赤瀬川 隼(あかせがわ しゅん、本名:赤瀬川 隼彦〈あかせがわ はやひこ〉、1931年11月5日 - 2015年1月26日)は、日本の小説家。
三重県四日市市生まれ。10歳から18歳までの青少年期を大分市で過ごす。大分第一高等学校(現大分県立大分上野丘高等学校)卒業。旧制中学の同級生に、磯崎新がいた。
住友銀行への16年の勤務を経て、ラボ教育センターの運営会社のテックに勤務し、のちに言語交流研究所(テックから、榊原陽らが独立して作ったヒッポファミリークラブの関連組織)に勤務し主に広報の仕事に従事した。その後は全集物のセールスマンなどに従事。
1983年に『球は転々宇宙間』で第4回吉川英治文学新人賞を受賞し本格的に作家デビュー。
1983年、「捕手はまだか」で第88回直木賞候補。1984年、「潮もかなひぬ」で 第90回直木賞候補。1985年、「影のプレーヤー」第92回直木賞候補。1988年、「オールド・ルーキー」「梶川一行の犯罪」「それぞれの球譜」で第98回直木賞候補。
『白球残映』にて第113回直木賞受賞。63歳8ヶ月での受賞は歴代4番目に高齢である。
中学校の国語教科書にも掲載されている『一塁手の生還』をはじめ、野球をテーマにした小説が多い。
2015年1月26日、肺炎のため死去。83歳没。
帽子作家の赤瀬川晴子は妹。2014年に死去した芥川賞作家で芸術家の赤瀬川原平(尾辻克彦)は弟。長女は『人麻呂の暗号』の著者である藤村由加の一人。
言語交流研究所の中野矢尾(ヒッポファミリークラブ創設以来のフェロウで、トランスナショナル・カレッジ・オブ・レックス発足と同時にシニア・フェロウ)の研究を参考に、赤瀬川は『人麻呂の暗号』に先行して、「万葉集は朝鮮語で読解できる」というアイディアをもとにした短編ミステリ「潮もかなひぬ」を1983年に発表、1985年に長編『潮もかなひぬ』として刊行した。
『人麻呂の暗号』などの藤村由加の著書の研究についても、中野矢尾の支援をうけており、中野は作中に「アガサ」という名前で登場する。
弟の赤瀬川原平も、言語交流研究所(ヒッポファミリークラブ)の理事でもあり、またヒッポ創設者の榊原陽とは、前身のラボ教育センター時代からの交流があった。
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