『ひまわり』(原題(イタリア語): I Girasoli )は、1970年のイタリア・フランス・ソビエト連邦・アメリカ合衆国のドラマ映画。ヴィットリオ・デ・シーカ監督。出演はソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ、リュドミラ・サベーリエワほか。
ひまわり | |
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I Girasoli Sunflower Подсолнухи | |
ソフィア・ローレン | |
監督 | ヴィットリオ・デ・シーカ |
脚本 | チェーザレ・ザヴァッティーニ アントニオ・グエラ ゲオルギー・ムディヴァニ |
製作 | アーサー・コーン カルロ・ポンティ |
製作総指揮 | ジョセフ・E・レヴィーン |
出演者 | ソフィア・ローレン マルチェロ・マストロヤンニ リュドミラ・サベーリエワ |
音楽 | ヘンリー・マンシーニ |
撮影 | ジュゼッペ・ロトゥンノ ダヴィド・ヴィニツキー |
編集 | アドリアーナ・ノヴェッリ |
製作会社 | Compagnia Cinematografica Champion (C. C. Champion S.p.A.) レ・フィルム・コンコルディア モスフィルム |
配給 | ユーロ・インターナショナル・フィルム 不明 アヴコ・エムバシー・ピクチャーズ ブエナ・ビスタ 不明 |
公開 | 1970年3月13日 1970年5月25日 1970年9月24日 1970年9月30日 1970年10月14日 |
上映時間 | 107分 |
製作国 | イタリア フランス ソビエト連邦 アメリカ合衆国 |
言語 | イタリア語 ロシア語 |
戦争によって引き裂かれた夫婦の行く末を悲哀たっぷりに描いた作品で、地平線にまで及ぶ画面一面のヒマワリ畑が評判となった。数あるローレン主演の映画の中で最も日本で愛されている作品である[要出典]。
1964年のイタリア・ソ連合作の戦争映画『イタリアの勇士たちよ』に引き続き、冷戦時代に西側スタッフがソ連ロケを認められた作品である。『イタリアの勇士たちよ』も、第二次世界大戦の東部戦線でのイタリア旅団の悲劇を扱い、戦時資料とイタリア人帰還兵・戦没兵の手記を元に脚本が書かれた。ソ連のひまわり畑、酷寒の雪中での兵士の脱落など、主要モチーフは『ひまわり』と驚くほど似通っており、主要ロケ地も同じチェルネーチー・ヤール村である。が、前者は興行成績・注目度共に地味な作品であったため(特に日本では殆ど知られていない)、今日でも「『ひまわり』は冷戦時代初の西側のソ連ロケ作品」と誤報されることが少なくない。同一テーマを、西側人気女優を主役に起用して大悲恋物語に仕立て直したものが『ひまわり』との見方も成り立つ。
作品の構想と準備に10年の歳月を要したというデ・シーカ監督は、夫を探して異郷への長い旅に出る主人公を、現代のユリシーズになぞらえる。西側の企画をソ連に持ち込んだ例は当時の映画界では異色だが、製作総指揮のジョセフ・E・レヴィーンと製作のカルロ・ポンティは度々モスクワに赴きソ連側を説得、撮影を実現させた。
ロケ地となったひまわり畑はソビエト連邦時代のウクライナの首都キエフから南へ500キロメートルほど行ったヘルソン州にあるとされていたが、NHKの現地取材では、ポルタヴァ州(ウクライナ中部・ドニエプル川左岸)の州都ポルタヴァの約27km北に位置するチェルネーチー・ヤール(Чернечий Яр)村で行われたと特定されている。
音楽はヘンリー・マンシーニが担当、数多くの映画音楽を手がけた中でも特に評価が高い作品で、主題曲は世界中でヒットした。
日本での初公開は1970年9月30日。2020年には「ひまわり 50周年HDレストア版」として上映され、修復作業は上映会を企画した日本の企業「アンプラグド」によって行われた。2022年には、ロケ地であるウクライナへのロシアの侵攻を受け、映画館や地方自治体によるチャリティー上映会が日本各地で開催された。
第二次世界大戦終結後のイタリア。出征したきり行方不明の夫の消息を求め、関係省庁へ日参する女性の姿があった。
