考古学(こうこがく、英語: archaeology、archæology、archeology)は、人類が残した遺跡から出土した遺構などの物質文化の研究を通し、人類の活動とその変化を研究する学問である。
対して、歴史学は、文字による記録・文献に基づく研究を行う。
考古学という名称は、古典ギリシャ語の ἀρχαιολογία (ἀρχαιο [古い] + λογία [言葉、学問]、arkhaiologia アルカイオロギアー)から生まれ、それを訳して「考古学」とした。
英語ではarchaeologyという。米国を含む標準表記では -ae と綴るが、米語ではギリシア語由来の -ae の綴りを採らず、発音に合わせて単に -e と綴ることがある。
日本語の「考古学」(考古)という言葉は、明治初期には古き物を好むという意味で好古と記されていたが、古きを考察する学問だという考えからフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男ハインリヒ・フォン・シーボルトが1879年、日本の学会に贈った著書『考古説略』に、緒言を記した吉田正春が「考古学は欧州学課の一部にして、云々」とのべており、考古学という名前が使われた最初とされている。
佐原真によると「考古学の内容を正しく明確にしたのがシーボルトの『考古説略』であることは間違いない」が、「考古学」という名がはじめて現れたのは、1877年(明治10)、大森貝塚の遺物が天皇の御覧に供されることに決まった時の文部大輔田中不二麿か文部少輔神田孝平かの上申書のなかであるという説もある。
先史時代(文字により記録されるよりも前の時代)の人類についての研究が注目されるが、文字による記録のある時代(歴史時代)についても文献史学を補完するものとして、またはモノを通して過去の人々の生活の営み、文化、価値観、さらには歴史的事実を解明するために文献以外の手段として非常に重要であり、中世(城館跡、廃寺など)・近世(武家屋敷跡、市場跡など)の遺跡も考古学の研究分野である。近代においても廃絶した建物(汐留遺跡;旧新橋停車場跡など)や、戦時中の防空壕が発掘調査されることがある。
考古学は、遺物の型式学的変化と、遺構の切り合い関係や土層(遺物包含層)の上下関係といった層位学的な分析を通じて、出土遺物の通時的変化を組み立てる「編年」作業を縦軸とし、横軸に同時代と推察される遺物の特徴(例えば土器の施文技法や製作技法、表面調整技法など)の比較を通して構築される編年論を基盤として、遺物や遺構から明らかにできるひとつの社会像、文化像の提示を目指している。
日本では従前より日本史学、東洋史学、西洋史学と並ぶ歴史学の四分野とみなされる傾向にあり、記録文書にもとづく文献学的方法を補うかたちで発掘資料をもとに歴史研究をおこなう学問ととらえられてきた。ヨーロッパでは伝統的に先史時代を考古学的に研究する「先史学」という学問領域があり、歴史学や人類学とは関連をもちながらも統合された学問分野として独立してとらえられる傾向が強い。
考古学は近代西洋に生まれた比較的新しい学問だが、前近代から世界の諸地域で考古学と類似する営みが学界内外で行われていた(好古家を参照)。
近代的な考古学は、18世紀末から19世紀にかけて、地質学者のオーガスタス・ピット・リバーズやウイリアム・フリンダース・ペトリらによって始められた。特筆すべき業績が重ねられてゆき、20世紀にはモーティマー・ウィーラーらに引き継がれた。1960年代から70年代にかけて物理学や数学などの純粋科学(理学)を考古学に取り入れたプロセス考古学(ニューアーケオロジー)がアメリカを中心として一世を風靡した。
日本ではじめて先史時代遺物を石器時代・青銅器時代・鉄器時代の三時代区分法を適用したのがフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトである。
日本では、動物学者エドワード・モースが1877年(明治10年)大森貝塚の調査を行ったのが、日本近代考古学のあけぼのとされる。しかしモースの教え子が本来の専攻である動物学に進んだため、モースが科学として開いた近代考古学は順調に進まなかった。むしろ、モースより先であったという説もある。同時期に大森貝塚を発掘調査したハインリヒ・フォン・シーボルト(小シーボルト、シーボルトの次男で外交官)の方が専門知識が豊富であり、モースの学説は度々ハインリヒの研究により論破されている[要出典]。なお、日本においての考古学の最初の定義もこのハインリヒの出版した『考古説略』によってなされた。
アジア各地へ出て行く日本人学者には、興亜院・外務省・朝鮮総督府・満州国・満鉄・関東軍の援助があった。これらの調査研究も、皇国史観に抵触しない限り「自由」が保証された。中国学者(当時の呼称で支那学者)と一部との合作を企画して結成された東亜考古学会も、学者のあるべき姿として評価された。考古学者自身も進んで大陸に出かけていった。
宮崎県の西都原古墳群の発掘が県知事の発案で1912年(大正元年)から東京帝国大学(黒板勝美)と京都帝国大学(喜田貞吉・浜田耕作)の合同発掘が行われた。1917年(大正6年)京都帝国大学に考古学講座がおかれ、考古学講座初代教授の浜田耕作を中心に基礎的な古墳研究が始まった。大正時代は、考古学における古墳研究の基礎資料集積の時代であった。
また20世紀の間に、都市考古学や考古科学、後には救出考古学(レスキュー・アーケオロジー、日本でいう工事に伴う緊急発掘調査を指す)の発展が重要となった。
戦後になってからは皇国史観によらない実証主義的研究が大々的に可能となり、遺伝子研究や放射性炭素年代測定などの新技術の登場と合わせて飛躍的に発展した。
2000年に日本考古学界最大のスキャンダルと言われた旧石器捏造事件が発覚し、学者らの分析技術の未熟さ、論争のなさ、学界の閉鎖性などが露呈した。また、捏造工作をした発掘担当者のみに責を負わせ、約25年に渡って捏造を見逃した学識者の責任は不問となったことから、学界の無責任・隠蔽体質も指摘された。
現代考古学の特徴としては、
収集するデータは、人類の過去の活動や行為を示す物的証拠を収集すること。具体的には、①人類がある目的を持って製作・加工したもの、②人類によって利用された自然界の物質、③人類の活動や行為によって自然界に生じた変化を示す物的証拠があげられる。
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