成田 三樹夫(なりた みきお、1935年1月31日 - 1990年4月9日)は、日本の俳優。愛称はミッキー。山形県酒田市出身。
なりた みきお 成田 三樹夫 | |
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国際情報社『映画情報』第30巻6月号(1965年)より | |
生年月日 | 1935年1月31日 |
没年月日 | 1990年4月9日(55歳没) |
出生地 | 日本・山形県酒田市 |
死没地 | 日本・東京都渋谷区 |
ジャンル | 俳優 |
活動期間 | 1964年 - 1990年 |
主な作品 | |
映画 『兵隊やくざ』シリーズ 『影狩り』 『影狩り ほえろ大砲』 『現代任侠史』 『柳生一族の陰謀』 『野性の証明』 テレビドラマ 『土曜日の虎』 『江戸を斬る 梓右近隠密帳』 『水戸黄門 第三部』 『柳生一族の陰謀』 『探偵物語』 『影の軍団シリーズ』 『柳生十兵衛あばれ旅』 『徳川家康』 |
父親に手ほどきされた剣道は三段、スポーツは水泳、野球など何でもこなす万能選手だったが、野球の試合中に右眼に打球を受けて網膜剥離になり、失明寸前となって、以降も右眼はほとんど見えなかったという。山形県立酒田東高等学校に進学後から演劇に興味を持ち始めた。岸洋子とは中学校から酒田東高を通じて同級生であった。高校卒業後、東京大学理科一類に入学するが一年で中退し帰郷。その後、山形大学人文学部英文学科に入学するが二年半で中退。
1959年、一年落第して、俳優座養成所に第12期生として入所。同期には松山英太郎・山本圭・中村敦夫らがいる。この時の入所試験では約2000人が応募し、合格者は40人程度だった。
1963年に卒業したが、劇団からのスカウトはなく、やむなく当時東京・京橋にあった大映本社に自ら出向き、大部屋俳優として契約する。大映を選んだのは、当時市川雷蔵・勝新太郎らのスターが全盛を誇っていた同社で、自分の力を試してみたかったからだという。1963年映画『高校三年生』に顔出し出演、1964年に映画『殺られる前に殺れ』のギャング役で正式にデビュー、端正な容姿とニヒルな敵役として徐々に売れ出し、1965年の時代劇映画『座頭市地獄旅』に出演し敵役の地位を不動とした。以降は、市川雷蔵や勝新太郎の敵役を主に務めたが、芸域は幅広く、映画『ある殺し屋』では市川雷蔵の弟分役で準主役を演じた。1966年のテレビドラマ『土曜日の虎』では、社会悪と闘う私立探偵的な企業コンサルタント・津村公を演じ、ドラマとしては初の主役を務めた。1968年の映画『怪談おとし穴』で野心家の商社マンを演じ、これが成田の役者人生で唯一の主演映画となった。
大映を退社後、他社映画・テレビ時代劇にも活躍の場を広げ、1972年の千葉真一主演映画『狼やくざ 葬いは俺が出す』で東映に初出演して以降、『仁義なき戦い』シリーズ、『やくざ戦争 日本の首領』シリーズなどの「東映実録路線」や、『柳生一族の陰謀』などの時代劇大作の常連俳優として活躍。引き締まった体躯に端正なマスク、鋭い眼光とドスの利いた声で比類なき存在感を示し、特にインテリヤクザをやらせたら右に出る者はないとも評され、『仁義なき戦い』シリーズで演じた村岡組幹部・松永弘はその白眉であった。
時代劇では配役により声色を変えて演じ、1972年の大河ドラマ『新・平家物語』の藤原頼長では地声とは異なる甲高い声色でそれまでのイメージを一新した。この経験は1978年の時代劇映画『柳生一族の陰謀』で活かされており、成田演じる烏丸少将文麿は公家でありながら剣豪という、得体の知れない雰囲気を醸し出していた。同年に本作がテレビドラマ化された際に、ほとんどの配役が映画と異なるなかで、千葉真一の柳生十兵衛三厳と烏丸少将文麿は変更されず、成田にとって当たり役となった。この間に『編笠十兵衛』の船津弥九郎役や、『水戸黄門 第三部』では刺客の伊賀忍者・柘植九郎太に扮した。
1979年の映画『蘇える金狼』では、権力者に媚びへつらう管理職を演じたが、松田優作は「最高の悪役だと思う」と語り、松田は同年のテレビドラマ『探偵物語』に出演を依頼した。同作における成田扮する服部刑事の「工藤ちゃん」という呼びかけは、ドラマの代名詞にもなった。1980年のテレビドラマ『サンキュー先生』の教頭役でも、校長役の藤岡琢也と掛け合い漫才を演じるなど、1980年代からは時代劇・現代劇で上述のような従来の役柄に、現代劇でのコメディリリーフ的な役柄が加わり、幅広く活躍していた。
1980年から放映された『影の軍団シリーズ』(『III』を除く)と、1982年の『柳生十兵衛あばれ旅』など、1970年代後半から千葉真一主演の映画・テレビドラマでは、本来の凄みのある重厚な敵役・悪役として常連的存在だった。1978年『宇宙からのメッセージ』では“銀河ガバナス帝国皇帝”という役柄も演じている。また、成田自身もアスリートと見紛うほどの引き締まった体躯をしており、千葉真一から賞賛されたという。