戦時中、洋裁で生計を立てる陽気なナポリ娘ジョバンナとアフリカ戦線行きを控えた兵士アントニオは海岸で出会い、すぐに恋に落ちる。12日間の結婚休暇を目当てに結婚式を挙げた2人は、幸せな新婚の日々を過ごすが、休暇の12日間は瞬く間に過ぎてしまう。精神疾患による除隊を目論んだアントニオは首尾よく精神病院に入院するが、あえなく詐病が露見、懲罰のためソ連戦線へと送られることになる。見送るジョバンナに「毛皮がお土産だ」と笑顔を見せるアントニオら大勢の兵士を乗せた汽車は、ミラノ中央駅を出発する。
終戦後、ジョバンナは年老いたアントニオの母親を励ましながら、夫の帰りを何年も待ち続け、ようやく同じ部隊にいたという男を見つける。男の話によると、アントニオは敗走中、極寒の雪原で倒れたという。ジョバンナは愛するアントニオを探しに、ヨシフ・スターリン亡き後のソ連へ行くことを決意する。
当時のソ連は社会主義国家であり、ジョバンナが降り立ったモスクワは別世界だった。かつてイタリア軍が戦闘していたというウクライナの村でアントニオの写真を見せて回るジョバンナだったが、一向に消息が掴めない。ジョバンナの前に、地平線の彼方まで続くひまわり畑が広がる。多くの兵士たちがこのひまわりの下に眠っているという。無数の墓標が並ぶ丘まで案内した役人の男性はジョバンナに「諦めたほうが良いのでは」と言うが、彼女はきっぱりと「夫はここにいない」と言って拒絶する。かすかな情報を頼りにモスクワに戻ったジョバンナは、とある工場から出て来る労働者の中に、戦後も祖国へは戻らずにロシア人として生活しているイタリア人男性を見出す。しかし彼は多くを語らず、また、アントニオのことも知らないと言う。ジョバンナはもしやアントニオもと、微かな期待を抱く。
言葉も通じない異国で、なおも諦めずにアントニオを探し続けるジョバンナは、郊外の村で写真を見せた3人の中高年の女性たちから、身振りを交えてついて来るように言われ、一軒の慎ましい家に案内される。そこには、若妻風のロシア人女性マーシャと幼い女の子カチューシャが暮らしていた。言葉は通じずともジョバンナとマーシャは互いに事情を察する。マーシャはジョバンナを家に招き入れる。室内には枕が2つ置かれた夫婦のベッドがあった。マーシャは片言のイタリア語で、アントニオと出会った過去を話し始める。雪原で凍死しかけていた彼をマーシャが救ったのだが、その時アントニオは、自分の名さえ思い出せないほど記憶を無くしていたという。
やがて汽笛が聴こえ、マーシャはジョバンナを駅に連れて行く。汽車から次々と降り立つ労働者たちの中に、アントニオの姿があった。駆け寄ったマーシャをアントニオは抱き寄せようとするが、マーシャは彼をとどめてジョバンナの方を指さす。驚くアントニオが見たのはやつれ果てたジョバンナの姿だった。かつての夫と妻は距離をおいたまま、身じろぎもせず互いを見つめ合う。ジョバンナの表情が悲しみで歪み、アントニオが何か言おうと一歩踏み出した途端、ジョバンナは背を向け、既に動き出していた汽車に乗せてくれと叫び、飛び乗る。そして、座席に倒れ込むように座ると、見知らぬロシアの人々が奇異の目で見る中、声を上げてむせび泣く。
ミラノに帰ったジョバンナは、壁に飾ってあったアントニオの写真を外して額縁ごと叩き潰し、泣きながら踏みつけ、自暴自棄に陥って男たちと遊び回る荒れた生活に身をやつすようになる。そんな中で訪ねてきたアントニオの母親は、ジョバンナの不実を咎めるが、ジョバンナはソ連で再会したアントニオの現状を母親に激白し「死んでいたほうがましだった」とぶちまける。
その後、アントニオとマーシャ夫婦は新築の高層アパートに引っ越すが、新しい生活のスタートであるはずのその日の晩も、アントニオは物思いに沈んでほとんど口を利かない。そんなアントニオを見てマーシャは「もう私を愛してないの?」と涙を浮かべる。
マーシャの許しを得、病気の母を見舞うとの口実で出国許可を得たアントニオは、約束していた毛皮をモスクワで買い求め、ミラノへ向かう。嵐で停電したアパートの暗闇の中、再会したアントニオとジョバンナだったが、感情がすれ違う。アントニオはもう一度2人でやり直そうと訴えるが、その時、隣の部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。赤ん坊を見て名前を訊く彼に、ジョバンナは赤ん坊の名はアントニオだと言う。ジョバンナもまた別の人生を歩んでいることを知ったアントニオは毛皮を渡し、ソ連に帰ることを決心する。
