太田 裕美(おおた ひろみ、1955年1月20日 - )は、日本の歌手・シンガーソングライター。本名・福岡 弘美(ふくおか ひろみ、旧姓:太田)。東京都荒川区生まれ、埼玉県春日部市育ち。夫は音楽プロデューサーの福岡智彦。
太田 裕美 | |
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出生名 | 太田 弘美 |
生誕 | 1955年1月20日(69歳) |
出身地 | 日本 東京都荒川区[要出典] |
学歴 | 上野学園高等学校 |
ジャンル | J-POP |
職業 | シンガーソングライター |
担当楽器 | ボーカル ピアノ ギター |
活動期間 | 1973年 - |
レーベル | ソニー・ミュージック(1974年 - 2006年) Boundee(2009年 - ) |
事務所 | フライングダッシュ |
共同作業者 | 福岡智彦、なごみーず |
公式サイト | 太田裕美 sony music |
春日部市から委嘱を受け、市の広報大使「かすかべ親善大使」としても活動している。
東京都荒川区[要出典]に出生。両親は愛知県名古屋市の出身で、父親はプラスティック関係の工場を経営していた。なお、生年月日がTHE ALFEEの桜井賢と同一で、太田とTHE ALFEEは同じ年にレコードデビューしている。
3歳の時に東京都から埼玉県春日部市へ転居。幼少の頃から音楽が大好きで、8歳の夏にピアノを習い始めて同時期に初めて作曲する。小学校時代はコーラス部に入っていた。
1967年4月、上野学園中学校音楽指導科声楽科に入学。中学1年の4月頃に同級生から「太田さんの声って変だよね」と言われて「私の声は個性的」と認識するようになったという。
1969年に中学3年で、友人の代わりにスクールメイツのオーディションを受けて合格する。受験理由は、大好きなザ・タイガースのジュリー(沢田研二)に会えるかもしれないと思ったため。これにより渡辺プロダクションの東京音楽学院に入ることとなった。同期生には、後にキャンディーズを結成した伊藤蘭、田中好子らがいた。
高校3年生だった1972年の11月、NHK総合テレビの音楽番組『ステージ101』のレギュラー出演グループ「ヤング101」のオーディションを受け、ピアノで「ショパンのワルツ」を弾いて合格する。『ステージ101』には1973年1月から番組終了の1974年3月まで「ヤング101」のメンバーとして出演。同期には谷山浩子がいた。「ヤング101」時代の友人の姓名判断で、芸名を本名の弘美から「裕美」へと変更した。
1973年12月、NETテレビのオーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』に出て優勝。渡辺プロダクションと新人養成契約を結び、西銀座のライブハウス「メイツ」でピアノ弾き語りを始める。
ソロデビューに際しては、音楽プロデューサーの白川隆三が太田のディレクターに就任した。また、CBSソニーで、山口百恵、郷ひろみといった主流派アイドルを担当していた稲垣博司や酒井政利の裏で、吉田拓郎や山本コータローらフォークソング系のミュージシャンを担当していた丸山茂雄が、1974年に太田の宣伝担当に就いた。丸山茂雄はインタビュー中で「太田はアイドルを志望していたが、20歳を過ぎてアイドルとして売り出すのは厳しい状況だった。そこで白川ディレクターと相談し、当時シンガーソングライターの小坂明子の『あなた』が大ヒット中だったことから、小坂の後釜として、松本隆と筒美京平のコンビで楽曲制作し、ピアノ弾き語りで歌うフォーク調の曲で売り出そうということになった」と語っている。
そこで丸山は、太田を原宿のパブ「ペニーレイン」に連れて行くことに精を出した。同店は吉田拓郎が店名をタイトルに入れた曲「ペニーレインでバーボン」で有名になる直前で、仕事上の付き合いがある吉田を始め、多くのフォークシンガーが毎晩飲みに来るため、丸山は彼らに太田を紹介し、親しい間柄になった。太田は雑誌インタビューで「吉田拓郎さんや谷村新司さんと仲がいい」などと話し、フォークファンに太田の名前が浸透した。また、当初から吉田拓郎や井上陽水を意識して、アルバム制作にも力を入れた。
1974年11月1日に「雨だれ/白い季節」でデビュー。キャッチフレーズは「まごころ弾き語り」。プロダクション・レコード会社の本命は春にデビューさせ、年末の賞レースで新人賞を狙うため実績を作るのが通常で、期待が薄いデビューとなったが、前述のプロモーションが功を奏して20万枚のヒットを記録し。1975年に日本レコード大賞、日本歌謡大賞などで新人賞を受賞した。
1975年12月に3作目のアルバム『心が風邪をひいた日』からシングルカットされた「木綿のハンカチーフ」が100万枚を超える大ヒット、翌1976年のオリコンチャート週間2位、年間4位を記録した(年間1位は子門真人『およげ!たいやきくん』)。作詞は松本隆、作曲は筒美京平。この曲は太田の最大のヒット曲にして代表曲となり、はっぴいえんどから作詞家に転身した松本隆の出世作ともなった。
