東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、旧字体:東鄕 平󠄁八郞、1848年1月27日〈弘化4年12月22日〉 - 1934年〈昭和9年〉5月30日)は、日本の海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。各地の東郷神社に名を残す。位階は従一位、勲位は大勲位、功級は功一級、爵位は侯爵。
東鄕 平󠄁八郞 | |
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渾名 | 海の東郷 東洋のネルソン(The Nelson of the East) |
生誕 | 1848年1月27日(弘化4年12月22日) 日本・薩摩国鹿児島郡加治屋町 (現:鹿児島県鹿児島市加治屋町) |
死没 | 1934年5月30日(86歳没) 日本・東京府東京市麹町区上六番町 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1863年 - 1934年 |
兵科 | 兵科 |
最終階級 | 元帥海軍大将 |
指揮 | 佐世保鎮守府司令長官 常備艦隊司令長官 舞鶴鎮守府司令長官 連合艦隊司令長官 海軍軍令部長 |
戦闘 | |
勲章 | 大勲位菊花章頸飾 大勲位菊花大綬章 功一級金鵄勲章 功四級金鵄勲章 勲一等旭日大綬章 勲三等瑞宝章 勲四等旭日小授章 勲五等瑞宝章 勲六等瑞宝章 大正三年乃至九年戦役従軍記章 大正三四年従軍記章 明治三十七八年従軍記章 明治二十七八年従軍記章 |
除隊後 | 東宮御学問所総裁 |
墓所 | 多磨霊園 東郷神社 多賀山公園 東郷寺 |
東郷 平八郎 とうごう へいはちろう | |
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選挙区 | 侯爵議員 |
在任期間 | 1934年(昭和9年)5月29日 - 1934年(昭和9年)5月30日 |
日清戦争では「浪速」艦長として高陞号事件に対処。日露戦争では連合艦隊司令長官として指揮を執り日本海海戦での完勝により国内外で英雄視され、「陸の大山、海の東郷」「東洋のネルソン(The Nelson of the East)」と呼ばれた。
山梨勝之進は「世界史的な観点から海軍の名将を列挙するならば」として8名の提督を挙げた上で、ホレーショ・ネルソン、デヴィッド・ファラガット、東郷平八郎の3名について特記している。
明治時代の日本海軍の指揮官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた一人。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、その名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、東郷と同藩出身者であり同じく日露戦争における英雄である満洲軍総司令官・大山巌と並び、「陸の大山 海の東郷」と称され国民の尊敬を集めた。
弘化4年12月22日(1848年1月27日)、薩摩国鹿児島城下の加治屋町二本松馬場(下加治屋町方限、現・県立鹿児島中央高校化学講義室付近)に、薩摩藩士・東郷実友と堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれる。幼名は仲五郎。14歳の時、元服して平八郎実良と名乗る。文久3年(1862年)、薩摩藩士として薩英戦争に従軍し初陣、慶応3年(1867年)6月に分家して一家を興す。戊辰戦争では春日丸に乗り組み、新潟・箱館まで転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦う。体型は小柄ではあるが下の写真でも分かるように美男子であり、壮年期においては料亭「小松」で芸者から随分もてたとされる。
明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学する。
よく知られる逸話に、東郷は当初、鉄道技師になることを希望していた。イギリスに官費留学する際、最初は大久保利通に「留学をさせてください」と頼み込んだが色よい返事はもらえなかった。後で東郷は大久保が自分に対して「平八郎はおしゃべりだから駄目だ」とする感想を他者に漏らしたことを伝え聞いて、自省してその後は寡黙に努めた。それが長じて、後年は「沈黙の提督」との評価を得るまでになった。大久保の次に西郷隆盛に頼み込んだところ、「任せなさい」と快諾、ほどなく東郷のイギリス留学が決定したという風説があるが、実際には小笠原長生が東郷から直接聞いた思い出話に西郷や大久保の名前は無く、選抜の成否がわからなかったので易者に占ってもらったと述べているのみである。
