、戦後県議会議員となった。娘の1人ふじは、俊吉の死後に圭介が正式に養女として引き取り、素封家恒松於菟二と結婚した。
兄・俊吉が死去した後は弟・望月乙也は大望月の当主となった。東野村長を務めた後、兄・俊吉死去を受けてその基盤で県会議員に出馬し当選、圭介が内務大臣になった頃には乙也は県会議長であった。なお圭介は乙也の政治活動に便宜を図ったことはなかった。大望月は造船業のみ乙也が引き継いだが、1918年(大正6年)頃にそれも終わることになった。建築用の石灰も扱い、愛媛の岩城島と小大下島に石灰山を所有し、岩城は圭介・小大下は乙也が引き継いだが双方ともに売却している。
圭介と一人目の妻との子ともはなし。二番目の妻であるチサトとの子は3人いたが全員娘で、さらに全員他家に嫁いでいる。上記の通り次女が兄・俊吉の一人息子に嫁ぎ、兄死去後その娘ふじを養女に迎えている。南洲翁遺訓の「児孫のために美田を買わず」を敬い財を残さなかった。
公職 | ||
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先代 田中義一 | 内務大臣 第46代:1928 - 1929 | 次代 安達謙蔵 |
先代 安達謙蔵 岡田啓介 | 逓信大臣 第31代:1927 - 1928 第38代:1935 - 1936 | 次代 久原房之助 頼母木桂吉 |
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