翌1976年にはNHK紅白歌合戦に初出場、1980年まで5年連続で出場した。当時はアイドル歌手のような扱いを受け、大学祭などにも多数出演し「学園祭の女王」の異名をとった。
太田は、渡辺プロダクションが若者のニューミュージック指向を高めようと立ち上げた「NON STOPプロジェクト」の一員であった。他のメンバーには山下久美子、大沢誉志幸(クラウディ・スカイ)、チャクラ、桑江知子、大塚博堂、大上留利子、ルイス、ララなどがいた。渡辺プロダクションにはのちに太田の夫となる福岡智彦が在籍し、チャクラのメジャー・デビューを手がけていた。
1970年代には、渡辺プロ所属の歌手は日本テレビ制作の一部番組には出演できない時期があったが、太田裕美だけは「NON STOPプロジェクト」所属歌手ということで例外とされ、『TVジョッキー』『どっきりカメラ』などにも度々出演していた。読売テレビ等の系列局制作番組や前出の『TVジョッキー』など、井原高忠が関与していなかった番組には、NON STOPプロジェクト所属歌手以外でも出演できた。[要出典]
1979年に発表したアルバム『Feelin' Summer』収録の「星がたり」は、柊あおいの少女漫画『星の瞳のシルエット』のテーマソングとして使用された。同漫画のイメージアルバムには「星がたり」の原曲とインストゥルメンタルバージョンが収録されている。
1982年に音楽活動を一時休業し、8か月間アメリカ・ニューヨークに単身留学。「八番街西五十一丁目より」で第4回ニッポン放送青春文芸賞優秀賞を受賞した。帰国後に留学中の経験を綴った著書『ニューヨークなんて怖くない』を執筆した。また、帰国後はディレクターがデビュー時からの白川隆三から、後に夫となる福岡智彦に替わり、1983年以降はテクノポップ調の曲をリリースするようになった。このニュー・ウェイヴ路線は、大村雅朗、「4人目のYMO」といわれた松武秀樹、山元みき子名義で作詞家活動を開始したばかりの銀色夏生、BaNaNa、板倉文、ホッピー神山、岡野ハジメ、杉林恭雄などがサポートしていた。
1984年1月20日の29歳の誕生日に、ディレクター兼プロデューサーの福岡智彦との交際を明らかにする。同年8月28日に婚約発表。翌1985年1月26日、福岡智彦と結婚。結婚式の仲人は愛川欽也・うつみ宮土理夫妻が務めた。1980年代後半からは福岡智彦がデビューさせた遊佐未森らへの楽曲提供も行うようになった。
活動休止中にも、弦楽四重奏グループ・クロノス・カルテットが1988年1月に発表したアルバム『冬は厳しく〜弦楽四重奏曲の諸相II』に朗読で参加している。
1996年より音楽活動を再開し、同年4月2日よりライブ活動を開始。1998年にはミニアルバム『魂のピリオド』をリリースし、松本隆・筒美京平コンビの楽曲を20年ぶりに歌った。
2004年、親交があるミュージシャンAYUOとのコラボレーション・アルバム『RED MOON』を制作、ジョン・ゾーンが主催するニューヨークのレーベル「ツァディク (TZADIK RECORDS)」からリリース。このアルバムは同年1月20日、太田の50歳の誕生日に発表された。
また、2004年からは、太田、元かぐや姫の伊勢正三、元ガロの大野真澄の3人で、音楽ユニット「なごみーず」を組み『アコースティック・ナイト』コンサートを開催している。
1984年の『TAMATEBAKO』以来、実に22年ぶりとなるオリジナル・フルアルバム『始まりは“まごころ”だった。』を2006年にリリース。その間も様々なベスト・アルバムの発売が相次いだため「ベスト盤の女王」を自称した。
2010年5月16日、松本隆の作詞家生活40年記念コンサートに出演。その際に「今の太田裕美があるのは松本隆のおかげ、今の松本隆があるのは太田裕美のおかげ」と冗談めかして発言した。
2016年8月1日、マネージャーの勇退により所属事務所「ボイスアンドリズム」を離脱。
2006年に放送されたテレビ番組で、太田は「アイドル歌謡曲とフォークシンガーの架け橋的存在」と自らを位置づけた。また2009年の読売新聞のインタビューでも「私とスタッフは歌謡曲とフォークの両方のいいところを、いいとこ取りじゃないんですけど、ちょうど中間点、真ん中の活動をしていこうと決めていました」と語っている。この路線は大ヒットを導き出した一方、アイドル系とフォーク系の仕事の両立を必要とし、活動は多忙を極めた。
世間から「『木綿のハンカチーフ』の太田裕美」というイメージを持たれつづけることに複雑な気持ちを抱いていたものの、結婚後の活動休止を経て1996年に音楽活動を本格的に再開してから、ファンが長年にわたり「木綿のハンカチーフ」に深い愛着と思い入れを寄せていることを知って心境が変化したという。
男性的なさっぱりした性格であると言われる。酒豪という噂には、本人は「皆でお酒を飲むときの楽しい雰囲気が好き」といい、決して大酒を飲むわけではないと語っている。[要出典]
