岡田 啓介(おかだ けいすけ、1868年2月14日〈慶応4年1月21日〉- 1952年〈昭和27年〉10月17日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典は正二位勲一等功三級。
岡田 啓介 おかだ けいすけ | |
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岡田啓介(『近世名士写真 其1』より) | |
生年月日 | 1868年2月14日 (慶応4年1月21日) |
出生地 | 日本 越前国福井 |
没年月日 | 1952年10月17日(84歳没) |
出身校 | 海軍兵学校卒業 |
前職 | 横須賀鎮守府司令長官 |
称号 | 海軍大将 正二位 勲一等旭日桐花大綬章 功三級金鵄勲章 |
配偶者 | 岡田ふさ(先妻) 岡田郁(後妻) |
子女 | 岡田貞外茂(長男) 岡田貞寛(次男) 迫水萬亀(次女) 鈴木喜美子(三女) |
親族 | 迫水久常(女婿) 松尾伝蔵(妹婿) |
サイン | |
第31代 内閣総理大臣 | |
内閣 | 岡田内閣 |
在任期間 | 1934年7月8日 - 1936年3月9日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第37代 逓信大臣(内閣総理大臣兼任) | |
内閣 | 岡田内閣 |
在任期間 | 1935年9月9日 - 1935年9月12日 |
第7代 拓務大臣(内閣総理大臣兼任) | |
内閣 | 岡田内閣 |
在任期間 | 1934年7月8日 - 1934年10月25日 |
第16代 海軍大臣 | |
内閣 | 齋藤内閣 |
在任期間 | 1932年5月26日 - 1934年7月8日 |
内閣 | 田中義一内閣 |
在任期間 | 1927年4月20日 - 1929年7月2日 |
田中義一内閣で海軍大臣を務めたのち、斎藤内閣でも海軍長老として海軍大臣を再び拝命して五・一五事件後の騒然とした海軍省部内を収めた。その斎藤内閣が瓦解したあと大命降下を受けて内閣総理大臣に就任、岡田内閣では一時拓務大臣と逓信大臣を兼任している。二・二六事件で反乱軍に襲撃されたが、義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵が身代わりとなり、奇跡的に難を逃れた。
総理退任後も重臣として度々枢機に与ったが、第二次世界大戦中は東条内閣打倒を自らの責務ととらえ倒閣運動を主導した。晩年に口述した『岡田啓介回顧録』はこの動乱の時代を知る上での貴重な史料となっている。
1868年(慶応4年)、福井藩士(100石)岡田喜藤太と妻はるの長男として生まれる。1884年(明治17年)9月、旧制福井中学(現:福井県立藤島高等学校)を卒業。翌年1月に上京し、上級学校進学のために須田学舎や共立学校(現:開成中学校・高等学校)などに在籍したが、学資の援助を受けていたことを心苦しく感じ、学費が掛からないところとして師範学校系か陸海軍系学校の受験を決意、陸軍士官学校受験に志望変更した。受験に必須であったドイツ語を学ぶため、当時陸士の予備校であった陸軍有斐学校に入学したが、遠縁の海軍士官に勧められ海軍兵学校に入校した。
1889年(明治22年)、海軍兵学校(第15期)を卒業。同期には小栗孝三郎、竹下勇、財部彪、広瀬武夫らがいた。日清戦争に防護巡洋艦「浪速」分隊長として豊島沖海戦、黄海海戦、日露戦争では装甲巡洋艦「春日」副長として日本海海戦、第一次世界大戦では第二水雷戦隊司令官として青島の戦いに従軍した。
1923年(大正12年)に海軍次官、1924年(大正13年)に連合艦隊司令長官、1927年(昭和2年)に海軍大臣となり、1932年(昭和7年)に再び海軍大臣に就任。その間、軍事参議官としてロンドン海軍軍縮会議を迎え、「軍拡による米英との戦争は避け、国力の充実に努めるべし」という信念に基づき海軍部内の取りまとめに奔走。条約締結を実現した。
1934年(昭和9年)、元老・西園寺公望の奏請により組閣の大命降下、内閣総理大臣となる。一時、拓務大臣、逓信大臣も兼務した。斎藤実の後継として中間内閣を組織するが、立憲政友会は入閣した高橋是清・床次竹二郎などを除名し、対決姿勢に回ったため、立憲民政党が与党格となる。在任中に天皇機関説をめぐる問題が起こり、岡田内閣は機関説支持とみられたため、岡田内閣倒閣を狙う陸軍の皇道派や、蓑田胸喜など平沼騏一郎周辺の国家主義勢力からも攻撃されることになった。
