伊江村(いえそん)は、沖縄県国頭郡の村。沖縄本島の本部半島から北西9kmの場所に位置する周囲22.4kmの伊江島(いえじま)から成る。
いえそん 伊江村 | |||||
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国 | 日本 | ||||
地方 | 九州地方 | ||||
都道府県 | 沖縄県 | ||||
郡 | 国頭郡 | ||||
市町村コード | 47315-4 | ||||
法人番号 | 5000020473154 | ||||
面積 | 22.70km2 | ||||
総人口 | 3,925人 [編集] (推計人口、2024年3月1日) | ||||
人口密度 | 173人/km2 | ||||
隣接自治体 | 国頭郡本部町(海上を隔てて隣接) | ||||
村の木 | ガジュマル | ||||
村の花 | テッポウユリ | ||||
伊江村役場 | |||||
村長 | 名城政英 | ||||
所在地 | 〒905-0592 沖縄県国頭郡伊江村字東江前38番地 北緯26度42分49秒 東経127度48分25秒 / 北緯26.7135度 東経127.80706度 東経127度48分25秒 / 北緯26.7135度 東経127.80706度 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
沖縄本島本部半島の北西約9kmの位置にある伊江島一島の全部で構成される。
島中央から少し東にずれたところにある標高172.2mの城山(ぐすくやま)は本島からもよく見え、伊江島タッチュー(イータッチュー)の愛称で親しまれている。産業は主に農業、漁業から成り立っている。本部港からもフェリーで30分あまりということもあり、「日帰り可能な離島」としての人気も高い。また、戦争に関する施設・史跡もあることから県内外からの修学旅行の需要も多い。
川平、東江前、東江上、西江前、西江上、阿良(あら)、真謝(まじゃ)、西崎の8つの集落からなる。定期便のフェリーが発着する港がある川平周辺が、島の中心部になっている。島の北西部には在日米軍の伊江島補助飛行場があるなど基地の島でもある。一時は島の面積の約半分が米軍基地であったが、島民による基地返還闘争が継続的に行われ、5度にわたり部分的な返還がなされた。この結果、基地の面積は島全体の35%となっている。米軍基地の概要と返還闘争の経緯は伊江島補助飛行場を参照。
5字からなり、行政区は8つに分かれる。
旧石器時代から古代(沖縄貝塚時代)にかけての遺跡が数多くあり、特に島の南海岸の砂丘には多くの遺跡が連なる。伊江島空港の西すぐにあるゴヘズ洞穴では更新世の鹿の骨、2万年前の旧石器時代の人骨、貝塚時代前期の土器などが発見されている。
伝承であり時代不明だが、力タンナーパ(力玉那覇)の伝説が城山にある。
琉球にて特徴的な、グスク時代最盛期の土盛りや石造りのグスクの遺跡は少ないが、中世琉球弧共通のグスク時代の遺物(中国などの陶磁器、滑石製石鍋、カムィ焼)が出土している。
北山世主今帰仁城は海を隔てて近いが、後北山北山王国怕尼芝が勃興するまでは、特に近隣按司との主従関係はもたず、徳之島、沖永良部島、与論島そして伊平屋島など周辺諸島との交流、ないし按司同士の小競り合いがあったと考えられている。ここまでは人口も精々数百人ほどの孤立島であった。
14世紀、怕尼芝が同族の丘春らを討ち後北山を開くと、伊平屋島とともに北山王に入貢し、その支配下に入ったと考えられている。後北山の頃から中国との交易品として伊江馬が珍重され、飼育場があったと伝わる。ノロ職も置かれたと言う。尚巴志の琉球統一により王国(北山監守)配下となるが、島の貢租は王府に直接納めていた。
なお、歴史学的に判明している最初の島司(按司)は、1559年(嘉靖38年)に任ぜられた尚清王の王子・伊江朝義である。以降琉球処分まで、琉球屈指の名家伊江御殿の差配となる。それ以前の島之主は記録には無いが、有力な根人(ネッチュ)には佐辺家があったと言う。
島司は現地には赴任しないが、他の島間切と異なり、当初按司掟(現地役人)は置かれず、ノロ(君ノロ、五ノロ)が指導していたと見られる。その後、在番が置かれた。伊江御殿が代を重ねるごとに按司家や親方が増えて支配が重層化し、琉球王府の下で年貢は重く、表向きは四公六民ながら、実態は、さまざまな別の貢租が課せられ実態は六公四民であり民は苦しんだ。羽地朝秀の改革により開墾が奨励され折目行事などの祭も許され、暮らし向きは幾分楽になったと云う。
