小田 和正(おだ かずまさ、1947年〈昭和22年〉9月20日 - )は、日本のミュージシャン、会社役員。元オフコースのリーダーでボーカリスト。株式会社ファー・イースト・クラブ(FAR EAST CLUB INC.)代表取締役社長。身長172cm。血液型はA型。
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小田 和正 | |
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出生名 | 小田 和正 |
別名 | K.ODA |
生誕 | 1947年9月20日(76歳) |
出身地 | 日本 神奈川県横浜市金沢区 |
学歴 | |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1970年 - |
レーベル | |
事務所 | ㈱ファー・イースト・クラブ代表取締役社長 小田和正 |
共同作業者 |
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公式サイト | Far East Café - "Kazumasa Oda" official website |
著名使用楽器 | |
横浜市金沢区出身。金沢文庫すずらん通り商店街にある小田薬局で次男として生まれ育ち、兄が一人居る。兄の小田兵馬(1946年3月27日生まれ、栄光学園中学校・高等学校→東京薬科大学薬学部)は家業を継ぎ薬剤師となり小田薬局の店長を務める傍ら、日本チェーンドラッグストア協会、横浜市金沢区薬剤師会などの要職を歴任している。幼少時代は横須賀中央のバイオリン教室に通っていた。実父は、東京都本郷の出身で、すずらん通り商店街の基礎を築き藍綬褒章を受章している。
関東学院六浦小学校、横浜市立八景小学校を経て、1960年、聖光学院中学校・高等学校に進学。小学3年生のとき中学受験のため通っていた進学塾への通学途中、京浜急行の車中で鈴木康博と運命の出会いを果たす。鈴木と小田はともに第1志望だった栄光学園中学の受験に失敗し、進んだ中高一貫校である聖光学院では中学・高校を通じて同級生だった。高校3年時、学園祭(「聖光祭」)にて小田、鈴木、地主道夫、須藤尊史の4人で演奏を披露した。オフコースとしてレコード・デビュー後も(5人構成となる前までは)小田と鈴木が母校を訪れ、聖光祭にて演奏を毎年披露していた(聖光学院には1,000名以上の観客を収容可能な大ホール(=ラ・ムネホール)がある)。これは、学園祭実行委員の後輩達より毎年のように出演依頼を受け、小田と鈴木が快諾したことにより実現したものであった。なお、1999年、聖光学院創立40周年記念行事にて、小田、地主、須藤の3人が再び集結、当時の演奏ナンバーを披露した。また、新校舎完成時にもホールで演奏を披露するコンサートに出演した。
聖光学院高校を卒業後、須藤は横浜市立大学、小田は地主とともに東北大学に進学し、建築学を専攻。同期には藤森照信がいる。聖光学院在学時に授業で建築模型を製作して以来建築に興味を抱いていた。また、千葉大学医学部を受験しようとも思ったが、大学見学の際に消毒臭・カーテンの汚さに嫌気がさし、東北大学を選んだという。鈴木は東京工業大学に進学し、離ればなれとなったが、仙台と横浜をお互いに頻繁に行き来し、音楽活動も続けていた。後にグループは「ジ・オフ・コース」(後にオフコースと改名)と名付けられた。1969年、アマチュア音楽活動にけじめをつけるために「ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に東北地区より出場。東京でなく東北から出場したのは東京ではレベルが高く、東北のほうが勝ち抜きやすそうだからと考えたためだが、実際に出場してみると東北地区も大変レベルが高かったという。それでも東北地区を1位で通過、全国大会に進出した。全国大会は赤い鳥、フォー・シンガーズ(財津和夫のいたグループ)ら強敵がいたが、小田曰く「寝ててもできるくらい」猛練習を重ね、自信をもって臨んだにもかかわらず、1位は赤い鳥、オフコースは2位だった。小田らは優勝して音楽活動にけじめをつけるつもりだったが、2位になったことで「このまま終われない」とプロの道を歩むことを決める。
