浪速(なにわ/なには)は、日本海軍の防護巡洋艦(二等巡洋艦)。 浪速型の1番艦。日本海軍にとって、最初の防護巡洋艦(鋼鉄製艦)である。 艦名は大阪(摂津国)の古称「浪速」にちなんで名づけられた。 日清戦争時、東郷平八郎艦長(当時、大佐)の指揮下で活躍した。
浪速 | |
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基本情報 | |
建造所 | アームストロング社ロー・ウォーカー造船所(Low Walker yard) |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 二等巡洋艦(防護巡洋艦) |
母港 | 横須賀 |
艦歴 | |
発注 | 1884年3月22日製造契約 |
起工 | 1884年3月22日、または3月27日 |
進水 | 1885年3月10日、または3月18日 |
竣工 | 1885年12月1日 または1886年2月15日 |
最期 | 1912年7月18日擱座沈没 |
除籍 | 1912年8月5日 |
その後 | 1912年8月22日売却訓令 1913年6月5日船体引渡 |
要目 | |
排水量 | 3,650英トン または3,700英トン あるいは3,759英トン 1894年6月時:3,709英トン |
垂線間長 | 300 ft 0 in (91.44 m) |
最大幅 | 46 ft 2 in (14.07 m) または46 ft 0 in (14.02 m) |
吃水 | 18 ft 7 in (5.66 m) または平均:20 ft 3 in (6.17 m) |
ボイラー | 低円缶 片面3基、両面3基 |
主機 | 横置2段2気筒レシプロ 2基 |
推進 | 2軸 |
出力 | 7,600馬力 または7,604ihp 公試:4,496馬力 |
速力 | 18.5ノット、または18ノット 公試:17.1ノット |
燃料 | 石炭:800トン 1904年:石炭813トン |
乗員 | 1886年1月定員:393名 |
兵装 | 克式 35口径26cm単装砲2基(後に安式40口径もしくは45口径15.2cm単装速射砲2基に換装) 克式35口径15cm単装砲6基(後に安式40口径15.2cm単装速射砲6基に換装) オチキス 43口径4.7cm単装機砲6基 25mm4連装ノルデンフェルト砲10基40門 11mm10連装ノルデンフェルト砲4基40門 35.6cm水上魚雷発射管単装4門 |
装甲 | 水平:平坦部51mm 傾斜部76mm[要出典] 甲板:3in(76.2mm) - 2in(50.8mm) 砲盾:1.5in(38.1mm) 司令塔:1.5in(38.1mm) |
その他 | 船材:鋼 |
1884年(明治17年)3月22日、イギリス、ニューカッスルのアームストロング社のロー・ウォーカー造船所で「浪速」は起工。3月27日、日本海軍はイギリスで建造中の軍艦2隻を、「浪速」および「高千穂」と命名する。 1885年(明治18年)3月10日もしくは3月18日、山階宮(のちの東伏見宮依仁親王)臨席のもとで本艦は進水。5月26日、2隻(浪速、高千穂)は二等艦と定められる。 1886年(明治19年)2月15日、竣工。
「浪速」は回航委員長井上良馨大佐の指揮下で日本に回航。 同年6月26日、品川に到着した。 11月29日、明治天皇および皇后(昭憲皇太后)は横浜港で「浪速」に乗艦、横須賀港に行幸する。 帰路の天皇・皇后は「高千穂」に乗艦し、横須賀から横浜に戻った。
1887年(明治20年)1月25日、 明治天皇および皇后一行は京都行幸のため横浜港より「浪速」(御召艦)に乗艦。 1月27日正午過ぎ、天皇・皇后は神戸港で「浪速」を離れ、京都に向かった。 2月23日、天皇・皇后は武豊港(愛知県)で乗艦、2月24日午前6時30分に横浜港に到着した。 翌月には英照皇太后の御召艦としても使用された。
1888年(明治21年)10月15日、横須賀造船所で国産巡洋艦「高雄」が進水するにあたり明治天皇・皇后が出席予定だったが、天皇は出席を断念。 皇后は横浜港で御召艦「浪速」に乗艦、横須賀港(横須賀鎮守府)に移動して高雄命名式・進水式に参加する。進水式終了後、再び「浪速」で横浜港に戻った。
1890年(明治31年)8月23日、本艦は横須賀鎮守府所管の第一種と定められた。
1893年から翌年にかけて、ハワイ革命勃発による邦人保護のため、二回にわたりホノルルに派遣された。
日清戦争では、豊島沖海戦、黄海海戦、大連・旅順・威海衛・澎湖島攻略作戦等に参加。1894年(明治27年)7月25日の豊島沖海戦の際に、清国兵約1200名を輸送中のイギリス船籍汽船「高陞号」(英国商船旗を掲揚)と遭遇し、東郷平八郎大佐(浪速艦長)は国際法上の手続きを経た後に同船を撃沈した(高陞号事件)。
1897年(明治30年)4月から9月にかけて、ハワイ移民上陸拒否事件への対処のためホノルルに派遣された。
1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、3,500トン以上7,000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と定義。 該当する9隻(浪速、高千穂、厳島、松島、橋立、吉野、高砂、笠置、千歳)が二等巡洋艦に類別された。
同年5月から8月にかけて、米西戦争により邦人保護のためマニラに派遣。
北清事変では1900年より翌年にかけて、北清沿岸警備に従事した。
日露戦争に際しては、第四戦隊(司令官瓜生外吉少将)の旗艦として仁川沖海戦・蔚山沖海戦、日本海海戦等に参加。 日本海海戦では被弾し損傷を受けた。
1909年(明治42年)、浪速は推進軸の腐食が進み、以降の全力運転が制限された。
1910年(明治43年)10月21日に内報が発せられ、来年4月上旬から警備、測量のために千島列島、カムチャッカ半島、オホーツク海方面に派遣、という内容だった。 浪速はその準備のために修理の他に測深儀、測程儀などを装備した。 他に片岡湾に無線電信所を建設するために、適当な場所の選定することも任務に加えられた。 1911年(明治44年)4月15日に横須賀軍港を出港、 大湊、 函館、 室蘭、 根室、 色丹島、 択捉島(紗那湾)、 その他の千島列島の島を巡り 占守島片岡湾に5月29日入港した。
1912年(明治45年)横須賀鎮守府警備艦兼測量艦だった浪速は、北海道・樺太やカムチャッカ半島などでの警備、情報収集、漁業保護、オットセイの密漁取り締まりなどの任務が与えられ、 横須賀を5月1日出港、 横須賀帰港は9月10日の予定だった。
同年6月26日午前11時頃、北千島へ測量器材を輸送中に、得撫島沖で座礁して衝角部分が脱落する。 乗組員は夜間になると陸上に避難した。 工作艦「関東」、巡洋艦「厳島」、スループ「武蔵」、救難船「栗林丸」の応援により離礁に務めたが成功せず、悪天候により7月18日に沈没した。 同年8月5日、除籍、 艦艇類別等級表からも削除された。 8月22日に残骸売却の訓令が出され、 翌1913年(大正2年)6月25日買受人に引渡された
後日、横須賀工廠長坂本一中将を判士長とする軍法会議が開かれ、本田(当時浪速艦長)は罰金700円、浪速航海長は罰金400円の判決を受ける。 本田は少将進級後、予備役に編入された。
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
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