代々伊江御殿配下は、琉球から薩摩や江戸へと公務や使節その他で航海に任ぜられた。首里在住の総地頭ら(按司)の航海に島の若衆らも随行し、一種の留学生的役割を齎した。御殿と島衆らの費用面や人的貢献も多大ながら、それは首里経由ではない島独自の大和からの文化的影響を多く齎すこととなった。
1948年8月6日午後5時過ぎ伊江島の波止場で、接岸していた米軍の弾薬輸送船 (LCT1141) が、積込中であった先の沖縄戦時の未使用弾および不発弾などの荷崩れを原因とする大爆発事故を起こした。沖縄はアメリカの軍政府統治下に置かれ、伊江島では不発弾処理が行われていた。弾薬輸送船には、5インチロケット砲弾約5,000発(125トン)が積載されており、多数の死傷者を出した。その日は夏休み中だったこと、たまたま地元の連絡船が入港していて多くの人が出迎えに来ていたことなどで、米軍事故調査委員会報告書によると死者107人、負傷者70人を出し、米軍統治下の沖縄で最大の犠牲者を出す事故となった。
伊江村村域の変遷表 | ||||||
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1868年 以前 | 1868年(同治7年) - 1908年(明治41年) | 1908年(明治41年) 4月1日 | 1908年(明治41年) - 1987年(昭和64年) | 1987年(平成元年) - 現在 | 現在 | |
西江村 | 1875年(明治8年) 西江上村 | 伊江村 | 伊江村 | 伊江村 | 伊江村 | |
1875年(明治8年) 西江前村 | ||||||
東江村 | 1875年(明治8年) 東江上村 | |||||
1875年(明治8年) 東江前村 | ||||||
川平村 |
古い日本語を残しているとされる琉球語のなかでも、沖縄北部諸方言・国頭方言の伊江島方言が話されるとされる。しかし、他の本島地方・本島直近離島と同様に、明治維新後の琉球処分や本土復帰を経て中南部方言(那覇方言など)や標準語などの浸透が進み、ユネスコによる、所属国頭語の言語消滅危険度評価は"Definitely endangered"(危険)と指定されている。
伊江島方言では、中南部方言の、ファー、ハナ、フニ、ハタキ、ヒージャーが、パー、パナ、プニ、パターキ、ピージャーであるなど、上代日本語のp音が保存されるなど、さらに古い日本語の特徴を残している。
近年、島では古い伊江島方言を子供たちに積極的に教える教育が島内の学校で行われている。
農業では、沖縄県全体で盛んなサトウキビ(黒糖)のほか、タバコ、花木、肉牛などの生産が盛んである。
観光業も盛んで、第一次産業と第三次産業の従事者比率はほぼ同じである。特に近年は修学旅行生の民泊での受け入れを積極的に行っていることが特筆される。また、イエソーダなどオリジナルの特産品の開発も続々と進められている。また、アサヒビールが設置したエタノール実験プラントを転用しラム酒の生産も行われている。
ラム酒(「イエ」ラムサンタマリア)も特産。
村内の郵便番号は、905-05xx である。集配業務は本部郵便局が行っている。
伊江村と全国の年齢別人口分布(2005年) | 伊江村の年齢・男女別人口分布(2005年) |
■紫色 ― 伊江村 ■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 |
伊江村(に相当する地域)の人口の推移 | |
総務省統計局 国勢調査より |
村内には書店も図書館も無いことから、一般から古書を収集し各地の施設へ寄贈する活動「ブックリボン」を主宰する一般財団法人出版文化産業振興財団 (JPIC) により寄贈対象に選定され、2011年2月28日に村役場で贈呈式典が行われた。村には約1万冊が寄贈され、児童・生徒が利用する16施設に分配された。
かつては那覇泊港 - 本部(渡久地港。本部港ではない。) - 伊江港間でマリンジェットエクスプレス「マーリン」が就航していたが、時期不明で廃止。現在は同エクスプレス「ジンベエ」(第一マリンサービス)が那覇泊港 - 本部渡久地港を運航している。
一般向け
村祭り
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