翌日のミラノ中央駅。モスクワ行きの汽車に乗るアントニオをジョバンナが見送りに来る。二度と会うことはないと2人はわかっている。アントニオは動き始めた汽車の窓辺に立ったままジョバンナを見詰める。遠ざかり消えてゆく彼の姿に、ジョバンナは抑えきれず涙を流し、ホームにひとり立ち尽くす。彼を乗せた汽車が去っていったこのホームは、以前戦場へ行く若き夫を見送った、その同じホームだった。
役名 | 俳優 | 日本語吹替 | |
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TBS版 | TVO版 | ||
ジョバンナ | ソフィア・ローレン | 此島愛子 | 勝生真沙子 |
アントニオ・ガルビアーティ | マルチェロ・マストロヤンニ | 羽佐間道夫 | |
マーシャ | リュドミラ・サベーリエワ | 北島マヤ | 平田裕香 |
ヴァレンチーナ(ソ連女性官吏) | ガリーナ・アンドレーエワ | ||
アントニオの母 | アンナ・カレーナ | 塙英子 | |
ひまわり畑の農婦 | ナディア・チェレドニチェンコ | ||
エットーレ | ジェルマーノ・ロンゴ | ||
復員兵 | グラウコ・オノラート | ||
モスクワのイタリア人労働者 | シルヴァーノ・トランクィリ | ||
駅の女性 | マリーザ・トラヴェルシ | ||
ソ連の役人 | グナル・ツィリンスキー | ||
駅の切符売り | ピッポ・スタルナッツァ | ||
ジョバンナの赤ん坊 | カルロ・ポンティ・ジュニア | ||
不明 その他 | 桑原たけし 筈見純 松尾佳子 藤夏子 高村章子 加藤修 田中秀幸 湯浅実 | ||
演出 | 田島荘三 | ||
翻訳 | |||
効果 | |||
調整 | 杉浦日出弥 | ||
制作 | トランスグローバル | ||
解説 | 荻昌弘 | ||
初回放送 | 1976年11月8日 『月曜ロードショー』 | 2022年8月6日 『土曜シネマスペシャル』 |
※出演者の筆頭はソフィア・ローレン(フィルムクレジット、日本封切時のパンフレット共に)。 ※出演者のフィルムクレジットは、オープニングが俳優名のみで計17人。エンディングが役名-俳優名で計11人。 ※「ジョバンナの赤ちゃん…カルロ・ポンティ Jr」は、日本封切時のパンフレットには記載されているが、フィルムクレジットには全く登場しない。カルロ・ポンティ・ジュニアは、ソフィア・ローレンとカルロ・ポンティの実子。
※ロシア語版 Wikipedia には、「スターリングラードのイタリア兵の退却場面は、カリーニン州(現トヴェリ州)・コナコヴォ地区のゴロドニャ(モスクワ中心部から約130km北西)のヴォルガ川氷上で撮影された」とあるが、これは「要出典」扱いとなっている(2022年8月現在)。日本封切時のパンフレットによると「四方八方へ600キロにもわたって広がる冬のウクライナの大雪原」。
※日本封切時のパンフレットには、「ものがたり」(あらすじ)に「モスクワ郊外の住宅地」、「プロデューサー・ノート」に「ドン河畔の農家のたたずまい」とあるが、「ドン河畔の農家」のロケの有無は不明で、フィルムでも箇所の特定は難しい。配給側に於ても「脚本上の想定地」と「実際のロケ地」の情報が混同され、未整理の状態だったことがうかがえる。
ソフィア・ローレンは1970年ダヴィッド・ディ・ドナテッロ主演女優賞を受賞。音楽のヘンリー・マンシーニは1971年アカデミー作曲賞の劇映画作曲賞にノミネートされた。
※日本封切時のパンフレットには、マストロヤンニが「この作品で…1970年のカンヌ映画祭で最優秀男優賞を獲得している」とあるが、これは誤りで、同年の同賞はマストロヤンニの『ジェラシー』(1970年)出演に対して授与されたものである。