しかし、鈴木は音楽一本に決めたが、地主は小田と鈴木の音楽性についていけず、建築家に進路を定めた。小田は1971年、早稲田大学大学院理工学研究科に進学。建築の研究を続ける一方で鈴木との音楽活動も続けていた。その後徐々に気持ちは音楽に傾き、1976年の修士課程修了時には完全に音楽の道を選択することを決めていた。修士論文のタイトルは「建築との訣別」(ただし、審査の担当教授の安東勝男に「私的建築論」と題名を変更させられている)。
オフコースは数度のメンバー変遷を経て1972年より小田、鈴木の2人構成、後に清水仁、大間ジロー、松尾一彦を加えた5人構成となる。数年間は売れない時代が続いたが、やがて、1970年代から1980年代にかけて次々とヒット曲を生み出し、時代を代表する人気グループとなった。オフコースが発表したシングルのA面のほとんどは小田の曲であり、そのシンプルで、ストレートに愛を歌う歌詞とハイトーンの澄んだボーカルはオフコースの大きな特色であった。オフコース時代のヒット曲には「さよなら」「Yes-No」「君が、嘘を、ついた」などがある。1982年にはオフコースのオリジナルメンバーである鈴木康博の脱退に伴い一度は解散も考えたが、約1年の活動休止を経て4人で活動再開、1989年まで活動した。オフコース時代の活動の詳細はオフコースの項参照。
1986年に初めてのソロシングル「1985」、初のソロアルバム『K.ODA』を発表。オフコース時代からソロ活動を始めてはいたが、1989年のオフコース解散以後にソロ活動を本格化。
1991年、フジテレビ月9ドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌として制作した楽曲「ラブ・ストーリーは突然に」が、オリコンシングルチャートで第1位を獲得し、258.8万枚の売上を記録。また自身初のミリオンセラーとなった。
その後は、ヒットメーカーとしての地位を確立し、楽曲はドラマ・CMなどに積極的に採用され、「たしかなこと」、「伝えたいことがあるんだ」、「キラキラ」、「まっ白」などのヒット曲を生み出している。また、オフコース時代を含む過去の楽曲を集め、新アレンジで再録音したセルフカヴァー・アルバム『LOOKING BACK』シリーズや『自己ベスト』は、幅広い年代に支持される大ヒットとなった。
1998年7月22日夜、愛車セルシオを自身で運転して事務所・関係者らとの恒例行事「DEATH MATCH」(ゴルフコンペ)開催のゴルフ場へ向かうため、栃木県都賀町の東北自動車道下り線を走行中、自損事故を起こし全治4週間の重傷を負う。現場付近は雨が降っており、80キロの速度規制のところを、約20キロオーバーの100キロ前後で走行。スリップしてコントロールを失い、ガードロープに接触した。その衝撃で後部座席に飛ばされ、後部座席で横たわった形で救出される。同乗者は無し。幸いにも、後続車による追突や横転、反対車線への飛び出しなどがなかったため、一命を取りとめる。約2週間の入院後、奇跡的な回復を見せ、同年9月12日、福岡県にある「海の中道」で行われたスターダスト・レビューとのジョイントコンサートで、完治していない体だったが歌手活動に復帰した。
2005年にはオリジナルアルバム『そうかな』、2007年にはシングル「こころ」で、それぞれオリコンチャート週間1位を獲得。とかく過去の楽曲が注目・起用されがちな日本の同世代アーティストの中で、新曲で音楽シーンに存在感を示すことができる貴重な存在となっている。
CMとのタイアップや、他のアーティストへの楽曲提供や、コラボレーションも行うようになった。また、初めて持ったテレビのレギュラー番組は大変な反響を呼んだ。
また、音楽以外の分野では映画やドキュメンタリーの制作なども行った。
明治村が好きで、何度も足を運んでいる(特にフランク・ロイド・ライトが設計した帝国ホテル中央玄関のミニチュアがお気に入り)。それが縁となり、明治村を経営する名古屋鉄道の企業CMで小田の曲が使われている。
