野島 昭生(のじま あきお、1945年4月6日 - )は、日本の声優、俳優、ナレーター。東京都杉並区、西東京市出身。シグマ・セブン所属。
のじま あきお 野島 昭生 | |
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プロフィール | |
本名 | 同じ |
性別 | 男性 |
出生地 | 満洲国・撫順市 |
出身地 | 日本・東京都杉並区、西東京市 |
生年月日 | 1945年4月6日(79歳) |
血液型 | A型 |
職業 | 声優、俳優、ナレーター |
事務所 | シグマ・セブン |
配偶者 | あり |
著名な家族 | 長男:野島裕史 次男:野島健児 三男:野島智司 孫:野島透也 |
公式サイト | 野島 昭生|株式会社シグマ・セブン |
公称サイズ(時期不明) | |
身長 / 体重 | 168 cm / 56 kg |
声優活動 | |
活動期間 | 1960年代 - |
ジャンル | アニメ、ゲーム、吹き替え、ナレーション |
デビュー作 | 『地方検事』 |
俳優活動 | |
活動期間 | 1960年代 - |
ジャンル | テレビドラマ、映画 |
3人の息子がおり、長男の野島裕史と次男の野島健児は共に声優、三男は作家の野島智司。孫(健児の長男)は俳優の野島透也。
代表作に『ナイトライダー』(K.I.T.T.〈ナイト2000〉)や『ナイトライダーNEXT』(K.I.T.T.〈ナイト3000〉)、『CSI:科学捜査班』(ギル・グリッソム)などがある。
満洲国・撫順市で誕生したが、父は生後40日目に終戦のわずか一か月前に召集されて戦死。終戦後、母と姉ともにソ連軍に追われながら、日本に引き揚げた。東京都杉並区の四畳半のアパートに住み、母が外で働き詰めに働き、姉と共に育つ。そのような環境で子役として芸能界に入ったと語っている。
子供ながらに変なプライドがあり、テレビ局では車で送り迎えをしてもらっていたが、家を見られるのが嫌だったため、家まで送ってもらったことは無かった。そのため、家近くのカドまでくると、「ボク、ここでいいです」と降りてしまったという。子供の頃から明るく、活発な性格で、その性格に芸がカバーされているという。1981年時点でも「幼年期のコンプレックスの裏返しかナァ」と思うようなところもいっぱいあり、「妻はわかってるようだが……」という。小さい頃からサービス精神旺盛であり、義理のオジが「俳協で彼の紹介で子供の芝居があるから」と言い、偶々観に来ていたプロデューサーが「テレビに出ないか」と誘い、仕事は1954年頃からテレビとラジオの両方でしていたという。当時はラジオ東京(のちのTBSラジオ)のラジオ、のちにテレビで同時生放送されていた教養番組『ぴよぴよ大学』の5代目矮鶏(ちゃぼ)博士として2年半も出演していた。
小学5年生の時に劇団東芸の青年部のようなところに入団し、高校2年生までテレビドラマの子役として活躍していた。当時は森山周一郎、大塚周夫、富田耕生らが20歳そこそこの若手俳優としてその劇団に所属していた頃だった。子役時代に同じ劇団に所属していた野沢雅子に手を引っ張ってもらいNHKに通っていた。劇団で色々な仕事をしていくなかでラジオドラマに出演。声優としても子役時代から活動しており、洋画のアテレコにも数多く出演。初仕事は外国映画『地方検事』であったが、セリフはたったひと言であり、父親が殺されてショックで口を開けなくなった子ども役であった。
東京都立井草高等学校卒業。学校卒業後、その頃は『ローハイド』のアテレコをしていたが、「どうしようかな」と考え、「じゃ、芝居をやろう」ということで、それだけでは食べていけないことからアルバイトをして生活していた。その後、東京俳優生活協同組合に所属し、1989年にシグマ・セブンへと移籍。
本格的にレギュラーをもらってから印象に残っているのは、『ナンシーはお年頃』であり、そのレギュラーで初めて本格的にアテレコをやり始めた。当時は声だけでなく、スタジオドラマ、TV映画といった生の顔出しも色々出演していたが、「やっぱりアテレコっていうのは面白いな」と思い、どんどんそちらに行って、30歳前からはほとんどアテレコだけになったという。