2010年には自宅に太陽光発電のためソーラーパネルを設置。電力会社への売電契約を結び、発電設備を「太田裕美発電所」と命名して所長に就任した。
犬が好きで、2011年6月から2016年11月まで福島県生まれの柴犬「小太郎」を飼っていた。その後は2018年4月から雑種の保護犬「十兵衛」を飼い始めた。
発売順 | A面タイトル | 発売日 | 作詞 | 作曲 | 編曲 | 備考 |
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1 | 雨だれ | 1974.11.01 | 松本隆 | 筒美京平 | 萩田光雄 | デビュー曲 |
2 | たんぽぽ | 1975.04.21 | ||||
3 | 夕焼け | 1975.08.01 | ||||
4 | 木綿のハンカチーフ | 1975.12.21 | 筒美京平 萩田光雄 | |||
5 | 赤いハイヒール | 1976.06.01 | 萩田光雄 | |||
6 | 最後の一葉 | 1976.09.21 | ||||
7 | しあわせ未満 | 1977.01.20 | ||||
8 | 恋愛遊戯 | 1977.05.31 | ||||
9 | 九月の雨 | 1977.09.01 | 筒美京平 | |||
10 | 恋人たちの100の偽り | 1977.12.21 | 萩田光雄 | |||
11 | 失恋魔術師 | 1978.03.21 | 吉田拓郎 | |||
12 | ドール/やぁ!カモメ | 1978.07.01 | 筒美京平 | 筒美京平 | 両A面シングル | |
13 | 振り向けばイエスタディ | 1978.12.05 | Jimmie Haskell | |||
14 | 青空の翳り | 1979.04.21 | 来生えつこ | 濱田金吾 | 大村雅朗 | |
15 | シングル・ガール | 1979.07.21 | 阿木燿子 | 宇崎竜童 | ||
16 | ガラスの世代 | 1979.10.21 | ちあき哲也 | 太田裕美 | 萩田光雄 | |
17 | 南風 - SOUTH WIND - | 1980.03.21 | 網倉一也 | 網倉一也 | ||
18 | 黄昏海岸 | 1980.07.21 | ||||
19 | さらばシベリア鉄道 | 1980.11.21 | 松本隆 | 大瀧詠一 | ||
20 | 恋のハーフムーン | 1981.03.21 | 大瀧詠一 | |||
21 | 君と歩いた青春 | 1981.08.26 | 伊勢正三 | 伊勢正三 | 萩田光雄 | |
22 | ロンリィ・ピーポーII | 1983.06.22 | 下田逸郎 | 岡本一生 亀井登志夫 | 大村雅朗 | |
23 | 満月の夜 君んちへ行ったよ | 1983.11.21 | 山元みき子 | 太田裕美 | ||
24 | 青い実の瞳 | 1984.05.21 | ||||
25 | 雨の音が聞こえる | 1984.11.21 | 筒美京平 | 板倉文 BaNaNa | ||
26 | はじめてのラブレター | 1993.05.21 | 太田裕美 | 近藤達郎 | ||
27 | Virginから始めよう | 1994.06.22 | 井上鑑 | |||
28 | ファーストレディになろう | 1996.03.21 | 奥山六九 | GONTITI | 羽毛田丈史 | |
29 | パパとあなたの影ぼうし | 2001.05.23 | こんのひとみ | |||
30 | 初恋 | 2009.04.22 | 太田裕美 | 伊勢正三 | 佐藤準 | |
31 | 金平糖 | 2011.12.21 | 吉川正夫 太田裕美 | 松岡モトキ | ||
32 | ステキのキセキ/桜月夜 | 2019.05.01 | 前山田健一 | 両A面シングル |
発売元は特記なければ、CBS・ソニーまたはソニー・ミュージックエンタテインメント。
年度/放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 |
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1976年(昭和51年)/ 第27回 | 初 | 木綿のハンカチーフ | 05/24 | 新沼謙治(1) |
1977年(昭和52年)/ 第28回 | 2 | 九月の雨 | 03/24 | 新沼謙治(2) |
1978年(昭和53年)/ 第29回 | 3 | ドール | 15/24 | 内山田洋とクール・ファイブ |
1979年(昭和54年)/ 第30回 | 4 | シングル・ガール | 03/23 | 新沼謙治(3) |
1980年(昭和55年)/ 第31回 | 5 | 南風 - SOUTH WIND - | 11/23 | 新沼謙治(4) |
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