2007年、東北大学が創立100周年記念事業の一環として開催した「東北大学100周年記念式典」において、「東北大学100周年記念文化貢献賞」を芸術・文化部門において受賞する。さらに、聖光学院が開催した「聖光学院中学校・高等学校創立50周年祭」において、招待公演を横浜国際平和会議場(パシフィコ横浜)で行った。
2008年11月、地元に近い京急本線金沢文庫駅の接近メロディに「my home town」が採用された。
2009年3月「ツアー2008 今日もどこかで」で文化庁第59回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。同年7月、知人の招きを受け、岩手県大船渡市民文化会館・リアスホールの落成記念公演を行った。
2010年10月20日発売の松尾一彦のミニ・アルバム『せつなくて』にピアノ&ピアノ・アレンジで参加。オフコース解散後、初の元メンバーとのコラボレーションとなる。
2011年から2012年にかけて、ソロ歌手として史上最年長となる自身初の5大ドーム公演を含む31会場全59公演の全国ツアー「どーもどーも その日が来るまで」を開催。約74万人を動員し、自己記録を超え、国内ソロアーティスト歴代最多動員数記録を更新。
2016年4月20日発売のベストアルバム『あの日 あの時』はオリコンで週間1位となり、「アルバム首位獲得最年長アーティスト(68歳7ヶ月)」として、矢沢永吉の記録(63歳8ヶ月)を更新。
2017年11月23日、NHK-FM「今日は一日“小田和正”三昧」でメッセージの形でだが鈴木康博と35年ぶりに共演した。
2022年6月3日、 福島県のビッグパレットふくしまで、3年ぶりとなる全国アリーナツアー『Kazumasa Oda Tour 2022 「こんど、君と」』をスタート。74歳8ヶ月でのアリーナツアー開催は、国内アーティスト史上最年長記録。なお、ツアー中、小田和正が新型コロナウィルスに感染したことから、 8月3日、4日の東京公演(代々木第1体育館)および8月13日、14日の沖縄アリーナ公演は、中止になった。その後、8月21日に香川県内で行われた野外ロックフェスティバル「MONSTER baSH 2022」で復帰した。
中学生時代に見た映画『ティファニーで朝食を』の主題歌「ムーン・リバー」に感動して初めてレコードを買い、「将来こんな素敵な仕事ができたら」と思っていた。
オフコース在籍時から、ステージで曲の演奏中にイメージフィルムを流したり、当時まだ珍しかったビデオクリップを制作するなど、音楽と映像の融合を積極的に行っていた。
1992年、第1回監督作品となる映画『いつか どこかで』が全国公開されたが、評判は芳しくなく、興行成績も成功とはいえなかった。
1997年、監督第2作目となる映画『緑の街』を制作、「歌手である主人公が映画を制作する」というストーリーが、1作目での制作体験を基に描かれた。この時は映画会社配給ではなく、ホールに機材を持ち込んで全国各地を廻る「シネマ・ツアー」という方式で上映された。
ソロになった1989年以降、他のアーティストとの交流が急速に活発化。
ソングライターとして鈴木雅之、中村雅俊、島倉千代子や松たか子らの楽曲を全面的にプロデュースする他、ASKAや佐藤竹善、スキマスイッチらとコラボレーションする。
また、チャリティのためのUSED TO BE A CHILD主催、泉谷しげるらとのチャリティライブ、スターダストレビュー、CHAGE and ASKAらとのジョイントライブや音楽イベントに積極的に参加するようになった。
小田自身のソロライブでも、コーラスに安部恭弘、佐藤竹善、山本潤子、加藤いづみらを起用している。
2021年4月、福島県立喜多方高等学校が喜多方東高等学校と統合し、単位制高校に改編した新たな喜多方高等学校の校歌の作曲を担当。
年 | タイトル | 公演規模 | 公演日程 | 会場 | 備考 |