室生犀星の詩や、太宰治、シャルル・ボードレールなど色々なものを勉強をするため、喫茶店やレストランなどで詩の会をしていた。のちに妻となる19歳の頃の恋人も詩や中原中也などが好きで、21歳の頃の昭生を見に来て知り合ったという。
1977年から1986年にかけて、スラップスティックのリーダー、ベーシスト(当初はギター担当で、後にパートが変わった)としても活躍した。
1980年時点では家は小さかったが、野菜を少し作ったこともあり、妻がナチュラリストだったこともあって家族全員で大分県竹田市荻町の山奥に引っ越しして、自給自足の生活をして一時は声優活動を休止していた時期もある。
長男の裕史が20歳の時に就職した際、昭生は「農業に飽きたから東京に戻る」と言い出した。その後は東京と九州を行ったり来たりしながら声優の仕事を続けていた。
アニメ、外画を中心に、ナレーションでも活躍している。特に外国映画の吹き替えが多く、セリフも難しく収録も大変だが、外国映画が一番好きだという。1981年時点では声優、テレビドラマ、芝居、最終的に「どれをやりたい」とジャンルを絞るつもりはないようだが、しいていえば「全部やりたい」という。「1本1本、懸命にすればそれが身についてくる」といい、最初に花沢徳衛に「毎日が勉強だ」と言われたという。声の仕事の一番の魅力についてはアテレコに限れば、「役にいかになりすまして、自分が日本語版で、その役にプラスアルファをしていくか。さらにおもしろいものをつくっていくか」というところをいつも心掛けているという。アフレコ開始当初の時代は全て生放送であり、それが一番嫌だったが、しばらく経って録音になった。
次男の健児によれば、昭生は三枚目役が多く、ヒーロー作品に出演する際、戦隊ものにおけるポジションでいえばイエローやグリーンの役柄が多かったとのこと。昭生は「グリーンやイエローは楽しいんだよ」と健児に語っていたが、当時の健児はそれについて理解できなかった。後年健児が昭生と同じく声優業を開始した際に、「イエローやグリーンは『自由にやってください』という役が多く、脇役こそ役者の力が試されるテクニカルな仕事」であると再認識し、昭生の語っていた役柄のやりがいや楽しさを感じるようになったという。
『ローハイド』出演時は最初から30分通しで収録していたが、最後にトチると最初からやり直しになるため、皆必死だったという。当時の昭生は高校時代から出演していたが、その頃は20代の小林修、永井一郎、山田康雄、市川治、藤岡琢也らも同じ『ローハイド』のレギュラーだった。その後、小林、山田、市川、藤岡と次々に世を去り、2013年当時に永井に会ったところ「野島くん、『ローハイド』に出ていた声優で、今生きてるのは君と僕だけだよ」と言われたが、その永井も2014年に死去している。
ナレーションとアテレコの違いについては「作品の内容がどういうものなのか、どういうターゲットなのか、何を言わんとしているのかをまず把握することを考えると、同じですね・・・。」という。ナレーションの場合は、「作品をつくった人の、こういう作品にしたいという気持ちがきちんと伝わってくる」、アテレコの場合は、映画製作した監督、アテレコの監督がおり、「ミステリーだ、ラブだとか、いろんなテーマがあって、それぞれ理解しなければならない」と話している。
セリフを言う時に大切にしているのは、「その役の人物がどういう気持ちで喋っているのか?」とのこと。「そのセリフを言っている自分の心は、何を感じて何をどう思いそのセリフを言っているか?」とのことで、感じていることを一番大切にするが、それを表現するのはもっと難しいという。
声の仕事で印象的だったのは映画『エリックの青春』で、それを見て感銘を受けた人物から、「自分は本当は死のうと思ってたけど、これを見て、やっぱり生きることの大切さがわかった」と切々とした手紙をくれた。その時、「ああ、こういう仕事をやっていて、人助けじゃないんだけど、そう感じてくれている人がいるんだな」と嬉しかったという。