当初ダートマスの王立海軍兵学校への留学を希望したがイギリス側の事情で許されず、ゴスポートにある海軍予備校バーニーズ・アカデミーで学び、その後に商船学校のテムズ航海訓練学校で学ぶことになる。留学先では「To go, China」とからかわれるなど苦労が多く、おしゃべりだった性格はすっかり無口になってしまったと言われている。しかし宮古湾海戦に参戦していたことを告げると、一躍英雄として扱われることとなった。
この留学の間に国際法を学んだ。後年、東郷は日清戦争時に防護巡洋艦「浪速」の艦長として、停船の警告に応じないイギリスの商船「高陞号」を撃沈する(高陞号撃沈事件)。英国留学で得た知識により、撃沈は国際法に違反しない行為であると正しく判断できたのだとされている。さらに、この時の沈着な判断力が、後に連合艦隊司令長官に人選される要素となった。
帰国途上、西郷隆盛が西南戦争を起こして自害したと知った。後に、「もし日本に残っていれば、どうしたか」と問われた際には、躊躇することなく「西郷軍に身を投じただろう」と答えている。実際、東郷の実兄である小倉壮九郎は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦争に従軍し、城山攻防戦の際に自決している。
明治26年(1893年)、ハワイ王国のリリウオカラニ女王が米国との不平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発したアメリカ人農場主らが海兵隊160名の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒して「臨時政府」を樹立した。この時、日本は邦人保護を理由に東郷率いる巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇した。女王を支持するハワイ先住民らは涙を流して歓喜したといわれる。また、ハワイ在留日本人も女王支持派に同情的であった。しかしアメリカによるハワイ併合は明治31年(1898年)に実現される。
明治27年(1894年)の日清戦争では初戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(高陞号事件を含む)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍する。威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には連合艦隊第一遊撃隊司令官として澎湖島攻略戦に参加。
日清戦争後に一時病床に伏すも、明治32年(1899年)に佐世保鎮守府司令長官となり、同34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任した。これは後の対米戦備での位置づけから閑職であったと見なされがちであるが、来る対露戦を想定してロシアのウラジオストク軍港に対峙する形で設置された重要ポストであり、決して閑職ではなかった。但し、東郷自身は中央への異動を希望していたようである。
日露開戦前の緊迫時期の明治36年(1903年)10月、海軍大臣・山本権兵衛に呼び戻され、日高壮之丞に代わり常備艦隊司令長官に任命される。同年12月に連合艦隊が編成されることになると、第一艦隊兼連合艦隊司令長官に任命された。日高がそのまま連合艦隊司令長官になると見られていたが、山本が我の強い日高を嫌って、命令に忠実な東郷を据えたのだといわれる。しかし実際には、日高が健康問題を抱えて指揮が難しい状態であり、当時の将官の中で実戦経験豊富な東郷が至極順当に選ばれたというのが真相であった。明治天皇に理由を聞かれた山本は「東郷は運のいい男ですから」と奏したと言われているが、内田一臣によれば「この人が、ちょっといいんです」だったという。
明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、旗艦「三笠」に座乗してロシア海軍太平洋艦隊(後に第一太平洋艦隊へ改称)の基地である旅順港の攻撃(旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。旅順封鎖作戦時の触雷による戦艦「初瀬」「八島」の喪失を報告されても周章狼狽せずに両艦の艦長を労い、海軍内の動揺を収めた。6月6日には大将に昇進している。
そして明治38年(1905年)5月27日に、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スヴォーロフ」)を迎撃する。この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した(#東郷の肉声も参照)。東郷は敵前で大回頭を行うという大胆な指示を出し、海戦に勝利を納めた。この回頭は「東郷ターン(Togo Turn)」と称された。
この海戦における勝利は、東郷の名とともにロシアのバルチック艦隊の壊滅的敗北が世界中に伝えられ、当時ロシアの圧力に苦しんでいたオスマン帝国においても自国の勝利のように喜ばれ、東郷は同国の国民的英雄となった。 その年に同国で生まれた子供たちの中には、トーゴーと名づけられる者もおり、また「トーゴー通り」と名付けられた通りもあった。評論家の松本健一は、アンカラにあったトーゴー通りは数年前に「アタテュルク通り」と改名されたと自著の中で述べている。ただし、「トーゴー通り」の名称は「Toygar sokagi」で、「Toygar」はヒバリを意味するトルコ語なので、東郷とは何の関係もない可能性もある[要出典]。