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1990年 | 第一生命サウンドスペシャル K.ODA TOUR 1990 Far East Club Band | 全国40か所、56公演 | 5月31日 - 11月7日 | 千葉県文化会館 茨城県立県民文化センター 宇都宮市文化会館 福岡サンパレス 長崎市公会堂 鳥栖市民文化会館 熊本市民会館 鹿児島市民文化ホール 四日市市文化会館 岐阜市民会館 静岡市民文化会館 松本市社会文化会館 長野県県民文化会館 大宮ソニックシティ 群馬県民会館 山梨県立県民文化ホール 高知県立県民文化ホール 徳島市立文化センター 香川県県民ホール 松山市民会館 大阪フェスティバルホール 神戸国際会館 北海道厚生年金会館 神奈川県民ホール 石川厚生年金会館 福井フェニックスプラザ 富山市公会堂 新潟県民会館 徳山市文化会館 上野学園ホール 倉敷市民会館 京都会館 岩手県民会館 青森市文化会館 秋田県民会館 郡山市民文化センター イズミティ21 横浜アリーナ 名古屋市民会館 大阪城ホール 日本武道館 | |
1991年 - 1992年 | 第一生命サウンドスペシャル Sometime Somewhere K.ODA TOUR FAR EAST CLUB BAND 1992 | 全国33か所、59公演 | 12月1日 - 4月25日 | 大宮ソニックシティ 市川市文化会館 福井フェニックスプラザ 石川厚生年金会館 伊那文化会館 長野県県民文化会館 郡山市民文化センター 仙台サンプラザ 新潟県民会館 北海道厚生年金会館 神奈川県民ホール 名古屋国際会議場センチュリーホール 静岡市民文化会館 京都会館 神戸国際会館 広島文化学園HBGホール 愛媛県県民文化会館 徳島市立文化センター 福岡サンパレス 大阪フェスティバルホール 名古屋市民会館 秋田県民会館 岩手県民会館 青森市文化会館 国立代々木競技場第一体育館 鹿児島市民文化ホール 宮崎市民会館 大分文化会館 長崎市公会堂 日本武道館 | |
1995年 | FUN MORE TIME! KAZUMASA ODA TOUR 1995 | 全国36か所、60公演 | 1月7日 - 5月23日 | 群馬県民会館 宇都宮市文化会館 アクトシティ浜松 静岡市民文化会館 北海道厚生年金会館 大宮ソニックシティ 仙台サンプラザ 新潟県民会館 神奈川県民ホール 徳山市文化会館 岡山市民会館 広島文化学園HBGホール 四日市市文化会館 岐阜市民会館 鳥取県立県民文化会館 島根県民会館 府中の森芸術劇場どりーむホール 近江八幡市文化会館 徳島市立文化センター 高知県立県民文化ホール 松山市民会館 香川県県民ホール 鹿児島市民文化ホール 熊本市民会館 福岡サンパレス 名古屋国際会議場センチュリーホール 青森市文化会館 岩手県民会館 京都会館 長野県県民文化会館 長野県松本文化会館 大阪フェスティバルホール 福井フェニックスプラザ 富山市公会堂 石川厚生年金会館 日本武道館 大分文化会館 宮崎市民会館 長崎市公会堂 佐賀市文化会館 郡山市民文化センター 宮城県民会館 | 以後「ご当地紀行」と呼ばれる、ツアー先の名所などを小田が訪れるVTR上映がスタート。 |
1997年 - 1998年 | 日産エルグランドPresents K.ODA TOUR 1997-1998 THRU THE WINDOW | 全国50か所、65公演 | 9月2日 - 2月3日 | 神戸国際会館 島根県民会館 鳥取県立県民文化会館 守山市民ホール 和歌山市民会館 宇都宮市文化会館 山形県民会館 青森市民会館 岩手県民会館 仙台サンプラザ 北海道厚生年金会館 旭川市民文化会館 富山オーバードホール 長野県県民文化会館 山梨県立県民文化ホール ひたちなか市文化会館 市川市文化会館 豊橋勤労福祉会館 三重県文化会館 岐阜市民会館 静岡市民文化会館 秋田県民会館 郡山市民文化センター 群馬県民会館 金沢市観光会館 福井フェニックスプラザ 新潟県民会館 佐賀市文化会館 大分文化会館 京都会館 大宮ソニックシティ 高知県立県民文化ホール 徳島市立文化センター 香川県県民ホール 山口市民会館 松山市民会館 倉敷市民会館 広島文化学園HBGホール 福岡サンパレス 九州厚生年金会館 東京国際フォーラム・ホールA 名古屋市民会館 大阪フェスティバルホール パシフィコ横浜 国立大ホール アクトシティ浜松 名古屋国際会議場センチュリーホール 宮崎市民文化ホール 鹿児島市民文化ホール 第1ホール 長崎市公会堂 熊本市民会館 奈良県文化会館 日本武道館 | 日本武道館公演で、ステージ上に客席の設置が試みられ、以後オンステージ・シートとして定着していく。 |