『ナイトライダー』ではナイト2000の人工知能K.I.T.T.の役作りにはずいぶん悩み、ディレクターとも2人で話し合ったが、パイロット版の製作は難航し、およそ1か月をかけた3度目の収録でようやく完成した。現在の喋り方になるまでは、原語に近いフレンドリーな口調や、逆に徹底的に無機質な演技も試したというが、最終的には「マイケルを兄と慕う弟(兄弟愛)」「奔放な兄を窘める慎重派の弟」をイメージした上で、少しコンピュータっぽく、かつ大人っぽくした感じにすることで決まったという。ブルーレイBOXに同封のブックレットにあるインタビューによると、K.I.T.T.の声は機械でエフェクトを掛けないといけないため、主演で相棒のマイケル・ナイト役の声優ささきいさおとは別録りで収録せねばならず、「彼の収録を見てから演技に入り、覚えている内に一気に録り終えた」とのこと。ブルーレイBOXのための追加収録でも、当時の雰囲気を再現するために別録りとした。それだけにマイケルとK.I.T.T.の掛け合いは、一番苦労していた。現在でもK.I.T.T.は野島の代表作として挙げられ、野島自身も「自分の仕事の中で三本の指に入る」と語っている。テレビ放送時の全74話のエピソード中、最も印象に残っているのはシーズン3第13話「ナイト2000魔の毒液に溶ける!決死の再生!立ち直れキット!!︎(原題:JUNK YARD DOG)」と述べている。2012年にはフジテレビのみ放映された『ナイトライダーNEXT』での新型K.I.T.T.〈ナイト3000〉の役も担当している。なお原語版ではナイト2000(ウィリアム・ダニエルズ)とナイト3000(ヴァル・キルマー)は各々異なる人物が演じている。
息子たちとの共演の機会も何度かあり、実際に親子役で共演することが多い。裕史が主演の『スケアクロウマン』ではゲストとしてシュタインの現在の声を演じ、その過去の声を健児が担当したことで親子三人での共演が実現した。『スケートリーディング☆スターズ』でも息子たちが演じる双子の兄弟の父親役を演じ、親子三人での共演を果たしている。
健児によると、昭生との共演の機会に「芝居のアプローチが僕とは全然違うんだな」と感じていた。昭生はたとえノイズ等でリテイクが出たとしても、全く同じクオリティで常に120点出すという芝居のアプローチをしていた。健児は昭生の芝居のアプローチは絶対真似できないことであり、「すごいな」と思った。健児は小さい時から昭生の仕事を見てきたが、そういうことは共演してはじめてわかったという。
職業としての声優は時間が決まってないため、幼少期の健児は昭生が仕事に行くたびに「今日は、何時に帰ってくるの?」と聞いていた。健児が「今日は遅くなるから、先に寝ちゃってるよ」と言うと、昭生は「今日は早いから、おみやげ買って帰るよ」と答えたりして、昭生が帰ってくるのを楽しみにしていた。昭生はイベント、吹き替えの仕事が行われることが多い日曜日になるべく休み、健児たちを遊びに連れていったという。1981年時点では「必ずおフクロのところに遊びに行く」のが一家のルールであった。
健児は物心つく前から昭生の声をテレビで見聞きし、ポスターに昭生の姿が写ってる情景を見て育ったため、役者というのが身近な仕事の一つという意識があったという。健児が学校で人形劇などの教育放送を見て、テレビから流れる声が昭生の声だった時には、誇らしい気分であったという。健児は自慢気に「あれ、パパの声だよ」と言いながら、「ああ、僕もいつかああいうのをやりたいな」とも思っていたと語る。
家にも昭生の台本がたくさん置いてあり、健児はそれを見せてもらったり、実際に昭生が練習しているところも見ていた。そのように昭生が真面目に仕事をしている姿を見るというのは子供の健児にとって「凄く良かった」と感じていたと語る。
健児は昭生に「子役をやりたい」と話したことはあったが、妻の方が芸能活動に反対していたと語る。
健児は昔、昭生の芝居を見て、「なぜあんなに濃い、大げさな芝居をするんだろう? もっとナチュラルに演じられないのかな?」と不思議に思い、すごく嫌で聞いてても恥ずかしかった。しかし、後年に健児が青二塾に入塾して初めて「声の世界というのは、ナチュラルな芝居をしていては伝わらないものがあるんだ」と気づいたと語る。
息子たちが学校を中退する決断は色々な意味で「たいへんな道」であったといい、妻とともにめちゃくちゃ怒っていた。
コンスタンチン・スタニスラフスキーのスタニスラフスキー・システムを持っており、健児が声優になる前に「まずは演技について勉強しなさい」と渡していたが、放置されてしまった。