『ひまわり』は、作品中の2人の婦人に敬意を表し、国際婦人デーに合わせて1970年3月8日にモスクワで封切られる予定だった。が、フィルム編集も完了した公開直前に、ソ連の担当部署が、イタリア兵墓地の場面をカットせよと要請して来た。カルロ・ポンティは「絶対に切れない」と回答し、ソ連側の返事を待たずにフィルムをイタリアに持ち帰り、3月13日にローマでノーカット版の封切を強行した。ソ連はその直前にも脚本共同執筆者のムディヴァニをローマに派遣し、再度ポンティとデ・シーカの説得を試みたが、ポンティの考えは変わらなかった。「あの場面は非常に重要です。もしカットすれば、あの作品は作品ではなくなってしまいます。これは監督、脚本家、全製作陣の総意でもあります。それにもう2日かしかありません」公開は強行され、作品はイタリアでは絶賛されたが、モスフィルムのスタッフはそのことをイタリアの仕事仲間からの電報によってしか知り得なかった。
ソ連が墓地場面のカットにこだわったのは、作品を見たイタリア人の反応を怖れたからだった。ロシアのジャーナリスト、エフゲーニー・ジルノーフによれば、ソ連東部戦線のイタリア人捕虜の約4分の3にあたる約3万人が餓死または病死していたが、戦後のイタリアからの照会に対し、ソ連は彼ら戦闘によらない戦没者を「消息不明」「データが無い」と説明して来た。また証拠隠滅のために、イタリア人捕虜埋葬地は全て潰された。
このひたすら隠し通すソ連の態度は、かえって「本当はソ連のどこかで生きているのでは」とイタリア人の想像力を過剰に膨らます結果を呼ぶ。当時の作品公開前のイタリアでも、一部のネオ・ファシストが、まだソ連で生きている捕虜たちを帰還させよ、遺骨を返還せよという運動を起こしていた。その空気を知る駐イタリア・ソ連大使ルィジョーフは、公開目前の『ひまわり』のことを知り、「墓地の場面はカットすべき」と本国に進言して来たのである。
事後承諾をソ連に強要したポンティであったが、いくつかの妥協案は試みている。フィルムのエンディングクレジットの最後の字幕「登場人物・出来事はすべて架空のものです。類似の事件や人物が現実にあったとしても、みな全くの偶然です」の字幕もその一環である。またポンティは駐伊大使に「我々スタッフ一同は、ソ連にイタリア兵墓地が存在しないことを認めます」という念書を送っている。が、大使の怖れは消えず、在伊ソ連人に、上映会場へも封切前の記者会見場へも行かないよう呼びかけた。危惧通り、封切後に大使はイタリアの極右団体から「もしイタリア人捕虜を釈放しなければ、欧州のソ連人外交官20人を殺害する」と脅迫状を受け取った。
封切強行後、KGBの思想・イデオロギー部門のトップ、ボブコーフは、イタリア撮影隊と映画人に関する非常にネガティブな印象の報告を党中央委員会に上げている。そしてソ連映画人の体験談から、外国との共同作業は慎重すぎるほど慎重であるに越したことはない、と結論づけている。
念書の内容とは逆に、西側の製作陣と配給会社は、墓地の場面がセットであることと、ソ連からカットの要請があったことは極秘にしていたと思われる。日本封切時のパンフレットに、試写を見た小森和子が、「ソ連外務省の役人が、ジョバンナと汽車の旅まで共にしてウクライナのひまわり草原にまで案内し、ソ連がイタリアの捕虜や戦死者をまつったというところなどは、いささかソ連PRのにおいがしないでもない」と、裏の現実とは正反対の感想を書いているからである。
「行方不明者」に関する真相解明の進展は、グラスノスチと冷戦終結を待たねばならなかった。1991年、イタリア・ソ連の2国間合意で戦没者名簿が公表された。長い歳月が流れ、しかもロシア文字の名簿には誤りも多く、遺族捜しは難航しているが、それでもロシアの民間人が保管していたイタリア兵認識票百数十点が、ミラノ山岳兵協会の尽力で遺族に届けられた例がある。
-「世界初」にこだわった宣伝、沈黙するソ連-
封切から数十年後の『ひまわり』の解説は、多くが「イタリア・ソ連合作映画」に回帰している(『マストロヤンニ自伝 わが映画人生を語る』の巻末用語解説、『ヴィットリオ・デ・シーカを感動する』の「ひまわり」の記事など)。また Wikipedia の各国記事の8割が、イタリアとソ連を含む合作映画と記載している(2022年9月現在)。が、1970年の日本封切当時は、多くの報道機関が『ひまわり』を「イタリア映画」(もしくはイタリア・アメリカ合作映画)と紹介していた。