2000年 | SAME MOON! KAZUMASA ODA TOUR 2000 | 全国45か所、59公演 | 5月11日 - 10月12日 | 千葉県文化会館 山梨県立県民文化ホール 秋田県民会館 八戸市公会堂 山形県県民会館 びわ湖ホール 大阪フェスティバルホール 三重県文化会館 長良川国際会議場 瀬戸市文化センター 宇都宮市文化会館 大宮ソニックシティ 長野県県民文化会館 佐賀市文化会館 長崎ブリックホール 九州厚生年金会館 大分グランシアタ 京都会館 島根県民会館 鳥取県立県民文化会館 高知県立県民文化ホール 香川県県民ホール 松山市民会館 倉敷市民会館 徳山市文化会館 ふくやまリーデンローズ 広島文化学園HBGホール 神戸国際会館 こくさいホール 東京国際フォーラム・ホールA 富山オーバードホール 石川厚生年金会館 静岡市民文化会館 神奈川県民ホール 新潟県民会館 宮城県民会館 會津風雅堂 郡山市民文化センター 岩手県民会館 北海道厚生年金会館 名古屋国際会議場センチュリーホール 熊本市民会館 鹿児島市民文化ホール 福岡サンパレス 日本武道館 | このツアーから加藤いづみがコーラスに参加(2002年のツアーまで)。 |
2002年 | ファミリーマートPresents K.ODA TOUR 2002 「Kira Kira」 | 全国25か所、39公演 | 5月2日 - 8月18日 | SHIBUYA-AX 大阪国際会議場 メインホール 米子コンベンションセンター Zepp FUKUOKA 福岡サンパレス 鹿児島市民文化ホール 三重県文化会館 静岡市民文化会館 アクトシティ浜松 北海道厚生年金会館 岩手県民会館 福島県文化センター 仙台サンプラザ 東京厚生年金会館 パシフィコ横浜 国立大ホール 神戸チキンジョージ 名古屋国際会議場センチュリーホール 新潟テルサ 石川厚生年金会館 広島国際会議場 フェニックスホール さぬき市野外音楽広場テアトロン 国立代々木競技場第一体育館 大阪城ホール 愛知県体育館 | このツアー以降、オンステージ・シートのほか、客席内への花道設置が恒例となった。 |
2005年 | 明治安田生命Presents KAZUMASA ODA TOUR 2005 "大好きな君に" | 全国20か所、40公演 | 6月3日 - 12月22日 | 動員数 約32万人 静岡エコパアリーナ マリンメッセ福岡 朱鷺メッセ 新潟コンペディションセンター さぬき市野外音楽広場テアトロン 青森市文化会館 岩手県民会館 パシフィコ横浜 国立大ホール 万博記念公園 もみじ川芝生広場 名古屋港 オープンエアパーク 真駒内アイスアリーナ 仙台市体育館 長野県松本文化会館 石川厚生年金会館 広島グリーンアリーナ 沖縄コンベンション劇場 山梨県立県民文化ホール 日本武道館 大阪城ホール 愛媛県県民文化会館 宮崎市民文化ホール 名古屋市総合体育館 レインボーホール | |
2008年 | 明治安田生命Presents KAZUMASA ODA TOUR 2008 "今日も どこかで" | 全国29か所、52公演 | 4月5日 - 9月26日 | 動員数 約33万人 静岡エコパアリーナ 神戸ワールド記念ホール 米子コンベンションセンター アスティとくしま マリンメッセ福岡 三重県文化会館 長野県県民文化会館 青森市文化会館 岩手県民会館 横浜アリーナ 釧路市民文化会館 旭川市民文化会館 富山オーバードホール 大阪城ホール 日本ガイシホール 国立代々木競技場第一体育館 鹿児島市民文化ホール 宜野湾市海浜公園屋外劇場 広島グリーンアリーナ ホットハウススーパーアリーナ 朱鷺メッセ 新潟コンペディションセンター 京都会館 第一ホール さぬき市野外音楽広場テアトロン 栃木県総合文化センター 山梨県立県民文化ホール 真駒内セキスイハイムアイスアリーナ 岡山市民会館 日本武道館 愛媛県県民文化会館 | 関東地区の公演(一部)の主催がTBSに変更。 |