明治38年(1905年)から明治42年(1909年)まで海軍軍令部長、東宮御学問所総裁を歴任。明治39年(1906年)、日露戦争の功により大勲位菊花大綬章と功一級金鵄勲章を授与される。明治40年(1907年)には伯爵を授爵。1911年には英国ジョージ五世の戴冠式に出席する東伏見宮依仁親王に乃木希典とともに随行。大正2年(1913年)4月には元帥府に列せられ、天皇の御前での杖の使用を許される。大正15年(1926年)に大勲位菊花章頸飾を受章。当時の頸飾受章者は皇太子・裕仁親王と閑院宮載仁親王だけだった。また、『タイム』誌の同年11月8日号において、表紙を飾るカバーパーソン初の日本人となった。
同年末に、天皇が最後の時を迎えた際には、井上、奥両元帥とともに葉山御用邸に詰めることが許された。
第一次世界大戦後の海軍軍縮において、末次信正や加藤寛治らのいわゆる艦隊派の提督が東郷を利用して軍政に干渉した。昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮会議に際して反対の立場を取ったロンドン軍縮問題はその典型である。その他に明治以来の懸案であった、兵科と機関科の処遇格差の是正(海軍機関科問題。兵科は機関科に対し処遇・人事・指揮権等全てに優越していた)についても改善案について相談を受けた東郷は「罐焚きどもが、まだそんなことを言っているか!」と反発し、結局、この問題は第二次世界大戦の終戦直前に改正されるまで部内対立の火種として残された。
壮年時代はよく遊び、料亭に数日間も居続けたり、鉄砲打ちに出かけたりしたが、晩年は質素倹約を旨とし、趣味といえば盆栽と碁を嗜む程度であった。自ら七輪を用いて料理をすることもあったという。しかし新聞記者に対し妻が、新婚時代に内職して家計を支えたエピソードを話すと、家族に経済的心配を掛けたことはないと激怒した。
昭和9年(1934年)には喉頭癌、膀胱結石、神経痛、気管支炎が悪化し、死の床に付いていた。5月29日に侯爵に陞爵。これに伴い貴族院の侯爵議員となった。5月30日、満86歳で薨去。薨去に際しては全国から膨大な数の見舞い状が届けられたが、ある小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に掲載され大きな反響をよんだ。
6月5日に国葬が執り行われた。国葬の際には参列のために各国海軍の儀礼艦が訪日し、イギリス海軍支那艦隊の重巡洋艦「サフォーク」(司令長官ドレーヤ大将、艦長マナーズ大佐)、アメリカ海軍アジア艦隊の重巡洋艦「オーガスタ」(司令長官アッバム大将、艦長ニミッツ大佐)、フランス海軍極東艦隊の軽巡洋艦「プリモゲ」(司令長官リシャール少将、艦隊参謀長兼艦長ルルー大佐)は儀仗隊を葬列に参加させ、日本艦隊と共に横浜港で半旗を掲げ、弔砲を発射した。イタリア海軍東洋艦隊の巡洋艦「クアルト」(艦長兼極東イタリア海軍首席指揮官ブリヴォネジ大佐)の横浜入港は夕刻となった。中華民国練習艦隊の巡洋艦「寧海」(司令・王壽廷中将、艦長・高憲申大佐)は国葬時刻に間に合わぬと判断し、儀仗隊を下関から列車で東京に向かわせて弔意を示し、「寧海」の横浜入港は翌6日となった。
葬儀委員長には有馬良橘海軍大将、副委員長には内閣書記官長・堀切善次郎が5月30日に任命された。 しかし、有馬が明治神宮宮司を務めていたため、神官が葬儀に関わることを禁止した通達(『神官葬儀ニ関スヘカラサル事』 明治十五年一月二十四日内務省達 乙第七号)に抵触するのではないかとの議論が持ち上がり、6月8日には辞任となった。 16日、葬儀委員長に副委員長から堀切善次郎が、副委員長に委員から長谷川清が昇格した。 更に、斎藤実内閣から岡田啓介内閣への交代に伴い、7月10日に葬儀委員長は河田烈へ交代した。
当時のイギリスでは「東洋のネルソン提督が亡くなった。」、ドイツは「東洋のティルピッツが逝去した。」と自国の海軍の父的人物に準えて、哀悼した。
死後、東京都渋谷区と福岡県宗像郡津屋崎町(現・福津市)に「東郷神社」が建立され、神として祀られた。ただし東郷自身は生前の乃木神社建立時、(陸軍に対抗するために)将来自身を祭る神社の設立される計画を聞いて驚き、「やめてほしい」と強く懇願した。願いは聞き入れられず結局、没後に神社は建立されている。墓所も生前、母親の益子の眠る青山墓地への埋葬を希望したが、これも聞き入れられず多磨霊園に埋葬されることとなった。東郷が埋葬された影響によって多磨霊園に墓を作る国民が続出し、同じ墓域には後に山本五十六、古賀峯一の墓所も設けられた。