裕史は当時、就職していた仕事があるため、九州に残ったが、昭生は何か思うところがあり、「農業からもう一度、本腰を入れて役者の仕事をやりたい」と、健児と大学受験を目指していた智司を連れて一緒に上京したという。
健児には青二塾を「知り合いも教えているし、芝居も基礎から教えてくれる。試験を受けてみろ」と昭生が勧めたことで健児は青二塾に入塾したという。
青二塾時代の健児は、自分が昭生の息子だと、青二塾の同級生には誰にも言わなかったという。その時の健児は昭生の言っていることが全然わからなかったといい、昭生もそれを理解したのか、何も言わなくなった。健児によると、昭生から言われたのは「ちゃんと栄養のあるものを食べなさい」、「自己管理をちゃんとしなさい」、ということだけだったという。健児が創作SF時代劇をして源義経と戦う想定のストーリーで樋口兼光役を演じていた時、その卒業公演には妻とともに見にいっていた。
昭生は声優デビューを果たした健児に、「ここからが始まりだからな」「新人だからといって、新人づらをするな」と言っていた。「新人はできなくて当たり前なんだから、萎縮せずに堂々として、できないことは真摯に学べ」という意味だったが、当時の健児はそういう意味だとはわからなかった。その後、健児は「先輩すみません、ドア開けます」のようにせず、ひとりの人間として「そこにいなさい」と昭生が言ってたのはそういう意味だと後で気がついたという。また、健児が声優デビュー以降の苦しかった5年間、昭生に「どうしたらいいんだろうね?」ぐらいは言っていたが、真剣に相談はしてなかったという。
健児が出演していた『ちびまる子ちゃん』のオンエアを昭生に観てもらったところ、「いいじゃないか」「そのまま行きなさい」「全然、遜色ないよ。自信を持ってやりなさい」と評価され、健児は「認められた。これなら声優を続けられる」とその言葉に救われたという。
息子2人に芝居や声優界についてのアドバイスは何もしたことないという。「今度、こういう仕事をやるんだよ」「へえ、そうなんだ」というくらいの話はするが、「これはこうだよ」「ああだよ」という話は、一切していないという。
『CSI:科学捜査班』に偶々、ディレクターの粋なはからいで、裕史と健児と健児の妻を一緒に呼んでくれたことがあった。4人で同じスタジオに入り、仕事をして、皆は平気にしていたが、内心一番ドキドキしていたのは昭生ではないかと語っている。
1980年時点では自分が出演した作品は極力見るようにしているが、毎晩のように外で飲むため、ほとんど見れないという。水・金はレギュラーをしていることから見られなかった。テレビの仕事していることから、「子供にあまりよくない」ということでテレビはあまりつけなかった。また子供たちは「アニメ禁止」であり、仮にアニメを見る場合でも「これとこれ」と決めていたが、『無敵超人ザンボット3』、『科学冒険隊タンサー5』など、昭生自身が出演しているものだけは見せていたという。
『合身戦隊メカンダーロボ』のオーディションのスタジオで偶々神谷明、曽我部和恭に隣り合わせ、「この三人がレギュラーに決まったらいいね。」と話し会って帰ったところ、期待通りに3人が合格し、レギュラーとして出演。その後は意気投合し、飲みに行ってはともに語り合い、旅に出かけてはともに歌い合う仲となっていった。神谷明や曽我部和恭や伊武雅刀らと東京都新宿区四谷三丁目あたりでよく飲みに行ったスナックで曽我部がギターを披露し、あまりに上手だったためにバンドを結成する気になり、古川登志夫、古谷徹を迎え、スラップスティックを結成。1回目の練習では真夏のため、全員汗だくになったという。アテレコとは違う世界を触れたことで、このバンド時代を「凄く楽しかった、いい経験ができた」と振り返っている。すでにバンドとしての活動は終了しているが、2007年2月に元メンバーの曽我部・鈴置洋孝両名の追悼コンサートを行っている。
役者になっていなかったら、「地味な研究の物理学者」になっていたという。2つの大学に合格をしていたが、経済的理由で進学を断念したという。
趣味・特技はギター、スケート、卓球、草野球、将棋、カメラ。所持資格は普通自動車免許。
好きな言葉は「己心厳」、「自分に厳しく 人に優しく」。
役名のうち、太字はメインキャラクター。
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