2008年 | 明治安田生命Presents KAZUMASA ODA TOUR 2008 "きっと またいつか♪今日も どこかで FINAL♪" | 全国3か所、4公演 | 11月26日、27日 12月6日、20日 | 動員数 約20万人 | ドームツアー |
2011年 | 明治安田生命Presents KAZUMASA ODA TOUR 2011 "どーも どーも その日が来るまで" | 全国25か所、48公演 | 5月7日 - 10月26日 | 動員数 約67万人 長野ビッグハット サンドーム福井 愛媛県武道館 三重県営サンアリーナ スカイホール豊田 横浜文化体育館 京都会館 第一ホール びわ湖ホール 鹿児島アリーナ グランメッセ熊本 宜野湾市海浜公園屋外劇場 広島グリーンアリーナ 朱鷺メッセ 新潟コンペディションセンター さぬき市野外音楽広場テアトロン 岡山市総合文化体育館 国立代々木競技場第一体育館 神戸ワールド記念ホール 横浜アリーナ 札幌ドーム 福岡PayPayドーム バンテリンドーム ナゴヤ 京セラドーム大阪 東京ドーム よこすか芸術劇場 静岡エコパアリーナ | 自身初の5大ドーム公演を含む。東京、神奈川を除き、日程の大半が週末に組み込まれたが、 一部公演が東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響により、延期および見送り(公演中止)となった。 |
2012年 | 明治安田生命Presents KAZUMASA ODA TOUR 2012 "どーも どーも その日が来るまで" | 東北地区、横浜市6か所、11 | 4月14日 - 5月26日 | 動員数 約7万人 | 東北ツアーは東日本大震災の影響により、中止となった宮城、岩手、秋田を含む5県での開催。 横浜赤レンガパーク野外特設ステージは追加公演で、関東地区で唯一の週末開催となった。 このツアーに合わせて新曲『その日が来るまで』を制作、披露した。 |
2013年 | 明治安田生命Presents 小田和正コンサート "その日が来るまで" | 東北地区3か所、6公演 | 5月15日 - 5月31日 | 仙台サンプラザホール 岩手県民会館 福島県文化センター | 『東北さくらライブプロジェクト』の支援の一環として、東北3か所にて開催。また10月には沖縄公演を実施した。 |
2014年 | 明治安田生命Presents KAZUMASA ODA TOUR 2014 "本日 小田日和" | 全国18か所、36公演 | 6月28日 - 10月29日 | 動員数 約25万人 和歌山ビッグホエール 宜野湾海浜公園屋外劇場 東京体育館 真駒内セキスイハイムアイスアリーナ さぬき市野外音楽広場テアトロン 横浜アリーナ マリンメッセ福岡 日本ガイシホール 大阪城ホール セキスイハイムスーパーアリーナ ワールド記念ホール 岐阜メモリアルセンターで愛ドーム 本多の森ホール 朱鷺メッセ・新潟コンベンションセンター エコパアリーナ あづま総合体育館 日本武道館 岩手産業文化センター・アピオ | 園山光博 (Sax) が不参加。 |
2015年 | 明治安田生命Presents KAZUMASA ODA TOUR 2014 - 2015 "本日 小田日和" | 全国7か所、14公演 | 1月29日 - 3月18日 | 動員数 約7万人 広島グリーンアリーナ 国立代々木競技場第一体育館 サンドーム福井 日本ガイシホール 鹿児島アリーナ 大阪城ホール 横浜アリーナ | 前年に実施したツアーの追加公演 |
