同志社英学校(どうししゃえいがっこう、Doshisha English School)とは、1875年(明治8年)京都府に開かれた私塾である。それは、キリスト新教改革教会(カルバン主義プロテスタント)清教徒運動組合派の宣教師であった新島襄らが創った学び舎だった。同志社英学校を創るにあたり新島は、アメリカ合州国に在る組合派系の海外伝道団体である「アメリカン・ボード」の力添えによった。この同志社英学校が今の、キリスト教主義の私立大学である同志社大学の元となっている。
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新島襄は1874年(明治7年)10月9日に米国バーモント州ラットランドのグレース教会で開かれたアメリカン・ボード海外伝道部の第65年会で日本におけるキリスト教主義大学の設立を訴えて5,000ドルの寄付の規約を得て、翌月26日に横浜に帰着した。
1875年(明治8年)1月、新島は木戸孝允の斡旋で大阪に学校を設立しようとしたが、府知事渡辺昇のキリスト教反対のため断念した。
その後、新島は京都府知事槇村正直および府顧問山本覚馬に学校設立の協力を求め、山本との結社によりアメリカン・ボード宣教師J.D.デイヴィスを雇用する形で「私塾開業願」を京都府知事宛に提出し、9月4日に認可を受けた。官許同志社英学校は11月29日に上京第22区寺町通丸太町上ル松蔭町18番地の高松保実邸の一角を借りて開校した。最初の生徒は中島力造・元良勇次郎・上野栄三郎など8名であった。
1876年(明治9年)9月、相国寺門前薩摩藩邸跡(現在の今出川校地)に移転。同じ頃に熊本バンドと呼ばれる一団30数名が入学し、英学校に余科(神学科)を併置した。1879年(明治12年)6月における第1回卒業生15名はすべて熊本バンドの面々であった。
同志社英学校は欧化主義の時代風潮の中で入学志願者が増加したため、英学校上級生が中心となって1887年(明治20年)に1年制の同志社予備学校を開設した。1888年(明治20年)6月に同志社諸学校を同志社学院と総称し、その下に予備部・普通部・神学部・女学校を置いたが、翌年9月に同志社学院の呼称を廃して同志社予備学校・同志社普通学校・同志社神学校・同志社女学校と改称した。
新島の構想は同志社病院・京都看病婦学校(1887年開設)、同志社波理須理化学校(1890年開校)、同志社政法学校(1891年開校)によってまがりなりにも実現を見たが、折からの国粋主義の台頭、新神学の流入による日本キリスト教界の混乱、さらに同志社を物心両面で支援してきたアメリカン・ボードとの対立に巻き込まれ、一時は1,000名近くに達した生徒数は1897年(明治30年)頃には約350名にまで激減した。
1898年(明治31年)2月、同志社は徴兵猶予の特典を得るために同志社綱領を改訂して校友・関係者の反発を招き、横井時雄社長以下社員総辞職の失態を演じた。翌年に同志社財団寄付行為が制定され、同志社は2代続けて社外者(西原清東と片岡健吉)を社長に迎えた。
1904年(明治37年)専門学校令による同志社専門学校と同志社神学校を設けたが、その内実はリストラであり、理科学校・政法学校・病院・看病婦学校は閉鎖のやむなきに至った。
1907年(明治40年)、同志社は神戸教会牧師原田助を第7代社長に迎えてから再び上昇の機運を迎える。原田は1910年(明治43年)に欧米を歴訪して資金募集やアメリカン・ボードとの関係回復に努め、さらに校友会を中心とする大学設立運動により1912年(明治45年)、専門学校令による同志社大学を開設して神学部・政治経済部・英文科を置いた。しかし、開校当初は神学部を除いて京都帝大からの出向教員を中心に教授陣を編成せざるを得ず、真の自立した私学とは言い難い面があったのは事実である。
同志社大学が名実ともに大学令による制度上の大学に昇格したのは1920年(大正9年)4月のことである。
1888年(明治21年)に制定された「同志社通則」の第一章は「綱領」と題する総則で、以下の6ヵ条からなっていた。
正三角形を3つ寄せたもので、国あるいは土を意味するアッシリア文字「ムツウ」を図案化したもの。知・徳・体の三位一体あるいは調和をめざす同志社の教育理念をあらわすものと解釈されている。考案者は湯浅半月。
ロイヤル・パープル(古代紫と江戸紫の中間色)と白の2色。創立者新島襄の母校、アーモスト大学のスクールカラーと同色。
(1918年以後は総長)
代 | 社長 | 在任時期 | 備考 | |
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1 | 新島襄 | 1875年11月 - 1890年1月 | 同志社大学の前身、同志社英学校の創立者、校祖 | |
臨 | 山本覚馬 | 1890年1月 - 1892年3月 | 会津藩士、軍事取調役兼大砲頭取、公用人、京都府会初代議長 京都商工会議所会頭、新島襄の義兄 | |
2 | 小崎弘道 | 1892年3月 - 1897年4月 | 日本組合基督教会会長、日本基督教連盟会長 | |
代 | 市原盛宏 | 1894年 | 朝鮮銀行初代総裁、横浜市長 | |
臨 | 中村栄助 | 1897年4月 - 1897年5月 | 衆議院、京都市会議長、京都鉄道会社理事、京都電燈会社取締役 伏見紡績会社社長、平安紡績会社社長 | |
3 | 横井時雄 | 1897年5月 - 1899年3月 | 逓信省官房長、衆議院議員、横井小楠子息 | |
臨 | 下村孝太郎 | 1899年3月 - 1899年7月 | 前任者の辞職により臨時名誉社長となる | |
4 | 西原清東 | 1899年7月 - 1902年3月 | 衆議院議員、アメリカテキサス州開拓日本人移民のパイオニア | |
5 | 片岡健吉 | 1902年3月 - 1903年10月 | 自由民権運動推進者、衆議院議長 | |
6 | 下村孝太郎 | 1903年10月 - 1906年11月 | 化学工学先駆者、大阪舎密工業(現大阪ガス)代表取締役社長、住友化学設立 | |
臨 | 松山高吉 | 1906年11月 - 1907年1月 | 牧師、日本における賛美歌事業の草分け | |
7 | 原田助 | 1907年1月 - 1919年1月 | ハワイ大学東洋学部長、ハワイ大学LLD、エディンバラ大学LLD、アマースト大学LLD | |
臨 | 中村栄助 | 1919年1月 - 1920年3月 | 前任者の辞職により臨時総長となる |
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