岡田は最初と2度目の夫人に先立たれ、このときは独身でしかも生活はきわめて貧しかった。岡田は妹婿・松尾伝蔵大佐と2人で首相官邸に住み込んだ。官邸では自分たちの食事も女中の食事も弁当でまかない、炊事は一切やらなかった。この当時、首相の月給は830円であった。岡田はそのうちの約半分、430円で一切の生活費をまかない、残りは首相の小遣いとなったという。
岡田は帝国海軍時代、艦隊勤務では最も厳しいといわれる水雷艇乗りだった。海軍水雷学校校長も務めている。だからこそ耐えられた官邸生活だった。岡田は前任の斎藤実にくらべ政治力は弱く、古巣の海軍内でも強硬派を押さえきれず、ロンドン・ワシントン両海軍軍縮条約離脱に追い込まれた。それでも、軍部や右翼革新派は岡田政権には斎藤の息がかかっているとみて、ことごとに揺さぶりをかけ、岡田内閣は苦境にたたされる。
粘りが信条の斎藤に対して、岡田はおとぼけが得意だった。天皇機関説を問題視した右派は、議会で岡田を攻撃した。「日本の国体をどう考えるか」と聞かれると、「憲法第1条に明らかであります」と繰り返した。「憲法第1条には何と書いてあるか」と聞かれると「それは第1条に書いてある通りであります」と、人を食った答弁で切り抜けた。岡田は、そのしたたかさから「狸」とあだ名された。吉田茂は岡田を「国を想う大狸」と評している。
1936年(昭和11年)1月21日に野党・政友会が内閣不信任案を提出、これに対し岡田は解散総選挙を実施。2月20日に行われた第19回総選挙において与党の民政党が逆転第一党となり、政友会は党首鈴木喜三郎が落選するなどの大打撃を受けた。その6日後、岡田は二・二六事件で襲撃を受ける。
二・二六事件初日、反乱軍は岡田の殺害を狙って首相官邸を襲撃した。反乱軍は岡田を殺害したと誤認したが、実際に殺害されたのは岡田の義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵であり、岡田は首相官邸の中で女中部屋にかくまわれていた。
岡田の生存を察知した秘書官の福田耕・迫水久常(岡田の女婿)は憲兵曹長の小坂慶助らと提携し、首相官邸を占拠する反乱軍の監視の下、首相官邸への弔問が許可された際、弔問客の出入りに紛れて岡田を救出する作戦を立て、これが成功して岡田は首相官邸からの脱出に成功した。
二・二六事件で前任の斎藤、片腕と頼む蔵相・高橋是清、義弟の松尾を失い、岡田の受けた精神的ショックは大きかった。当時の状況から見て岡田に責任がまったく無い事は明白であったが、頼りとしていた蔵相と身内を一挙に失った事に対し、強い自責の念に駆られていた。事件後、昭和天皇に拝謁したとき、岡田のあまりの傷心振りを見た天皇は、岡田が自決するのではないかと深く危惧したといわれている。1936年(昭和11年)3月9日、岡田内閣は総辞職した。
その後の岡田は、二・二六事件の痛手から立ち直り、自国の破滅を意味するアメリカとの戦争を避けるために当時、生存していた海軍軍人では最長老となる自分の立場を使い、海軍の後輩たちを動かそうとしたが、皇族軍人である伏見宮博恭王の威光もあって思うように行かなかった。1940年(昭和15年)以降は重臣会議のメンバーとして首相奏薦に当たっている。
開戦後の岡田は、
の3名と、岡田宅で月に1回ほど会食するのを例として、他の重臣に比して戦況の推移の情報を常に得ていた。
1943年(昭和18年)の正月には、ミッドウェーの敗退とガダルカナルの戦いの消耗戦での兵力のすり潰しで最早太平洋戦争に勝ち目はないと見て、和平派の重臣たちと連絡を取り、当時の東條内閣打倒の運動を行う。若槻禮次郎、近衛文麿、米内光政、またかつては政治的に対立していた平沼騏一郎といった重臣達が岡田を中心に反東條で提携しはじめる。
東條内閣倒閣の流れはマリアナ沖海戦の大敗により決定的となった。岡田は不評だった海軍大臣・嶋田繁太郎の責任を追及、その辞任を要求、東條内閣の切り崩しを狙う。東條英機は岡田を首相官邸に呼び出し、内閣批判を自重するように要求したが岡田は激しく反論し、東條は逮捕拘禁も辞さないという態度に出たが、岡田はびくともしなかった。岡田は宮中や閣内にも倒閣工作を展開、まもなくサイパンも陥落し、東條内閣は総辞職を余儀なくされた。東條内閣倒閣の最大の功績は岡田にあるといってよい。さらにその直後、現役を退いていた和平派の米内光政を現役に戻し小磯内閣の海軍大臣として政治の表舞台に復活させ、終戦への地ならしを行った。一方で1944年(昭和19年)12月26日には息子の貞外茂がマニラの戦いで戦死している。
