ロバート・ウォーカー・アーウィン(Robert Walker Irwin、1844年1月7日 - 1925年1月5日)は、アメリカ合衆国出身の実業家。ベンジャミン・フランクリンの子孫である。「日布移民条約」に基づいて日本がハワイ王国に対して行った官約移民の具体的交渉を担当し、1885年(明治18年)から1894年(明治27年)まで計26回、約29,000人の日本人労働者のハワイ渡航に関わった。武智イキと結婚し、日本における国際結婚の適用第一号としても知られる。益田孝、井上馨の知遇を得、貿易や移民事業で財を築いた。
デンマーク駐在アメリカ合衆国代理大使であったウィリアム・W・アーウィンと、ベンジャミン・フランクリンの玄孫である母の子としてコペンハーゲンに生まれた。1866年(慶応2年)末、兄が勤めていたアメリカの郵便船舶会社パシフィック・メイル・スティームシップの横浜駐在代理人として来日し、1870年(明治3年)ごろよりアメリカの貿易商社ウォルシュ・ホール商会の貿易業務に携わるようになり、同社の長崎支店長を務めた。この時期、ウォルシュ・ホール商会で働いていた益田孝と知り合う。1871年秋頃、同社は豪商の伊藤八兵衛とドル為替取引によって利益を得る共同事業を開始し、伊藤から保証金を預かったが、為替取引に失敗して大きな損失を出し、保証金返還と損失補填を巡って伊藤と裁判沙汰になった(伊藤八兵衛ウォルシュ・ホール商会訴訟事件)。伊藤の担当者だったアーウィンは裁判の被告となり、アーウィンの頼みで帳簿操作をしたことを証言した伊藤はアーウィンの約束反故を糾弾したが、当時の日本の商習慣から口約束がほとんどであったため、伊藤の敗訴で終わった。伊藤家の女中の証言によると、伊藤と親しかったアーウィンは「狐のアルピン」とあだ名されていたという。
1874年にウォルシュ・ホール商会を辞め、横浜のエドワード・フィッシャー商会の共同経営者となる。同社でも伊藤のときと同様なアーウィンの煩雑な会計処理がもととなってイギリス人との間に訴訟を抱え、こちらは敗訴した。尾去沢鉱山汚職事件で下野した井上馨が政商・岡田平蔵と組んで設立した鉱山経営と米穀相場と軍需貿易の会社「岡田組」に益田孝とともにフィッシャー商会も出資し、岡田組の後身の先収会社(三井物産の前身)にも出資した。1876年(明治9年)7月より三井物産の相談役に就任し、政界に返り咲いた井上と、三井の総帥となった益田と密接な関係を築いた。1877年には三井物産のロンドンでの代理店業務を委託され、兄を支配人としてロンドンに行かせ、翌年には自らもフィッシャー商会を辞めて三井物産に入り、1879年秋に三井物産ロンドン支店が設立されると、社長と同等の処遇で顧問役に迎えられた。井上や益田らが1882年に設立した共同運輸会社(日本郵船の前身)の外国人支配人も務めた。
1880年(明治13年)、横浜に駐留していたハワイ王国の総領事官が一時帰国のため不在となった際に同国総領事代理を指名されたことから、1881年(明治14年)6月に正式に横浜駐在ハワイ王国総領事官に就任、1885年(明治18年)1月、駐日ハワイ王国代理公使、1886年(明治19年)9月、同弁理公使、同移民事務局特派委員などを歴任した。1885年に芝区栄町(現・港区芝公園)に転居し、同地にハワイ公使館と共同運輸会社を設置した。
当時製糖業が盛況だったハワイではプランテーションで働く労働者を求めており、旧知の井上と益田と組んで日本人移民事業を始め、大人の男性移民一人につき手数料がアーウィンに支払われた。両国から仲介料を得ていたアーウィンは、ハワイへの労働移民を集めることで莫大な富を築いたことから、「移民帝王」などと呼ばれたが、ハワイ王国の崩壊により終焉となった(ハワイにおける日本人移民#契約移民)。官約移民制度の実現と実行に深く関与し、制度が始まった1886年からアーウィンとの仲介料に折り合いが合わず官約移民制度が廃止された1894年までの間に3万人近くの日本人を移民させた。1898年にハワイ共和国弁理公使解任。
官約移民制度廃止以降は台湾製糖株式会社の発足に関わるなどした。当時、「家はコンドル、金はアーウィン」と謳われるほどの財を成し、晩年はそのジョサイヤ・コンドルが設計した麹町の屋敷(のちに焼失、跡地は衆議院事務総長公邸)で子育てに専念し、81歳で没した。遺言により、日本で埋葬され、青山墓地に眠る。死に際して大正天皇より勲一等旭日大綬章を賜った。
アーウィンは1894年から暮らした三田網町(現・三田二丁目)の本宅のほか、玉川の別邸と、避暑地として伊香保(群馬県渋川市)に別邸を持ち、この建物は現存する。ロバートの死後、講談社社長の野間清治に売却後、群馬県社会福祉協議会の観山荘になった。この縁で渋川市(旧伊香保町)とハワイ郡が姉妹都市縁組を行っている。佐土原藩島津淡路守の屋敷だった1万坪の本宅は三井家に売却し、三井倶楽部となり、十数万坪あった玉川の別宅は、田健治郎男爵に売却後分割され、一部に東急電鉄五島家の邸宅と五島美術館が建った。
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