ソ連国家保安委員会(ソれんこっかほあんいいんかい、ロシア語: Комите́т госуда́рственной безопа́сности СССР(ラテン文字転写:Komitet gosudarstvennoy bezopasnosti)、略称:КГБ(カーゲーベー))は、1954年から1991年のソビエト連邦の崩壊まで存在したソビエト社会主義共和国連邦の情報機関・秘密警察。軍の監視や国境警備も担当していた。
ソ連国家保安委員会 | |
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Комите́т госуда́рственной безопа́сности СССР Komitet gosudarstvennoy bezopasnosti | |
KGBの紋章(諜報の象徴として剣が、防諜の象徴として盾があしらわれている) | |
組織の概要 | |
設立年月日 | 1954年3月13日 |
継承前組織 |
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解散年月日 | 1991年11月6日(事実上の解散日) 1991年12月3日(法令上の解散日) |
継承後組織 |
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管轄 | 共産党中央委員会及び閣僚会議(1954年-1990年) 最高会議及び大統領(1990年-1991年) |
本部所在地 | ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ、ルビャンカ 北緯55度45分31.2秒 東経37度37分32.16秒 / 北緯55.758667度 東経37.6256000度 |
監督大臣 | |
上位組織 | 共産党中央委員会(事実上) |
下位組織 |
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東西冷戦時代にはアメリカの中央情報局(CIA)と一、二を争う組織と言われていたが、ソビエト連邦の崩壊と同時に共和国間保安庁(現在のロシア連邦保安庁)、中央情報庁(現在のロシア対外情報庁)、国境警備・保護委員会(現在のロシア国境軍)などに権限を移行した。日本での略称は КГБ を翻字した KGB(露: カーゲーベー、英: ケージービー)が使われる。
1958年12月23日付ソ連共産党中央委員会幹部会により承認されたソ連閣僚会議附属国家保安委員会規程によれば、その任務は以下の通りであった。
ロシア革命直後、レーニンの命を受けたフェリックス・ジェルジンスキーが「反革命・テロ・サボタージュの取り締まりのための全ロシア非常委員会」(「チェーカー」)を創立する。本部はルビヤンカ広場の全ロシア保険会社ビルに置かれた。ソ連崩壊(12月)直前の1991年8月までジェルジンスキーの大きな銅像が正面に建てられていた。
同組織は、部員からは「ツェントル」(ロシア語: центр、中央)と呼ばれ、国民からは「オルガン」(ロシア語: орган、機関)と呼ばれた。その後、国家政治局(GPU)や、統合国家政治局(OGPU)、スターリンの最側近ラヴレンチー・ベリヤが指揮する内務人民委員部(NKVD)、第二次世界大戦中の国家保安人民委員部(NKGB)、戦後の国家保安省(MGB)を経て、一時内務省(MVD)に統合される。
1954年3月13日、内務省に統合されていた国家保安機能が再び独立し、国家保安委員会 (KGB) が設立された。1978年までは、ソ連閣僚会議附属機関。当時のソ連では、党、軍、そしてKGBを掌握することが最高権力者の必須条件と言われた。1967年から15年間議長を務めたユーリ・アンドロポフが政治局に入ったのはベリヤ以来のことであり、これはベリヤ追放後にニキータ・フルシチョフの発意で、軍と秘密警察を党の統制下に置くために国防相と同じくKGB議長の政治局入りを禁止してきたのをレオニード・ブレジネフは解禁したためであり、1982年には書記長に就任している。
1991年、ウラジーミル・クリュチコフ議長がソ連8月クーデターを起こすも失敗して解任され、後任に選ばれた最後の議長ワジム・バカーチンによって解散した。
ロシア連邦において現存する後継機関としては、
がある。また、直接の後継機関ではないが、ロシア連邦麻薬流通監督庁 (FSKN) は、KGB出身者が中核となっていた。
ソ連崩壊後、CIS各国は、ソ連構成共和国のKGBを継承して、独自の諜報・防諜機関を創設した。カザフスタン、トルクメニスタン等、一部の国では、スラヴ系職員が排除されている。
バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の諜報・防諜機関は、形式上は「第一次世界大戦後の独立時に設立され、ソ連への併合時に解体された機関を再建した」ことになっており、ソ連併合後に設置されたKGB支局との関連性は(少なくとも公式には)否定されている。
なお、バルト三国では、元KGB職員はほぼ完全に排除され、主としてドイツの連邦情報庁・連邦憲法擁護庁を手本に諜報・防諜機関を創設した[要出典]。
KGB職員の法律上の地位は、軍人である。軍人と同じ階級呼称を有するが、人事管理は完全に区別される。KGBの組織は、軍の長所・短所をそのまま受け継いでおり、方針を巡る内紛が起こっても命令一下で解決する一方、しばしば、アネクドートで嘲笑されるように、モスクワからの指令なしでは動けない硬直性を有している。
KGB職員は、一般大学出身者が多い。海外のKGB代表部の秘密工作将校には、大学卒業後に一般企業などに勤務した経験を有する者も少なくなかった。このことは、KGBが管掌する活動範囲がかなり広く、幅広い人材が必要とされたためと思われる。なお自ら志願したものは決して採用しなかったという。
国境警備隊については、将校は、一般の軍事組織と同様、高等国境指揮学校(士官学校)卒業生が占め、上級の教育はソ連軍の施設を利用した。下士官以下の国境警備隊員は、召集兵である。
軍部隊に配属される公安将校は、一般に該当軍部隊の将校の中から選抜されて、KGBの訓練を受けて任命される。このため、公安将校は、配属先の将校と同等の知識、経験を有している場合が多く、冷戦時代に書かれた小説のようなKGB将校とソ連軍将校(主にGRU)間の軋轢は少なかったという。
また、これも小説などでの描写とは異なり、KGB職員はその身分が明らかになっている場合でも、ソ連国民からマイナス感情を向けられることはあまりなかったといわれる。これは、実際にKGB職員に対して不適切な態度をとれば後で何が起こるか分からないという恐怖心もさることながら、KGBが国境警備や防諜といった国家の安全保障に直接かかわる分野を担当していることが国民にも知られており、むしろ頼もしく思われていたという理由もある。
KGB職員は、採用直後にKGB大学校で一年間以上にわたり秘密工作訓練と語学研修を受けてから、それぞれの部門に配属されていた。海外のKGB代表部には現地語の語学研修を終えた秘密工作将校が10年前後にわたり配置されるのが一般的であった。アメリカCIAの工作官も同じく秘密工作訓練と語学研修を受けるが、海外のCIA支局を2~3年で異動するのが一般的であることから、語学力や現地情勢の知識ではKGB将校の方が圧倒的に上回っていたとされる。KGBでは幹部職員といえども、専門家を育成しようとしていたことがうかがわれる。
KGB出身者は、ソ連の一般人よりも国際情勢や国内の真の状態について通じていたため、ソ連崩壊後もロシアのエフゲニー・プリマコフ首相やウラジーミル・プーチン大統領をはじめ政界等で成功し、いわゆるシロヴィキの中核も構成している。
KGB技術アカデミー卒業の著名人
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