2016年 | 明治安田生命Presents KAZUMASA ODA TOUR 2016 "君住む街へ" | 全国24か所、48公演 | 4月30日 - 10月30日 | 動員数 約34万人 静岡エコパアリーナ 四日市ドーム 別府ビーコンプラザ 函館アリーナ 富山市総合体育館・第一アリーナ ワールド記念ホール さいたまスーパーアリーナ 朱鷺メッセ・新潟コンベンションセンター 東京体育館 盛岡市アイスアリーナ 北海道立総合体育センター・北海きたえーる さぬき市野外音楽広場テアトロン セキスイハイムスーパーアリーナ ビッグパレットふくしま 出雲ドーム マリンメッセ福岡 大阪市中央体育館 日本ガイシホール 大阪城ホール 広島グリーンアリーナ 国立代々木競技場第一体育館 高知県立県民体育館 横浜アリーナ 宜野湾海浜公園屋外劇場 | ツアー開始前に熊本地震が発生し、大分・別府公演の開催が危ぶまれたが、予定通り開催された。 |
2018年 - 2019年 | 明治安田生命Presents ENCORE!! Kazumasa Oda Tour 2018 | 全国21か所、48公演 | 5月4日 - 1月9日 | 動員数 約40万人 グランメッセ熊本 静岡エコパアリーナ 函館アリーナ ビッグパレットふくしま ワールド記念ホール 日本ガイシホール さいたまスーパーアリーナ 横浜アリーナ 宜野湾海浜公園屋外劇場 松江市総合体育館 さぬき市野外音楽広場テアトロン 武蔵野の森総合スポーツプラザ いしかわ総合スポーツセンター 日本武道館 盛岡タカヤアリーナ 大阪城ホール マリンメッセ福岡 朱鷺メッセ 新潟コンベンションセンター セキスイハイムスーパーアリーナ 真駒内セキスイハイムアイスアリーナ 広島グリーンアリーナ | 当初6月20日、21日に開催予定の大阪城ホール公演は、6月18日に発生した大阪府北部地震の影響により2019年1月8日、9日に延期。また、熊本公演の収益を熊本地震の義援金として寄付した。 |
2019年 | 明治安田生命Presents Kazumasa Oda Tour 2019 ENCORE!! ENCORE!! | 全国8か所、16公演 | 5月14日 - 7月31日 | 動員数 約15万人 | 前年のツアーの追加公演 |
2022年 | 明治安田生命Presents Kazumasa Oda Tour 2022 こんど、君と | 全国15か所、31公演 | 6月3日 - 12月1日 | 動員数 約27万人 ビッグパレットふくしま 朱鷺メッセ・新潟コンベンションセンター 日本ガイシホール 大阪城ホール 真駒内セキスイハイムアイスアリーナ セキスイハイムスーパーアリーナ さぬき市野外音楽広場テアトロン 広島グリーンアリーナ 愛媛県武道館 マリンメッセ福岡A館 横浜アリーナ ポートメッセなごや新第1展示館 さいたまスーパーアリーナ ワールド記念ホール 沖縄アリーナ | 当初は2022年11月9日に終了予定だったが、バンドメンバーと小田自身の新型コロナウイルス感染により、開催見送りおよび振り替え公演が発生した。 |
2023年 | 明治安田生命Presents Kazumasa Oda Tour 2023 こんどこそ、君と!! | 全国8か所、18公演 | 5月3日 - 8月2日 | 動員数 約18万人 サンドーム福井 グランメッセ熊本 大阪城ホール 有明アリーナ 山口きらら博記念公園やまぐち富士商ドーム 国立代々木競技場第一体育館 岩手産業文化センター・ツガワ未来館アピオ 真駒内セキスイハイムアイスアリーナ 横浜アリーナ | 前年のツアーの追加公演。前回未開催だった東京公演が振り替え公演の国立代々木競技場第一体育館に加え、有明アリーナが組み込まれた。また、有賀啓雄が2月に前立腺がんで没後、吉池千秋がベーシストとして約30年ぶりにツアーに帯同した。 |
年 | 形態 | タイトル | 公演規模 | 公演日程 | 会場 | ゲスト | 協賛 |
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1992年 | スタジアム | MY HOME TOWN KAZUMASA ODA/FAR EAST CLUB BAND | 全3公演 | 8月25日、8月29日 - 8月30日 | 阪急西宮スタジアム 横浜スタジアム | 鈴木雅之(8月29日) 徳永英明、富樫要(8月30日) | 第一生命 三菱自動車 |