映画の「国籍」(○○国映画、A国B国合作映画など)の厳密な定義は難しいのだが、最初に発表された「国籍」は大抵そのまま定着する(『007は二度死ぬ』- 日本ロケが行われた英米合作映画、『おろしや国酔夢譚』- ソ連ロケが行われた日本映画、『デルス・ウザーラ』- 外国から監督を招聘したソ連映画 など)ことと比較すれば、『ひまわり』のように発表数十年後に「国籍」が揺らぐのは、かなり珍しいケースと言える。
そして「イタリア映画」とした紹介記事は、みな例外なく「イタリア(西側)映画初のソ連ロケ作品」を謳っている。一方、封切用パンフレットでは、「イタリア映画」「西側映画」の明言は避けているが、やはり「はじめて外国のカメラが、ソ連国内の奥深く入ることになった」と、世界初にこだわっている。
前者の報道例を挙げると、
一方、後者の報道例は、
宣伝に話題性は必須だが、これは藪をつついて蛇を出しかねないきわどい路線である。前者は、ソ連との協同作業について深入りされれば、3月の泥仕合まで明るみに出かねず、後者は映画マニアが少し調べれば簡単に露見する嘘だからだ。にもかかわらず、日本封切当時の報道(配給会社から提供された情報、すなわち事実上の宣伝が含まれる)は、他にセールスポイントが無いのかと思えるほど「世界初」にこだわり続けていた。
一方のソ連は、『ひまわり』に関しては沈黙を続けていた。例えば、当時の駐日ソ連大使館が月2回発行していた日本語広報紙『今日のソ連邦』には、話題の新作映画の記事は必ず登場し、1970年も『ヨーロッパの解放』(5月1日号、p.48-49)、『赤いテント』(9月15日号、p.47-49)、『チャイコフスキー』(10月15日号、p.24-27)などが取り上げられているが、『ひまわり』に関する記述はゼロである。日本でのヒットが予想されていた大作で、かつソ連の名女優サベーリエワが出演しているにもかかわらず、「ソ連ロケあっての『ひまわり』」という手柄自慢さえ登場しなかった。
長年に亘り、作品中のひまわり畑のロケ地はウクライナのヘルソン州と思われていた(実際はポルタヴァ州)。このヘルソン州説は「実際の激戦地に近いポルタヴァ州から目を逸らすためソ連が流布した嘘」という説もあるが、証拠は見つかっていない(2022年9月現在)。当時のソ連は、真のロケ地・ポルタヴァ州の積極的アピールもしなかった代わり、ヘルソン州という偽情報を積極的に流布した痕跡もないのである。
ヘルソン州説形成の雛型とも言える映画記事は、1970年に早速登場している。
一方、日本封切時のパンフレットには、ウクライナのロケ地が2ヵ所言及されている。「広大なウクライナ地方のひまわり畑」と「冬のウクライナ/四方八方へ、600キロにもわたって広がる雪の世界」である。即ち、この記述の源泉は、次の2通りが考えられる。
いづれにせよ、このフレーズは、ソ連に少しでも土地勘のある人間からは絶対に出て来ない。モスクワの1000マイル(約1609㎞)南は、黒海を飛び越してアナトリア半島(トルコ共和国)に達するからだ。配給元も映画記者も、ウクライナがソ連のどこにあるかも知らない地理音痴ばかりという状況で、混乱した情報をやり取りしているうち、この手のいい加減なフレーズが一人歩きを始め、
「「モスクワの遙か南方」で「ひまわりの名所」であれば、ヘルソン州あたりだろう」
となった。これは有力な説の一つとなり得る。
ソ連での公開は、Wikipedia 日本語版インフォボックスが1970年5月25日(出典あり)、ドイツ語版本文が「ローレンとポンティを招待し、1970年6月」。またソフィア・ローレンのソ連ロケを詳説したウェブ記事では「予定より1年遅れて1971年に公開されたが、イタリアほど盛り上がらなかった」。観客動員数は、ロシア語の映画作品情報サイト「キノポーイスク」によると、イタリアが7千4百万人、ソ連が4億1千6百万人。但し当時のソ連は、年間延べ約50億人が映画を見る映画大国だったので、この数字だけからは好評とは判断できない。
Wiki ドイツ語版では、「ただのメロドラマ」という冷ややかな西ドイツメディアの批評と、東ドイツの「戦争の残酷さと、それが人々にもたらす苦しみとを、普遍的に描き切った作品」「反戦映画にして、なおも普通の人々の生きる力と高い道徳性への希望を失わせない作品」という共感的な批評とが、併せて紹介されている。
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