1945年(昭和20年)2月、天皇は重臣をふたりずつ呼んで意見を聞いた。岡田は「終戦を考えねばならない段階」であると明言、「ただ、きっかけがむつかしい」とも述べた。後に昭和天皇は『昭和天皇独白録』の中で岡田と元内大臣・牧野伸顕の意見が最も穏当だったと回想している。
小磯内閣退陣ののちは鈴木貫太郎を首班に推挙、迫水久常を内閣書記官長の職に推し、和平に全力を尽くすことになる。鈴木と岡田の関係は常に密接で、鈴木内閣の和平工作には常に岡田の考えの支えがあったといわれ、「鈴木内閣は岡田内閣」と新聞が書いたほどだった。岡田はポツダム宣言受諾決定の御前会議の模様を迫水から聞いて、「私には陛下の苦しいお気持ちが手に取るようにわかる。鈴木だから陛下に御聖断を頼むことができた。他の人ではできなかった」と涙をこぼし、迫水に「私たち軍人が降伏を決意する気持ちは、お前のような軍人でない人間には決してわからないことなのだぞ」と叱るような口調で諭したという。
戦後、岡田は相変わらず質素な生活を続け、むしろ戦前より戦後の方が貧乏だったという。昭和21年(1946年)12月中旬に次男の貞寛が戦地から帰還した際、父として我が子に会った岡田は「貴様、よく帰ったなあ。まあ飲め」と言っただけで、貞寛がアメリカ軍の捕虜になっていたことには一言も触れなかった。
昭和22年(1947年)1月15日、数えで80歳の誕生日に岡田は宮中から「80歳の高齢につき、特に宮中杖差し許さる」という御沙汰書と金一封が届けられた。
極東国際軍事裁判で主席検察官を務めたジョセフ・キーナンは岡田と米内光政、若槻禮次郎、宇垣一成の4人を「戦前日本を代表する平和主義者」と呼び、彼らをホームパーティーに招待して歓待している。
公職追放を経て、1952年(昭和27年)3月4日追放解除。同年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効しGHQによる占領が終わった。岡田は日本の主権回復を見届け、同年10月17日に死去。享年84。戒名の「真光院殿仁誉義岳啓道大居士」は二・二六事件の時につけられたものだった。墓所は多磨霊園。
迫水久常は女婿。二・二六事件では首相秘書官として岡田の救出にあたった。終戦時には鈴木貫太郎内閣で内閣書記官長を務めた。戦後は参議院議員として、経済企画庁長官や郵政大臣を歴任した。回想記『機関銃下の首相官邸』がある。
丹生誠忠は迫水久常の従弟。歩兵中尉。二・二六事件での指導的役割が軍法会議で問われ刑死した。
松尾新一は松尾伝蔵の長男。二・二六事件の前年まで二・二六事件に加わった麻布第三連隊の中隊長だった。その妻は迫水久常の妹である。
瀬島龍三は松尾伝蔵の女婿。1941年(昭和16年)7月から1945年(昭和20年)7月まで、太平洋戦争のほとんどの期間を、大本営陸軍部参謀(参謀本部作戦課員)として勤務した。
ウィキメディア・コモンズには、岡田啓介に関するカテゴリがあります。
公職 | ||
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先代 斎藤実 | 内閣総理大臣 第31代:1934年7月8日 - 1936年3月9日 | 次代 広田弘毅 |
先代 財部彪 大角岑生 | 海軍大臣 第30代:1927年4月20日 - 1929年7月2日 第35代:1932年5月26日 - 1933年7月8日 | 次代 財部彪 大角岑生 |
先代 永井柳太郎 | 拓務大臣 第7代:1934年7月8日 - 同12月5日(兼任) | 次代 児玉秀雄 |
先代 床次竹二郎 | 逓信大臣 第37代:1935年9月9日 - 同9月12日(兼任) | 次代 望月圭介 |
軍職 | ||
先代 加藤寛治 | 横須賀鎮守府司令長官 第23代 : 1926年12月10日 - 1927年4月20日 | 次代 安保清種 |
先代 鈴木貫太郎 | 連合艦隊司令長官 第16代:1924年12月1日 - 1926年12月10日 | 次代 加藤寛治 |
先代 井出謙治 | 海軍次官 第7代:1923年5月25日 - 1924年6月11日 | 次代 安保清種 |
先代 岡田啓介(艦政局長) 伊藤乙次郎(技術本部長) | 艦政本部長 初代:1920年10月1日 - 1923年5月25日 | 次代 安保清種 |
先代 北古賀竹一郎 | 海軍水雷学校校長 第3代:1908年9月25日 - 1910年7月25日 | 次代 鈴木貫太郎 |
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