晩年はバラエティ番組にも出演し、1987年8月29日放送の『今夜は最高!』では、司会のタモリらとのトークで「俺はもう生まれてこのかた、ずっと厄年だよ(笑)」などの発言をした。
1990年4月9日、スキルス胃癌のため東海大学医学部付属東京病院で死去。55歳没。成田と親しくしていた渡瀬恒彦は成田が亡くなる日に病院を訪れていた。映画では、1990年の『ZIPANG』が遺作となった。東京都三鷹市在住であったが、墓所は故郷の山形県酒田市、泉流寺にある。
2001年には成田が『探偵物語』で演じた服部刑事のフィギュアが製作され、『探偵物語』DVDBOX購入者を対象に販売された。また2008年には、『仁義なき戦い 広島死闘篇』で成田が演じた松永弘のフィギュアが、他の出演俳優のフィギュアとともに販売された。
父親は司法省(現在の法務省)の職員で、秋田、旭川、仙台の刑務所長を歴任した。 実家は日用品を扱う雑貨店を営み、母親が切り盛りしていた。四男一女の三男として生まれ、きょうだいたちは地元で評判のエリートとして知られ、本人と長男は東大、次兄は早稲田大学に進学した。
高校時代に地元の演劇コンクールに参加し、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を脚色して優秀賞を受賞している。先述の東大を中退した理由について、本人は生前「野性味のない雰囲気が生理的に合わなかった」と語っていたという。山形大学に入り直した後演劇研究会に入るが、芝居に熱中しすぎたせいで中退しその後上京。
俳優座養成所の同期生・中村敦夫によると、「同期生の多くが20歳前後で、25歳の成田はちょっと浮いた存在で、同期と飲みに行くことが一切なく一人で過ごすのが好きだった。ただし同期生から疎まれていたわけではなく、『変わったおじさんがいる』と興味を持たれていた」と回想している。
ニヒルな悪役俳優として人気を得て、特にクセの強い敵役を演じることが多かった。悪役が増え始めた若手時代、母親から「悪役ばかりやって、本当に悪い人間にならなければいいが」と心配されていた。
フランス文学者の鹿島茂は、著書『昭和怪優伝 帰ってきた昭和脇役名画館』で成田の悪役の演技について以下のように評している。「肉体を打ち壊す暴力というよりも、精神を震撼させる暴力、人間性などというものを一顧だにしないニヒリズムの暴力である」。
ただし本人は、1977年に出版された梅林敏彦によるインタビュー本『アウトローに挽歌はいらない』において、以下のように語っている。「悪役を演じる時、自分自身カッコつけすぎてたんじゃないかっていうのがある。つまり自分の中で、ニヒルを気取った“人形芝居”になってたんじゃないかという気がします。やっぱり登場人物は、人形芝居じゃなく生きた芝居をしないとね」。
若い頃から勝新太郎らと飲み歩き、ノドを酒焼けで潰した。酒なしでは生きていけないというほどの酒好きで毎日飲み、30代半ばで胃潰瘍を患った。その後は胃に負担のないように気をつけてはいた。
1989年頃に進行したスキルス胃癌が見つかり、12月に胃の3分の2を切除する手術を受けた。ちなみに東海大学医学部付属東京病院を入院先に選んだのは、当時の副院長松崎松平の妻が成田といとこ同士だったからだった。
入院中は、病室で文学書や詩集、自然や動物などの写真集などたくさんの本を読んでいた。また、国語辞典や歳時記を用いながら詩や俳句を作っていた。入院中「夜間に当直の医師や看護師を何度も呼ぶのは申し訳ない」との思いから、痛みをこらえることがときどきあった。
上記の手術から3ヶ月半後である1990年の4月、成田は眠るように亡くなった。成田から常々「いざという時でも人間、泣いてはだめだ」と言われていた妻は、泣かずに夫の最期を看取った。
共通の知人を通じて出会った13歳年下の女性と34歳の頃に結婚し、その後2人の娘をもうけた。普段は思いやりのある性格だったが、秘密主義だったことからプライベートをほとんど明かさず、親しい仕事関係者と呑みに行くこともなかった。そのような中、普段は寡黙と言われ、盆栽が趣味と紹介されたことがある。成田の叔父は東京大学文学部独文科の教授で、ゲーテの研究で知られる人物だった。
将棋は実力三段の腕前で、NHKの将棋番組にも出演した。
高校時代からアルチュール・ランボーに心酔して詩を書くようになった。その後50歳頃から俳句も作るようになり、没後に遺稿句集『鯨の目』が出版された。
読書好きで、柳田國男の『遠野物語』を読んだ時は、感激して数ヶ月間岩手県の遠野地方を貧乏旅行した。また晩年の入院中、いとこの女性(前述の副院長の妻)に「俳優を辞めたら文学で生きていくんだ」と話していたという。
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