2000年 - 2001年 | カウントダウン | ちょっと寒いけどみんなでSAME MOON! | 全1公演 | 12月31日 - 1月1日 | 横浜・八景島シーパラダイス・マリーナヤード | 山本潤子 鈴木雅之 佐橋佳幸 | 明治生命 日本中央競馬会 |
オフコース時代よりテレビというメディアには不信感を抱いており、めったに出演しないことで有名であったが、ソロ活動を始めて以降、ネスカフェのCM出演を皮切りに、自身の露出にも関心を持つ。しかしいわゆる普通の音楽番組にはほとんど出演しないことからも分かるように、制作段階から自身の構想や意見を反映できることを条件にしている。
2001年にはTBSからの熱心なオファーを受けて『クリスマスの約束』を企画、出演した。その成功により番組は毎年制作され、ファン層の広がりやCDの売り上げなど、テレビ出演が自身の音楽活動に強く影響することを実感したと思われる。2004年には『クリスマスの約束』の発展形である『風のようにうたが流れていた』を、3か月間毎週放送の自身初TVレギュラー番組として制作。制作に当たっては、時間的制約の中で選曲や練習、観衆の中での本番と、大変な奮闘だったが、ここでもまた達成感と共に意識変化があったと語り、「やるかやらないか」の選択時「やらなければ"ゼロ"、やれば"何か"が残る」と、積極的なコメントが聞かれるようになった。2005年には17年ぶりに企業CM出演の依頼も引き受けた。
2005年末に一部で、NHK紅白歌合戦への出演依頼を受けているとの噂が流れたものの、結局出演することはなかった。小田自身はその年のコンサート(2005年ツアー、日本武道館)で、同年の紅白歌合戦に選出されたスキマスイッチをゲストに迎えた際、この番組に対し「自分にとって紅白に出ることは偏見がある」と語っていた。
男性ながらファルセットを使わず女声域までの高音を素直に出せる歌声が大きな特徴である。オフコース初期には、バンドに女性ボーカルがいると間違われることもしばしばあったという。その少年のような歌声から変声期を経ずに成長したのではとの見方もあり、自身も音楽評論家の小貫信昭のインタビュー本『たしかなこと』で「変声期があった記憶がないので、声変わりしていないと思う」との旨を述べている。しかし、2005年のコンサート中のMCにて「医者に尋ねてみたが、声変わりしていないという事は有り得ないそうだ」と、その認識に変化があった様子を窺わせた(発声が生来しっかりしていたため、声変わりしても元の音域で話せたせいで、声変わりに気づかなかっただけという可能性が指摘されている)。また、ファンの中では話す声は比較的低く聞こえ、歌声とのギャップが大きいと感じる人が多く、「どうしたら高い声で歌えるのか」という質問をよくされるが、それに対しては「僕はただシャウトしているだけ」と答えていることが多い。
「声変わり」していないという俗説があるが、声変わりした男性の声は女声より確実に1オクターブ低くなる。ウィーン少年合唱団の声は女声と同じ音域であるが小田の話声は女声より1オクターブ低く声変わり後の男声である。ただ、小田の歌声の発声領域は、「ヘ音記号」楽譜の下のソ音(G2)付近から「ト音記号」楽譜の上のレ音(D6)付近までである。
オフィシャル・ファンクラブはないが、スタッフがパーティーやミーティングなどに活用しているプライベートスペースとして“Far East Café”が運営されている。通常は一般開放されていて営業時間内は飲み物のほか、オリジナル・グッズ(全商品限定生産)も取り扱っている。
また、Far East Caféではインフォメーションプレス『FAR EAST CAFÉ PRESS』がPRESS入会者に毎月25日に発行され、最新情報や活動内容の詳細やインタビュー、スタッフが連載する小田の日常、Far East Caféでの出来事やオリジナル・グッズの紹介が掲載されている。
そのほか1994年からは、小田の一年間の活動を編集した映像集『LIFE-SIZE』がPRESS会員限定で発売されている。
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