東郷の銅像は埼玉県飯能市の東郷公園(秩父御嶽神社内)、神奈川県横須賀市の三笠公園、長崎県佐世保市の東公園(佐世保東山海軍墓地)、鹿児島市の多賀山公園の4か所に現存する。鎌倉武士の血筋であり先祖代々日蓮宗の崇敬者であったことから東京都府中市の東郷の別荘跡地には海軍関係者が中心となって日蓮宗寺院聖将山東郷寺が建立され現代では枝垂桜の名所となっている。
晩年において海軍における東郷の権威は絶大で、官制上の権限は無いにもかかわらず軍令・軍政上の大事は東郷にお伺いを立てることが慣例化していた。 海軍省内では軍令部総長・伏見宮博恭王と共に「殿下と神様」と呼ばれ、しばしば軍政上の障害とみなされた。そして伏見宮すら「自分と東郷の意見が分かれるようなことがあってはならん」と気にしていた。井上成美は「東郷さんが平時に口出しすると、いつもよくないことが起きた」と述懐したうえで、「人間を神様にしてはいけません。神様は批判できませんからね」と語っている。岡田啓介、米内光政、山本五十六なども、東郷の神格化については否定的な態度をとっている。昭和期の海軍内の抗争において、東郷と伏見宮は艦隊派を後援し、岡田らは条約派に属した。
東郷に関する著作物中、重要なものは「東郷の私設副官」といわれた小笠原長生によるが、山路一善は小笠原に対し「閣下の東郷元帥に関する著書や講演のなかには、潤色が度に過ぎて誇大に失するものがあり、日本の歴史を誤るのではないかと憂える」と述べたとされる。野村実はこの一例として日本海海戦時に「三笠」艦上にあった今村信次郎が東郷の前で事実と異なる点を指摘し、東郷は「証人がいては仕方ない」と小笠原に訂正を指示させていたことに触れているが、これは右手でジェスチャーをしたことが書かれていない指摘であって、むしろ潤色とは逆である。
第二次世界大戦後、GHQによって日本の軍事的モニュメントの撤去作業が行われたが、米国海軍は東郷に関するものには手を触れさせなかった。戦後、戦艦「三笠」は荒れ果て、アメリカ軍人のため娯楽施設「キャバレー・トーゴー」や水族館が設置されたり、上部構造物はおろか取り外せそうな金属類は機関部に至るまで全て盗まれ、チーク材の甲板までも薪や建材にするために剥がされたりするなど荒廃していた。
太平洋戦争で対日海軍作戦を指揮したチェスター・ニミッツ元帥は、一方で東郷国葬に際して訪日したこともあり、「三笠」の荒廃を憂いて著書の売り上げを寄付するなどして、東郷と若い頃への思いを込めて「三笠」の復興と保存に協力した。レイモンド・スプルーアンスとウィリアム・ハルゼーも、東郷への尊敬の念が強かった。
逓信省(現在の日本郵便)が昭和12年(1937年)に発行した普通切手のうち、当時の封書基本料金用の4銭切手に東郷の肖像が使われている。 発行に当たっては、既に2銭切手に乃木希典が採用されていたこともあり金額差がつくことに物議を醸したが、その後、郵便料金の改定に伴い5銭と7銭の額面の切手が東郷の肖像のまま発行されている。また、太平洋戦争初期の1942年2月に「シンガポール陥落」の文字が入った加刷切手が発行された。
最晩年の昭和6年(1931年)に日本ビクターに、昭和8年(1933年)に日本コロムビアにそれぞれ肉声を録音し、2枚ずつ計4枚8面分の肉声が残されている。内容は以下のとおりである。
その他、明治38年(1905年)10月29日に青山霊園で挙行された海軍弔慰祭でも、東郷の朗読する祭詞の録音が小笠原長生の発案で行われる事になっていたが、朗読する東郷の写真を撮ろうとした写真屋に対して東郷が「お下げなさい」と一喝。驚いた写真屋はあわてて逃げ出し、ついでに幕の後ろで待機していた録音技師達までもが逃げ出したため、録音は行われなかった。
位階
勲章等
外国勲章等佩用允許
丸山徳三郎━━━良夫 吉左衛門実友重猗 ┃ ┣祐之進(夭折) ┣━━┳良久━━┳龍太 ┣小倉壮九郎 ┃ ┗平 ┗将平 ┣平八郎━━━━┳彪━━━┳一雄━━┳喜久子 ┗四郎左衛門実武┣實 ┣良子 ┣尚子 ┗八千代 ┗百子 ┗宗子
軍職 | ||
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先代 相浦紀道 | 佐世保鎮守府司令長官 第9代:1899年1月19日 - 1900年5月20日 | 次代 鮫島員規 |
先代 鮫島員規 日高壮之丞 | 常備艦隊司令長官 第11代:1900年5月20日 - 1901年10月1日 第14代:1903年10月19日 - 同12月28日 | 次代 角田秀松 連合艦隊に再編 |
先代 - | 舞鶴鎮守府司令長官 初代:1901年10月1日 - 1903年10月19日 | 次代 日高壮之丞 |
先代 有地品之允 | 連合艦隊司令長官 第3代・4代:1903年12月28日 - 1905年12月20日 | 次代 伊集院五郎 |
先代 伊東祐亨 | 海軍軍令部長 第8代:1905年12月19日 - 1909年12月1日 | 次代 伊集院五郎 |
日本の爵位 | ||
先代 (陞爵) | 侯爵 東郷家初代 1934年 | 次代 東郷彪 |
先代 (叙爵) | 伯爵 東郷家初代 1907年 - 1934年 | 次代 (陞爵) |
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